97/3/1「ディプログラミングという手法に関して」

 さて多くの証人救出関係者はディプログラミングと言われる手法によって信者を脱会させるようです。この手法は信者を物理的、計画的に監禁し、そこで十分な情報を与え脱会させると言われる手法です。

 現に多くの方がこの方法によって脱会し中にはその事に感謝される方もおられます。またご家族も比較的早期に信者の家族を脱会させられるために多くの方がそのメリットについて語ります。またこの方法以外信者を脱会させる事はできないと言われる方もおられます(全回脱会の必要性について書きましたが)。しかし実際にそうなのでしょうか。

 このディプログラミングに関しメリットだけが誇張され比較検討による議論がなされていない現状下でこのような方法を推奨するには多くの危険性があると私たちは考えます。この手法には多くの落し穴もあるようです。この点具体的に考察して見ましょう。

 まず信者の持つ権利に対する不当な侵害という即面があります。信者の行動の自由を家族の合意の元に奪うという行為は法的な問題に抵触する恐れすらあります。現時点では法的問題に発展していませんが将来的に発展する可能性があるでしょう。仮に法的問題がなくても倫理的問題があります。我々はこれを行う人々が証人の側の非倫理性について語りながらこのような非倫理行為を行う矛盾について整合性のある説明を今だ聞いていません。大抵“毒を持って毒を制す”であるとか“状況ゆえ仕方がない”であるとか“緊急非難”などの非常に曖昧で説得力に欠ける説明しかなされていません。

 もし仮に証人が非合法活動をする団体でありその非合法活動に家族を参加させないためであるなら“緊急非難”の説明も説得力を持ちますが基本的に合法的な活動と模範的な市民生活を送っている信者にこのような処置を行うのは明らかに暴力であり本人の権利への重大な侵害です。

 もう一つはその不正直で不誠実な即面です。その信者を監禁するため偽りの良い関係を築きその監禁場所に連れ出すためにいわゆる騙しのテクニックを用いる手法は非難されても十分に答えられるだけの説得力ある理由を提示できない要因になっています。もし失敗すればその信頼関係はガタガタになるでしょう。

 その手法は結局の所信者をある方向に誘導するために行われるわけですから、彼らのことをマインド・コントロールと非難しその点を根拠にして脱会させる事との間に大きな矛盾が生じています。その個人を強制力を用いてその思考をコントロールしようとするのですから。ある方は客観的な資料から本人に選択させるだけだといいます。しかしその環境、状況からその様に言えるのでしょうか。それが正しいならば証人が行っている改宗手段もマインド・コントロールでなく間違っていないと言えます。彼らの言う客観的資料から本人に選択させている(しかも強制力を行使せず本人との合意の元に)だけですから。

 筆者自身その現場に立ち合ったことがないのですが、立ち合った方からの話を総合すると「異様な雰囲気」「耐えられない緊張下」で事が進められ数日経てば徐々に事態がよくなるそうです。しかし最も緊張が高まったときの信者のパニック感、ストレス等は非常に危険ですし現にその時に脱出しようとして怪我をされたりすることすらあるようです(これは個人の権利を守るための当然の行動です)。実際なされた方に話を聞くとそれが心理的に極度に苦しい状況であるそうです。しかしいつもなされているプログラマーの方々はそのような状況に無感覚になる傾向もあるとのことを聞きます。これでは個人を尊重した話し合いができるのでしょうか。もう一度再考する必要があるでしょう。

 さてその手法が成功したら良くなるでしょうか。実際幾つかの例を見ますと最初に個人の権利を侵害したことに家族が自信を持ちその後も同様にその脱会した信者をコントロールしようとする傾向が見られます。また偏見や独善的な見方が根拠で証人に反対されるご家族はその見方をさらに強化する、またそのような方々が“証人救出活動”に携わると“被害者家族”として益々その偏見をお互いに成長させる結果になり、それが信者や元信者のケアや相互理解に大きな障害になっているケースもあるようです。一度なされた侵害行為(またその精神)は繰り返される、つまりディプログラミングはそれを頼む家族にも長期的視点で悪影響を及ぼしているように感じられます。また脱会された方もその時の雰囲気で脱会しているがため事態を冷静に見るのではなく証人その他に対する見方が攻撃的もしくは独善的な傾向になりやすいようです。

