97/7/20「エホバの証人はマインドコントロールをする破壊的カルトか?」

 皆さんは上記のような問いに「何を今更」と首を傾げたくなるかもしれません。彼らがマインド・コントロールをしていると言うのはあまりに明白だ、彼らのやり方を認めるつもりか、とお怒りになる方もいるかもしれません。私自身、彼等は問題を持つ組織だと認めます。しかしそれでもマインド・コントロールと言う説明には多くの疑問を持っています。それで今回は非力ながらこのマインド・コントロールと言われる見方について考察することにいたします。

 

 「マインド・コントロールとは何か」

 これについて反カルト活動に携わる方の意見は必ずしも一致しているわけではないようです。多くの方は自分の反対するグループのなすことの多くに、マインド・コントロールの影を見いだします。ある人にとっては集まることや宣教活動など(反対者自身がやっていることであっても)すべてがマインド・コントロールであり、そのカルトが歌う歌、用語などもマインド・コントロールの一環と見なされます。

 私自身反対活動に熱心な方から「あなたが何に対しても理屈っぽく見ようとするのはマインド・コントロールの後遺症か?」と聞かれ、面食らったこともあります。

 もちろん上記の例は必ずしも正しい種類のマインド・コントロールの解釈では無いようです。多くの方が典拠として用いる「マインドコントロールの恐怖」(スティーブ・ハッサン著、浅見定雄訳 恒友出版発行)を見てみたいと思います。

1、それは体系(システム)また技術である

 この本では27ページにおいて、このマインド・コントロールが古い人格を破壊し、新しい人格に置き換えるシステムだ、と主張しています。同じように105ページでは「個人の人格を分裂させるシステム」、次ページでは「個人が自己自身の決定を行うときの人格的統合性を壊そうとする(平たく言えば自主的でなく依存的になる)システム」となっています。またそのシステムを一つの技術としても書かれてもいます。それでマインド・コントロールとは、人格を変容させるシステムおよび技術と定義できるかもしれません。

2、それは人格を破壊する

 著者は既存の人格が破壊されてゆくと考えます。しかしこの考え方には同じマインド・コントロールを主張する専門家から論理的矛盾があるとの指摘もあります(後述)。

3、それは新しい(そして恐らく望ましくない)人格に置き換える

 ハッサンはこの新しい人格を「人工的カルト的人格構造」で破壊しきれなかった人格とカルトの人格との二重構造になると唱えます(p138-140)。そしてカルトを脱会したときの人格の変容を、彼は「本当の」人格を取り戻したことになると考えます。それで彼から見ればカルトのメンバーに「本当の」自己を取り戻させるため脱会させる活動の必要性を訴えている訳です。

 上記の人格に関する論議には、このような種類の批判もあります。「人格という考え自体、抽象的であり、その人の行動パターンから推測される個人の特徴であり、個人の生活、行動が変われば必然的に推察される人格も変わる。それで彼等の行動の変化の説明を人格の変化に帰すならば循環論法に陥る(例えばトーマス・W・カイザーらは「あやつられる心 破壊的カルトのマインド・コントロール戦略(マインド・コントロール研究会訳 福村出版発行)」p85でその点を指摘しています。しかし彼等はそのような論法が信念と態度の急激な変容に対する簡略な方法として容認できるとも言います)」

 それでこの人格の概念の替わりに「信念と態度の急激な変容をもたらす技術」との定義もできるようです。

 さらに個人の持つ知的体系を情報操作によって破壊し再構築する事をグループ・ダイナミックスという集団に働く力と共に使う技術であると考えるようです(例えば「マインド・コントロールとは何か」西田公昭著 紀伊国屋書店発行 p53-82)

 またその技術は認知不協和理論の応用であるとも考えられています(p114)。これは「人間の行動を変えれば、その人の思想と感情も、不協和(食い違い)を出来るだけ少なくする。(括弧内筆者)」という理論で、カルトは信者の行動を変化させることにより「彼らは・・・・人々の内面に意図的に不協和を作り出し、人々をコントロールするために利用する。(p115)」と言います。

