うめぼし


98/11/05

●●●間違いだらけの「黒澤明」本 「黒澤伝説その夢と遺書」(緒方邦彦著・本の森出版センター)

 驚いた! なんともあきれた火事場泥棒のような本があったものだ! それは緒方邦彦という人が書いた「黒澤伝説その夢と遺書」というものだ。なにがひどいって、事実誤認が多すぎる。間違いだらけなのである。

 黒澤監督が亡くなられてから、相次いで追悼本や研究本が発刊されたり再販(増刷)されているが、まちがいなくこの本は監督の生前には出版されなかっただろう。書店が軒並み黒澤監督の追悼コーナーをつくっている今だからこそ、どさくさに紛れて売ることができるのだ。だから、まさに火事場泥棒以外の何者でもない。

 僕は、黒澤明監督に関する出版物をほとんど持っている。コレクターと言ってもいいほどだ。だから追悼コーナーに並べられていたこの本を手に取った時に、すごい違和感を感じた。新書版サイズで安っぽい。値段も1000円でお手頃と言えば通りがいいが、安すぎるのだ。中をペラペラとめくってみると、まずそれぞれの項目のタイトルが気になった。

「なぜ 〜 したのだろうか?」「〜 追い込んだ?」「〜 どう捉えるべきなのか?」 など、とにかく語尾が「?」ばっかりで、まるで流行りの謎本みたいな感じがする。実際良くよんでみると謎本のような構成になっている。天下の黒澤監督も馬鹿にされたもんだと思ったが、なんとなく気になったので購入した。ってゆーか、僕はコレクターだし。

 そして家に帰り読み出したら、あることに気づいた。著者の解釈がなんか変なのだ。まあ確かに感覚や感性というのは人それぞれ違うものだから、あまり突っ込んでも無意味なのは分かる。文頭に著者も以下のように書いている。

「・・・ 私としては、いつか自分なりの黒澤の世界というものを発表したいと思っていた。(中略)本書は、黒澤明と、これまでの黒澤作品に関する私的なオマージュである。自分が見続けてきた黒澤の作品の世界に対する私なりの分析、評論である。」

 つまり何をどう評論しようと、あくまでも著者の私的なものだと宣言されているので、「なるほどそういう考え方もあるのか」と納得するしかないだろう。 ・・・ しかし! しかしだ!

 事実と違うことを書くな! 言葉が足りなさすぎで誤解を招くような書き方をするな! と、声を大にして言いたい! なにしろ僕も商品として売られている本に、赤ペンで添削しながら読んだのなんて生まれて初めての経験だ。だいたいなんで消費者が金をだして、わざわざ添削しなければならないんだ! と思いながらも許せないので、以下にそれらをまとめて解釈つきの正誤表にしてみた。

項目

五年近くの”謎の沈黙”は、いったい何を語っていたのか?

× 前作(まあだだよ)を発表して以来、次回作に関しての情報がこんなに長期にわたって漏れ聞こえてこなかったのは、黒澤にしてはまったく異例のことだった。(中略)あのときの沈黙以来、次回作が不明であると同時に、黒澤に関する個人的な情報が皆無に等しかったのである。
◎ 不勉強であるとしか言いようがない。実際は当時のキネマ旬報に、黒澤久雄氏によって情報が何度か伝えられている。山本周五郎原作「つゆのひぬまに」と、もう一本娯楽時代劇が控えているので期待してほしいなど、逐一報告されていた。平成7年発行の「映画を愛した二人・黒澤明 三船敏郎」にも次回作について書かれている。


項目

羅生門

× 〜 やがて、多襄丸は捕らえられて裁判となるが、多襄丸、女、巫女の口を借りた侍の霊、そしてその事件のあらましを「羅生門」のそばで雨宿りしていて知った旅法師たち全ての陳述が、ことごとく食い違ってしまう。
◎ この文章だと、まるで旅法師が雨宿りしている羅生門のそばで陳述が行われているかのように読めてしまう。だいたい核となる第四の証言者は杣売りである。


項目

白痴

× 完成したフィルムは実に四時間以上で、黒澤は上下二巻での上映を希望していたらしい。しかし、会社側の強い要望で、半分以下にカットせざるを得なくなり、「半分にカットするぐらいなら、このフィルムを切ってしまえ」と激怒したという、例のいわく付きの作品だ。
項目

こんな「我がまま」も、黒澤だったから許されたのか?

