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 田岡一雄二十七回忌法要

直系組長が大集結

 田岡一雄三代目は、組長襲名時、組員わずか三十三人しかいなかった神戸の一博徒山口組を、約三十五年の間に全国各地に進出を果たし、一万人を超える日本最大のやくざコングロマリットに育て上げたカリスマである。
 米国のドキュメンタリー作家・フローレンス・ロームは、一九七五年にデラコート・プレスから出版した自書『TATTOOED MEN』の田岡組長の写真説明に「godfather of godfathers」と記している。「親分衆の親分」といった意味だ。外国人作家の目にも、田岡三代目は、親分衆の中でも飛びぬけた存在と映っていたわけである。
 その田岡一雄三代目が、入院中の関西労災病院(尼崎)で亡くなったのは、昭和五十六年七月二十三日午後七時三十一分だった。死因は急性心不全。四十年五月に東京で倒れてから、十六年の闘病生活の末の大往生であった。
 それから満二十六年。田岡一雄三代目を偲ぶ二十七回忌法要が、祥月命日の七月二十三日、神戸市灘区の「長峰霊園」で営まれた。
 「長峰霊園」は、篠原本町の山口組総本部から車で約十分、急勾配の坂を登った六甲山の中腹にある。三代目の墓はその最上段にあり、ここからは神戸港を一望のもとに見下ろせる。
 向かって左側にフミ子夫人の実家深山家の墓、つづいて田岡家代々の墓、その右側に戒名を彫り込んだ三代目が眠る墓、それに隣接して昨年八月、山口組直参物故者の名を刻んだ山口組組碑が建立された。
 当日は「長峰霊園」の休園日で、広大な墓地にはほかに参拝者はいなかった。
午前八時四十分。私たちが到着したときには、すでに駐車場の一隅に山口組の代紋入りテントが二つ張られ、テーブルが用意されていて、岡本久男慶弔委員長(幹部)ら慶弔委員が待機、入江禎総本部長、橋本弘文若頭補佐も先着していた。墓地とテントを往復しながら、機敏な動作で準備に当たる作業服の若者たちが印象的だった。
 この日の報道陣は、テレビ、新聞はオフリミット。週刊誌や写真誌のカメラマンと記者が中心だった。
 九時前後になると、瀧沢孝若頭補佐、正木年男若頭補佐、井上邦雄若頭補佐、寺岡修若頭補佐、高山清司若頭、岸本才三最高顧問ら最高幹部が次々に到着、九時十五分頃には直系組長のほぼ全員が参集した。
 この日は異常に蒸し暑かった。暑さよけと会場の混雑を避けるため、慶弔委員が車を降りた直系組長らに、式典開始の知らせがあるまで、いったん車の中で待機するようにマイクで指示する一幕もあった。
 式典には三代目時代を含め、引退した直参組長が招かれていた。組に貢献した先達を敬うという司忍六代目の意向を受けての配慮だったようだ。
 式場では、この五月に病気引退したばかりの勝野重信元勝野組組長や矢嶋長次元二代目森川組組長、長谷一雄元長谷組組長、石川尚元名神会会長、弘田武志元弘田組組長、中谷利明元中谷組組長、山本次郎元山次組組長、羽根悪美元羽根組組長らの元気な姿が確認できた。現役時代はいずれも一廉の親分として知られたつわものばかりである。

 勝野元組長は、昭和五十六年三月、当時、山口組若頭補佐だった溝橋正夫組長(引退)の溝橋組(解散)若頭から直参に昇格した。四か月後に田岡組長は他界したから三代目から直接盃を受けた最後の直参である。弘田武志元組長は司忍六代目の親分筋にあたる。名古屋港の港湾荷役を仕切っていた鈴木組若頭から独立、弘田組を立ち上げた。そこで司興業を率いていたのがのちの司忍六代目だ。
 羽根悪美元組長は、昭和五十一年、弱冠二十五歳のとき、田岡組長の目にとまり中西組組員からいきなり直系組長に抜擢されたことで知られる。京都でのドン狙撃の報復などで長期服役、「山口組の沖田総司」などと呼ばれたこともある。
 式典直前に三代目の長男・田岡満氏と長女由伎さんが到着、それを待っていたように法要が始まった。
 九時三十五分、数珠を手にした直系組長たちは、三代目の墓地脇の細い道に三列に並んだ。間もなく導師による読経が始まり、田岡満氏、由岐さん、高山清司若頭、岸本才三最高顧問、入江禎総本部長が墓前に線香を手向けて手を合せ、ほかの最高幹部は用意された代紋入りの四基の焼香台の前で合掌した。直系組長たちは整列したその場でしばし瞑目、手を合わせ故人の冥福を祈った。
 法要は十時過ぎには終了し、参列者全員が導師と元直参らを見送ったあと、高山若頭ら最高幹部、直系組長の順で霊園を後にした。
 法要終了後、総本部では田岡満氏、由伎さんら遺族、元直参、最高幹部らが参集して法要食事会が開かれた。