 それでまとめとしてマインド・コントロールとは

 個人の人格もしくは知的体系を破壊し、新しい人格もしくは知的体系を築くシステムもしくは技術である。それを破壊的カルトは集団としての心理状況を利用し、情報の操作、環境の操作などによって行う。またその結果によって得られる行動の変化により思考、感情まで不当にコントロールする。

 このような定義がほぼ妥当ではないかと思われます。

 

「破壊的カルトの意味」

 この「マインド・コントロール」と言う概念には操作される側(罠に落ちる個人)と、もう一方の主役、操作する側の存在が必要です。これを多くの場合「破壊的カルト」と呼びます。

 前述の「マインド・コントロールの恐怖」ではp75で「破壊的カルトとは、非倫理的なマインド・コントロールのテクニックを悪用して、そのメンバーの諸権利を犯し続けるグループのことである」としています。

 日本の社会心理学の専門家が作った「マインド・コントロール問題研究会」ではこの語句の定義を「(カルトの中で)真の活動目的を隠し、自らの利益追及のためにあからさまな欺瞞をおこなう反社会的な集団」としています。そしてこのあからさまな欺瞞を個人に、また全体に受け入れさせる技術、システムこそが「マインド・コントロール」であると思われます。またこの研究会のメンバーの一人で静岡大学教授、社会心理学者の西田公昭氏は「マインド・コントロール」を「破壊的カルト」の行うものに限定することを提案しています(これに対してハッサン氏は対象者の意思を尊重した倫理的に問題のないマインド・コントロールが有りうると唱えます)。実際にこの語句が実用句として用いられることはカルト問題である場合がほとんどでしょう。西田氏は「一般の人が『良い』マインド・コントロールと呼ぼうとしているものに対しては、心理学者はもっと適切な概念でそれらを呼んでいる」と言い「一部の犯罪的組織がとった突出した活動のために、社会に急浮上したこの概念は恐らく今後も良い意味では用いられないであろうと思う」と語ります。

 しかしそうするなら一つの矛盾が起る可能性があります。つまり「マインド・コントロール」の定義と「破壊的カルト」の定義がお互いの言葉に依拠してしまう。つまり「マインド・コントロール」とは「破壊的カルト」の行う心理操作であり「破壊的カルト」とは「マインド・コントロール」を行う団体である、と。これは一種の循環論法に見えます。

 それで結論は

  「破壊的カルト」と言う概念は「マインド・コントロール」の概念に依拠するもので、カルトの操作する側面を主として見る。(その団体の)操作されるもしくは依存する側としての特徴は考慮されない(同時に操作される側の自主性も、存在しないもの、もしくは著しく弱められたものとしてほとんど考慮されない)。

 

 「証人の手法に関する適用」

 多くの反対者たちは証人の手法に上記のマインド・コントロールを適用します。例えば正統派キリスト教会の牧師で、現在エホバの証人救出活動を繰り広げておられる、ウィリアム・ウッド氏は彼の著書「ものみの塔聖書冊子協会 エホバの証人 マインド・コントロールの実態(三一書房発行)」で証人たちは次のような方法で人々もしくは信者をコントロールすると言います。おおまかに要約すると

 

1、ショックを与える

  主にハルマゲドンや既存の宗教批判をすることにより「・・・・ショックを与えて、今まで考えてきたこと、信じてきたことが間違っていたかもしれないと思わせて、不安な気持ちにさせ、相手の頭をからっぽにする訳である(p79,80下線筆者)」。

 恐らくこの「からっぽにする」と言う部分がマインド・コントロールの人格もしくは知的体系の破壊に相当するものと思われます。つまり証人になる前段階のその人の知的体系はからっぽと(少なくとも同氏は)見なすようです。

