■ 批評の事情 不良のための論壇案内
永江朗 原書房 2001年9月4日発行
娯楽が必要とされ、娯楽が生産され、娯楽が消費される。あたかも貨幣の代わりに娯楽が資本主義の根幹を成しているかのような印象すらある。何かを語るとき、しばしば娯楽という尺度が使われるが、そのとき娯楽とは何なのだろうと問いつめているものは少ない。結論を言えば、娯楽とは快楽、つまり生理的な経験であり、直接論理的に提示することは難しいだろう。言葉にできない感覚というものは確かに存在する。だからこそ、その対象ごとに感じだ生理的快楽の外郭をなぞるように言葉に置き換える作業が求められる。そうして娯楽の名の下に何かを判断するとき、その判断には基準となる定規の提示が求められるのだ。言葉に置き換えるための方程式。言葉にできないものを言葉にできないと表現しつづけることで近似値を削り出すこと。それこそ批評家に求められるものだろう。しかし、批評家たちは本当にそうしているのだろうか。それを確かめるべく『批評の事情』を読むことにした。ます『批評の事情』に取り上げられている評論家としてくくられた人たちを書き出しておこう。ちなみに各章題は永江朗による。
【1 社会はどうなる?】宮台真司、宮崎哲弥、上野俊哉、山形浩生、田中康夫、小林よしのり、山田昌弘、森永卓郎、日垣隆。【2 時代の思考回路】大塚英志、岡田斗司夫、切通理作、武田徹、斎藤環、春日武彦、鷲田清一、中島義道、東浩紀。【3 芸術が表すもの】椹木野衣、港千尋、佐々木敦、阿部和重、中原昌也、樋口泰人、安井豊、小沼純一、五十嵐太郎。【4 ライフスタイルとサブカルチャー】伏見憲明、松沢呉一、リリー・フランキー、夏目房之介、近田春夫、柳下毅一郎、田中長徳、下野康史、斎藤薫、かずきれいこ。【5 文芸は何を語る】福田和也、斎藤美奈子、小谷真理、小谷野敦、豊崎由美、石川忠司、坪内祐三。
この一章、二章、四章の区別はほとんど意味を成さない。大概の批評家は何かしらの本業があり、その本業が大概は評価の基準軸となっている。その評価軸と批評の対象をつなげるための言葉の使い方にもいろいろな戦略があることがわかったのは一つの収穫。また本業などなく、実体験や印象から論を始めるものもいるが、彼らはその対象を説明すべく、印象にとどまらない何かしらの評価軸を設定して批評していく。それが知識量だったり常識だったり毒舌だったり時代感覚だろうがかまわないのである。ただ、批評する対象に対しての知識というのは程度はともかく、あるほうが望ましい。知識不足のために論旨が間違っていたというのは、論者としては最低の落ち度だからだ。そういう意味においては『批評の事情』を読んで本職の批評家が如何にまめに情報の収集活動、整理整頓、編集作業をしているのか、その片鱗がわかったのはよかった。
余談だが、前提条件となるその本業のことがわからないと、わからない評論というものもあってもかまわないだろうが、歓迎はされないだろうという思いもある。かといって、そういう評論は必要ないというわけでもない。棲み分けは大切ということだろう。
永江朗個人の作業としては、小林よしのりや福田和也など批判的な記述に文章を割きすぎているのは、論壇案内としては不適当なむらを感じるが、各評論家の文章を引用して評論される快楽が実に面白そうに書かれていて、それほど楽しいのなら、僕も原典を読んでみようかという思いにさせられる。また、いわゆる評論家と呼ばれるひとたちの欠点も披露されていて、批評家批評としても機能しているところがまたよい。若干の毒をこめながらもわりと素直に自分の感想を述べる人なのだろう。
ちなみに、僕の娯楽の尺度は何なのだろう。詳しくは物語力学を参照してほしい。また念のため、そもそもの発端となった追憶遡行での言及部分も繋いでおく。