「山口組の顔」

 この日、もっとも私の印象に残ったのは、「山口組の知恵袋」といわれる岸本才三最高顧問の洗練された立ち居振る舞いだった。
 手入れの行き届いた白髪と真っ白な口髭はいまや菱番記者ならずとも誰でも知っている「山口組の顔」である。
 威厳さえ感じさせる堂々たる押し出しと鄭重で温厚な語り口は、まさに大会社の会長クラスを想起させる。
 とくに特異なシーンがあったわけではないが、たとえばテント内のテーブル席で高山清司若頭や瀧沢孝若頭補佐と歓談しているだけで絵になっているのである。
 岸本最高顧問は、昭和三年生まれだから今年七十八歳。最高幹部の中では最年長、三代目時代からの直参では、尾崎彰春顧問、石田章六顧問、大石誉夫顧問に次ぐ古参だ。
 経歴も異色。小学校時代から学業優秀で当時、少年の憧れの的だった航空隊に志願、飛び立つ前に終戦を迎え、復員後、神戸市役所の職員となった。
 在職中の昭和三十年ごろ、幼馴染で三代目山口組直系の中山美一中山組組長と兄弟盃をかわし、この世界に足を踏み入れた。
 昭和三十九年、市役所を退職するまでは現役の職員だったのである。昭和四十八年十二月、中山組長の病気引退に伴い、その跡目を継ぐ形で中山組舎弟頭から直参に昇格、翌年には田岡組長の秘書役に抜擢された。
 田岡組長の死後、四代目をめぐって竹中正久派と山本広派が激しく対立した際には、岸本組長はフミ子夫人の意向をくんで、中山勝正豪友会会長や宅見勝宅見組組長らと竹中正久四代目実現に向けて尽力、竹中四代目誕生とともに若頭補佐に昇格、本部長も務めることになる。
 だが四代目に反対する山広派は一和会を結成、昭和六十年一月、ヒットマン三人が竹中四代目ら三組長を暗殺するという不幸な事件が発生する。その翌月の定例会で「今年の事始めの指針は信賞必罰とする」と伝えたのは岸本組長だった。これが一種の合言葉となって、史上最大の山一抗争を制して、一和会を追い詰め解散に追い込んだという見方もできる。
 五代目人事では一時、中西一男組長代行支持派と渡辺芳則若頭支持派が拮抗したが、岸本組長は宅見勝組長とともに渡辺五代目実現に向けて調整に動いた。
 渡辺五代目が実現すると岸本組長は舎弟に直り、総本部長に就任した。総本部長というのは文字通り本部の総責任者で、すべての問題にかかわらねばならず重責である。
 平成九年八月、再び不幸な事件が起きる。宅見勝若頭が同じ山口組の中野会系組員に銃撃され、死亡したのである。このとき岸本組長は、野上哲男副本部長と事件の現場となった新神戸オリエンタルホテル四階のティラウンジに同席していた。
 中野会会長の中野太郎若頭補佐は、当初、事件への関与を強く否定した。しかし実行犯が逃走に使用した車など状況証拠がいくつも出てきて、中野会の事件への関与が決定的となり、山口組執行部はいったん破門処分した中野会長を改めて絶縁処分とした。
 山口組は傘下組織に対し、再三にわたり中野会への報復行動の禁止を通達したが、それでも発砲事件はやまなかった。
 中野会側の反撃は一切なかったが、大阪府警は山口組から絶縁された中野会をあえて「指定暴力団」と認定した。狙いはこの事件を山口組と中野会の抗争と捉え、今後、報復行動があった場合、暴対法による「組事務所の使用制限」を即座に適用して山口組総本部の使用制限を視野にいれたものと見られた。
 山口組は改めて報復行動の厳禁を通達するとともに、中野会系事務所に発砲した組員が所属する直系組織の組長を謹慎処分にするなど組織の引き締めをはかった。しかし親分を失った宅見組の報復攻撃は止まず、全国で約四十件にのぼった。犠牲者の中には中野会ナンバーツーの山下重夫若頭が含まれている。
 報復の構図は山口組本体から宅見組対中野会に移ったが、この事件で山口組はかつてない混迷状態に陥った。若頭を失ったうえ、警察当局の新頂上作戦で若頭補佐三人が収監され、活動できる若頭補佐はわずか二人となってしまったのだ。
 根本的に事件の決着を図るには、中野会の解散と謝罪以外にない。ところが中野会は解散しない。しかも山口組の指揮をとる若頭は不在。新若頭を決めるには事件の決着を図らなければならない。とはいってもいつまでも若頭の席が空白というわけにはいかない。その非常事態を乗り切る暫定措置として、平成十年、岸本総本部長が若頭と舎弟頭を兼任する人事が決定したのである。暫定措置とはいえ前代未聞の人事であった。それから司忍六代目誕生までの七年間、さまざまな困難と危機に直面しながら、執行部とともにそれを乗りきった岸本総本部長は、間違いなく三代目以後の山口組の礎石の一人と言えるだろう。現在の最高顧問という地位がそのことをよく物語っている。

