みずいろ そらいろ みずいろ そらいろ             〜〜〜〜〜another To Heart"Serio"〜〜

六時限目 「また あした」


 「・・・ん・・・」


 ゆっくりと開きかけた瞼に刺さる刺激が、私を眠りの渕から揺り起こした。
恐る恐る薄目を開けると、中途半端に閉ざされたカーテンの隙間から差し込む日差しが、
薄暗い部屋の中に、光の坂道を刻んでいた。

 気だるい身体を横倒しにして、枕元を弄る。
左手が引きずり出してきたのは、ベッドの枠板と敷布団の間に転がり込んだ目覚し時計。
片手で握り締められる程の小さい箱、その文字盤を、きらきら埃の舞う日差しに照らすと、
長い針も、短い針も、同じく8の辺りを指差していた。


今日も、昨日も、目覚しのスイッチは、入れていなかった。


 一昨日の午後、結局私は、通学バスの行く道をそのまま歩いた。
そして研究所へ登る坂道に差し掛かった辺りで、手近な停留所に到着していたバスに
乗り込んでから、そのまま家に帰った。
 本当は、ずっと歩いて帰ってしまおうとも思っていたのだけれど、さすがにあの坂を
徒歩で登りきるだけの元気は、あのときの私にはなかった。
自分の背中を、バスが何度か追い抜いてゆく度に、セリオが私を見詰めている気がして、
言いようのない、嫌悪感が襲った。
バスに乗り込む時も、何かしらの理由でバスに乗る時間を遅らせたセリオが、
吊革に捉まったまま立っているのではないか、とか、余計な心配ばかりしていた。

 家に辿り着いたのは、まだ午後2時に差し掛かったばかりで、近所の子供たちの遊び声も
聴くことのできない、ぽっかりとした時間だった。
玄関のドアに手を掛けようとしたとき、一足先にドアノブが回って、
私は、午後の買物に出掛ける母に出くわした。


 ガバッ・・・


 布団を跳ね上げて、上半身だけ、ベッドから起き上がる。
両手に包まれた目覚し時計は、あれからまた5分程、針を進めていた。
まだ重い霧の充満する身体と頭に、すう、と一つ、朝の空気を流し込んで、
左足を、半日ぶりに地に付けた。

 カーテンの隙間から、玄関前の街路を覗くと、近所の小学校に通う子供たちが、
道を占領して歩いている。
昨日の夜半降り続いた雨はすっかり止んで、晴れ渡った空に綿雲が、ひとつ、ふたつと
浮かんでいた。

 窓に背を向けて、摺り足でドアを目指す。
起き上がると洗面所に足を運ぼうとするのは、身体がそう、習慣づけられてしまっていることも
あるのだけれど、なにか色々と、気持ちに整理の付かないところが沢山あって。
それで、とりあえず、顔でも洗ってみればなんて、といっても、恐らくは気安めにしか過ぎないの
だろうけれど。

 ドアノブに手を掛けようとする、その瞬間。


・・・カチャ


 一足先にドアノブが回って、私は、母に出くわした。


「あら、もう起きたの? 空」

「・・・あ・・・」


 一昨日のあのときも、こうして言葉を飲み込んでしまった。


「まだ、気分よくないみたいね。
 朝ご飯、下に用意してあるから、後で食べにきなさい。」

「・・・うん・・・」

「今から出ても間に合わないわね。
 今日も休むって、連絡いれとく?」

「・・・あ・・・うん・・・」


 子供部屋の戸口を挟んで、二言三言、母さんの方から一方的に言葉を交わしたあと、
扉は、ぱたん、と軽い音を立てて、閉じられた。
扉の向こうから聞こえる、階段を降る足音が、次第に小さくなり、やがて消えた。
私は、足音が消えたその後も、扉の前に突っ立ったまま俯いて、
ひとつ、溜め息をついた。


 シャッ!!


 昨日の夜、閉め忘れたカーテンを閉めきって、私は、ベッドに潜り込んだ。


・・・
・・


 昨日も、こうやって布団に包まったまま、何度もうたた寝を繰り返すうちに、
何時の間にか朝が昼に、昼が夜になっていた。
 やわらかな眠りから覚めると、嫌な位に意識がはっきりとしてきて、
一昨日のこと、一年半前のこと、自分が思い出したくないと、記憶に蓋をしている
ことばかりが、鮮やかに首をもたげてきた。
 そのような痛みに、悶々としているうちに、身体の奥があたたかくなっていって、
また逃げるように、眠りに落ちていく。

そう、今このときのように。


なんで、あんなことしたの?