 またこの仕事を行う方の多くがキリスト教関係者であるためクリスチャンに改宗させる手段と考えそれがその元証人に大きな負担になっているようです。ある方は証人を脱会することよりクリスチャンにならなければならないとの圧力に悩んだとおっしゃられていました。その後の精神的なケアもただ教会に行くことを勧めるだけであまりなされていないとの意見も聞きます。家族の方もケアをしようとするよりは脱会したことをこれ幸いに本人の意思を無視し益々その元信者に圧力を加えるケースも少しですが見られるようです。

 これらの点を考えるとディプログラミングには多くの問題があります。それで今後これらの問題を関係者等が正面から向き合い真剣に考察することは急務と思われます。自分たちの手法の持つ欠点に対して正面から見つめる勇気を持ってほしいと願っています。現に米国などでは色々な問題点からこの手法は過去のものとされているようです。

 それで信者の個人の権利を尊重し、相互理解を目指し、(仮に信者に残る決定をご本人がされた場合も)共存共栄さえ視野に入れた鷹揚で柔軟な見方が求められる事でしょう。私たちは証人との関係にインフォームド・チョイスすなわち十分な情報を与えられた後の(本人の)選択が必要と思います。監禁した上での(結果的に)選択を迫る行為はその事を不可能にします。最終的に信教の自由とはその個人に属するものです(家族に属するものではあり得ません)。それを十二分にも尊重する事が必要です。また個人は情報を受け取らない自由もあるのです(正しいもしくは正しいと感じる情報は全て受け入れる必要があるわけでない)。単に家族の不安をあおりこの手法を推奨するような事は避けるべきと感じます。


 「ディプログラミングについての元証人の一つの意見」

証人の問題に憂慮される方の中には、「救出」の手段として強制的脱洗脳を用いる方もおられます。世界的に見れば、種々の問題点から下火になる傾向にあり、現在では日本以外の国ではあまり用いられなくなってきています。

このテーマについては技術的、倫理的、法的見地から各所で論じられてきましたが、ここでそれに触れる余裕はありませんので、私からは「成長」というささやかな視点を加えるに留めたいと思います。

思春期の大部分を組織の中で過ごし、今振り返って言えることは、組織の最大の問題は《個人の芽を摘むこと》だと思います。依存心が増幅され、自分の意志に反して周りの圧力によって動かされる生き方を送ることにより、自律的思考や自尊心が著しく損なわれ、実社会において「生きづらさ」を感じていくのです。これは本人にとっても社会にとっても不幸な事態と考えます。

私としてはそのような認識から出発すべきかと思いますし、もうそうであれば、そういう状況からの脱出を援助する側としても、問題を増幅するような方向でなく、問題の根本を解決するような方向で考える必要があると思います。

以下に述べるのは、現在の状況ではクリスチャンによる説得が主流であることを念頭に置き、この種の状況において考えられる問題点を挙げたもので、必ずしもすべての状況においてこれが見られると言うつもりはありません。むしろ、プロの援助者の方々は当然配慮なさっているものと期待しています。

条件付きの愛:元証人は「組織の教えを信じない限り仲間ではない」という環境に深く傷ついています。もしクリスチャンにならなければ受け入れない、という援助の仕方なら、「同じ穴のムジナ」と捉えられても仕方がないかもしれません。信仰を持とうが持つまいが、まず人として力になろう、というのが良心的姿勢と思います。