 

2、再教育をする

 「頭がからになった人に、新しい情報を何度も繰り返して、教え込む」

 そうすることに定型的な質疑応答の書籍を使った家庭聖書研究が行われ、その結果

 「・・・過去の考え方・信念・価値感などが帳消しにされて、組織の望み通りの思考パターンになってしまうのである」

 つまり過去と全然縁のない人格を創出するという考えのようです。

 

3、新しい人生が始まったと思わせる

 さらに献身、生活の変化の要求、一般社会からの隔離、伝道などの行為によって上記の新しく創出された人格を固定化すると考えています。

 

 上記の方法により過去の人格もしくは知的体系を破壊し新しい人格もしくは知的体系を構築し固定化する技術を証人たちは不当に行使していると多くの反対者は見ているようです。

 

 「幾つかの疑問」

 しかし上記の見方はあまりにステレオタイプで主観的な主張のような気がいたします。まず証人になった個々の動機の多様性について考慮されていません。これは反カルト論者が陥りやすい罠で、ある結論を出すのに一つの傾向を持つ人々しか選ばず、その人々の情報のみにより結論を出しそれを科学的事実と錯覚してしまう部分が見受けられるのです。例えばマインド・コントロールと言う一つの技術があるとするならばその影響にあった人すべてからランダムに情報を得ることによって科学的客観性を保つことが出来ると考えますが、大抵の場合カルトにだまされたと主張する人々の意見のみを正しいものとして調査する現在のやり方は科学的な中立性に疑問を抱かせる要素となっています。

 この点マインド・コントロール論に疑問を持ち、ある教団を調査をした社会学者LSE(ロンドン・スクール・オブ・エコノミックス)教授のアイリーン・バーカーはマインド・コントロール研究の第一人者で「マインド・コントロールの恐怖」で序文を書いた心理学博士マーガレット・シンガーらの調査の持つ欠点つまり脱会者や脱会援助者のみのを対象にすると言う手法を避け、会員全員の名簿からランダムサンプリングを基礎として調査することを行っています。そして、徹底的なインタビュー、参与観察、質問紙調査の三つの併用、また恣意的な質問を客観的な種類に置き換えるなどがなされました。

 その調査の結果を見ると彼らの拡張努力の割にそれが実を結ぶことが少ないこと。また彼らが改宗した理由は自主的なものとばかりも言えないが、洗脳の結果とも言えず、結局のところ「相性」につきるのであり、どちらかといえば自主的な選択である、となっています(「現代宗教の反近代性 カルトと原理主義」阿部美哉著 玉川大学出版部発行)。

 またヴァージニア・コモンウェルス大学教授、ディヴィッド・G・ブロムリーとテキサス大学準教授アンソン・D・シュウプ、Jrは彼らの著書「アメリカ新宗教事情」(稲沢五郎訳 ジャプラン出版発行)では同じくあるカルトと目される団体の勧誘方法についての観察で、百人のうち一人が勧誘に応じ、それでも多くの者が脱落し、最終的に残る者が極めて少ないことを見いだします。

「(その貧弱な結果、それでも人数を増やしている事実から)その方法が効果的であるというよりも、むしろ彼らがねばり強く働いていることを証明している」(p143)

 これは証人の勧誘についても同様です。彼らの勧誘者の大多数は、家庭聖書研究に応ずる者を探すことに多くの困難を覚えます。また実際に応ずる者がいても、実際に証人として献身を表す浸礼(洗礼と同義)を受けるものは稀です。彼らの巧妙なテクニックによる成果と言う説明よりも下手な鉄砲数打ちゃ当たる、という考え方で十分説明できる数です。それでも人数を増やしているのは彼らの勧誘の頻度と量の多さが主な理由と考えた方が的を得ています。むしろあれだけの頻度と量の勧誘をしながら(他のもっと緩やかな勧誘をする諸団体に比べ)あの程度しか伸びることが出来ない、とも見ることが出来ます。また家庭聖書研究を行う者の多くが信者になると言う道を選ばないことも、本当に思考できないよう自主性が束縛されているのか疑問に感じさせる点です。

