さて先の項で仲間同志で自主規制をしあい、お互いに新しい法規で縛りあう点について述べました。このほかにも内部には多くの不満、ストレス、人間関係の摩擦が生じやすい状況となっていました。これはあの非常に礼儀正しい人々の中で起きることとは外部の人々には思えないことかも知れません。
これらの原因には幾つか理由があろうと思います。もし全体が同じ傾向を示す場合、我々はその環境を疑ってみるべきでしょう。彼らの置かれた環境とはいかなるものでしょうか。
私は彼らの生活環境がその人の人間関係や個人の内面的な部分を潤す余裕がないことに気が付きます。もちろんそれを求めて入信したのかも知れませんが結果は逆になっている様子が窺えます。彼らの長時間の拘束やお互いの過度の頻度の接触も余裕を持てずにいる一因でしょう。週に三日の集会参加と宣教を定期的に参加する義務。また人間的な接触が極めて狭い範囲に限定される点もあげられます。彼らは基本的に部外者との接触を最低限度にするため、ますます信者同士で孤立するからです。ちょうど苛めやその他の問題が起きやすい教室のようなもので、僅かのすれ違いや他人の言動が気になって仕方なくなるわけです。また他人から自分がどう見られているかも同時に気になります。それに拍車をかけるような集会でなされる自己改善の勧告。それは誰でも身に覚えのあるような事柄や活動の改善すべき点などがあげられるわけで、彼らに大きなプレッシャーになります。それと会衆内の秩序、またその維持装置。あのような非常に狭い(たかだか子供もいれて百名前後)に厳然たる権威を持った者たちが存在し多くの権限を持っているわけです。多くの人たちが長老から呼びだされる事に非常な恐怖を感じるそのような状況です。要は小さな独裁社会が出来ている状態なのです。このような環境下では多くの問題が生じかねないでしょうし、現に多くの会衆にそれらの問題で悩む者がいたという現実があります。しかしそれらの者は外部からの孤立、情報不足のため、自分の会衆や長老だけがおかしい、いつか正されると推論する傾向があります。また多少、他の会衆や日本のベテルに精通する者も日本だけがおかしいと考えるのでした。つまり不満は絶えず狭い範囲に限定され、そこでくすぶるのが常でした。
そしてこのような環境的な拘束は末端信者だけではなく、上層部にまで及びます。彼ら自身も時間的、空間的また組織的拘束を受け、その内部で行動しています。また彼ら上層部には問題を解決する物理的な余裕も能力もありません。それでそのひずみは下に向かって行き、末端信者が最も苦しむ結果となるわけです。子供たちは大きくなるに従い、大人たちのそれらの人間関係に気が付き、やるせない気持ちを持つものです。
この閉塞された環境は打破できるでしょうか。信者に余裕と潤いを与えられるでしょうか。厳しい上下関係を是正できるでしょうか。また情報の双方向化、透明化の努力はするでしょうか。残念ながら答えは否でしょう。それには今までやって来た彼らの霊的パラダイス対サタンの世という世界観を否定するものとなるからです。輸血拒否なる、証人の歴史から見ればつい最近できた、極めて不合理なたった一つの教理ですら、改善しようとはしません。その可能性については否定はしないものの恐らく無理であろうと考えます。その証拠に世代説の変更に伴う引き締めを強化している部分も多々見受けられます。1914年という年からこれだけ過ぎ、信者の期待を引き伸ばす限界が近づいている現在、この状態は凶と出るか吉と出るか、それこそ神のみぞ知るところでしょう。