自律的思考:一方的に反論を提示され、それに答えられない状況に追い込んで強制的に説得するのは、一見誤った教えから救い出しているようで、実際は解決になっていません。本人が最初にその教えを受け入れたのも同じ状況だからです。むしろ、両方の議論を提示し、本人が自分で判断し、選択できるようにしないと、根の部分はそのままで、単に知識だけ取り替えたにすぎなくなるでしょう。それではたとえ新たな信仰や組織に入っても、そこでまた埋没してしまうことになりかねません。

自然な時間の流れ:人には自然な成長時間があります。年齢や体験にふさわしい人生観というものはあり、たとえそれ自体はもっともな価値観であっても、本人が自然な形でそれを身につけるには、まず他の体験を積む必要があるでしょう。短い時間で結論を出そうとせず、もっと大らかに見守って良いのではないでしょうか。

新たなコントロール:信仰が破壊されるというのは危機的な瞬間です。「心の空白」は良くない、という理由でこの時期にすぐに伝道する人もいます。ただ、これはスティーブ・ハッサンが言う「解凍・変革・再凍結」の過程に非常に近く、したがって最も悪用されやすい瞬間です。今までの価値観が崩され、自分の判断すら信用がおけない状態になっている時は、何でも受け入れ、操作されやすい状態にあります。自分の説得を受け入れてもらった援助者は、満足感を求めるあまり、自分の信条を相手に受け入れさせようという誘惑に抵抗できるようでなくてはなりません。相手の真に健全な成長を願うなら、人間として自律的に生きられるよう援助する方にまず心を砕くはずです。

勿論、中には霊的なことへの愛が生き残り、自分の人生を支え導く力として健全な信仰を求める方もおられるでしょう。それならば今度こそ自分で選んだことであり、本人の成長に資する道でしょうから、たとえ未信者のご家族であっても、それは温かく受け入れてあげるべきかと存じます。これはあくまで本人が自然な探求やふれあいの中で選択すべきものであり、「救出」の際に「今後唯一の正しい生き方」として強要(言葉自体は強制的でなくても「信仰を持たないと人として不完全」というたぐいの圧力的言動も含む)すべきでないのは言うまでもないでしょう。援助者の姿勢は「救出」の真の動機を明らかにすると言っても過言ではないでしょう。

最終的に、元証人が自分の足で人生を切り拓いていけるよう、つまり、組織の中で抑圧されていた自分の可能性を発見し、それをのびのびと追求していける道を見つけ、自分で伴侶を選び、プロとして誇りを持てる仕事をし、自発的に社会に働きかけることも考えられるようになってこそ、本当の救出と言えるでしょうし、そうできるような援助の仕方を考えていくべきかと思います。

村田憲一


 「インターネット上での意見」

ここでこのような問題を論ずることは自ずから限界があるわけですが、関係者の方々にとっては切実な問題であるため、できるだけ多くの側面を提示しておくのがふさわしいと感じます。

以下はその後インターネットで私に寄せられたコメントのうち、一連の考察に別の次元を加えると感じたものです。お断りしておきますが、私の意図は特定の方法論を結論として示すことではなく、様々な観点を示し、当該テーマの内包する問題のより立体的な理解を目指すものです----村田憲一MXB02510@niftyserve.or.jp----。

▼私は乱暴な改宗には何であろうと反対しますが、そのJWにとって家族との距離が近くなり、大切なものになるのは良いことだと思います。証人に何か問題が起きると、親身な家族は力になろうとしますが、他の証人はその人を無視します。これはその人に本当の愛を持つのは誰かを考え直させます。

▼ここで問題は救出カウンセリングよりも福音主義的アプローチという事でしょうか。私は誰であろうと一瞬たりとも鍵をかけて閉じこめるべきとは思いません。

時には、家族の理由を設けて、その人が話を聞けるような場所に連れていかねばならない事はあります。私はこれがなされ、とても成功を収めた救出カウンセリングを見ていますし、後で家族に恨みが残ったということはありませんでした。

こちら(オーストラリア)で最近、統一協会信者に関わりましたが、彼でさえ家族に「騙された」という感情は持っていません。いつでも好きなときにその場所に出入りできたので何の問題も生じませんでした。彼の場合は統一協会に戻る道を選びました。