 また変容させられた、という彼らの知的体系に関しても彼らはこのように観察します。

「・・・・様々な話をメディアを通じて読んだり、反カルト論者からきかされていた私たちにとって(彼らの改宗に関するインタビューの結果は)衝撃的なものであった。六カ月以上も運動にかかわったメンバーが・・・(そ)の教義について比較的、無知また無関心であった。しかも、このことを公然と認めていて、別になんとも思っていないようであった。さらに深くさぐってみると、人々が参加する背後にはわくわくするような楽しみ、旅行、理想主義、生活様式といった、様々な理由があるだけではなく、様々な状況と様々な動機があることが分かった」

 証人の習慣で、始めて会った信者同士で、自己紹介を兼ねて自分がエホバの証人の教理を何故真理と思ったのかという事を話す場合が多くあり、筆者も数多くの場面に立ち会っています。その中でウィリアム・ウッド氏が挙げたような知的側面について言及したものはほんの一例しか知りません(しかも氏の述べた事柄ではなく、科学に対するものだった)。温かさや居心地の良さなどの感情面の指摘が多く(不思議に思われるかもしれないが、何故参加しているか分からない者も多数いた)、またそれに至る背景の多様さは、氏の論理を疑わしくさせ、むしろ上記の観察と非常に酷似しています。このような観察結果から、彼らの改宗する動機が必ずしも知的体系の破壊と再構築によるもの、と言い切れないと私個人は思います。また彼らの教理に対する無知また無関心も多く見られ、彼らの聖書研究などに参加すると組織の教えと違うことを述べていた(しかもかなり根本的な種類のもの)のをよく観察しています。それが長老クラスの人々にも見られる始末でした。私自身そのような人々を見て彼らの信者として行動する動機は再構築された知的体系によるというよりも、一般に見られる自分の所属する社会への単純な順応と感情的欲求によるものと見たほうがあっているように思えます。

 また自主自立性に関しても精神医学者J・トーマス・アンガーライダーと臨床心理学者ディヴィッド・K・ウェリシュが現カルトメンバーに行った調査を論文として「アメリカン・ジャーナル・オブ・サイカイアトリー」に発表しましたがその結果をこう述べています。

「この人々が自分自身とその財産について、健全な判断、合法的な決断ができない、あるいは妨げられていることを示すデーターは、知性・人格・精神状態に関するどの実験からも得られなかった」(p148)

 もちろんこうした意見にすべての学者が同意しているとは言えぬものの、彼らが元の人格を失い、創出された人格によって行動しているとする論理を証明する科学的根拠は十分に得られていないのは事実です。彼らのグループへの服従を自主的でないものと決めつけることはできないでしょう。

 また彼らの個人的な精神状態に関してもあるカルトに潜入し調査した社会学者ロバート・ボルチとディヴィッド・タイラーはこう述べます。

「宗教的カルトのプライベートな生活の現実はたいてい、狂信的という公の姿の背後に隠されている。綿密に設けられた役割期待に適うように、外観上、信者であるかのように振る舞う。これを習得することが、カルトの帰依の最初の段階である。・・・・カルトの信者のなかには、真の信者とはなりえない者が多い。しかし、その疑心は巧みに隠されていて、もっとも親密な仲間だけがこれを知っていることであろう」(p147)

 この点、証人個々の精神状態も彼らの文書にあるような一律なものであるわけではありません。彼らの外観上の印象と文書で推察されるものとは別に、彼らも彼ら個人の精神性を多くの場合持っていますし、それを反対者や部外者また同じ仲間の信者にも隠されるのが普通です。それはごく親しい仲間しか知らないでしょう。