空前の取材陣

 ここで三代目の本葬当時を振り返ってみたい。  私は昭和五十六年十月二十五日、神戸市灘区篠原本町の田岡邸隣接地(現在の総本部)で行われた田岡一雄組長の組葬を取材している。そのときの光景は今もはっきり記憶の中にある。
 取材陣だけで約三百人が詰め掛けた。海外の珍しいメディアでは、ソビエト・ラジオ・テレビをはじめ、スエ―デン・テレビ放送協会、ボルチモア・サン(米国)、シドニー・モーニング・ヘラルド(オーストラリア)、日本の取材陣は、テレビ、新聞、週刊誌はもとより、日本共産党の「赤旗」までが取材に加わった。一人の親分の組葬に、社会主 義国の放送局がテレビ・カメラを持ち込んだのはこれが最初で最後である。
 世界のの報道陣が田岡組長の組葬を注目したのは、次の三つの理由による。
 第一は、山口組が警察庁指定の日本最大の広域組織であること。第二は、日本のやくざの海外進出が現地で問題になり始めている時期であったこと。第三は、葬儀委員長を関東の大勢力・稲川会の稲川聖城会長(当時)が務めたことから、全国の主要暴力団のトップのことごとくが参列するとの情報が入っていたことである。
 池田内閣に始まる高度経済成長政策は、日本経済を膨張させる一方で、暴力団勢力を肥大化させた。昭和三十八年には戦後最高を記録し、五千百七団体・十八万四千九十一人と当時の警察官、自衛官定数をうわ回った。外国人ジャーナリストが、日本経済の発展に関心を示すのが当然であるように、暴力団の急成長に取材意欲を掻き立てられたとしても少しも不思議ではなかった。
 山口組が稲川聖城会長を葬儀委員長に迎えたについては、それなりの背景があった。
 第一は対外的な事情である。当時の稲川会は一都十県に勢力をもつ関東の雄だった。稲川会長を委員長に迎えることで、親密関係を強化する。両者の結束は他組織への強力なプレッシャーとなり、稲川会にとってもメリットがある。第二は山口組の内部問題だ。山口組の最高幹部会は田岡組長あってのものだった。田岡組長が逝ったあとは、最高幹部と言っても、直系若衆にとってはたがいに息子であって新参、古参の別はあるが原則的には同列だ。改めて盃を交わさない限り、立場は互角である。その中から委員長を選ぶとなると、どうしても四代目への思惑が絡んで内部に亀裂が生じかねない。稲川会長なら貫禄から見ても誰も不足は言えない。
 第三に、組長の本葬は、一種のショー的性格を持つ。参列者の顔ぶれによって、組の格が評価されるといわれるように、内外に自己勢力を誇示する絶好の機会なのだ。全国の大物組長が一堂に会する本葬の委員長は、稲川会長をおいてはなかったのである。
 「組長の本葬の委員長は、若頭がつとめるのが筋だ。不在の時は代理を立てればよい。外部に依頼すると借りを作ることになる」というタテマエ論が一蹴されたのもこれで肯けよう。

