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vol.2[02/04/27]up
vol.1[02/04/26]up

前書き
みなさま、ご参加いただきありがとうございました。

ここでは、MYSCON3企画殊能将之『鏡の中は日曜日』読書会の記録を載せたいと思っています。まず、最初に述べておきたいのは、これは決して「公式記録」ではないということです。読書会という一種特殊な場で、いろいろな人が様々なことを述べました。ですから、あの場でこそ成立した発言があり、それを別の場、別の方法で伝えることは必ず何かしらの雑音を混じらせてしまうはずなのです。それに、記録を書き上げるまでに時が過ぎてしまったこともあります。ですので、以下の記録におきまして、間違い手違い勘違いがありましたら、蔓葉までご一報いただけると助かります。

ちなみに、当然なことですが、『鏡の中は日曜日』の話の筋を明らかにしておりますのでご注意ください。

企画開始のその前に
いつものごとくお酒を用意して、会場に向かう。すると何人かの方々がすでに集まっていらっしゃった。そこで仕上げられていなかった読書会の詳細の製本の手伝いをお願いすると、みなさん快諾して丁寧に製本していただきました。ありがとうございました。

感想の時間
参加者の皆さんに自己紹介も兼ねて『鏡の中は日曜日』全体を通じた感想を一言お願いしました。その時点での参加者を上記の席図に記載しております。ちなみに、この時点で結構爆弾に近い発言が数多く登場しました。恐るべし『黒い仏』効果。

全てをあげるわけにはいきませんが、市川憂人さんの「よくぞ戻した」や、愛・蔵太さんの「あれはコメディでやるべきであって、痴呆患者へのメッセージ性をだしては駄目だよね」というような発言も傾聴に値するものでした。他にも思いつく限り列挙。相沢藤雄さんの「帯トリック」は篠田真由美さんと編集さんとのやりとりに話が派生してちょっと盛り上がる。「電車で読んできました」T2さん、「本格ミステリのパロディとして読みました」今田さん、「仏大絶賛」の里見さん、「某シリーズに対するオマージュ作品」政宗さん、「え、これってパロディでしょ」戸田さん、「見立ては素晴らしい」杉本さん、「普通」なnorioさんなどなど。わりと『ハサミ男』の次に読んでいる人が多かったですね。どの作品を読んでいるのかの統計を取っておけばよかったかもやや後悔。また、一番最初に『鏡の中は日曜日』を読み、しばらく名探偵が誰なのかよくわからないままだった人がいたのも面白かったかしら。

しかし、一番強烈だったのは大森望さんの「本人に聞いてみた」です。そらすごいわ。

論点の時間
次に、蔓葉が用意した論点を軸に話を進めましたが、大方の予想通り「そんなものはあってなきがごとし」でした。
  1. 『梵貝荘事件』の犯行動機について、どう思いますか。

  2. 「犯行動機」が一番面白かったんですよね、という僕の感想からはじめさせていただきましたが、この時点から後々の議論に関わる発言が多く登場。特に今田さんの「見立てとしては完成されていない、ひとつの作品として形に残る物ではないと」という考え方は面白かったです。また愛・蔵太さんの「これって綾辻行人の『■■■■■■■』と一緒だよね」というのはびっくりしました。まったくその通りです。でも参考文献にその作品はないから殊能将之は意識していないんじゃなかろうかと後になってから思ってみたり。

  3. 小説の構造として、いくつか特殊な描写をしている箇所があるのに気づかれたと思います。それらは何故そのように書かれているのでしょうか。

  4. いろいろな人から描写の変なところを上げてもらいました。そのうちに殊能はずるい作家という有る程度の共通見解ができあってきました。というのもところどころにみられる描写のあいまいさが、意図的なものなのかどうかがよくわからない。「殊能将之が推理小説というものに対して批評的に作品を書いているのでは」という意見への異論反論があがったためです。

