■「プラトン風」について
本来は前書きの必要ない小論になる予定が、思った以上に言語的な問題に触れてようです。
まず、経緯から説明し直しましょう。同時代ゲームの5月17日の日記で、笠井潔『サマー・アポカリプス』においてある記述が誤解を招きかねないというKさんの指摘が発端でした。それについての日記のやりとりを、僕の言葉の足りないところを補うかたちで一度まとめなおしてみたものです。ただ、後半に関してはむしろ「プラトン風」の問題を越えて、言語の意味について思うところを書いています。それを踏まえて読んでいただければと思います。
Kさんの指摘に当てはまる箇所は三カ所あります。具体的な名前は伏せ字にして『サマー・アポカリプス』から引用してみましょう。まず、あるフランス人の女性の会話文です。(7月28日筆者がルビを括弧に入れ替えています)
「(前略)騎士道と宮廷風恋愛のモラルは、西欧諸国のどこよりも早く、まずオクの国で結晶化された。オク語の吟遊詩人(トゥルヴァドール)たちが残した叙情詩を読むと、このことがよく判るわ。■■■■というのは勇敢さ、高潔さ、無私の献身といった騎士的モラルにそのまま
手手足をつけたみたいな人間だった。結局、一年にも満たない短いつきあいだったけれど、私にはよく判ったわ。そして、■■■■は、■■■■■■■■■■■■■■■■■■■を、トゥルヴァドール風に、つまりプラトン風に愛していたのね。(後略)」
次はあるフランス人の男性の昔語りの会話文のあいだで、要約して記述される地の文に書かれます。
(前略)彼は、この稚い女主人を、中世の騎士が領主の妃や姫を愛したように熱愛した。もちろん、プラトン風に、あるいは宮廷恋愛風にである。後にカタリ派の古文献収集に熱中したり、乗馬や弩の練習に耽ったりすることになる少女■■■■■■■■■■■■■■■■にもまた、少年■■■■のプラトン風の愛を、その献身や忠誠とともに受け入れる心理的素地があったのだろう。(後略)
この「プラトン風」という箇所が問題になります。それではKさんの主張を引用しましょう。
同時代ゲームの5月17日の日記に笠井潔『サマー・アポカリプス』のことで、以下のように書かれています。「プラトニック・ラブ=プラトン風の愛」だが、「プラトン風の愛=精神的な愛」ではない。だが前後の文脈によると笠井潔は「精神的」という意味で「プラトン風」という言葉を使用しているように見受けられる。これは明らかな誤用だ。
僕はもちろん誤用とは考えません。
その考えの発端は単なる思いつきからなのです。私たちはプラトニックという言葉をもはやプラトン本人の性癖とは離れた意味で使っています。確かにこの指摘はKさんのいうようにコードによるものかもしれません。ですが、このコードっぽい発想もさらに元をただせばコンテクスト的な要請によるものです。というのも、こんな考えがあたまをよぎりました。言葉の起源と現状との乖離はフランス人も同じなのではないか。つまり、この発話者はプラトニック・ラブという言葉をどう考えているのかという興味からなのです。本当は当然本人に聞かないとわかりはしません。そもそも、この問題の本来の罪人はプラトン本人の性癖とプラトニック・ラブとの意味の乖離を発生させたものに他ならないのですから。次の咎人はその発言者となるべきでしょう。
そこで、しっかりと確認しておきたいのは発言者の言語文化なのです。『サマー・アポカリプス』はぎこちない翻訳文のように書かれています。その理由はこの物語の登場人物たちの会話はフランス語で行われていること、そしてその物語を語っているのはフランス人であるナディアという女性によるものだからでしょう。とくに第一作『バイバイ、エンジェル』では彼女によって物語はヴァン・ダイン風の推理小説としての体裁を付与されることになっており、このことが決定的に重要なのです。それらのことを踏まえれば、物語内の登場人物たちの会話では、プラトニック・ラブに当たる言葉のフランス語が使われたと考えるべきでしょう。ひっそりと心配だったのはフランス語でプラトニック・ラブにあたる言葉にプラトンの名前が使われていなかったとき、この仮説は脆く崩れ去ることになったのですが、それは杞憂でした。フランス語でプラトニック・ラブにあたる言葉はamour platoniqueというそうです。
ここから作中の登場人物の言動から、作家の笠井潔の翻訳作業へと議論を移行します。笠井がその言葉を翻訳めいた書き方にするとき、日本語として流通している片仮名の「プラトニック・ラブ」と書くことは難しい。なぜなら英語としてのニュアンスを与えすぎると考えたに違いないのです。
またその一方で日本語として意訳すること、たとえばまさに「精神的な愛」とすることも避けたことでしょう。それでは本来のフランス語の言葉から離れすぎてしまうから。そして、削除という選択肢は作者には残されていません。なぜなら作中の登場人物は確かにamour platoniqueと発言したからです。作者ではなく作中人物の思いや行動を読解していくのは僕の基本的なやり方なので、そのような作者の特権的な方法を認めるわけにはいかないのです。そこで、翻訳としてのぎこちなさをわざとそこに残すのが、フランス語のニュアンスを一番残すにはふさわしいと考えたのだと思います。冗談ですが、むしろ作家の特権性を剥奪するためにもそうしたのかもしれませんが。
