白黒学派哲学断罪探偵寓話科学幻視幻想再建|追憶遡行│蔓葉信博交感啓示電紙案内

■ 追憶遡行 日記です。
   月の初めから記述されております。電脳日記にありがちな更新順ではありませんので、ご注意願います。
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■ 平成13年10月1日 月曜日 体験主義

感覚というものに私たちはかなりの度合いで依存している。感覚で体感したことを「体験」といいますが、この体験というものを私は極度に特権化しているらしい。おとといの「ぷちひとり暮らし」を夢想するのもそのためであるし、漫画、小説に依存しているのも、読んだときの強烈な世界の擬似的崩壊感が堪らなく心地よいからです。さらに、初読のときのその快楽は初読であるが故の驚きであるために、再読の行為よりも特権視されやすいのでしょう。なんてことを通勤途中に考える。現象学の課題のひとつである身体性のことが気になるんでしょうね。感覚の身体的構造性を自覚することは、いわゆる「感覚主義」とは一線を画すべきなのですが、難しいです。身体的構造を意識するというのは、本来感覚というものは考察の俎上にするには意図的な思考操作が必要だからです。その意識操作を自覚するかしないかが現象学との決定的な差でしょう。

そこから、何故か反推理小説の構造図解、世界の縮図、つまり世界の世界性、なんてことを考えるがこれは別の機会に。そもそもこんな文章を楽しく読むのは未来の自分か、稲泉ぐらいでしょう。

余談ですが、読書以外の僕の嗜好もこの「体験主義」でほぼ説明ができます。「放課後の告白」とか「観覧車」とか「宝くじ売場」とか「浴衣」とか「冥途服」とか「年上」とか。gameも基本的に疑似体験が目的ですし。と、話題が青天霹靂的に俗になる。

さて、昨夜、携帯のお手紙の宛先を変更したら、それ以来全く出会い系電紙お手紙が来なくなりました。効果覿面、一刀両断、一的必中。あれ、水の魔導王が必殺技を繰り出すときは何て言ったっけかな。一閃炸裂か。

実は我が家で深夜定額料金に関する問題が発生。いわゆる「私の回線」なのですが、電話の宛先を大本で変えてしまうために、深夜定額料金の恩恵が受けられなくなっていたのです。近日中に設定し直さないと。

■ 平成13年10月2日 火曜日 元部長誕生日

仕事の合間に「広告批評 252号 お笑い特集」を熟読。ますだおかだがいい味だしています。

魔導王の終わりの歌が頭から離れなくなる。しかし、何で顔になんぞ変形していたんでしょうか。超機械生命体にも頭に変形する輩がいましたね。しかし、それをいったら黄金色の四角い火付け道具に変形する意味もないし。意味を問うてはいけないのでしょう。禅問答。

熱い海まで仕事に出ている山田先生から電話。ひとり暮らしの先輩なので意見を拝聴する。概算で50万円か……

仕事中に先輩から眼球をバターで洗う治療法を教わる。印度5000年の神秘。

少林寺拳法部元部長、その後輩と池骸で飲む。元部長が誕生日だそうだ。場所は大学の頃に通っていたなじみの焼鳥屋。鳥さし旨い。その後輩はなんと東洋大学哲学科現役生だったので、最近の学科の動向を伺う。後は俗な話ばかり。大学というものがいかに楽しいものかを切々と説く。やはり「放課後の告白」でしょう。あとは「蔓葉ひとり計画」。大概の人は車計画がいいと言います。帰宅時刻は深夜三時過ぎ。車で帰宅。実に非生産的。

■ 平成13年10月3日 水曜日 不調な一日

昨日、飲み過ぎました。麦酒、麦酒、麦酒、麦酒、血染め聖母、血染め聖母だけだったのですが、何がいけなかったのでしょう。半日使いものにならない自分を隠し通す。

新聞と交通広告の打ち合わせ後、資料の写真探し。あと電紙案内を微妙に修正。

ここ数日山田風太郎『明治断頭台』を読んでいます。

■ 平成13年10月4日 木曜日 素材撮影

広告業界は一種の三角構造を為しているのですが、ほぼその最下層に広告製作会社があります。ですから、そこに負荷がかかりやすい。時間がない中の作業のしわ寄せが、僕らのところに来るわけです。おそらく今日も徹夜でしょう。上部構造の人たちはその辺のことをどう思っているんでしょうね。大概、広告主が何も考えていなかったり、感情的な好き嫌いに対処するばかりで真に「創造的」な行為が為されるために苦労することは少ないものです。生まれ変わったら一度だけ、広告主って奴になってみたいですね。新宿Altaの主よりはいい身分でしょう。