異常な厳戒体制

 葬儀当日、会場の周辺は、異様な緊張に包まれていた。
 兵庫県警は現地警備本部を設け、機動隊、制服、私服警官八百十人を非常招集。新幹線新神戸駅、阪神高速麻耶インター、葬儀会場に近いバス通りなどに配置。大阪府警も、五百人の警官を動員して、通過コースの大阪空港、国鉄新大阪駅、南港フェリーターミナルなど十六か所で、検問を実施する厳戒体制を敷いた。
 まず会場に最も近い新神戸駅。
 ホーム、出札口、タクシー乗り場には制、私服警官が目を光らせ、改札口の外側には脚立を用意した報道陣。黒背広、紋付袴の"黒い集団"降りてくるたびに、一斉にシャッターを切り、テレビ・カメラがそのあとを追った。
 このありがたくない"出迎え"を山口組関係者や葬儀に参列する多系統の親分衆は、十分予想していたらしく、表情一つ変えず平然としていた。報道陣が駆け寄って話を聞こうとしても終始無言。白抜きの菱形代紋入り黒腕章をまいた案内人に「ご苦労さん」と声をかけて、山口組がチャーターした中型観光バス(奈良交通)に乗り込んでいった。
 新神戸駅から葬儀会場に至るバス通りは、地元灘署員ががっちり固め、山口組の案内人の数の方が少なかった。
 「山口組が配備した警備員(案内人)は四十人。新神戸駅、式場近くの護国神社前、三宮=石屋川間の灘警察前交差点、国道二号、四三号線の大石川ぞい十字路、阪神高速麻耶インター、阪神電車西灘駅付近の国道二号、四三号合流点に車で来る参列者のために配置した」
 山口組幹部の一人は、そう説明した。田岡邸から会場にかけての石塀は、黒の代紋入りの白い幕が張られ、会場入り口の門にも赤と黄色の菊でつくった山菱の代紋。式場には特大のテントがめぐらされ、客人用の椅子は千脚を用意した。幅十五メートル、高さ五メートルの巨大な祭壇は山口組の所有、一週間前からトビ職人と葬儀社(公殉社=神戸)が入って組み立て前夜までに飾り付けを終えた。
 祭壇中央には縦三メートル、横一メートルの田岡組長の遺影。その周囲は、白と黄色の菊で包まれ、位牌の左右に、喪主フミ子夫人の供花、それを囲むように稲川聖城葬儀委員長ほかの供花が並ぶ。さらに舎弟の湊芳治、山本健一若頭ら最高幹部の名札つき供花―。
 また式場の両側には直若八十三人とその若衆八百三十人の連名供花がびっしり飾られていた。
 多系統の組織の参列者をうならせたのは、位牌の前に立てられた超ド級の二本のローソクだった。山菱の代紋と田岡組長の戒名(永照院仁徳一道義範大居士)を黒く彫り込んだこのローソクは直系六十センチ、長さ一メートル六十センチ、重さ六十キロという巨大さである。
「灯をともし続けても半年はもつ。業者に特別注文して作らせた。一本三十五万円だ。こわしたら大変なんで、若いのが三人がかりで祭壇にかつぎあげた」
 本葬儀準備委員が説明してくれた。
 会場前の駐車場と田岡邸門前には、午前九時ごろから四,五十人の報道陣が詰め、外国勢ではソ連国営テレビが一番乗りだった。
 山口組直系組長を乗せた外車が、つぎつぎに田岡邸に横づけされる。
 前夜から神戸ポートピアホテルに十二部屋をとって、組員二十人と泊まり込んでいた稲川聖城葬儀委員長は、十時近くになって山口組さしまわしの高級車で、益田佳於若頭補佐らと一緒に到着。つづいて新神戸駅から関東地区の親分、組員約三十人を乗せたチャーターバスの第一陣―。
 それを待っていたように田岡邸と本葬会場は、ヘルメット、金属楯を手にした完全装備の機動隊員三百四十人に包囲された。指揮官の号令で隊員は田岡邸―会場の道路の約六分の一を封鎖するようにコの字型に展開、幅約六十センチの"組員専用通路"をつくった。"通路"の入口にはボディチェック班が待機し、財布の中身まで調べる徹底したボディチェックを開始した。
 組員はチェックを受けた後、一人がやっと通れる機動隊の隊列の中を潜り抜けなければ田岡邸にも会場にも入れない。隊列の外側を歩こうとした組員は「そっちは一般市民の通る道だ」と、たちまち隊列の中へひきもどされた。
 住吉連合(当時)の堀政夫会長、大日本平和会の平田勝義会長もボディチェックを受けたが、西日本二十日会系加盟団体の組員二人が抵抗、機動隊員に押しつぶされて軽いケガをした。まるで必然性のない規制であった。

葬儀は一時五十分にはじまった。

 会場前の駐車場は報道陣でごった返し、空からはセスナとヘリ。駐車場の石塀からはみ出したカメラマンの一人は、松の木によじのぼって健闘、逆にテレビカメラの被写体にされた。
 本葬の司会は小田秀臣山口組本部長。
マイクを通して「ただいまから山口組本葬儀を執行いたします」という声が聞こえたが、機動隊の交通規制、ヘリの爆音ではっきりは聞き取れない。
 挨拶の筆頭は稲川聖城葬儀委員長。
「田岡組長、あなたは港湾事業などを通じて社会的に貢献され…立派な人格…深く…昭和の侠客…」
 稲川会の森泉人副理事長(当時)が代読したが、ヘリにセスナが加わって、田岡組長を絶賛していることがわかるていどだった。
 読経がはじまった。
 親戚総代で五代目酒梅組の谷口正雄組長の弔辞。これも聞き取れたのは「田岡一雄の名は…不滅」くらいだった。
 最後に山本健一若頭不在(収監中)の本家直若を代表して山本広若頭補佐が別離の挨拶に立った。
 焼香は稲川葬儀委員長、田岡フミ子夫人の順ではじまり、舎弟に続いて、八十三人(当時)の直若が山口組の序列通りに焼香した。
 他系統の参列者は、大所の組織のほとんどにおよんだ。
 参列者の総数が千五百人にとどまったのは兵庫県警の申し入れで山口組側が人数を最小限に抑えたためだ。
 葬儀終了後、山口組幹部は、「なぜ本葬が二十五日になったのか」という私の質問に対し、「われわれは、はじめから祥月命日の二十三日を予定した。ところが兵庫県警がウイークデーでは交通の混乱が起こるという。それではというので、二十五日の日曜に変更した。たまたま神戸市長選挙当日に重なり、マスコミが非難したがそれはわれわれの責任ではない」と明言した。
 田岡一雄組長は、死の直前まで抗争の火種を消すことに腐心していた。もう抗争の時代ではないと判断していたのであろう。
 たとえば、大阪戦争の終結宣言後の五十四年四月、関西二十日会の加盟団体、共政会の山田久会長、侠道会の森田幸吉会長が田岡邸を訪れ、そのあとミナミの料亭「暫」で会食した。この席には山口組から小田秀臣、益田佳於、中山勝正の三人の若頭補佐が顔を出し両者の間に"平和協定"が成立した。
 沖縄の旭琉会との長年の対立にも終止符が打たれた。昭和五十六年七月、田岡一雄組長を後見人として、山口組内二代目吉川組・野上哲男組長、二代目旭琉会・多和田真山会長、澄田組内二代目藤井組・橋本実組長が五分の盃を交わした。
 田岡組長はその直後に逝ったのである。三代目は、自らの生命が燃え尽きるまで、直若たちに近未来の侠道のありようを示唆したのであろうか。