いずれにしろ、なぜそのように考えるかといえば、笠井潔の次の作品『薔薇の女』では、プラトンの『饗宴』について作中で論じられるからなのです。『饗宴』での主題は「愛」なのです。その一部では同性愛や少年愛について様々に語られます。そもそも古代ギリシャでは同性への愛や少年愛が普通にまかり通っていたことはわりと知られていることでしょう。ならば、笠井潔はプラトンと同性愛については理解していたと考えるられる。とすれば、プラトンが同性愛者だったということは理解しながらも、誤読の可能性はあまりないとしてプラトン風という言葉をわざと使ったと考えるべきではないでしょうか。
以上から、フランス語で云うところのプラトニック・ラブを訳すときにプラトニックではなく、プラトン風という言葉を選んだと考える根拠を述べました。
しかし、読み手の情報量によって、書かれた文章は様々な解釈がなされます。与えられた文章が同じなのに、何故僕とKさんとの読みの差異が生じたのでしょうか。いいかえれば「プラトン風の愛」は「精神的な愛」と考えることはそれほど変なことでしょうか。
僕もプラトンが同性愛者であることは知っていましたが、また古代ギリシャ文化として同性愛、少年愛が日常的なことだったことも知っていました。にもかかわらず、自分にはプラトンの愛はイデアを強く指向するものだという理解がさらにありました。確認のために未読だった『饗宴』を読んでみましたが、その理解に変わりありません。肉体的な欲求を含めた同性愛を主張する他の登場人物と比較しても、ソクラテスに皮肉のこもったいやみったらしいやり方で同性愛を経て観念的な愛への志向を語らせる相変わらずのプラトンがそこには見え隠れしました。(注1)
もちろん、何の予備知識もなさそうな文脈で「プラトン風の愛」と使われていた場合はその真意を確認する必要があると思います。ですが、僕はその確認を強く主張することができない気持ちでいっぱいなのです。
唐突ですが、言葉はには意味を固定化する作用と、拡大化する作用とがある、としましょう。
たとえば、卑近な意味では「貴様」というのがそもそも尊称表現であったにも関わらす、現在はそれを相手をけなすために用いられています。これは言葉は常に生き物めいてその意味を拡大化する作用があるからと考えることができましょう。その一方で、尊称表現はもはや日常生活で使われなず、相手をおとしめるために用いるだけになっている。これが固定化の作用とします。
また、固定化された言葉をまとめたものは辞書だといえるでしょう。辞書にある言葉は、必ず正しいと思われるかもしれない。しかし、それは編纂時における言葉の意味を有識者によってまとめられたものにすぎないのです。日々、言葉のその起源が誤用であれ、意味の強調であれ、皮肉であれ、意味の器から、生まれいでた新たな意味はこぼれ落ちてしまう。それは不可避的な作用にほかならないと思うのです。
プラトン主義、プラトン哲学と使われた場合、そのプラトンという名詞はイデア論の代名詞として用いられていることになります。この例はいくらでも増殖します。プラトンという固有名詞にあるのは、「イデア論の創始者」であり「アカデメイアの創立者」であり「ソクラテスの弟子」であり「『饗宴』の著者」であり「同性愛者」であり「少年を愛するもの」であり「プラトニック・ラブという言葉のきっかけとなった人」であり、それらの意味を延々と合わせた総体になるのでしょう。そうして、その拡大化する意味の地図のうち、イデア論という繁殖力の強いものによって領地が眷属化されるのも仕方のないことでしょう。
余談ですが、誰がそもそもプラトニック・ラブなんて組み合わせを流布させたのかは知りませんがそいつが一番悪いのです。そして、その呪いは国を越えて効力を発揮していることもわかりましたが、それは本題とは殆ど関係がないのです。ただ、その呪いは何とも絶大なことでしょう。
そのプラトンの名前がある名詞を形容するとき、そのときには文脈が発生するとはいえ、それがたったひとつに決定されるということは承伏しかねるのです。もちろん、安易な文脈による意味の誤用に関してはその限りではありませんけれども。
ここからはさらに声を小さくしていいたいのですけれども、コードなんてコンテクストの一時的な停留所でしかないようにも思えるのです。誤読されえない文章の存在を厳密に規定できるかどうか。それについては、今後も考えたいとは思います。今のところ、あるともないともいえないのが正直な思いです。
(注1)余談ですが、プラトンは自分が予測もしなかったさらなる姑息な手法を使っていることに驚いてさえいます。推理小説で最後に酔っぱらいの証言者がでてくる話なんてありえないでしょう。
2003.7.6(7.28一部修正)