私は、カルト信者を話し合いに加わらせるためにありもしない理由で「騙し」たりしないよう、ご家族に勧めています。例えば、もし家族が久しぶりに集まると言うなら本当にその通りにすべきです。救出カウンセラーには普通の状況でその人に会わせ、メインである家族行事が終わった後に救出カウンセリングに入ります。もし休暇を楽しむというならカルト信者にもカウンセラーにとっても休暇の時とすべきです。カウンセリングの合間に休憩をおいて楽しい休日にするのです。実際、これは良い方向に働きます。

もし適切な方法で行われるなら、敵意を後々まで残したりはしないはずです。例えば、5年ほど前、家族がサイエントロジー信者の息子を別の口実で連れてきたことがありますが、その場所に到着すると家族はすぐ彼に謝り、他にどうやったら一人で来てもらえるのか分からなかったと打ち明けました。家族が正直で率直な態度をとったため、彼は留まって話を聞きました。彼は予定された期間が終わるのでその場所に自分で来ることを約束し、5日後、自発的にサイエントロジーを辞めました。

大きな問題の一つは人々がハッサンのアプローチを採用しながら、それに自己流の手法を混ぜることです。でも、もし彼らができうる限り正直でなければならないと気づいているなら、そのように努力するでしょう。

その人たちは違うアプローチを学ばねばならないかもしれません。まず、救出カウンセリング自体においては、けっして伝道を行ってはなりません。その人が自分で考える準備ができ、自分がいかにして組織を恐れるようプログラムされていたかを理解するまで教理的問題は触れないでおくべきです。次に、話し合いの場に着いた後はできる限り正直であるべきで、本人には選択権を与えるべきです。もしすべてを聞いた後に本人が組織に留まると決めれば、家族はそれを受け入れること。その決定は知識と情報に基づいて下されたからです。

これは選択の自由を与えることになり、これこそが何にもまして重要なのです。

その救出カウンセラーと連絡を取る方法はありますか?私に余裕があれば日本に飛んでいって、もっと正直な方法をとれないか話し合いたいのですが。彼らの中でインターネットをやっている人はいますか?あなたから彼らにこれを提案しても良いでしょう。お互いに意見を交換して、新たな、より良い方法を学ぶために。

▼高い立場の旅行する監督(訳注:組織ではこういう直訳表現を使います。巡回監督・地域監督・地帯監督のこと)で、自分はJWだけが救われるとは信じていないと私にこっそり打ち明けた人がいました。彼は私の排斥が確定的になった後も私に話しかけた事があります。排斥された後も「エホバとの個人的関係を忘れないように」と言ったのです。

これは(1)感情的健康および(2)その人の神との関係を損なうことなく、JWを救い出す鍵であると思います。JWと共通の視線、その人が元々持っていた神を喜ばせたいという願いについて話すのです。彼は神の代弁をすると偽る組織にその願いを悪用され、その支配下に置かれてしまったのです。

確かに、反ものみの塔団体が組織の鏡像になることはあり得ます。ものみの塔には反対しているのに精神は同じという…。教理と指導者が違うだけでゆがみは一緒という教会もあります。一つの破壊的環境から別の破壊的環境に移ることは進歩だとは思いません。

JWに「あなたの信じていることはすべて捨てなさい。それはすべて偽りです。あなたは偽りの神、別のイエスに仕えているのです」という代わりに、「エホバへの忠誠があるなら、その代弁者と主張する人の信頼性を調べるのは当然です」と言った方がよいでしょう。