 ヤミ金融から“転向”

 息子や孫を装って、高齢者らに電話をかけ「交通事故を起こし、至急示談金が必要になった」などと、指定した口座に現金を振り込ませて騙し取る「おれおれ詐欺」があとをたたない。
 警察庁の調べでは、昨年一年間の「おれおれ詐欺」の認知件数は六千五百四件(うち未遂二千百八十五件)、被害総額は約四十三億千八百万円にのる。
 被害が出始めたのは、一昨年秋ごろからだが、昨年五月以降急増し、ピークに達した十月には千三百二十件を記録、十一月以後も千件を超える異常事態が続いている。
 参考までに、昨年一年間の月別認知件数を記録しておこう。

○一月 十五件

○二月 三十件

○三月 三十二件

○四月 七十四件

○五月 四百三十七件

○六月 二百四十七件

○七月 四百七十五件

○八月 六百十三件

○九月 七百七十五件

○十月 千三百二十件

○十一月 千二百九十五件 

○十二月 千百九十一件  

 一月から五月にかけては、一挙に三十倍近く脹んらんでいる。
 「おれおれ詐欺」が急増した時期は、山口組系五菱会のヤミ金融事件が摘発された直後のことで、ヤミ金融の道をふさがれたグループの残党が、新しい資金源を求めて動き出した側面が認められる。
 たとえば、今年三月、警視庁捜査二課が摘発した六人組の「おれおれ詐欺」グループのリーダーのH(二四)は、元ヤミ金融業者だった。
 Hは、昨年八月、実家のある青森に帰省する際、五人を仲間に誘い、車二台に分乗、おれおれ詐欺をしながら旅行することを計画、東京都の電話帳を車に持ち込み、片っ端から電話をかけながら東北自動車道を北上、青森で一泊したホテルからも電話をかけていた。直接の容疑は、都内の七十九歳の女性ら三人に、孫を装って電話をかけ「交通事故を起こした。示談になったからすぐに現金を振り込んでくれ」と百七十万円を騙し取ったというものだが、グループの容疑はほかにもあり、被害金額は数百万円に上ると見られている。
 警視庁が昨年六月、解明した十人グループのリーダーもヤミ金融業者上がりだった。ヤミ金融への締め付けが厳しくなり、おれおれ詐欺に転向したと供述している。ヤミ金融で身につけたノウハウを駆使して、電話をかける役と口座の現金を引き出す役などを作業分担していた。
 ヤミ金融を逆手に取った例もある。今年三月、所沢署に検挙されたT(四四)は、「ヤミ金から金を借りた。利息がついて返済が二百万円になり、暴力団の事務所に監禁されている。すぐに返済しないと帰れない」と所沢市内の無職女性(六五)に電話、別居している会社員の次男(三六)と思い込んだ女性を西武線所沢駅西口に呼び出し、代理人と称して現金二百万円を騙し取った。これは昨年九月の事件だが、Tは同様の手口で、ほかに数人から約六百万円を騙し取っていたことが発覚している。
 手の込んだ手口では、今年二月、「今、ちょっと大変なことになった。また後で電話する」と電話をかけ、いったん切ったあと、十五分後に、再び「取引に支払う金を自分のミスで用意できなくなった。至急たてかえてほしい」と連絡、入間市内の無職男性(六一)からまんまと現金三百万円を振り込ませた詐欺事件がある。この男性は、電話の主をてっきり都内に住む会社員の次男と思い込んだという。

