96/6/20「脱会の必要性に関する考察」

 

 さてエホバの証人に疑問を持ち、彼らのやり方と自分の考えが違うことに気づいた多くの証人は一つの選択の前で悩むことになります。それは組織に対して自分の立場を明らかにし「脱会(証人側の言葉では"断絶")」すべきかと言う点です。この点具体的に考察してみましょう。

 

 まず脱会の有利な点は自らの立場が誰の目にも明らかであり、特に「一般社会」や証人を快く思っていない家族に対しても胸をはって「辞めた」といえる点にあります。集会に行っていない不活発な証人とされることによる後ろめたい感情もなくなります。また会衆からの能動的な圧力は一切ストップすることでしょう。

 また彼らを追認していないことをはっきり表せます。また長期的視点で見ますと自らが脱会することにより後に脱会する人がそれを実行しやすくなる効果がありますし、そうなれば脱会そのものが持つ恐怖や不安が徐々に薄らいでいく結果となるかもしれません。それは組織の全体主義的な手法にひびを入れることにもなるでしょう。

 

 しかし上記に挙げた事柄はあくまで理想論に過ぎません。実際の脱会は多くの人々に強い心理的ストレスを生みます。証人の内部で生きてきた人間であればあるほどその中に自らの場所を持っているものです。それがその場所の人々から徹底的に無視され孤立してしまう場合、耐え難い苦痛となります。例えば手紙、電話、会話はおろか町であっても挨拶さえされない状況、これは誰であろうと少なからず動揺することでしょう。また信者の家族がいる場合さらに問題は難しくなります。

 またまだ証人に対する信頼が残っているのに無理やり脱会させられたケースなどを見ますと、それは己の存在を引き裂く行為であること、罪悪感や敗北感、良心のとがめ、等により当人に必要以上のストレスを生むことがあるようです。

 

 ある人々は結局脱会と言うものは証人のシステム内の事柄であり、自分はそのシステムに迎合していない以上そのシステム内の行為をするかしないかは自らが選択できる、との考えを持っています。この考えでいくと脱会すら不要ということになります。

 脱会しないことには幾つかの利点もあります。不必要な摩擦、ストレスの低減がその最初に挙げられるでしょう。現役の信者ともごく普通に接触できますし、もし家族が信者であれば対立を最小限にできます(それでもこれは大変なことなのですが)。また現役の信者で同じような立場の人が気楽に自分の考えを述べるため近付けるというメリットもあります。そうすれば仲間が増えそれから皆で脱会するかどうか考えても遅くないでしょう。こうすれば孤立という問題も若干改善されます。

 また証人の中での生活習慣を一般の生活習慣に修正するには多くの調整が必要とされるゆえ不安を抱くこともあるでしょう。その時に脱会してしまえば非常に不安定な状態に身を置くことになります。ある人々は証人の仕事(ベテル奉仕者、旅行する監督、特別開拓者など)もしくは証人が経営する仕事に従事し、もし脱会すれば次の日から生活の手段すらないという状態にあることでしょう。やはり生活手段の調整、安定を図ってから後に脱会すべきかどうか再検討するほうがこの場合賢明かもしれません。

 

 救出関係者や証人に反対する家族の方はこれらの点を考慮することも必要と思われます。結局のところ、脱会は組織の矛盾の中で末端信者を軋轢のただ中に立たせる行為であり、これを安易に推奨すべきではないでしょう。もし脱会するよう圧力をかける場合細心の注意と不測の事態を予測しそれに対応することができなければなりません。他の選択肢も視野に入れ、当人を全人として扱う長期的な視点も求められます。これは単に間違ったことをやめさせるだけの行為ではないからです。


 少数者の尊重に対するエホバの証人の関わり

 前回の記事は、エホバの証人の持つ問題点ばかりを指摘してしまった感があるが、今回は、彼らが問題点ばかりを持っているわけではないという点について少し触れておきたい。

 彼らの行った功績の一つは、少数派の持つ権利を主張してきたことである(例えば、アメリカにおいては、国旗掲揚を拒否したために放校処分を受けた生徒の親が合衆国を相手に裁判を起こし始めは退けられながらも、細心により勝訴したバーネット事件など)。幼少の頃からある種の学校行事へ参加できないことによリ、自分の良心(この時期は、親の良心といえる)と周囲とを同調させようとする圧力の狭間での葛藤を余儀なくされることが、我々が小学校に入学して初めてぶつかる少数派としてのつらい現実である。そのつらい現実が如実に現れるのが、中高生の男子生徒に課せられる、武道の授業との関わりである。