▼こちら(米国)でも同じことが続いています。私がこれ(ディプログラミング)からやや距離を置いている理由の一つは、一部の不手際な救出カウンセリングによって悪い評判が広まっているからです。最近のCult Awareness Networkの破産が示すように、こちらでは法律はこの種のことは他の何にもましてチェックします。これは単にディプログラマー/救出カウンセラーを《推薦した》というだけで、ディプログラマーのRick RossとCANに対して大がかりな訴訟がなされた結果でした。それと、うろ覚えですが、今後米国では僧職者が不適切な助言を与えたことに対して罰せられるという最高裁の判決を誰かがアップしていたと思います(これはほとんどのJWに長老になることを思いとどまらせるでしょう)。ともあれ、これらの事態はまだ日本では起きていません。特に今日のニュースによれば、今まで施行されなかった法律の適用により、オウム真理教が国家に与える脅威のゆえに全面禁止になったとのことですし。法体系が逆転するまでにはしばらく時間がかかります。

正直言って、私としてはどちらの立場を取るのも難しいです。時としてあまりにも感情に関わる問題ですから。

▼[JWをディプログラムする伝道者たちについて]責任ある態度というのは、その人に問題に関して考慮すべき全ての側面を示すことです。JWの信条の強みと弱み、根本主義者の信条、無神論者の信条、進化論、聖書等々。ですがこの麗しい惑星に住む人の大半は何らかのマインドコントロールや疑いを知らぬ信念(科学者、JW、進化論者、根本主義者等)に凝り固まっているので、結局、億万プラス1の「真理」がそこら中に浮かんでいるというのが現状です。塩はだめ/良い、砂糖はだめ/良い、アルコールはだめ/無害、マリファナは無害/有害、腹筋運動は良い/だめ、うつぶせに寝ろ/寝るな、人工甘味料は無害/有害、アスピリンは良い/だめ、ベラベラベラ。ad nauseum(ああ、うんざり)。

「連中に汝の前から消えるよう命ぜよ」−私の語録1章1節《何であろうと》人が正確な情報に基づいた意見に達したと正直に言えるようになるためには、入手しうる限りの証拠を調べて一つの信念を形成しなければなりません。たとえ自分が何かを知っている(例えばタバコは死をもたらす)と思っていても、広い心を持ち続けていなくてはなりません(George Burnsは100歳近くまで生きたのです)。

▼ディプログラミングは私が2月に訪日した時に非常に聞きたいと思っていたテーマでした。正直言って、この種のことが日本のJWに行われているのを初めて聞いたときはショックでした。米国ではそのようなことは一瞬たりとも許さないからです…当局も法廷も世間も。

このフォーラムの西洋人の皆さんのため、日本人の文化、社会、考え方は米国とはかなり違うということを説明する必要があるでしょう。私は「どこへ行っても人は人、そういうことに対しては同じ必要や感情を持っているだろう」と思っていました。でも個人の権利や自由を強調するアメリカに比べ、日本では責任や義務の方に重きが置かれます。そして個人より家族が先に来ます。(この後、銭湯や夜の外出などを例にアメリカ人と日本人のものの感じ方の違いについて説明しているが割愛)私が会ったディプログラミング体験者はその体験をしたことに満足していたようでした。彼らは単に教会を替えただけと言うより、真のキリスト教(キリストを通しての神との関係)に入ったようでした。でもあなたは、内心ではそれを拒み、ものみの塔にもディプログラマーにも敵対的になってしまった人のことを書いていました。私の日本での交わりも、語学力同様限られたものでしたから。証人になった家族をディプログラムして欲しいとクリスチャンに頼む家族の多くが自身は神道や仏教信者である点を指摘しておかねばならないでしょう。彼らはJWが何たるかを知っているのはクリスチャンだけだと思っています。ディプログラミングを引き受けるクリスチャンは証人のみならず家族全体も改宗させようとします。そして時にこれは起こります。

ある場合、元証人と家族は単にディプログラマーへの義理から教会に通っている場合もあるでしょう。義務や責任は日本では強力な力があるので、内面の感情は抑えつけられ、秘めておかれるものです。ですが若い世代はもっと西洋的な考え方を培っています。「文化的衝突」は証人をどのように救出すべきかという問題には収まり切りません。