 さらに我々はその操作すると言う側の動機や理由を十分に認識しているわけではありません。例えば最初に挙げた認知不協和理論を「利用し」「意図的に不協和を作り出している」というハッサンらの主張に確たる根拠があるわけでもありません。逆にこの不協和理論は、そのことを反証することになるかもしれません。そのような操作すると言う側も彼ら自身の意図とは別に自らの認知の不協和の修正のために自らの言動、指示、命令に矛盾点を来たすようなことをする。つまり技術として用いているというより、その状況下での信者と同じような心理的傾向を示しているだけなのかもしれません。しかしその一貫性の無さや矛盾、またその時に起こる隠ぺいなどによって彼らが策謀を駆使し信者をだましているとの印象を結果的に与えているのかもしれないのです。また彼らの操作する動機、特に証人のような経済的また社会的見返りの少ない指導者たちの場合、その部分が問題となります。もちろんメリットが無いとは言わぬものの、信者達の得るメリットとの差は他の教団の指導者と比べ著しいものは見られないですし、もしも彼らが意図的に詐術を繰り返しているなら何のためなのか、十分説明できません。むしろ彼ら自身も、その特殊な社会状況に順応しまた矛盾を包含しながらも信じている節すら感じられます。これは我々が社会に矛盾を感じ、また時に矛盾した行動をしながらもそれでも社会に順応していることと結局のところ変わらないのかもしれません。ただたまたま我々の社会常識と彼らの所属する社会の常識とが違うために我々には多くの矛盾が目に付くのかもしれません。これは例えば企業内論理や官僚の論理など閉ざされた社会において一般でおかしいとされる事柄に人が簡単に順応することと同じかもしれず、それが必ずしも個人の知的体系を破壊、再構築した結果生み出される、またそれを意図したコントロールが行われていると解釈するのは行き過ぎのような気がします。

 最後にこのマインド・コントロールではどうしても説明しきれない厄介な人々がいます。信者の子供たちです。彼らは人格の形成段階で証人としての人格の構築を受けます。またその証人社会から強化を多くの頻度と量で受けます。しかしその半数が脱落し、残った者の大多数も確たる信念ゆえに行動しているというより、その社会に惰性に近い形で順応していることが観察されます(自ら改宗した信者の多くが指摘する点です)。彼らのそのような行動や思考はマインド・コントロールでほとんど説明しきれないでしょう。

 これらから推論すると、証人になるということは必ずしもその人の理知的な種類のものが動機になっているわけではない。そしてその選択は完全な自主とは言えぬものの、全く自主が束縛されているとも言えず(その証拠に研究の途中で辞めると自主的に判断する者の方が多い)むしろその人の興味や嗜好や相性によるところが大きい。そしてそれを行う動機、背景についてはマインド・コントロール論のような単一で単純化されたものでは到底説明することができない。

 また指導者たちが意図的に心理操作を意図的に悪用しているかどうかは状況証拠による推論に過ぎず、とても客観・中立的な事実とは思えない。

 最後に子供たちの状況に関してこの論理は無力である。

 これが今のところの筆者の見方です。

 

 「受け入れられる理由」

 しかし何故このような論理が客観的事実として受け入れられているのかに目を向けることも必要かもしれません。

 

1、社会的影響

 このマインド・コントロールという語句が日本社会において一般に流布されるようになったのはあるカルトグループに所属していた有名人の脱会劇がマスコミにセンセーショナルに報じられたことがきっかけとなったからでした。その後、米国での武装したカルトグループの立てこもりと自決、またスイスでのカルトグループの自決など多くの反社会的行動が報じられその説明として、この語句は独り歩きして言った感があります。そしてさらにあの地下鉄サリン事件などを起こしたカルトグループの行動は多くの人々を震撼させました。これらの状況は多くの教団の裏面に光を当てることに寄与すると同時にそれら(犯罪を犯していないグループも)を一緒くたにステレオタイプに評価すること、またまだ十分科学的に検証されているとは言い切れないこれらの論理を一般の人々に流布する土壌作りに役立ったと言えるでしょう。