私の経験で恐縮だが、私は高校は、二年生になると、体育祭の団体競技で柔道を行う必要があった。幸いにして、その競技の責任者である体育教師は、私が一年のころの体育担当教師でもあり、私の信教上の理由によって柔道ができないということを知っているという状況であった。しかしながら二年生男子全員が校庭に集合した中で、私だけが柔道着を着ていないことを指摘し、学年全員の見ている前に呼びだし、その日の練習の間中ずっと正座させられさらし者になったことがある。その時の、恥ずかしさと怒りと情けなさは、いくら口で説明しようにも説明しきれない。

二世の若者ならだれでもこの種の経験はあるだろう。

今、私の手元に95年10月8日号の『目覚めよ』がある。その号の10ページには、神戸において同じような理由で、剣道の授業を拒否したがゆえに、退学処分を受けた一人の若いエホバの証人が、大阪高等裁判所で勝訴した時の状況が載せられている。

私の場合、ここまで極端な経験をしないまでも、彼が法的な手段をとらざるを得なかった気持ちは、容易に察することができる。武道の授業まで拒否しなければいけないのは、聖書的に正しいかどうかは別として、私は、生徒の側が、教育を受けたいという正当な動機があるのならば、例えどんなイデオロギーを持っていようとも、周囲と同調できないという理由だけで退学処分にするのは問題だと思う。

彼は、学校の中で良い成績を取っていた(P12 L7)ということから、教育を受けたいという強い動機を持っていたといえる。そのような生徒を退学させてしまった学校とその学校を擁護してしまった神戸地裁(P12 L14)の行動から、まだまだ少数派に対する尊重、ひいては、個人の尊厳といったものが、特にこの国では認められていないという現実にため息が出る。しかも、この学校は、大阪高裁の出した判決を不服とし、最高裁に上告しているというからため息はますます深まるばかりである(この上告は「社会観念上著しく妥当を欠き、裁量権の範囲を超える違法なもの」と言う理由で最高裁により棄却された)。

このような状況が当たり前のようには美こっってしまえば、これは、いじめなどの問題をなくそうとしている学校側、そして社会自らいじめを助長してしまうことになる。なぜなら、いじめの対象は、他の子供たちと同調することができない少数派に向けられることが多いからである。

 よって、少数派が少数派であることを恐れずに社会の中で生きていくため、また良心と協調性のジレンマに悩む若いエホバの証人に余分な負担をかけないためにも、協会側のフォローがこれからも重要になってくるだろう。

 

ただ最後に苦言を一言、エホバの証人は、少数派でありながらも、法的な手段等によって守ってもらってきたことを肝に銘じておく必要がある。なぜなら、この『目ざめよ』の記事での結論は、異なった価値観を認めて、共存共栄をはかるといったものであるが、そのように結論付けるなら今まで組織の中においても、異なる価値観を認め、更なる組織内の少数派を尊重してきたであろうか。私の印象としては、見えないプレッシャーをかけて見るテレビ番組、聴く音楽、さらには子供たちの進路にまで制限を加え、まさに彼らの否定する管理志向の強制的な考え(P14 L14)を実践しているような気がする。

『目ざめよ』のこの記事が、より一層説得力を持たせるようにするためにも、是非これらの点で改善を急いで欲しい、残念ながら未だに信者の管理の手をゆるめる兆しは見られない。


 「忠節の要求と権力の掌握と」

 1996年3月15日号の「ものみの塔」誌には「忠節の試みに立ち向かう」と題して神に対しての忠節さに関しての様々な要求が書かれています。それは図らずも全体主義的な権力の強制と民主主義の否定という破壊的カルトの特色を浮き彫りにする結果となっています、少し覗いてみましょう。

 

「言うまでもなく、わたしたちにはエホバの組織に忠節を保つ義務があります。・・・・仮に、ものみの塔協会の出版物に載せられた事柄がその時点でよく理解できないあるいは同意できないとしたらどうでしょうか。わたしたちはどうするでしょうか」(p16)

 

 普通、このような問いに疑問の表明や違う意見があることを発言することが求められるでしょう。しかし同誌はこう答えます。

 

「もし組織と兄弟たちに対する忠節を保ってい(る)・・・なら、エホバがそれらの事柄を明快に説明してくださるまで待・・・(つ)はずです。・・・・ですから、忠節ということには、より明確な理解が忠実な思慮深い奴隷によて公表されるまで辛抱強く待つことも含まれます」(p17)

 