もちろん、ここ米国でもものみの塔を離れる人はいろんなコースをたどります。ある人は入信以前から感情的に不安定で、証人としても不幸せで、その後も不安定な状態であり続けます。このような場合にもっと穏やかな説得を用いたからといって結果は予測しがたいものがあります。

個人的には、私が勧めるアプローチは証人を愛し、長い時間をかけて徐々に情報を与えることです。

ですがアメリカ人にとって、日本人の考え方や伝統を理解するのは非常に難しいことです。私たちはいとも簡単に「もちろんそんなディプログラミングはふさわしくない」と言いますが、お見合結婚や他の異文化的側面にも恐怖を覚えているのです。

私は、主としてこのリストにいる人で日本のことをよく知らない人たちのために、なぜディプログラミングがかの地で受け入れられているか、なぜこの質問がなされたのかを理解しやすくするために上記のことを述べました。でも私たちがどこまで助けになれるかは分かりません。主があなたにお答えになりますように。


 「若者に任された意思決定」

 人は、多かれ少なかれなんらかの選択をするときに自分の今までの経験や、育ってきた環境の影響に基づいて決定を下すものでしょう。

しかし決定を下す際の条件があまりにも厳しく、その選択が狭められていたらどのように思われるでしょうか。

仮に、それらの制約を打ち破る決定を下すことになるなら多大な時間およびエネルギー消耗することは必至なので、恐らくジレンマに苦しみながらも制約に妥協した形の結論を出さざるを得ないでしょう。

そう言った意味では、エホバの証人として生活をしてきた子供たちは、一般の子供たちと比較して常に狭い選択肢の中から結論を模索しているのではないかと思います。

 幼年期には、エホバの証人としての品格をたたき込まれるため言葉遣いや行状に制約が課せられます。

学業期には、クラブ活動、学校行事、ある種のスポーツ、進路などにあらゆる制約が課せられ何を決定するにも週5回の集会を支持できるか、周囲の友人にどのように思われるか、また親や会衆の仲間に与える影響はどうかという軋轢のはざまでの選択を強いられるのです。

 その中においてもっとも重要な選択をしなければならないのは学業期を終えた若者たちのように思われます。

しかしその決定にも組織が理想とする若者像に近づけようとする圧力が加えられます。

集会や大会で行われる劇や話される講話に登場する若者は、決まって高校を卒業した段階で開拓奉仕者になりパートタイムの仕事で生活を支えながらベテル奉仕や、必要な大きな場所での伝道に携わることを夢見ている人たちで占められています。まるで自分もその後について行かなければ、失格の烙印を押されるかのごとく毎日のようにそのような情報が与えられるのです。

 わたしはそのような中で、自分のもう一つのアイデンティティーが欲しかったために進学する道を選びました。

周囲はあからさまでないまでも、わたしの決定に対して否定的な意見を持っていた人が多かったように思います。

このように考えてはわたしの邪推かもしれないのですが、組織の理想とする若者になるということは、エホバの証人以外のアイデンティティーを否定することにつながり若者の組織離れを未然に防いでいるのではないかと思えて仕方がないのです。未信者の家族が自分の子がエホバの証人として生活することに対して反対することが多いのは、狭い選択の幅の中で我が子がジレンマに苦しみながらあらゆる可能性を自ら潰さざるを得ないのをはた目にみていても忍びないと思う親心に由来するものと言ってよいでしょう。

エホバの証人がもっと受け入れてもらうようにするにはさらに寛容に個人の決定権を尊重し世間との摩擦係数を減らしていくことが重要なはずなのです。

 ただ先日エホバの証人だったころの友人と話す機会があり、彼が言うには、現在はその選択の余地も広がり組織も良い方向に変化しつつあるとのことでした。

なるほど、それは現在成長している子供たちにとっては良い傾向かもしれない。

しかし、かつて組織の無言の強制力により理想の若者を演じ続けざるを得なかった人にどのように道義的な責任を取っていくのでしょうか。

またそのような歴史を許してしまった琴柱隊組織はどのように釈明をしていくのでしょうか。

個人の選択権を抑制してしまうことは、その人自体を信用していないことになり個人を尊重していない組織は組織としての完成度が問われることにはならないでしょうか。

わたしの理想は、個人が自分の決定によって組織の中でいかされ個人の満足度が高まることによって組織としての存在をよりいっそう強めていけるという良い循環によって発展しているのがより完成度が高い組織であると思うのです。