ちなみに広告をひとつの作品として批評するのはかなり無理であります。なぜならこれこそ大文字の作者がいないから。実際の作業は他人がしているのに、立場的にその制作者として名前が残ることは往々にしてあります。無論多くの提案を仕分け、良い方向に持ち込む作業は必要なのですが、たまたま制作者の一番上の立場にいたということばかり、実際にその提案を考え、それを形にしたのは名も知られぬ人たちなのです。

また映画やanimeも大文字の作者は最終的な決定権を持っている人が制作者として残りやすいですが、実はそのための舞台設定、脚本、台詞などは、多くの人たちの実作業によって作られています。漫画も大御所になれば組織的な作業に他ならないわけで、そうなると個人作業で作品が完結する小説や絵画は創作活動として珍しい立場になると思います。今後は、続々と増えていく共同作業に対する批評もちゃんと議論されるべきでしょう。いつまでも文芸批評の延長線では問題があるはずなのです。とはいえ、仏蘭西現代思想のような、詩的な哲学ではなく、技術論的な批評が生まれてほしいものです。

ということを錦通信の日記を読みながら思ってみたり。しかし、今日の評論談義は面白かった。是非、具体的な事例を上げてほしいものです。ちなみに、「小説トリッパー」の三浦雅士と柳広司の対談に対する9月19日の日記の記述は分かる気持ち半分、わからぬところ半分。価値体系が円環構造を為す、文系に絶対性はない、は全面的に賛成。ただ理系は絶対性があるには反対。あと根本的なところとして、市川さんは哲学的評論に劣等感があるのが問題でしょう。あの対談に哲学に理解がないからその人達を見下すというような要素はない。対談の中で神の死を告げた人があがるのだって、柳の次回作が毒を飲んだ人を探偵とした『饗宴』という小説を書くから、その文脈から派生的に生じたものですし。にもかかわらず、過度に哲学的議論で読者をはねのけているように読みとってしまう自らの劣等感の根幹を分析し、それを乗り越えることがよいあり方なんじゃなかろうかしらん。無論、その結論が「娯楽としての評論」なのでしょうし。その娯楽とはいったい何なのでしょう。

終電後も、素材の撮影。実は会社に泊まって作業をするのは嫌いではない。修学旅行みたいな非日常が好きです。とはいえ、月に一回ぐらいで勘弁してもらいたいです。

最後に、実に尾噛み蛇のような展開になっている少年回廊の掲示板。

■ 平成13年10月5日 金曜日 厭な世界

昨夜は会社が宿屋。そんなこともあろうかと僕は枕を用意してあるのですが、制作担当は寝袋で寝ていました。何事も事前の準備が肝心。しかし、昨日の夜中に作業をしたうち、素材材料は全て撮り直し。がんばりますともよ。それにしても、昨日から社長を始め社内の様子がおかしいので、探偵ごっこをしていたのですが、またもや社員が辞める模様。どうも今度は古株らしい。そういう世界です。

仕事先がご近所なので、なかいずみさんと昼飯をご一緒する。華があるというのはいいものです。

そして、今日も会社が宿屋。洞窟から助けた姫でもいれば楽しいのだけど。ちなみに連休も出社予定。二度、代理店と交渉しないと週明けの広告提案に間に合いません。しかし、今回は本当に先方の仕切りが悪い。どうして金曜日になって提案の見せ方を変更したり、夜に新しい提案を製作会社に追加できるのでしょう。全く厭な世界です。

そうこうして、制作が原稿を作成している間、僕は暇なのでミステリ系更新されてますリンクで定期通読するところを決めようと思い立つ。

一度だと偏りそうなので、今日はこのくらいで中断する。基本的に日記に娯楽的工夫があるか、書評に秀でているか、小説関係の情報が豊富かの三点が選択基準です。ちなみに電紙案内にいれてあるところは除いております。あと、余談ですが篠田真由美さんの10月5日の日記で竹本先生の名前を間違えているのを発見。