 つまり組織に対する忠節の義務ゆえどんなに自分が間違っていると感じても組織が変更するまで黙って従わなければならないわけです。読者の皆さんは多くの全体主義的な共産国家の「路線変更」に国民が振り回される事態、それを証人内部では推奨されているように見えることでしょう。果たして彼らにはその忠節の義務を要求することの出来るような人々なのでしょうか。

 

「確かに、エホバ神が地上におけるご自分の業を指導させるために用いておられる人たちは完全な人間ではありません」

 

 神が用いておられるかどうかはあくまで自己申告(しかも根拠の薄い)でありますから論外として、確かに彼らの今までの指導ぶりおよび多くの過ちとその結果はこのような言い訳を必要とするものと思われます。それでも彼らはこう主張します。

 

「しかし神の言葉はわたしたちに、どうするようにと述べているでしょうか。神の組織を離れるようにと述べていますか。いいえ、そうではありません。わたしたちは、兄弟の愛情を抱いているのであれば組織に忠実を尽くすはずです・・・・」

 

 では仮に個人が組織に対する忠節を守り、組織にとどまり、またとどまり続けたい意思を表明したにもかかわらず、十分な根拠なしに追放する決定を長老たちが下した場合はどうでしょうか。

 

「排斥があった場合、忠節を保つためには、取られた処置に十分な根拠があったかどうかについてとやかく言うことなく、長老たちを支持しなければなりません」(p19)

 

 「十分な根拠があったかどうか」についての発言は「とやかく言うこと」で不忠節な態度と見なされます。長老たちの一存で末端信者をどうにでも扱えるわけです。仮に排斥の十分な根拠が無い場合、一体信者はどこに行けばよいのでしょうか。この証人の持つ司法システムでの解決が難しいのは明白です。現に多くの人々が「十分な根拠」なしに排斥されることが報告されています。それで内部で解決不能のことを外部で解決できますか。このことによって生じる精神的苦痛などに関して一般の裁判で公正に審理してもらえないでしょうか。ここでは個人間のケースですが証人内の問題を法定に持ち出された例を挙げこう述べます。

 

「その二人のしたこと(問題が法定に持ち出されたこと)は、全くの恥さらしでした。・・・・エホバ神に忠節を尽くす人は、エホバとその組織の誉れを傷つけてしまうよりは自分個人が損失を被るようと考えます」(p15)

 

 彼らは自分の言っている意味が分かっているのでしょうか。自分たちの組織の権益を守るためにあれほど訴訟を用いてきたというのに、自らの「誉れ」のためには信者個人にそれを用いてはならないとしているとは。彼らは民主主義の自由を自らの権益を守るために利用し、末端信者にはそれを否定してしまう、そう非難されても仕方のないことでしょう。。彼らには欠陥だらけの司法システム、問題を「十分な根拠」も必要とせずに扱うものしか持ち合わせていないというのにです。

 これらの文章から読み取れることは、彼らの結局のところの目的は組織の維持と増強であり、信者個人に益をもたらすことではないと言う点です。自らのすることに一切口出し無用とする全体主義と他の助けさえ取り上げ孤立させる手法。多くの破壊的カルトが行う方法と基本的に同じものです。彼らはこのような民主主義を否定するやり方を改善できるのでしょうか。そのような外部の提言に耳を傾けますか。

 

「わたしたちは、もしエホバ神に忠節を尽くすのであれば、エホバの敵であるどんな者とも友達にならないようにするでしょう。・・・・・わたしたちは故意に罪を犯すどんな人とも親しく交わりたいと思いません。そのような人とは何一つ共通点が無いからです」

「エホバの目に見える組織に忠節を尽くすとは背教者とは何の関係も持たないということをも意味します。忠節なクリスチャンは、そのような人たちが何を言おうとしているのか知りたいとは思わないでしょう」

 

 ここで不思議なパラドックスに陥ります。自ら「完全でない」と言うことにより改善の必要を暗に認めながら、改善の提言を内部からも外部からも排除しているのです。内部で組織に対してその問題点を指摘し改善を促す者は「辛抱強く待つ」ことの出来なかった、組織に不忠節な「故意に罪を犯す」者、背教者としてしまい、実情を知るものの改善の提言を受け入れません。むしろ外部に無理やり追い出してしまうのです。その後、末端信者に箝口令さえしく始末です。外部に対しては「サタンの世」ですので耳を傾ける必要がない。つまり彼らはどんなに間違っていようと正しく、正しい意見が内部や外部にあろうと(その不忠節さゆえ)聞く必要性など無いのです。

 彼らのその全体主義的な体質を改善することはその自己膠着ゆえ難しいことと思われます。このもとで末端信者の被る問題に誰が助けをさしのべられるでしょうか・・・・・。