しかし勝手渡しが所属してきた組織は意思決定に関してあまりにも一方通行過ぎたと言わざるを得ないでしょう。

 わたしがこの文章を書いている今も、つらい選択を迫られている若者は多いはずです。私たちの主張が組織に届く可能性は皆無に等しいがかつてわたしもつらい選択を強いられてきた人間として、そのような若者と少しでも話し合う機会があればと思っています。


 「子供達----証人的な価値観と一般社会の価値観の狭間で」

 私の親は両親双方証人でした。もちろん彼等は証人の価値観で私を育てそして失敗したのですが、自分の両親が証人だったという事は自分にとって極めて不幸な事態だと現在感じております。もちろん両親はそれで幸福だったのかもしれませんし彼等にとって必要な某かの要素そして魅力があったのかもしれません。しかし元々宗教にすら興味を抱くことのない自分にとってそれは迷惑千万なさらに言うなら苦痛でしかありえない事柄でした。しかし彼等は私が証人としての信仰を抱きその生活を受け入れる事柄が最高の幸せと考えていました。そして彼等自身が見つけ評価し結論を下したいわゆる『真理』を私が受け入れるよう全ての環境を整え他の選択肢を排除したのでした。これは両親の持つ価値観の相対性の無さ、自ら思考し判断するよりもある絶対的真理に共鳴しその場所に自らの価値観を置いてしまう主体性の無さが原因なのでしょう。

 ある人々はこれらが「マインドコントロール」や「洗脳」などによってなされる思考の体系の破壊と再構築によってなされると唱えますが、私自身は同じ様な傾向を持つ人々を一般社会のなかでも見い出せる、と感じます。逆に日本社会の中で物事の価値判断を主体的にまた相対化しながら判断する人はそれほど多いと思いません。むしろ大多数が無条件に多数が持つ価値観に埋没し主体性を殺してしまうのではないかと考えます。そのなかで私の両親のように何かのきっかけでそれら大多数の持つ価値観に一時的に疑問を持ち自分の中の価値判断を働かせようとした者が最終的に証人という絶対的価値観の中に埋没するのは皮肉な気がいたします。もしかしたらそれは彼等の物事の価値判断の相対化、主体性の表明の限界だったのかも知れません。

 しかし子供としてはその価値観を必要とする人生の経験、歴史、思考の過程が無い訳でただその価値観だけが犯すべからず絶対のものとして提示される、何の相対的な比較も主体的判断も無いままに。これは子供達にとって不幸なことです。しかもそれを受け入れないことは倫理的な規定違反であり証人という共同体からもしくは親から自分を受け入れてもらえない結果を招く。その価値観を受け入れたならば受け入れたで社会の軋轢に激しくさらされる。子供達はこのジレンマに直面することになるのです。それが学校での種々の行事また授業の参加拒否また彼等の宣伝活動、また会合へのなかば強制的な出席などに時間の大部分を割かれてしまう事など絶えず子供達は右往左往しなければなりません。

 それが実生活の領域にまで及ぶと当人の人生そのものの根本を破壊してしまいます。証人の経済や教育、職業に関する価値観はおよそ実際的とは思えずむしろ子供達の持つ能力の芽を摘むものばかりです。彼等の夢や希望も親の持つ絶対的価値観の前では無価値であり無意味なものです(もしかしたら親が反対者で子供が証人の場合もそうなのかもしれないが)。多くの子供達がその価値観のために自分の持つ可能性を放棄せざるを得ないのは悲しいことです。もし彼等が人生なかばで証人という絶対的価値観を放棄するとき彼等は実質的に何もない状態になってしまうのです。

