証人の子供たちに課せられる制限事項はその是非は別として彼らの社会との間で多くの軋轢を生みます。その中でも特に学校の中において、彼らが苦悩するような状況は数多くあります。校歌、国歌の斉唱、国旗掲揚、選挙、七夕やクリスマスなどの宗教的背景のある行事、格技、また給食に出されるクジラ肉を食べる(血を食べることになるそうである)などの拒否。学校の課外活動への参加の制限など、教師、学友にとって彼らの行動は全く理解しがたい奇異なものに映ることでしょう。しかし多くの子供たちはそれ以上にこの軋轢に苦しみます。学校時代このような状況は友人の視線、教師へ自分の信仰を(多くの場合ありもしないのに)弁明しなければならないプレッシャー、誰にも相談できない孤独感、疎外感などを感じるものです。私自身そのような状況が近づく間中、胃が痛くてたまらなかったことを思い出します。しかし親はそれに向かってこう言っただけでした。
「学校というところは試練の場なのよ。あなたの信仰が試されているのよ」
神様がいるか、いないかも分からぬ子供にそのような言葉が何の意味も持たず、ただ突き放して苦しめているだけであることを彼らは認識できないようでした(当然その当時は私もどうしていいのか分からず非常に悩みました)。まさに学校は子供たちにとって試練の場、苦悩の場所とならざるを得ないのです。
特に子供たちが学友に自分の信仰(と言うか家庭の宗教的方針)を必死になって隠しているときに、これは悲劇のような喜劇のような状況になります。多くの子供たちはそのような信仰や宗教を恥ずかしく感じているからです。例えば子供たちが普通に遊ぶなら喧嘩もすればプロレスごっこもするでしょう。ちょっと元気な子なら他の子供を泣かしてしまったり苛めたり、いたずらしたりするかもしれません。しかしそれらを行うなら自分自身の首を絞める結果になります。私自身格技拒否をしたときに友達からプロレスごっこをしていたことをとがめられ窮したことがあります。
そのため多くの子供たちは学校での言動に細心の注意を払います。それは彼らが証人として恥じない行動をすることが求められるからです。しかしそのような真面目な子供たちなら良いのですが、このような行動は幼い子供にプレッシャーになります。私自身幼いころは宿題もしない、先生の言うことは右耳から左耳に通り抜ける、忘れ物はクラス一という惨憺たる状態で親が「証人として恥ずかしくないのか、先生達に(行事など断る際)証言できない」と三者面談の後など説教されたものでした。もちろんこのような子供を心配するのは親として当然でしょうが、問題はその前提が「証人だから恥ずかしいまねは許されない」という考えでした。当然そのような考えにはとてもついていけず、いつもコンプレックスと罪悪感を幼いながらも感じていました。
自分が証人であることを他の人に知られることを恥ずかしく思い、自分の言動にも全く自信がなく、信仰すらない状態で、ある日突然、証人として行えない種類の行事があると、それは最悪の事態になります。それをまず先生に知らせなくてはならないこと、またその行事の最中、友人達の好奇の視線にさらされること、今まで隠し通していた努力が水泡に帰すことなど、予想される事態に何とかしようとむなしい戦いを強いられることとなります。
私の場合親は「親の信仰ではなく子供の信仰だから親は証言(自らの宗教的立場を明らかにし、できない理由を聖書などから説明すること)できない。だからあなたの口か直筆の手紙で証言しなさい」と言われ、その理由が書かれていると思われるちんぷんかんぷんな雑誌を一冊渡されただけでした。それで仕方なくちんぷんかんぷんな雑誌からちんぷんかんぷんな手紙を書き(その中に親から言われてできない、ということを書いてはいけないとも言われた)先生に渡したこともあります。当然先生の側も困惑するわけで、何か聞くわけですが、子供としては手紙を渡すので精いっぱい、後は頭の中は真っ白になっていますからまともに答えられるわけもありません。
格技拒否の時なども最悪で先生から「馬鹿やろう!」と罵倒されただけでした。他にも色々な嫌みを言われたり、わざと公衆の面前で恥をかかされたりした者も多くいます。まあこれなど良いほうかもしれません、特別に残され根性をたたき直すと称して柔道の投げ技を先生から何度もかけられ、友人に付き添ってもらわなければ歩いて帰れないほどのひどい仕打ちにあった者もいたと言います。また高校など単位がとれず退学せざるを得ない者などもいたようです(つい最近神戸で裁判がありましたが、これは氷山の一角に過ぎず、このような状況が長い間続いていたということがあったようです。特に関西方面は扱いが厳しいことで有名でした)。
結局このような事態に嫌気がさし、進学校(目標にしていたが)に進学せずそのような問題のない通信制の学校に行ってしまったということは、今となってはあまりに軽率だったと思いますが、それくらい格技拒否の弁明と友人の冷ややかな視線を恐れていたというのもまた事実です。また信仰も無いのにこんなことを続けていく(小学校以来トラウマのようになっていた)自信もありませんでした。
そのような格技拒否の時は友人に馬鹿にされたものです。中には馬鹿にされた後に近づいて「気にするな」と声をかけてくれる友人がおり、救われたように感じたものでした。それくらい疎外感と孤立感を感じているものなのです。他の行事でも一人で特別席に座らされることが何度もありましたが、この時は感情は死んだようになっていたものです。友人に後でしつこく何を聞かれてもまず答えることがありませんでした。とにかくみんなと違うことをしなければならない自分と自分の立場がいやだったのでした。それでもそれを長い間続けていかなければならないのですから。
証人の子供たちにとって学校は試練の場です。また子供たちが孤独な戦いに苦しむのかと思うと自分自身経験していますから、胸が締めつけられるように感じるものです。少なくとも学齢期の子供がそのような状態、緊張が軽減されないものかと考えます。