■ 平成13年10月6日 土曜日 娯楽の尺度

錦通信の市川さんのところから波紋のように各所で、評論について言及がありました。表にしてみましょう。

とりあえずは、これぐらいでしょうか。細かい違いはあれど、大枠では瀬戸川猛資さんを理想とする娯楽としての評論を求めているということでしょう。瀬戸川猛資さんのような丁寧で親切な評論を現在書く人がいないというので、それを欲するのはわかります。僕にしてみれば探偵小説研究会の評論集を購入する読者の立場でいえば、現状は笠井潔の評論活動に匹敵するものが上がっていない以上、さらに頑張ってほしいと思っています。ですから、僕は「評論はどうあるべきか」ということに関しては微妙なところではあります。しかし、こうも考えられないでしょうか。評論と言うからには論ずるための尺度を明快に論ずる必要があります。その「娯楽性」というものの尺度は、厳密にはかることができるのでしょうか。それほど簡単に「学問性」と「娯楽性」は区別できるのでしょうか。というのも「厳密に物事を区別すること、またはそのための基礎的な作業」が学問の本質なのですから、その学問性のない尺度には矛盾を感じます。

そういう意味においては市川さんは、さらにその先まで問題を提起している。市川さんお得意の「文系理系問題」になるわけですが、問題は学問性などではなく、物事を表現するときのその記述の仕方にあるわけです。別段学問は小難しく書くことではありません。基本的には誤解のないように用語を限定するため、用語が専門的になるだけなのです。ただ、その際に知識をひけらかしたいという要求が記述者の心にないとはいえないだろうし、確かにある評論家は専門用語を頻出させることで、自分の尊厳欲を満たしているところはあるのかもしれない。そういった行き過ぎた用語の乱用は改めるべきでしょうし、そういう文脈においては市川さんの議論に反論はない。しかし、大半の評論家にとって、それはあくまでも余技、遊びでしかない。専門用語でしか表現できない領域というものは確かにあるのだ。だから文系を一概にひとくくりにして非難するいわれはない。理系もまた言葉の論理体系に含まれている。だからこそ、理系にもまた文系と同様に言葉の多義性による様々な問題を孕んでいるのであり、現代思想の基本的な主題になっているのだ。

話が大きくなりましたが、元の議論に戻りましょう。そこであらためて思うことですが、はたして彼らが「娯楽性」として表現しているものは真に娯楽性なのでしょうか。それは「探偵小説、推理小説への知識がひけらかされていること」への要求が詐術的に入っている可能性は全くないのでしょうか。彼らの言う娯楽性は推理小説や探偵小説を普通に読んでいる人へ書かれるべき評論として、語られているのでしょうか。学問的評論家が自らの学問への過度な癒着の可能性があるように、彼ら推理小説愛好家としての自らの知識との共犯関係の可能性はないのでしょうか。娯楽の尺度って何なのでしょう。

などと、あまりにも待ち時間があるので書いてみる。夜は長い。今日は制作の人が気を使ってくれているので、終電までには帰ることができるでしょう。ちなみに何でそんなに時間があるかは、これまた長くなります。というのも、昼過ぎに代理店と原稿の打ち合わせをしたのですが、またもや無理難題が要求される。ひとつは昨日撮影した素材の取り直し。もうひとつはこみいった合成した写真の遠近感の問題。商品の見せ方だからこだわるのはわかりますが、その素材の撮影方法はもうすでに二度も指示書を書き、代理店の了解を得ているものである。しかし、それでも直さねばならない時もある。そういう世界なのです。無論、製作会社としては、原稿の質は保ちたい。むしろ初心に返れば、我が社ほど質にこだわるところもない。しかし、物理的な限度というものもある。どんなにがんばろうとも一日は24時間なのだから。だからこそ時間的配分をうまく調整できるものが指揮をとらねばならない。製作会社としてそれを指揮するのが僕の役目。できるところとできないところを仕分けする。どこぞの古本屋のようにはうまくいかないのだけれども。社内の制作担当の顔もあるし、代理店としても広告主への立場もある。しかし、だ。できないものはできないのだ、というべきときがある。それはきっと明日来るでしょう。そこが僕の正念場。さて、手甲をはめるか仮面をつけるか。ちなみに追憶遡行が明らかに広告系日記になっております。仕事への不満は別項に評論として昇華させたい気持ちもありますが、事実は事実として、記述もしたい。未来の自分が読んだとき、過去の自分がいつどこで何をしていたのか、を思い返すことが何よりの娯楽だから。