 手口は巧妙化
 「おれおれ詐欺」の女性版も頻発した。
 「ばあちゃん、わたし、わたし。妊娠しちゃったの。助けて、中絶費用がいるの」などと泣き声で訴えるのが特徴。岐阜県中津川市では、この手口で昨年七月、七十一歳の無職女性と八十三歳の無職男性が孫娘を装った女から三十七万円と三十八万円を騙し取られている。
 警察官、弁護士を装い、交通事故や修理費名目で現金を振り込ませる手口も目立った。
 埼玉県蕨市の七十二歳の女性は、昨年十月「息子さんが交通事故を起こした」と警察を名乗る電話を受け、修理費などの名目で二百十五万円を振り込まされた。比企郡鳩山町の主婦(四四)は、「ご主人が交通事故を起こし、相手の車に損害を与えた。示談が成立したから三百万円を振り込むように」と電話を受け、取りあえず工面した百八十万円を振り込んだ。あとでウソとわかったが、すでに引き出されていた。埼玉県内では、昨年、この種の手口による詐欺事件だけで、未遂を含めると十件以上発生、被害額は五百万円を超えている。
 今年四月、神奈川県秦野市の四十九歳の主婦が千二百万円を騙し取られた事件は実に手が込んでいた。
 まず「ご主人が交通事故をおこした」と警察官を名乗る男から連絡が入った。つづいて「相手が妊婦で流産した。事後処理費などがかかる。指定口座に振り込むように」と命令口調で言った。その間に警察官役のほか、泣きじゃくるだけの夫役、「事件にはならない」と説得する弁護士役まで登場した。電話の向こうで泣きじゃくる夫の声を聞いたら、大抵の主婦がおろおろして、言いなりになるだろう。

 極めつけは“おれおれ詐欺株式会社”の登場だ。
 警視庁捜査二課が昨年十一月、摘発した二十二歳の無職男性Mを主犯とする五人グループがそれ。Mらは、十六歳〜十七歳の少年三人を「仕事をしないか」と“社員”に引き入れ、おれおれ詐欺の孫役などを演じさせていた。昨年十月、群馬県沼田市内の無職女性ら三人の高齢者に、孫などを装って電話をかけ「車で事故を起こした。修理屋から引き取るのに五十万円かかる」などと偽って計百五十万円を振り込ませたのが直接の容疑。
 主犯のMは詐欺で稼いだ金を、いったんプールし、グループ内で月給として分配していた。Mら成人の容疑者二人は、毎月二十五日に五十万〜七十万円受け取り、孫役などを演じて電話をかける少年三人には二十万〜二十五万円。さらに少年には、詐欺の成功金額五十万円ごとに二万円の報償金をつけていた。少年らは一人で数十本の電話をかけており、被害総額は一千万円前後に及ぶと見られている。「おれおれ詐欺」をビジネス化した事件は、これが最初である。
 「おれおれ詐欺」は、電話の内容を本人に確認するだけで簡単に防げる犯罪だが、被害は今年に入っても一向に衰えていない。
 埼玉県内では、二月だけで、百三十件発生(うち未遂五七件)、被害総額は約九千五百万円に達している。一ヵ月の数値としては昨年五月以来過去最高である。一、二月のトータルでは発生件数は百九十二件(うち未遂七十九件)、被害額は約一億四千八百万円で、一件あたりの平均被害額も、昨年の百六万円から百三十一万円に脹らんている。
 四月に入ってからも、なお被害が続いている。
 南埼玉郡宮代町の七十六歳の無職女性は、孫を装った男に「交際相手の女性の手術費が三十五万円必要になった」と電話を受け、本人と思い込んで振り込んだ。帰宅した孫の会社員に確かめて、ウソとわかった。
 さいたま市浦和区の六十二歳女性は、同居している長男を名乗った男から「会社で任されている仕事に支払う金が五百万ほど足りない。百五十万円振り込んでくれ。振り込んだら会社から預かっている携帯電話に連絡してほしい」と電話を受け、指定の番号に電話すると「あと百五十万必要だ」と言われ、さらに百五十万円振り込んだ。結局、三百万円を騙し取られた。
 もう一件は,さいたま市中央区内の六十歳の無職男性のケース。別居している長男を名乗る男から「車をぶつけてしまった」と電話があり、「相手の車はベンツだ。買い替え代二百九十八万円を振り込んで欲しい」と言われ、その通りにすると、再び「車検代九十六万円が足りない」と連絡が入り、合計約四百万円の被害を受けた。
 越谷市の七十五歳の無職女性は、孫を装う男から「お婆ちゃん。交際している女の子が妊娠してしまった。手術代が六十万円いる。お母さんには内緒にしておいて」と電話を受けた。「お母さんには内緒に…」というのは祖母にとっては殺し文句である。