 

2、元信者の証言

 特にこのマインド・コントロールに有利な証言をする者の多くは実際マインド・コントロールされているがゆえにディプログラミングを受けた、また自分がマインドコントロールを受けたと感じて辞めた者ですので必然的に肯定的な証言がなされるでしょう。彼ら自身だまされたと感じていますし、そのだまされた自分に対して恥ずかしさも感じています。この恥ずかしさに対してマインド・コントロール理論は一つの助けを差し伸べます。つまりあなたが考えてやった事柄ではない、と。巧妙に彼らがやらせたに相違ない、と。これはもしかしたら彼らの過去にしてしまった選択の失敗(と今では感じている)、つまり証人として歩むことを選択してしまったという事柄に一つの免責を与えるものとなるかもしれません。

 また今まで信頼し愛していた組織であればあるほど、その組織に裏切られたと言う感情は憎しみや怒り、恨みとなってしまうことでしょう。それゆえ客観的視点で再評価することが非常に難しくなるかもしれません。またその感情を一般の無理解な人々にも何とか理解して欲しい、また内部にいるだまされている(と元信者が感じる)信者達にも自分たちのことを理解しまた脱会して真実に目覚めるよう助けたいと言う感情も、この論理を受け入れやすくする土壌となっていることでしょう。しかしそれは元信者全員の一致した意見では必ずしもありません。

 

3、家族の訴え

 反対者家族も証人によって自分の家族はまるで別人になってしまったと訴えます。特に行動や態度の変化、自分の述べる反対意見に耳を貸さないことなどは明らかにマインド・コントロールの証拠であると映るようです。また自分たちが忌避する考え方を受け入れられたことが信じられない場合もあるでしょう。その場合信者の考えで受け入れたのではなく巧妙な手段でだまされたと考えたくなるでしょう。また信者の信仰に介入を正当化する論拠としてこの考え方は必要とされるでしょう。もちろんすべての家族がこのように訴えるわけではありませんし、未信者の家族とうまく行くケースも数多く見ています。

 

4、正統派宗教との対立

 正統派宗教のすべてがこの論理を支持しているわけではないでしょうが、中には熱心に証人を破壊的カルトとして断罪し、そのマインド・コントロールから救出しようとする教会関係者もいます。その根の部分には宗教的対立が関係しているようです。

 

 いずれの場合にせよ、中立的な立場で評価することが難しい背景を持っていることが分かります。例えばある反対活動をされる方から、本音を言えば基本的に真面目な市民生活をおくり、法を犯すことの無い彼らに、反対理由として決め手となるものがなかなか見つからない。それで何でも良いから、彼らに反対する根拠が欲しいということを聞くこともあります。まさにその根拠にうってつけなのかもしれません。

 

 「問題点」

 私自身このマインド・コントロールと言う論理は、今まで閉ざされた世界を理解しようとするための一つの努力、過程として一定の評価をしますし、またこの論理のおかげで自らの立場を客観視できたと感じる人々がいることも認識しています。またある人々にはこのような説明が自らを慰める要素となり安堵感を得られるものとなることも見ています。

 それでも以下の問題点があると考えます。

 

1、信者個人の自主性の無視

 例えば信者を監禁し説得する方法について、前号でも疑問を表明しましたが、そのような行為を正当化する論拠ともなっています。またある救出関係者は「証人をやめた人は精神的成長がストップし、入信したころと同じ精神年齢にある」などと述べ、その場にいた元証人が気落ちするようなことがありました。このような信者個人を軽視し、子供扱いするような状況を作りだしていることも事実のようです。このようなことが続くなら、彼らが真に一個の人間としての助けを得られるかという疑問があります。またこのような状況は証人救出関係の教会にも害になっています。証人がマインド・コントロールをしているという手法を教会の手法にも感じてしまう人がいるからです。