ちなみに松本楽志さんの日記が実に面妖。気になるわ、といろいろ探偵ごっこをしたところ、link集に登録されておりました。感謝感激雨霰。また愛読しているらじさんの求道の果ての日記の上部のNaviにも登録されているのを見つける。第弐齋藤ちゆ12歳と同列に並ぶなんて、嬉しいやら、どう思ってよいのやら。

■ 平成13年10月7日 日曜日 娯楽の尺度 続き

昨夜の日記が多方面に波及しております。冒頭で申し上げたいのは、市川さんの主張にあるように「よりよい小説を知るための場」の拡大を望んでいるということです。市川さんの主張は多くの支持を得ているわけですし、僕も期待する気持ちには変わりありませんから、市川さんには評論家としてより一層の精進を願っております。がんばってくださいね、と旗を振る。そもそも、僕も自分の趣味にあった物語を貪りたいだけなのですが、そう同じ趣味の人はいないのも理解しています。ちなみに僕の書評なんてどういう位置づけになることか心配であります。小難しいんだろうなぁ。

さて、雪樹さんのようにその波及先をまた表にしました。

それと昨日の表に入れそびれていたkashibaさんの10月5日の日記を追記しておきます。 また、関連事項として嵐山さんの7月24日の日記から続く「評価軸について」も上げておきます。

いずれにしろ、出版社側としては「推理小説愛好家にとっての評論家」はお金のもらえる商売ではないでしょうから、要請されることは難しい。むしろ、電脳上の書評のわかりやすい棲み分けが現状では一番生産的なのではないでしょうか。と、碌に書評を更新しないくせに大きな風呂敷を広げております。今日も終電近くまで仕事なので、自宅から『ミステリ・オペラ』を持ってきました。更新しましょうとも。

電脳書評の拡大を期待すると書いてみたので、ちょっと検索をかけたのですが、知らないところが多くありまして、ちょっと驚く。例えば0007/小説機關説はどうなのでしょう。ちょっと使い勝手が悪い気もします。他にもいろいろあるようなので、時間を見てまとめてみましょう。

話は変わりまして、松本楽志さんの日記にもあるように広告製作会社の下にさらに迷惑をかけている会社や個人の方はいるかもしれません。我が社も印刷屋さんには迷惑をお願いすることもありますし、逆に印刷会社の制作日程の段取りの悪さによって困っているところもあります。責任のなすりつけあいは避けようと思っていまして、印刷の勉強は日々重ねるつもりです。また、創作することについての言及も興味深かったです。他の創作活動の現場は、どんどん集団作業化、単純労働の集積に成りがちですが、個人でほぼ最終段階まで責任を持てる「小説家」という職業にはあこがれます。無論、影では編集者の苦労はあるにしろ。希望としては、あくまでも編集者は環境を整え、創作活動を支えることに力点を置いてほしいです。ちなみに笠井潔の「大文字の作者」論に関しては批判的立場です。

またもや話は変わりますが、昨日は地下鉄の終電には乗り遅れました。歩いて帰ろうと思ったのですが、山手線がまだ間に合うことに気がつき、疾く駅に向かう。なんとか途中まで乗り継いだものの、やはり歩くことになりました。でも、人影のない街並みは嫌いじゃない。これもまた非日常。大学の頃はよく歩いて帰ったものです。その時は気分良く酔っぱらって、「小惑星群の哀歌」とか「亜空大作戦の冒頭歌」とか「愛の金字塔」とかを軽快に歌いながら帰っていたものです。昨日は歌いはしませんでしたけど。