 また日本社会が持つ異質なものへのアレルギーに直面するとき身を切られるような思いをするものです。子供達は幼い頃からそのようなものがあることを身を持って感じているので身を守るため自らの身分を積極的に明かそうとはしません。むしろ一般社会になじむため親の価値と別の顔を一般向けに用意します。これを子供達の持つ二重性と証人の側から非難される訳ですが。しかしそれは彼等にとって生きる知恵なのです。そのような一般社会の態度は彼等が証人を辞めた後も続くようです。証人という価値観を捨てた後も中にはかつて「証人の子」であったと言う事から差別的な事柄を言う人さえいるのです。彼等は決して受け入れられる存在ではないと。子供達こそ最大の犠牲者と言い、家族が証人になった人を「助けている」と主張する人の中にです。しかしこの人の言うことは的を得ています。つまり一般社会は証人の子供を暖かく見守ることよりもむしろ異質で奇妙なものとしてレッテルを貼る事のほうがごく普通なのかもしれません。それは彼等のことを援助したいもしくは信者を救出したいという人の中にももしかするとあるものなのかもしれません。このような環境下で自分のアイデンティティーを失った後も身の置き所の無い感覚を持つものです。つまり喪失し、けれど受け入れられもせずという状態です。

 このように子供達がその価値観を捨てた後、かつての友人など全て失い、自らの能力を生かすチャンスも無く、また一般社会にも受け入れられもせず、であるならば彼等が証人を辞めることはそれだけで負担であり不幸なことと感じます。悲しいかな現実は極めてそれに近い状況と考えます。


 「研究生が研究を辞める方法について」

 先回は現証人が証人を辞め実際に脱会することの良い点悪い点について考えましたが今回は研究生で証人を辞めようと思う方がどのように辞めるかについて考えます。

 実際その事はそれほど難しいことではありません。口頭もしくは文書等で断われば彼等は最初慰留するものの最終的に受け入れるのが普通であるからです。実際研究された方の半数以上はそのような形で研究の終わりを迎えます。

 しかし断わりにくい要素もあることでしょう、その点以下に挙げます。

1 人間的な関係

2 断わるだけの勇気が無い

3 相手の言葉に勝てそうもない

 1番の人間的関係、わざわざいつも来ていただいたとの恐縮の気持ち、教えてくれたことへの感謝。また人間的に好感を持ち関係にひびを入れたり相手に不快に思われることへの恐れ。

 中には家族が証人である場合もある事でしょう。そのような場合家族関係にひびを入れることへの恐れがあるかもしれません。

 やはりこのような場合人間関係にひびを入れずに辞めることが最善であるかもしれません。例えば「少し離れた地点で皆さんとお付き合いさせていただきたい」というようなことを言えるかも知れません。もし直接言いにくいならば手紙を渡すこともできるでしょう。もし3番のような人であるならば相手のことを批判的に言う必要は無いと思います。そうすれば人間関係にひびを入れず論争などにもならずに済みます。

 何故と聞かれたときも「少し自分を落ち着かせたい」「今まで教えられた事柄を整理して考えたいので時間を下さい」など言うと証人側も折れざるを得ません。多少慰留されても意思を通せば彼等とて無理強いはしないでしょう。

 2番のような方ももし本当に辞めたければちょっと言って見るのは如何でしょうか。以外と簡単に折れるかもしれません。

 その後も時々訪問してきたりまた町であったりする事があるかもしれませんが研究の再開を勧められても「今はその気が無いので」と言うとそれ以上勧めないでしょう。こうして以前の親しい人間関係を維持したままこのように辞められるかもしれません。証人の場合浸礼を受けた後に辞めるならば対立的な人間関係になりますが、研究生の場合良い人間関係のまま辞められますので、もし辞めたいと思われるなら研究生のときが一番良いでしょう。