× 「(オレのこの作品の)上映時間を短くするくらいなら、このフィルムを縦に裂いた方がまだましだ
◎ 伝説となっているお馴染みのセリフだが、一つの本の中で、なぜ同じセリフがこうも違うのか? だいたいこんなセリフ回しだとニュアンスが伝わらない。どちらの場合もフィルムをめちゃめちゃにしろ! という自暴自棄な意味合いになってしまう。もっとウィットにとんでいるのだ。「どうしても切るというのならフィルムを縦に切れ!」事実、師山本監督の手紙にはそう書かれていたらしい。


項目

生きる

× この作品は、五ヶ月後の渡辺のお通夜のシーンという設定から、彼のこれまでの密やかな人生というものが語り始められる・・・。
◎ この文章だと、まるでこの映画の導入が死んだ渡辺のお通夜から始まり、回想シーンで全てが語られるようだ。実際は物語の前半で、渡辺が自分の命が残りわずかだと知り苦悩する。そこでポンと話が5ヶ月後に飛び、お通夜のシーンになり後半はその後の渡辺の行動が回想で語られることになる。
× 〜象徴的なのが「完成されることのなかった公園」だろう。死の恐怖に脅かされながら自分の残りの人生を賭けた渡辺の、完成されることのなかった公園 ・・・ ここには死のイメージと同時に、再生する希望を観る者に抱かせてくれる。
◎ おいおい待ってくれよ! 完成されることのなかった公園ってなんのことだ。公園は完成してるだろうが! 志村喬演じる渡辺が雪の降る公園のブランコで「♪命みじかし 恋せよ乙女」と歌った場所はどこだったと言うのか! 心血注いでつくりあげた、彼の公園でしょう! こんな重要なことをふつう間違えるかね。


項目

七人の侍

× この作品のコピーが、国籍を越えてアメリカを始めとして海外で次々と作られたという事実は、このテーマがいかにグローバルな魅力にあふれたかの証明でもある。
◎ 次々と作られたって「荒野の7人」以外に何があるの? 教えて? って思っても、彼は言及してくれていない。まさか「続・荒野の7人」や「新・荒野の7人」も入れてるのかな? しかも「黄金の7人」や「地獄の7人」「宇宙の7人」までも。だったらコピーと言うのでは無く亜流と書いて欲しかった。


項目

椿三十郎

× 黒澤はこの映画で、椿の花が咲き乱れるシーンだけを赤色に発色させるために、黒く染めた椿の造花(私は初めて知ったことだが、白黒の画面では、黒に染めれば赤に近い色が出るのだそうだ)を前面にあしらったりと、近づいてくるカラー時代への対応をチラリと見せている。
◎ この文章だと、まるで白黒のこの映画の中で椿の花だけ赤く色をつけたように書かれている。実際は全編モノクロであり、赤い色などどこにも出てこない。確かに黒澤監督は赤い椿と白い椿の差を表現するために、赤い椿の花を赤くフィルムに着色する研究はしたが実現しなかった。そこで赤い椿を黒く染めたのだが、これは赤に近い色をだすためではない。モノクロームの画面では実際に赤い色を撮影しても赤い雰囲気が出ないためだ。よって黒く染めることにより赤い色のニュアンスを強調しようとしたのだ。


項目

天国と地獄

× 映画は後半になると、権藤家での室内劇的な色合いが中心となっていく。誘拐犯と警察との身代金のやりとりをめぐる、水面下の争いだ。
 言ってることが全く逆である。権藤家での室内劇は、物語の前半である。前半は退屈なほど延々と室内で物語が進行して、それが一転して新幹線のシーンになり、後半の躍動感を増幅させている。
× この作品でも「椿三十郎」のワンシーン同様、煙突から吹き出す煙のシーンだけを、紫色に発色させ効果を高めている。
◎ 「椿三十郎」の項でも説明したが、「椿三十郎」には赤く着色したシーンなどない。つまり著者の言葉が足りないのではなく、完全に間違えているのがこれで分かる。


