『中島義道の世界』 (03/15記)




中島義道の『「哲学実技」のすすめ−そして誰もいなくなった…』(角川oneテーマ21)
を読み終えた。相変わらず面白い。今まで読んだ二冊の『人生を〈半分〉降りる』
『孤独について』を読む事は私にとって「覚醒」であったり「再確認」の作業の様な
感じで作者と私の近似性の発見だったが、本作では「覚悟」を迫られ無意識のうち
に違いを探している自分がいた。そう、私には頭では理解出来ても実践するには、
まだ自分には「哲学する」覚悟が出来ていない様である。

この本は副題からも解るように舞台劇の台本の様に読んでも面白い。いや、一般
の哲学に興味がないといわれる方達にはそういう読み方を薦める。言葉のサスペ
ンスとして十分に面白いのだ。それと私以上に「覚悟」のない人達にとってこの内容
は厳し過ぎるであろうし、理解すら出来ないかも知れないがドラマとしてなら受け入
れられる可能性はあるように思う。

少し話は反れてしまいますが、この本を読んでいて私は何故か映画フォーラムでの、
ぼのぼのさん(おそらくこの文を読んでると思いますので実名で書かせていただき
ます)と○○さん(こちらはこの文を読まれているかどうか解らないので名前はとり
あえず伏せておきます)のよく行われていた議論(?)を思い起こしてしまいました。
あのフォーラムでは一種名物のような、しかしながら多くの人には大顰蹙を買って
いたと思われる(笑)議論でしたが、このお二人はおそらく私のカンですが、本書の
中の「思考の体力」が一般の方々よりもあるのだ思ったのです。ただし体力のない
一般の方々の前でそれを行うとどういう反応になるのかの想像力が少し欠如して
いるかの様にも感じました。だからあのお二人のしつこいやり取りに(揚げ足取り
の部分は省く)少しでも興味を抱いた方々は、ただ不愉快であった人達よりも少し
体力があるのだと思うし、それは取りも直さず本書の中の「キレイゴト」や「世間語」
より「真実」に拘る姿勢があるということなのだと思う。

ただし、今回本書を読んで私が尻込みしたり著者でさえ本書の結末に到っては結
論を棚上げした部分の難しさは並大抵の覚悟では出来ない様な気がする。おそら
くこの世界に足を突っ込むということは、誰しもがこの副題の「そして誰もいなくなっ
た…」の世界に入り込んでしまうという決意がいるのかも知れない。

中島義道を読むという行為、それは私にとってどういう意味を持つのだろう?。

最初は「この人自分に似ている」という感じでどんどん読み進んで行ったのだが、
勿論目から鱗の様な新しい発見や刺激も感じていた。更に読み進めて行くとそれ
は新たな発見ではなく自分自身で封印してきたモノだと気付く。そう、私がいくら
本音本音と言っても、所詮社会に出て組織に入り生きていくには様々なモノを自ら
封印しないと、どうあがいても生き残るのは不可能だ。そしてそれをこの人は衰退
だと言う。勿論私は哲学者でも何でもない。これから哲学者として生きていく訳でも
ない。いや、この人の表現だと哲学をして生きていく訳ではない。おそらく今言った
事はゴマカシだとは解っていても特別な能力が無い限りサバイバルとして自分を
ごまかしていかないと生きてはいけないだろう。

どちらにしてもこの人の本を私が読んでしまった以上、この後の私の人生は、
世間対自分という構図より自分自身とそのゴマカシとの戦いの構図の中で生き
ていかなければならないように思う。