96/3/1「創刊の辞」

 フィリップスの未来と言う構想ができて、あっと言う間に数カ月が立ってしまいました。見切り発進に近い形のスタートな為、なかなか「あんどれいあ」の創刊に着手できなかったという言い訳も、そろそろ通じなくなってしまった、協力してくれた皆さまとの絆を深めることを念頭におきつつここに、「あんどれいあ」を創刊することとなりました。

 映画「パーフェクトワールド」のなかに登場する孤独な少年フィリップは、「この車は、未来に向かっている。」という脱獄囚の言葉を頼りに、おぼろげながらも、自分の未来を切り開き自分の意志で行動を起こすようになっていく、そんな健気さに、私たちは、自分たちの会にこの名を付けたのです。

日本中にいる、未だ自分の中にわだかまりを持っているフィリップ達、私もその一人としてともに強く生きていくことを願いながら、この記事を書いています。

 人というものは不思議なもので組織の中で、そのイデオロギーに没頭しているならば、その人は自分の必要性と意義をその中に見いだし、一見充実した生活をおくっているかのような錯覚を覚えてしまうものです。一般の企業においても同様のことが言えるでしょう。俗に猛烈社員と言われている人たちは、わき目も振らず、自分の仕事に没頭し、そうすることによって、私生活で嫌なことを忘れようとする、しかも上司の受けが良くなるし、会社のアンチテーゼである組合の活動も寄せ付けようとせず、派閥でも一目置かれるようになる。

そんな生き方はその人の生活を経済的には潤し、人間関係も、ビジネスライクにはうまくいっているように見えるものです。

しかし退職という人生の転機を迎えたときに、果たしてその人のこれからの生活に対し、真摯に対応してくれる人が、一体どれくらいいるでしょうか。

今まで仕事に没頭することによって、私生活でのもめ事や、わだかまりを避けてきた人間が、仕事を離れればおのずと、今まで避けてきた事柄と真正面からむかいあわねばならない状況が増えてくるわけです。

しかも会社の同僚に相談しようとも日ごろの交流が無かったり、当事者のプライドが高かったりするなら、なかなか自分の気持ちをさらけ出すこともできない。

 そんな人たちは、私たちにどこか似ているといえないでしょうか。

組織の提案や、長老の助言や叱責と言ったものを彼らの言うところの従順という言葉の魔力に恐れを覚え、無言の圧力のうちにそれに従わざるを得ないという状況に身を置きつつも、自分の中でその問題点や、自分の素直な感情と向かい合うことを逃れ、ただそれを鵜呑みにしてきた人がいったん組織を離れることになるならば、組織は一体その人にどんなことをするでしょうか。

道端や買い物で出会ったとしても、かつての仲間の近況を聞こうとするどころか、目をそらし、話し掛けても知らない人の振りをするか、よそよそしく逃げて行くことが分かるでしょう。

残念なことに彼らのいうリレーションシップとは、会衆の中での特権や奉仕の務めを果たしていることが条件として揃わなければ成立しない言葉であるといわざるを得ません。

しかし、少なくとも私たちは、個人のスタンスをより重要視するがゆえにスピンアウトしてきたわけですが。

そのときに、得た自由の代償としてぬぐいきれない数々の不安との戦いを強いられているのが現状です。そのときに、一番重要な武器になるのが勇気だと思うのです。

「あんどれいあ」と言う言葉には、ギリシャ語で勇気と言う意味があります。この会誌には、フィリップ達が勇気をもって未来を切り開いていくという願いを込めて命名したものです。

ですから、フィリップ達の応援歌であるこの「あんどれいあ」をみんなのパイプラインにしてより一層絆を深めていこうではありませんか。


 「確かにあなたは貴重・・・・ですか?」

 今ここに1995年12月15日号の「ものみの塔」誌があります。24ページ「確かに私はエホバにとって貴重です」を見るとエホバの証人がいかに自己抑圧をしているのかというケースが載せられています。少し引用して見ましょう。

 

*「肩から大きな荷物が(今まであったが)取り除かれたような気持ち」注 括弧内下線共筆者

                                    

*「自分は無価値で愛されないものと・・・・長年の間(その)ような感情を抱いていました。私は自分がエホバの愛に値するとは一度も考えたことがなかった・・・・・。私を動かしていたのは、罪悪感屈辱感でした。ですから宣教にどれほど多くの時間を費やそうと、どれだけ多くの人を援助しようとまだまだだと思っていました」

 