■ 平成13年10月8日 月曜日 娯楽の尺度 続きの続き

そろそろ評論についての電脳上の言及も沈静化してきたので、一度日記の文章を書き改めようと思います。意図としては一種の創作論になるでしょう。

さて、また表にしました。

ちなみに高橋さんの日記は確かに小説にまつわる興味深い情報があるという意味でしたが、「小説観系」は「小説関係」の誤記です。ですので修正。それと、僕の5日の記述は偶然です。しかし6日の日記を書いたときは、高橋さん、yskさんとあとひとりの方は反応してほしいなあという期待はありましたので、おふたりには感謝しております。最後のおひとりは、現実的には厳しいので、現実世界でお会いしたときに聞いてみたいです。そういえば全然創元の集まりに出席しておりませんね。行きたいなあとは思うのですが、こう休みに仕事だとつらいっす。

最近ミステリ系更新されてますリンクあたりしか見て回ってないなあと思い、ヲタク放談のNaviからおたく系を見て回ると、animeの冒頭歌のような先行者の動画を発見。その憑き物筋のひとたちはご存じなんでしょうが念のため。とりあえず、今日は好き好き大好きっの日記大半を読む。半分ぐらいは理解できました。シスプリは厳しいが、gameねたついていけるのもあれでなんです。そういえば、そろそろ今期のanime観戦表でも考えよう。10月10日深夜の「Hellsing」は確実に見ます。「ココロ図書館」はどうなんでしょうねえ。期間を限定しなければ太田貴子の声のあれとか、「おかえりなさい」のあれが見たいです。どこまで作業は進行しているんでしょう。

ちなみに昨日も会社が宿屋。今日も仕事。時間があったので、写真集でもみて写真の勉強をしようと思い立つ。

ちなみに、そもそもの動機は写真が撮りたくなったからです。白黒のね。何かよいものは買おうかと思います。風景写真にも手を出したい。

■ 平成13年10月9日 火曜日 哲学定義

錦通信の市川さんのところに前回の補填があがりましたが、どこをどう反応していいのか困っています。明らかに僕ではないという言及に関しては省いて答えるのが適当でしょう。

まず、意外や意外「娯楽としての評論」というのに探偵小説研究会は含まれていませんでした。これに関しては誤解をしていました。てっきり瀬戸川猛資さんを念頭においていた発言だと思っていました。

現代思想に関しては長くなりますが、市川さんの昨年の2月20日の日記にも絡めて思うところを書いてみましょう。

まず吉本隆明と柄谷行人のふたりはその名を知ったときからもう黴が生えかけているのでなんともいえません。暇だったら読もうかなという程度です。柄谷の『隠喩としての建築』は悪くはなかったと思います。同時代で今でも気になるのは廣松渉ぐらいでしょう。

つぎに、自然科学と社会科学ですが、自然科学の中に哲学以外の諸人文学はどこに入るとお考えなのでしょう。文学、美術、絵画、工芸はどこに入るんでしょうか。とまれ、いずれにしろ自然科学、社会科学はいずれも哲学から発生しております。というのも「哲学」とは「何かを問うこと」だからで、それ以上でも以下でもありません。ちなみに市川さんがいう哲学は哲学史として捉えられているようですが、古典で提示されてなお未解決の問題は多くあります。例えば「真・善・美」の基準とは。そして、確かに哲学を学ぶには哲学史は重要ですが、そこで間違えてしまう人がいるんですよね。哲学とは常に現実的な問題です。そして哲学にまつわる大学、論文、権威その他全ての物事や環境は「問うこと」から比べれば些末なことです。「何かを問い、答えること」が哲学です。そしてそれを他人に表現するとき、語彙を間違えずに論じることが求められるでしょう。

しかし、自然科学は物理的には発展しました。科学とはそもそも「個別分された問」の略です。ですから、その根っこには常に哲学があります。つまり、全ての学問を扱えるのは哲学だけなのです。愛も科学もいっしょくたに議論の俎上に並べることができるのは哲学だけなのです。だからといって偉い偉くないとはなりません。なぜなら全ての価値判断など個々人のものさしでしかはかれないと最初に定義したのもまた哲学の分野においてだからです。そしてはかれないと定義したその根拠とその証明が今もなお続いています。だからこそ、問うことと答えることの反復に他ならないのです。ですから、哲学に「絶対性」はないです。絶対性を欲しがっていた哲学者は多くいますが、みな持論にそれほど自信があったとは思えません。これの具体例も伺いたいです。ちなみにウィトゲンシュタインなんて法月綸太郎とは比べものにならない苦悩を著作で表しています。あんな分析をしてしまう人の精神世界をまさに覗けます。