項目

赤ひげ

× 「赤ひげ」の席の後ろにある薬棚には、百個近くの引き出しがすべて開くように作られており、中を覗くと薬の粉末で汚れた跡がつけられていたという。
◎ 「巨匠のメチエ・西村雄一郎著」という本に、美術を担当した村木与四郎氏のインタビューが載っている。そこで氏は「ある程度開けられるようにしただけの話でね。百とすれば十くらいしか開けられません」と語っている。


項目

デルス・ウザーラ

× 〜アルセーニエフは、ハバロフスクの自分の家で、一緒に暮らそうとデルスに提案する。しかし、これまでの人生のほとんどを森の中で生活してきたデルスは、このアルセーニエフの申し出を丁重に断る。
◎ なんかこれだと、まるでデルスはアルセーニエフの家に行かなかったようだが、実際は行って一緒に暮らすことになる。だが森の人であるデルスは都会の生活に馴染めずに再び森に帰って行くのだ。クララの屋敷に暮らしていたハイジのようだと思ってもらえば分かりやすい。


項目

影武者

× 最初のキャスティングでは、勝新太郎が影武者で、実兄の若山富三郎が、信玄の役だった。
◎ 共同脚本の井手雅人が「信玄と影武者が勝。弟の信兼に若山を予定していたんだ」と証言している。だいたい信玄と影武者を同一人物が演じなきゃ意味ないじゃん。


項目

八月の狂詩曲

× 〜 夏休みを利用して銓のもとへ訪れたハワイの四人の孫たちは、彼女の昔話から原爆の悲惨さというものを徐々に理解していく。
◎ 四人の孫たちがハワイ人ってかい! れっきとした日本人である。ハワイから来たのは銓にとって甥にあたるリチャード・ギア演じるクラークだけである。


 以上、あまりにも目立って間違っている箇所を指摘してみた。いかにひどいかお分かりになるだろう。実は細かく言い出すとキリがないくらいある。一体この著者は何を考えているのか?

 後書きには「今、ふたたび黒澤のこれまでの三十の作品を観てみて、私は改めて黒澤ワールドのすばらしさの一端を堪能できた」と書いてある。と言うことは少なくとも各作品を二回は観ているのではないのか? 勉強不足で資料をみもしないのも問題あるが、物語の根本的な部分や効果を間違えたり、全く逆のことを書いているのは言語道断である。本当は観てないのではないか、と勘ぐられても仕方がないだろう。

 僕は今でこそ黒澤監督の全作品を観ているが、ビデオやLDが発売するまでは観てない作品も多かった。それでも黒澤作品について書かれた本などをいくつも読み、まだ観ぬ作品に思いを馳せていた。そして何度も読み返すことによって、未見の作品でもストーリーはもちろんのこと、映画の中での効果や実験なども熟知していた。それもこれも今までに刊行された、いくつもの素晴らしい研究書のおかげである。

 黒澤監督が死去されたことをきっかけに、初めて黒澤作品に興味をもつ人も多いことだろうと思う。そして書店の追悼コーナーで本を選ぶときに、安価で読み安そうなこの「黒澤伝説」を手にとり購入してしまう人がいるはずだ。そういう黒澤映画初心者に、この間違いだらけの本はどう責任をとってくれるのだろうか。その責任を考えた時に、この本の著者の罪はかなり重い。たぶん増刷されることはないだろう。しかしこの時期に出版しているのは、どう考えても火事場泥棒としか言いようがない。

 一体この著者は何者なのだろうかと調べてみたら、エヴァンゲリオンの謎本ブームのさなか、「エヴァンゲリオン補完計画」「くたばれエヴァンゲリオン」という二冊の本を刊行していた。そしてこの二冊もエヴァファンの間で相当物議を巻き起こしたらしい。その時も著者は「感性の違い」と一蹴したようだが、それ以前に引用された物語中のセリフが間違っていて有名だったそうだ。

 「黒澤伝説」のあとがきで最後に著者は、こう結んでいる。
「もし今後、機会があれば、ぜひ世界の映画監督と黒澤との、「娯楽映画」における比較論というものを書いてみたいと切に思う」

 たのむから書かないでくれ! うめぼし君!!!●


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