 

2、根本問題の矮小化

 証人の持つ組織、また個人の問題を、組織に服従させられた個人との図式に矮小・単純化されているようです。しかしことはそれほど簡単ではないのです。彼らの組織が何故、硬直化し全体主義的になったのか、その力関係はいかにして生じえたのか、またそこに何の魅力を感じて没頭する個人がいるのかなどの答えになりません。

 

3、諸権利を侵す口実

 また彼らが持つ権利を侵す口実にもされているようです。例えば証人を「第二のオウム」と呼び「死をもマインド・コントロールする」と声高に叫ぶ人々もいるようですが、それによって社会的に圧力をかけ、魔女狩りのような事態にすることは民主社会と真っ向から対立することと考えます。それは双方に破壊的な結果をもたらすことでしょう。

 

 「新たな視点の必要性」

 つい最近オウム真理教に関する世界の知識人の会議が開かれ、その模様をテレビで、わずかですが見ることができました。そこでプリンストン大学の教授が「信者達が改宗した理由と我々が普通の宗教に改宗したり世の中に意義があると思われる事柄に参加する動機と、ほとんど差異が無いのではないか」との意見を述べていたのが印象的でした。もちろん私は証人とオウム真理教は同一だとは思っていません。「反カルト主義者たちは、彼等の文献や公的な発言において、「破壊的カルト」という包括的な類型に依拠する。それは個々の団体の特徴を曖昧にするとともに、いずれか一つの最悪の属性を持って、カルトと呼ばれる全ての団体に烙印を押すことになる。均質化の効果は、特定の団体の実力と影響力を大きく過大視し、個々の市民の脆弱性を乱暴に誇張することになる。(前出「現代宗教の反近代性 カルトと原理主義」 p214)」という意見がほぼ妥当だと思っています。それでも上記の発言は証人問題を見る視点を考えさせるものと思います。彼らが特別な人々とは私は思えませんし、その動機についてマインド・コントロールを用いなくても十分説明(複雑にはなるが)可能と思います。「複雑な問題を何とか理解するには、あまりに単純化された答えで満足してはいけない(前出「アメリカ新宗教事情」 はじめに より」私自身が感じるのはマインド・コントロールと言う説明はあまりに「単純化された答え」のような気がするのです。もちろん私達も考察を始めた途上ですから、あまり大きなことを言うつもりはありません。それでも一度この概念を外して考えたときに新たな視点が開けるのではないかと思います。そしてそれは証人問題ばかりでなく、個人の在り方、組織の在り方、異なる考えを持つ人々との関わり、などを考える時に役立つのではないでしょうか。

 


 「エホバの証人の親と証人を辞めた子供との関係について」

 企業内において、一つのプロジェクトの立ち上げのためにつくられたグループが昼夜を問わず目標に向かって邁進し、結果が見えてきた段階に来て突然仲間の一人が離脱をし、目的の達成が不可能になった場合そのグループを統括していた責任者はその部下に対してどのような感情を抱くでしょうか。

責任者は、そのプロジェクトに将来の自分の会社での立場、待遇面での向上といった命運をかけていた矢先仲間の離脱によって全てを失ってしまったのです。

おそらく今後両者の関係は、和解していくためにかなりの時間が必要になると思われます。

もしかしたら、和解は不可能かもしれません。

このような状況を想像して見ますと皆さんは、どちらの側の感情が理解しやすいでしょうか。

 丁度、エホバの証人の親子においても同一の状況が適応できます。

開拓者でも、巡回監督でも、永遠の命でもいいのですが、なんらかの目標を掲げ親子二人三脚で20数年歩んできて突然、子供がその生活についていけなくなり組織から離脱していくとなると、親としてはやりきれない気持ちでいっぱいなのでしょう。