    無論、殊能将之がその筋では有名な評論家であり(1)『ハサミ男』で試みた心憎いたくらみ(2)もありますが、そういう問題ははText内で証明されねばならない、みたいなことを僕が発言しました。それは例えば「P38の古田川智子の笑い」の描写が、作中作の『梵貝荘事件』のP152の描写とは違うということにあらわれていると思えるのです。これはあきらかに意図的になされたもので、私たちは古田川智子と田嶋民輔との恋愛において田嶋のほうを悪いとして読み終えるのが普通かと思います。しかし、第一章の「P38の古田川智子の笑い」の描写が誠伸の記憶による記述ならば、こちらのほうが真実として読みとられるべきなのです。つまり、古田川智子は「人前で自分に好意を持っている男性のことを笑い飛ばしてしまう」ような女性だったということです。そういう配慮をして作品を書く作家ではあるのです。以下、そういう気になった箇所を列挙しておきましょう。

    ●P230の「最後の訪問」という言葉はある作品とまったく同じ用法で使われていること。これもわかっている証拠になるでしょう。

    ●第一章のみっつの語りわけが曖昧であること。そこでは素晴らしく妄想力を発揮した「滅・こぉるさん解釈」も登場しました。

    ●梵貝荘事件に関するの記述の章題が「過去」となっていることは正確ではない。本来は作中作として明記する必要があるので、これはおかしい。

    ●登場人物表は、たとえアスタリスク表記があろうと場所的には不自然なのではないか。

    ●いくら殺人事件の被害者だといわれたからといってその警察の電話だけで石動が金沢を訪問するのは動機としては不十分なのではないか。

    ●『梵貝荘事件』が事件の記録としてはほとんどなきに等しいこともあげられます。いみじくも水城探偵がいっているように一番大切なのは事実なのです。では翻って「鮎井の動機」はどうでしょう。それは鮎井の手記にしか書かれていない。そして、手記は信用できない、というのが本作品のひとつの面白みです。つまり、鮎井の手記もまた事実かどうかは不明なのです。

    ●そして何よりも変なのは「梵貝荘を訪れた石動と水城邸を訪れた鮎井との描写が不自然なほど同一な描写であること」で「古田川智子の笑い」のような皮肉を小説内に仕掛けることができるほどの筆力があるのならどうしてこういう安易に見える書き方をしたのか、という疑問があがってしかるべきでしょう。それを安易に受け止めてしまうのではなく、そこには何かある特殊な理由があるのではないか……

  5. 『鏡の中は日曜日』は本格推理小説でしょうか。

  6. 市川憂人さんから「その前に本格の定義を決めなければ」との提言もあり、かなり議論を呼ぶ展開となりました。ちなみに、杉本さんの「推理小説はマジック、パズル、ガジェットからなる」という場慣れした分類の説明に感心してしまいました。そして杉本さんは続いて「『鏡の中は日曜日』にはパズルがない」というんです。そこから、フランス語の手順による推理というのは専門的すぎる知識でしかないいうことが問題になりました。しかし、ここで蔓葉には意外だったのは作中作に対しては論理的な厳密性をそれほど求めていない読者が多いということですよね。ここはかなり意外でした。ちなみにこのあたりで、蔓葉が森博嗣の話をしたようなしていないような記憶が曖昧です。

    そして、ここでも異論反論が白熱。泥沼の展開。

    議論を進めるべく蔓葉のひとつの考えを述べました。記述のフェア・アンフェアはおそらく「館シリーズ」を基準にして書かれているという仮説です。これはちゃんと検証しているわけでもありませんが、第一章の語り手の問題はあの作品、過去の手記と現在を錯綜させるのはあの作品、名探偵のあの描写はまさにあの作品、「梵貝荘を訪れた石動と水城邸を訪れた鮎井との描写が不自然なほど同一な描写であること」はあの作品と、トリックのハードルを「館シリーズ」に設定しているという仮説です。そう考えれば、殊能将之のmercy snow official homepageで「新本格ミステリ生誕15周年記念作品」と銘打っていることが上げられることにも納得がいくというものです。つまるところ、綾辻行人から始まった新本格というエッセンスを用いて、なおかつ変なところは変なままに書いてみたということです。「新本格というものはこういうものだと理解して読んでいるのか」という作者のひねくれものっぷりが感じられてしょうがないんですね。そして「綾辻の作品が本格だというのなら、この本も本格だろう」という意図もまた見えるのです。しかし、そう明言しているわけではないところがずるい。しかし、これらの話はあくまでも解釈でしかないことをお忘れなく、みたいなかたちで議論を何とか終着地点っぽいところに持っていきました。