仮に現代思想の哲学者も各々の考え方を信じ切っているように感じられるとするなら、その論理と論理に自信があるからでその考え方そのものが絶対だとは考えていないし、講演や対談でそういうたぐいの発言があったとしてもそこは信じるに足りない、その場限りのものだと切り捨てた方が賢明です。哲学とは「何かをはかるその基準とは何か」と問いつめる学問に他ならないわけですから。

現代思想に関してですが、これに関しては実は市川さんの論はよく見えてこない。現代思想の何が問題なのかを明らかにして欲しいと思います。現代思想とひとくくりにしたって、現代的な問題といえば、性差問題、人種論、言語論、記号論、分析哲学、環境哲学、比較文化、構造論、貨幣論と様々ですし、それらの問題と絡まりながら過去の哲学者の再評価なども思想的再評価されもします。自己言及とかMeta構造なら問題がなくて、メルクマールとかシニフィアンは駄目なんでしょうか。ちなみにさしあたってはメルクマールは「指し示すもの」、シニフィアンは「意味」ぐらいでいいんです。哲学とは言葉による論理の積み重ねです。だから、反論する場合、どこの何がわからないのかが、明確である必要があります。それはあたかも探偵が密室を解き明かすその過程のように。

何はともあれ、現代思想に関しては齋藤環の「ユリイカ 12月号」を入手してまた書いてみたいと思います。そうすれば有意義な議論になるでしょうか。ちなみに「ポー論」を論じたジャック・ラカン『エクリ』に収録された「『盗まれた手紙』に関するゼミナール」をふまえての論文じゃないかなと予測しています。「『盗まれた手紙』に関するゼミナール」は現代思想の論文としては有名なほうですから。推理小説論としてこの論文を読むのは薦めません。精神分析の過程は面白いですが。ともあれ、購入してその論文を読んでからにしましょう。八つに重なった洲の本屋ならあるかしらん。

余談ですが、『「知」の欺瞞』は市川さんの不信をさらに深めることになるでしょうね。というのもその本の中には「現代思想のある部分に関してはいかにくだらないものか」が実に推理小説的な手法で証明されているからです。

さらに余談ですが、我々は哲学を学ばずともその哲学の基礎的なところは日常生活で理解しているからです。愛とは何かに答えることができるのは「哲学」しかありません。そして、もし「愛」に対して自分なりの答えを出せるならそれはまさに哲学的行為なのです。そして「愛って何?」を本当に学問したいなら、哲学するしかないわけです。実践のほうが楽しいとは思いますがね。実践したいなぁ。

大きく話は変わりますが、どうもここ数日おなかが痛い。嫌な予感がします。というのも、大学の頃、体力の限界までいろいろと作業をしていた結果、胃痙攣になったことがあるのです。一週間は動けませんでした。だから、嫌な予感がします。不定期的に痛くなるんですよねぇ。

覚え書きとして。浅野が登場する携帯の広告が放送されていたのですが、実に軽妙な喜劇に仕上がっています。それにくらべて豊川悦司の登場する黒い麦酒は過去の栄光にすがっているような印象。常に独創性を。

■ 平成13年10月10日 水曜日 鮮血祭典

今日の深夜は「Hellsing」です。豚のように泣き叫ぶ姿が楽しみですわ。

山田風太郎『明治断頭台』も終盤。いまのところ微妙。

社内で席替え。また席が替わったついでに机の中を整理。自宅も整理したいと思います。やっぱりお腹が痛い。

おとといの写真集の記述を直す。つぎは風景写真に手を出そう。ついでに10月上旬を昨日分まで整理する。

実は開戦の件に関して、昨日からいいたいことがある。今日の夜にまとめられるかしら。一言でいうなら、全員手は血塗れなんだ、ということです。

  

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