*「私は『ものみの塔』誌を55年間読んできましたが・・・・この記事は以前のどの記事よりも優れており、自分たちは無価値で愛されない者、エホバの愛を獲得するに足るほどのことは行えない者、と言う心配不安恐れを鎮めてくれました」

 

*「自尊心の欠如と闘い、時には自己嫌悪とも闘う私たちのような者にとっては、真理にとどまる力を得るのがとても難しい場合があります」

 

*「今でも、過去からの凝り固まった感情を引きずっており、不幸な出来事に遭遇すると、その感情に打ちのめされてしまいます。会衆の長老として奉仕するのをやめたとき、私はいつものように、神と家族と会衆の兄弟たちに対して申し訳なく感じました」

 

*「私は激しい自己嫌悪と、自分は無価値だという深刻な感情と闘っています」

 

*「私は30年近く(ものみの塔)雑誌を読み続けている忠実な読者ですが、これほど(の記事を)・・・・読んだことがありません。・・・・・長年の間、私は罪悪感からエホバに仕えていました」

 

*「私は29年間真理のうちにい(て)・・・・豊かな愛に包まれ、よく世話をしてくれる家族の中で育ちましたが、自分は生きている価値があると感じたことがなく、ましてエホバに奉仕する価値のある人間だなどと考えたこともありません

 

 これは同誌の同年4月1日号に対する読者の感謝で構成される自画自賛の記事でいかに感謝されたかを示すものなのですが、逆に彼らがいかに自己抑圧を自らに施しているかがよく分かる内容になっています。しかしここでちょっと考えてみると無価値に扱ってきた、もしくはそう感じさせたものが存在することが分かります。

 問題の4月1日号を見ますとそれがサタンであると簡単に考えていますが、その因果関係に関しては一切触れていません。いわゆる「サタンの世」の人々はさらにこの自己抑圧に苦しむはずですが、彼らのケースの方が一般的基準と比べて深刻なようです。ですから常識的に考えれば他の原因の方が有力であると見るのが普通でしょう。

 例えば同年11月1日号に世代に関する変更、つまり1914年の世代は過ぎ去らずにどこまでもハルマゲドンが延期されたことを彼らは示しました。その後それら信者を締めつけるためなのか12月1日号にはこんな一文が載っていました。

 

「・・・・体は忍耐の限界に達しており、疲労困ぱいし、オーバーヒートして脱水状態になっているとしても、ゴールまであとわずかなのですから、走るのをやめるべきときではありません」

 

 自分たちでゴールを見えないはるかかなたに置きながら全力疾走を要求する組織、彼らが口で「あなた方は無価値ではない」と言ったとしても、これでオーバーヒートして走れなくなった人間は容赦なく無価値な人間として切り捨てるのではないでしょうか。そしてそのような人間は本当に社会的にも無価値になってしまうかもしれません。全力疾走していればしているほど燃え尽き症候群のように・・・・、組織に身も心も捧げたのですから・・・・・。

 本当に信者を無価値にしているのは誰でしょうか。サタンでしょうか、それとも信者の上に君臨し"霊的指導"を行う人々でしょうか。

 

 彼らが信者を(特に若者たちを)無価値な者として切り捨てるなら私たちはそのような人たちを価値あるものとして歩めるよう助けるでしょう。フィリップスの未来(以下フィリップ)はそのために発足したグループです。もしかしたらエホバの証人は私たちをサタンの影響を受けたグループと言うかもしれません。しかし4月1日号にあるように「人々に、自分は愛されておらず、無価値な者であると信じ込ませ・・・・・虚栄心や誇りの気持ちに訴えかけて人々をそそのかし・・・・・攻撃を受けやすい人々の自尊心をくじ(く)」サタンのような態度を示すのは一体誰でしょうか。もちろん統治体や長老がサタンの影響を受けているなどというつもりはありません。しかし彼らの定義するサタンの行動を行っているのは彼ら自身のように感じられます。信者が自己抑圧をせざるを得ない状況に追い詰めたのは彼ら自身であってサタンではありません(そうでなければ統治体や長老たちがサタンの影響を受けていることになります)。サタンというのはうまい言い逃れで信者に対する精神的負担、圧力に対する責任を回避しているようにしか見えません。この点フィリップでは彼らの責任を明確にすることも致します。その責任にサタンは関係ありません。

 フィリップは皆さんを価値ある一個の人間として歓迎いたします。信者であろうと元信者であろうと喜んで力になります。