  7. 『鏡の中は日曜日』の魅力とはどこにあるのでしょうか。

  8. これは現場では議論の俎上にはあがりませんでした。「熱い議論を巻き起こすほどの問題作であることには変わりない、というところでしょう」といった発言をしてとりいそぎ閉会とさせていただきました。


時の狭間
舞台裏より、座頭鯨のネクタイをしめた青年登場。手にはなにやら台本らしきものを持っている。

「あらためて、読書会に参加していただいたみなさま、本当にありがとうございました。

白熱した議論を巻き起こし読書会は終了しました。個人的には大変有意義でしたが、あの状況だと不完全燃焼だった方もいらっしゃったかと思います。それでも何かしら、みなさんの中にも有意義なものが残っていれば幸いです。

当然、企画担当者としては反省点もありまして、喜ばしい限りではありますが、僕の力では仕切りきれない人数になってしまいました。案としては、何人かの方にパネラーとして参加してもらい、それを聞いてもらう鼎談方式がいいのかもしれません。でも、僕は読書会形式が一番公平で好きなんです。

考えます。

さて、がらりと話を変えまして、「本格推理とはいかなるものか」という問いに対してわりと関心がありまして、最近は口にしなくなったんですが、「推理小説の推理性を突きつめれば反推理小説にならざるをえない」という持論がありました。まあ笠井潔の言葉のままといえばほぼその通りなのですが、推理小説における「論理」「証拠」に関してかなり疑問を持っているわけです。そもそも、本来推理小説として推理するためには情報量が決定的に少なすぎる。全ての証拠がそろったと探偵が明言するとき、大概それはその場で集められた証拠であるに過ぎない。月日がたって新たな証拠がでるとも限らない。逆にいうならば、その推理以後新たな証拠がでないという証明を行わなければならないはずなのです。また、自分推理をした内容を証明する手だてがない。つまり作品内に入り込んで登場人物に尋問や実験を試みるわけにもいかないわけです。単純に云うならば、それらの問題を解消すべく必然的に考案されたものが「反推理小説」なのであって、別段ご都合主義やお遊びで生まれたわけではないと思います。

ただし、それが普通の推理小説としては成立しづらいというのもわかります。ただ、必要充分たる推理が行われていそうな演出を行うことは可能だろうと思っていたりします。その演出でいうならば、例えば去年の読書会で上げた恩田陸『象と耳鳴り』があがるんです。ところが、彼女は推理小説的演出はうまいのに、実となる推理の証拠の部分はまったくないという特異な書き手ですよね。

でも僕はたぶん上記の理論でいうならば、『象と耳鳴り』も「本格推理」にいれてやらねばならぬと思っています。どちらも厳密には推理の証拠性は不十分なのですから。それは推理小説たるには必要な条件ではないのでしょう。

そしてその演出は別になんでもかまわないだろう、というのが殊能将之の基本的な戦略だと思っています。そして、それが演出であることは露骨に描く。その方法論がこの『鏡の中は日曜日』にもあてはまるような、そんな感覚を覚えているのです。そして、その演出は拡大解釈される。たとえば、鏡の中の黒い人物とは何だったのだろう。これもまた曖昧なままです。また、実際の金沢水城邸殺人事件の動機も不明なままです。たぶんこれはずっと不明なままと思います。「殺された名探偵」のフランス語がちょっと知りたい気もしますが、それは誇大な解釈でしょう。しかし、そういった演出の境界線はかなり意識して書いているんじゃないかと思います。わざと「この辺はこのぐらいでいいかな」と書いていそうです。もしくはあとあとでそういった整合の取れていない部分を回収してひとつの大きな物語にするのかもしれません。僕はちょっとその可能性に期待していますが、これも深読みである可能性が充分に高いと思います。

ともあれ、論理的な部分に不備があっても、不備が演出的に解消されてしまえば本格とされるとするならば、演出さえあれば、その作品は本格と呼んでもかまわないんじゃないでしょうか。無論これら「本格論」は今後も議論されるべきことでしょうし、節目節目でその時期の適切な書き手によってひとつの論文として書き続けられる必要があると思います。そして、そういう議論に殊能将之『鏡の中は日曜日』は有意義な問題提起をしているのではなかろうかとひとり思う次第でございます」

と座頭鯨のネクタイをした青年が頭を下げて舞台より立ち去る。



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