 七十歳代が被害最多
 警察庁は当然のことながら、各都道府県警を通じて「おれおれ詐欺」の被害予防対策を積極的に推進している。にもかかわらず被害があとをたたないのは何故なのか。
 家族間のコミュニケーションが欠落しているのが最大の原因だが、地域的な問題も若干ある。
 被害は都市部に集中し、六割近くが関東地方で発生している。被害者の約八割が六十歳以上の高齢者で、七十歳代が最多。家族構成では六十五歳以上だけの高齢者世帯が半数以上を占め、そのうち単身世帯が約三割、しかも被害者の約七割は女性。高齢者世帯と女性が狙い打ちされている実態が浮かび上がっている。
 被害金額は百万円以下が約六割。「このくらいなら高齢者は老後資金で払えるだろう」という犯人側の計算が読み取れる。
 もちろん例外はある。
 七十歳の男性の場合、孫を装った男から、借金返済名目で、数回にわたって計約千八百万円を騙し取られている。「これはいける」と思った相手からはとことん吸い上げる典型的なケースだ。
 騙しの口実は、交通事故の示談が最多で全体の六二%(四〇三五件)、次いでヤミ金融などからの借金返済名目が一九%(一二六八件)、妊娠中絶手術費用名目が六%(三六七件)、その他が一三%(八三四件)となっている。
 逮捕された容疑者の多くは、十代後半から三十代の無職男性で、足がつかないように携帯電話と架空・他人名義の預金口座を使っていた。
 携帯電話をフル活用し、架空・他人名義の預金口座に返済金を振り込ませる手口は“090金融”と呼ばれるヤミ金業者が“開発”したものである。
 架空・他人名義の携帯電話や、預金口座がまかり通る背景には、インターネット上の掲示板などで、その売買を行なっている口座屋の存在がある。口座屋は他人の名義を借りて預金口座をつくる場合が多いが、自分でいくつもの口座をつくって、口座屋に売却する者もいる。
 こう見てくると「おれおれ詐欺」は、架空名義の携帯電話と、口座屋から預金口座を買い取らないと“商売”が成り立たないことがはっきりしてくる。

 口座屋の暗躍
 ところで口座屋は、具体的にどのようなかたちで“商売”をしているのか。
 今年二月、警視庁と富山、福井、兵庫各県警の共同捜査本部が詐欺容疑で摘発した東京新宿区内の電話代行会社「F」の役員Hら四人は、二年間に数十人に千四百を超える銀行口座を作らせ、暴力団関係者らに転売、二千万円以上を稼いでいたという。
 口座入手の方法は、十五項目にわたってマニュアル化されていた。まず夕刊紙に口座開設者募集の広告を出す。応募者には決まった暗証番号を使わせ、預金の最低単位の百円を入金させるなどして口座を作らせていた。口座の買入価格は、一口座二万〜三万五千円。ヤミ金業者や「おれおれ詐欺」のグループには三万〜四万五千円で売り渡していた。
 この流れを図式化すると、F社→夕刊紙広告(口座開設者募集)→応募者が暗証番号を特定した口座開設→F社が応募者の口座買取→口座をプール→口座をヤミ金業者やおれおれ詐欺グループに転売という構図になる。
 従って、ヤミ金や「おれおれ詐欺」グループの根絶を図るには、口座屋を押さえることが最も効果的なわけだ。
 F社の役員らは「口座の売買が詐欺になるとは思わなかった」と供述したそうだが、開設された口座を本人ではなく、まったく別人が詐欺目的の金の振込先に使うのだから、これは明らかに詐欺補助行為となる。
 今年二月、埼玉県警捜査二課と鴻巣署に逮捕された三十一歳の千葉県習志野市の会社員Mは、自分で作った五つの口座を他人に譲渡したことが詐欺に問われた。Mの供述によると、パチンコ店で知り合った男から「借金を棒引きにしてやる」と甘言で誘われ、開設した口座を譲った。
 ところが、その口座が「おれおれ詐欺」の振込先に使われたのである。
 昨年十一月、「会社の取引先とトラブルになった」と鴻巣市内の六十四歳の無職男性が電話を受け、息子からと思い込んで、指定の口座に三百十五万円を振り込み、あとでウソとわかった。その口座がMの開設したものだった。
 Mは「詐欺に使われるとは思わなかった」と弁明したが、他人に譲渡する目的で口座を開設したことが「預金通帳とキャッシュカードを騙し取った」として詐欺に問われた。厳しいといえば厳しいが、当たり前のようにも思える。この種のウラ口座は、ほとんど犯罪に使われるからである。
 借名口座の場合、開設者が「通帳を紛失した」などと弁明すると、実際そういう例がよくあるため、刑事責任の追及が難しくなる。しかし昨年十一月、大分県警は「おれおれ詐欺」に悪用された借名口座の開設者四人を詐欺容疑で、口座を買い取った人物も盗品等有償譲り受け容疑で逮捕している。
 名義人が短期間に複数の口座を解説し、すぐに他人に転売しているウラを取り、転売目的を隠して口座を開設したことを詐欺に当たると判断した。
 借名口座は架空名義や、ニセの身分証を使って作られた口座とは違い、本人確認を済ませていることから、口座の転売は必ずしも即違法とは言えない。何らかの事情で、どうしても自分名義の口座を使えない人もいるわけで、善意の「借名口座」があっても不思議はないわけである。
 大分県警の例で明らかなように、地道な捜査の積み上げによって、違法行為を摘発することは十分可能で、口座の転売そのものを法規制する必要はないとの意見が強い。とはいえ、インターネット上で借名口座が野放し状態で売買されている現実に対しては、「法規制すべきだ」との要望がある。
 昨年一月に施行された本人確認法では、各金融機関は個人が新しく口座を開設する場合には、名義人の身元を確認することが義務づけられた。これによって名義人が実在しない仮名口座の開設は困難になったが、口座の譲渡規制にまでは踏み込んでいない。

