証人の子供たちの中にも証人達が理想とする生き方を選び、そこから満足感や達成感を感じていることも否めない事実です。彼らの推奨する子供たちの証人になっていく理想像とはどのようなものでしょうか。
彼らは幼いころから神に対して敬虔な気持ちを抱き、将来神に仕え続けたいと願うことを期待されます。そして彼らが考える必要な学業(多くの者は高校程度と考えているが)を終えるとその目標を達成するため、必要程度の収入が得られる職業に就き、残りの時間を彼らの考える神に仕える行動、伝道活動であるとか、彼らの発行する出版物を生産維持管理する仕事であるとか、自分たちの集まる場所などを建設する活動などに従事することが理想とされます。これは彼らの終末感ゆえわずかの無駄な時間も許されないと言う思想が大きな影響を与えています。それゆえそれら以外の多くの(その個人にとって、また社会にとって)価値ある事柄よりも上記の事柄が優先されなければならない、となるわけです。子供たちはそれらを目指すよう激励され、それに応ずる者も多くいます。その中でも優秀な者が指導的立場に徐々に出世していくわけです。それらについていけない子供たちは軽視されることが多いですし、それらの子供たちも多くが二度と彼ら証人と行動を共にしないでしょう。
このような理想を受け入れた子供たちでさえ、もしその理想が本当の自分の希望でなく、芸術や学業やスポーツを心ゆくまで行いたい、また普通の人と変わらぬ生活、経済活動、結婚などを望んでいるなら彼の選んだ、証人の与える理想的行動はもはや取り返しのつかないことです。つい最近の高等教育に対する証人組織の出した新しい見方は、多くの進学を諦めた、また進学したゆえに疎まれたかつての子供たちの感情を逆なでするものでした。ある者は未信者の親と感情的確執があったり、また将来が期待されるような成績であったのに今では進学を諦めたゆえ職業などで苦労している者など、彼らには取り返しのつかないことですから。
もちろんそのような犠牲に見合うだけの満足感と充実感を得ている子供たちもいるでしょう。しかし、そうでない子供たちも数多くいるのです。そのような者は証人以外の環境で生きて行くには多くの不安、恐れと怒りと悲しみと諦めを感じるものです。それゆえ自分が証人の環境と合わず、意見も違うのに、結局証人以外の環境下で生きていけないと諦める二世も多くいるのです。それでも影で、秘かに証人でなかったならばやれたであろう事柄に諦めきれなさを感じます。これは当人にとって悲劇です。
結局のところ証人の掲げる若者たちの理想像というのは、彼らの組織を維持し、彼ら(この中には信者である親も含まれる)の信念を強化し、若者たちを組織に留まらせる効果はあるものの、それが本当に子供たちの将来のためになっているか、はなはだ疑問です。むしろ将来の可能性の芽を摘み、証人という環境以外に生きられないように(故意か、結果的にかは分からぬが)しているように思えてなりません。そのことは彼らの言う「思いを込め、心を込め、魂を込めた」神に対する専心とはとても思えないのです。そのような組織や親に育てられる、これからの子供たちはどうなっていくのでしょうか。未来はあるのでしょうか・・・。