娘へ
娘へ・・・ 〜〜〜〜〜「源五郎の日記」より〜〜
3月29日、月曜日
また、桜の咲く季節が、やってきた。
今日は、お前の、2年目の誕生日だな。
私達とお前が、あのとき一緒に過ごした「離れ」は、今はもう、無い。
一年ほど前に取り壊された「離れ」のあとには、そのとき植えられた桜の若木が、
あのときのように奇麗な花を、咲かせているよ。
私は今、本館の開発主任に収まっている。
お前の量産化が一段落付いたあと、開発課は合併、本館に統合された。
そのとき、スタッフの約半分は、別の部署に配属されていった。
リストラの波というものは、まったく、恐ろしいものだ。
お前が眠っている間、「セリオ」と「マルチ」は、無事世に出る運びとなった。
ちょうど、半年くらい前のことだ。
自分がスタッフとして、最後まで開発に携われたこと、会社には、感謝し尽くせない。
この2年は、私が、お前のことをもう一度考えるのに、十分な時間だった。
あれから、2度と開くことはないと、本棚の奥にしまい込んでいた、あの日記を
今になって、やっと、開けることができたよ。
今日は、お前に、伝えたいことが、いくつかあるんだ。
一週間くらい前だったか、スタッフの一人から、「マルチ」の発注者リストに、
見覚えのある名が記されていることを、知らされた。
私も、2年近くの時間の中で、忘れかけていた、大事な名前。
そう、「彼」の名だ。
私は、そのとき、非常に大切なことを、思い出した。
あの日、公園で、尋くことの出来なかったこと。
お前との約束の、あの言葉、それが真意であるのか、ということ。
「彼」は、お前との約束を、覚えていてくれたよ。
人間にも、機械にもなれなかった、お前のために、
彼は、あのたわいない約束を、ちゃんと守ってくれた。
まだ若い彼にとって、HMを購入するということは、重過ぎる程の負担だ。
それでもなお、約束を守ってくれた彼のために、
私も、お前も、応えねばなるまい。
眠り姫も、そろそろ、目を覚ます時間だ。
お前の身体のチェックは、既に終了している。
何度も私に対して良くしてくれる会社に、また唾を吐くような真似であるが、
私はお前を、「彼」のもとへ、送り届けようと思う。
ただ、ちょっとした、悪戯を用意させてもらうよ。
2年という月日を経た再会だ。それなりの演出は必要だろう?
それと、もうひとつ。
こっちは、お前と私との、約束だ。
あのときは、結局私はそれを、守ることができなかった。
今、私の手元には、3枚のディスクがある。
1枚は、お前の記憶、お前の心。
残り2枚には、こう書いてある。
「MULTI-AI for HM-12"Multi"」と「MULTI-AI for HM-13"Serio"」
お前の、妹達の「心」だ。
彼女達が発売されて半年、町中でも見掛ける機会が多くなってきた。
しかし、彼女達の、輝きの無い表情が目に付くたび、いつも「彼」の言葉が浮かぶ。
「あったほうがいいに決まってるじゃねーか」
「そっちのほうが楽しいに決まってんじゃねーか」ってね
私は、何故彼が、何の躊躇もなく、そう言えたのか、不思議でならなかった。
そんな折だ、虫の知らせでもあったか、私は一人、お前の身体のチェックを始めた。
一ヶ月程前のこと。何故か、今やっておかなければならないような、そんな気がした。
私は、自分の、本当の過ちを、思い知らされたよ。
2年前のチェックでは、気が付かなかった、いや、思いも付かなかったことだが、
お前のメモリには、既に、使用不可の領域が存在するのだ。
そこに何があるのか、お前は、知っているのだろう?
「彼」との一週間の記憶だ。
彼とともにあるお前の記憶は、喜びに満ちていた。
ビュアーでそれの一つ一つを見ながら、私はやっと、気付いたよ。
お前は、耐え切れないほどの悲しみを得たけれども、
その何十倍もの喜びをも得て、そして与えていたんだな。
だから、「彼」はそこまで、お前を信じることが、出来たのだな。
私が開発室の主任でいられるのも、今年で最後と噂されている。
私の最後の仕事は、お前に、お前の妹達を会わせてやることだ。
認可は、もうすぐ降りる。
数ヶ月後には、お前が妹から、声を掛けられることも、あるかもしれない。
妹達は、お前と違って、しっかり者だ。
お前の性格では、彼は喜ぶだろうが、人様にはとても薦められたものじゃないからな。
最後に、お前に言いたいことがある。
私は照れ屋だから、お前にも彼にも、面と向かって言うことが、まだできていない。
しかしいつか、お前達とまた会う機会があったら、その時は、ちゃんと言いたいと思う。
だから今は、これで勘弁して欲しい。
2年前のあのとき、お前に言えなかった言葉だ。
娘へ
「ありがとう」