 銀行と詐欺師のシーソーゲーム
 話を元に戻そう。
 先にもちょっと触れたが、警察は「おれおれ詐欺」の被害防止のためさまざまな対策を講じている。ホームページや地域安全ニュースなどの広報媒体で呼びかけたり、特に被害が集中している高齢者に対しては、訪問指導や公民館などで被害防止の寸劇を実施したりしている。
 その際、注意事項としてあげているのは、@自分からは身内の名を呼ばず、必ず相手に名乗らせるA電話を切ったあとで身内に相談し、事実かどうかを確認するBおかしいと思ったらすぐ警察に連絡する…の三点である。これを守らない高齢者が騙されているわけである。
 金融機関側も、事件の多発を座視しているわけではない。不正口座対策のプロジェクトチームを発足させた銀行もあり、警察から通報のあった不正口座は、自動的に強制解約の対象に指定している例が多い。
 だが、ここにも問題がある。彼らは「おれおれ詐欺」に一度使った口座は足がつくのを警戒して、二度使うことはまずないからだ。昨年十二月、山梨県警が「おれおれ詐欺」グループが拠点にしていた東京・杉並のアパートをガさ入れしたところ、未使用の預金通帳三十点が見つかった。次々に振込口座を変えるために、プールしていたのである。
 また、一度使った口座を捨てるのは、強制解約対策でもある。
 だから金融機関が口座を強制解約しても、それがただちに事件再発防止にはつながらない。さらに新しい「借名口座」がぞくぞくと開設される現実がある。
 全国銀行協会の調査によると、昨年一年間に強制解約された不正口座は、三千件を超えるが、実態は詐欺グループとのシーソーゲームなのである。
 金融機関職員の気転や善意の第三者の協力で、被害が未然に防止されたケースを次にあげよう。
 昨年十一月、秋田県の八十歳女性に孫を名乗る男から「先輩の保証人になり、急に百万円が必要になった。家族に内緒で振り込んで欲しい」と電話があった。女性は孫だと信じて銀行から振り込もうとしたが、受付の職員が不審に思い、家族に連絡、ウソとわかり未遂に終わった。
 同じ頃、香川県でも類似事件が発生した。信用金庫を訪れた八十三歳の女性が、三百万円の振込みを依頼した。高齢者には不自然な大金の振込みに不審感を抱いた女性職員が事情を聞いたうえで身内に確かめたところ、詐欺とわかった。
 いま一つ。これは特殊な例だ。
 七十六歳の女性がタクシーを止め、「急いで銀行まで行って欲しい」と乗り込んだ。「お婆ちゃん、どうしたの」と運転手が訪ねると「孫が交通事故を起こした。すぐに被害者に六十万円を支払わないといけない」という。プロの運転手は事故の処理には精通している。事故を起こしてすぐに賠償金を支払うなどあり得ない。運転手は念のために会社に無線で連絡、会社が警察に通報し、虚偽と判明した。

 日本だけの特異犯罪
 「おれおれ詐欺」は、海外でも起きているのか。
 スイス人ジャーナリストのJ・ル-イン氏に話を聞いた。
 ―「おれおれ詐欺」のような犯罪は西欧でも起きてますか。
 ―まったくないデス。聞いたこともない。
 ―ということは日本だけの特異な事件ということか。
 ―景気が悪いせいもあるが、上手い取引を口実にした詐欺事件や、富裕階級の身内を誘拐して身代金をゆすり取る事件は頻発している。でも「おれおれ詐欺」なんて事件はゼロだネ。
 ―なぜかな。
 ―文化が違うんだ。ヨーロッパでは親子、肉親の関係は大人になれば完全に自立している。それぞれがまったくの別人格だし、もたれあう習慣はない。日本では四十歳にもなる男が平気で親から援助を受けたり、三十歳の娘が家賃も払わないで、親と食事つきで同居したりしている。そしてそんな関係をみんなあたりまえだと思っている。
 こんな関係をつづけていると、年齢では大人になっても、精神的にはいつまでも子供の域から出られない。そのくせ親子のコミュニケーションはよくない。親子が一堂に集まって将来の夢や生き方について、じっくり話し合う習慣はまったくない。むしろ親も子もそういうことは面倒くさいと避けたがる。
 子供が親を頼るのは金がなくなったときくらいで、通常は見向きもしない。だから親も子も、たがいに相手が何を考えているのかまるでわからない。
 その反面、親には奇妙な価値観が定着している。親には子供を守ってやる義務があるといった考え方だ。
 社会的に自立していない十八歳以下の子供は、確かに守ってやる必要があるが、大人になった子供を、なぜ社会的弱者である高齢者が守らなければならないのか。
 「おれおれ詐欺」そうした日本人の意識の空隙を逆手にとった犯罪だ。
 たとえば爺さんが「わしじゃ。いま事故を起こした。金が五十万いる。すぐ振り込んでくれ」と電話をかけてきたとして、果たして息子や孫がすんなりと金を出しますか。「そんなもの払えるか」と、いうんじゃないですか。
 さてみなさんはこのコメントをどう評価しますか。



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