会社の上司と部下なら、一切の関係を断ち切ってしまえば和解はできなくても互いに感情をかきむしられることもなく、両者の関係は消極的ではありながらも以前よりは改善されているものなのでしょうが、親子となるとそうやすやすとは関係を絶つことはできないことは理解していただけるものと思います。

久しぶりに帰省したり、何か他の用事があって電話をいれたとき決して触れるべきではない話題と解っていながらも言葉の端々にとげがあったり、ちょっとしたきっかけが起爆剤になってその触れてはならない話題にどんどん足を踏みいれてしまうこともあり、なかなか両者の関係は改善どころか摩擦係数を高めてしまうことにもなりかねません。

組織からはなれてしまった二世の若者ならこのような経験は共通の問題点といえるでしょう。

おそらく両者とも、関係の改善を望んではいるものの一度信仰という一番複雑で繊細な感情の部分でのくいちがいを生じさせてしまうと、いかんともしがたい溝の深さを産み出してしまうものなのかもしれません。

 私の場合も、数年前はその感情的なぶつかり合いばかりを繰り返していました。

当時の私は、自分が正しいと思うこと、そしてエホバの証人の思想が何故自分にうけいれられないものかを適切にそしてはっきりと伝えることこそ正攻法なのだと思っていました。

確かにそれは今でも正義だとはおもいます、しかし愛ではないのだとも思うようになりました。

私は、私なりに自分の考えをまとめ、分析し、可能な限り理論的に説明を繰り返していたと思います。

しかし、私の指摘が的確な程、そして私の理論に整合性がある程、親は頑なに私の考えを否定するだけでした。

このような事を重ねているようでは、互いに関係を向上させていきたいとは思いながらも溝を深めているだけに過ぎず、いつも後味の悪い思いだけが残るのです。

その時に疑問に思ったのは、単純に親は何故エホバの証人の思想に執着するのだろうかということでした。

しかし話しを重ねていくうちに、親は思想に執着しているのではなく子供に執着していることに気付きました。

同じ目標をもう一度持って、同じ道をもう一度二人三脚してみたいだけなのです。

私は、自分が如何に生意気な理論武装をしたところで所詮子供としての経験しかしたことがないので、親というものが何故そこまで子供に対して強い執着心を表わすのか理解できない部分が有ります。

互いに歩みよるためには、まず親の感情に自分が如何に深い影響を及ぼしているかを類推する必要があるのだと思いました。

しかしながら急に親になることもできないので、自分の置かれた状況の中で生活していくうちに、親としての自分ならこのような場合どのように考えるだろうかとか、チームリーダー

として社内で活動する人を見て、このような人が家族でいうところの親という存在なのだろうか、と常に意識してみた結果、親子の関係をこの記事に論ずる段階になって文頭に記した例えが思いついたのです。

そうなると、自分自身も親の考え方に100%賛同はできなくても立場を尊重することができが出来るようになる様な気がします。

 そうして、私の場合は少しづつ理解し合えるようになりました。

もちろん、完全に昔のような状態ではありません。

時が経てば、互いをめぐる状況をかわるものです、その変化した状況の中ではかなり普通の親子としてという意味で理解し合えるようになっているということです。

人によって、環境も歩んできた歴史も異なるので私の経験や方法が全てのエホバの証人の親とその組織を離れた子の関係の改善に役に立つことはないでしょう。

ただ私がこのような親子の話題を提供したのは、同じ様な問題を持ちながらもある程度の改善のみられた他の若者立ちの声をもっと聞きたかったからなのです。

数々の例が揃うなら、まだ親子の関係があまり芳ばしくない状況にある若者達に何らかの補助になると思ったからなのです。

 

 私は今この記事を、某ファミリーレストランで書いています。

私のとなりには50mを泳ぐことを夏休みの目標にして楽しそうに話し合っている父娘がいます。

いつまでも、この二人が今の様な素直な関係でいられることを願ってやみません。