『・・・私は・・・メイドロボットですから・・・』


セリオは、なんにも悪くないのに


『・・・なんで?・・・なんでよぉ・・・』


悪いのは、わたしなのに


『セリオは、それで平気なの?』


私は、平気じゃなかった。だから。


『・・・メイドロボ・・・です・・・』


だから。


だから。


『・・・痛い・・・です・・・』













 今日二度目の目覚めを迎えたとき、絨毯の上に転げ落ちた目覚しは、
11時過ぎを差していた。

「・・・はぁ・・・」

身体は力を失っているのに、意識はというと、不釣り合いにどんどん明晰になってゆく。
このまままた、同じ痛みに苛まれることに、いよいよ嫌気がさして
私は、階下に降りることにした。
もちろん、どちらにしても、気の進む選択ではなかった。
誰にも会いたくはなかったし、自分とも向き合いたくは、なかったから。

 寝汗を含みきったパジャマは、昨日から着替えていないこともあってか、
時折肌に纏わりついて、私の歩みを鈍らせる。


 キシィ・・・


 一階に降り立つとき、一際大きい軋みが立ってしまったけれど、居間かどこかに
居るはずの母さんは、気付いていないのだろうか、一階は、静まり返ったままだった。
 恐る恐る、ダイニングキッチン越しに、居間を覗き込む。
テレビの灯も灯っていない室内、その中心に居座る厳ついテーブルの前で・・・

「あら、起きたの?」

テーブルの前で頬杖を突いた母さんと、目が合った。

・・・
・・


「朝ご飯のはずが、お昼になっちゃったわね」

「・・・ごめんなさい・・・」

「お昼作る手間が省けて、丁度いいわよ」

 ダイニングテーブルについて肩身を狭くしている私の前に、暖めなおした味噌汁を
差し出して、母さんは悪戯っ子のように、笑った。
一皿、二皿と電子レンジから出されるかつての朝食は、まるまる一人分、
手を付けていないそれで、母さんから手渡された茶碗が揃うと、三分の一に切り取られた
食卓が出来上がった。

 箸にちょこんと乗る程度のご飯粒をつまんで口に運び、軽く吹き冷ました味噌汁を一口吸う。
昨日の夕食は、あれこれと要らない考え事をしていて本当に気分が悪くなってしまい、
結局食べず終いだったので、これがほぼ丸一日ぶりの食事だった。
 大根のすっかり染みきった味噌汁は、母さんが煮立たせてしまったらしく、ちょっぴり熱い。
その母さんは、二人分のほうじ茶を煎れ終わったところで、
小さい方の、母用の湯飲みを手にして、私の向かい側に座った。
 私が黙々と箸と口元を動かしている間、その様子を覗き込んでいた母さんは
何も言わないで、時折、お茶をすすっていた。


「・・・もう、2年くらい経つのかな?」


 鮭の切り身に伸ばした箸の先が、ぴくりと止まる。
じっと私を見詰めていた母さんが口にした、一言。
もう脂の弾ける音が消えた鮭をひとかけら、噛み締めて、私はゆっくりと、視線を上げた。


「・・・ううん、あの時も、確かこんな感じだったかな、ってね」

「・・・」

「ちょっと、懐かしく思ったから、ね」

「・・・」

「・・・」

「・・・」

「・・・ん?どうしたの?」



「・・・怒らないの?」


 ご飯を半分程食べ終えた、薄手の磁器の茶碗をテーブルに置いて、母さんに問い掛ける。
1年半前、聞きたくて聞けなかったこと。


「・・・何があったって、聞かないの?」


 母さんに、怒って欲しい訳でもないし、理由を詮索してもらいたい訳でもなかった。
ただ、何で母さんがこんな私を、涼しげに見ていられるのか、釈然といかなかった。
ただ、それだけ。


「じゃあ、空は母さんに、聞いて欲しいの?」

「・・・」

「むきになって怒って、空が嫌がってること、ほじくりかえして欲しいって、思ってるの?」


 母さんは、ふう、と一息吐くと、優しく包み込むような目をして、
自分が一生分の力で頑張っても、見せられないような目をして、言った。


「・・・あのね、空」

「・・・ん?」

「どうしてもね、逃げなきゃどうしようもないときって、やっぱりあるのよ。
 そんな時は、ちょっとだけ、逃げちゃってもいいって、母さんそう思うの」

「・・・」

「心の整理がついて、また歩けるようになったら、ゆっくり歩けばいいの」


 頬杖をついて、余った手で急須の蓋を開けたり閉めたりして弄んでいる母さんは、
少し目を逸らして、独り言のように、呟く。


「でもね」




「見てるだけって、いうのも、結構大変なのよ」




 母さんの仕種を見詰めていた私と、母さんの視線がふと、交差する。
母さんは、優しそうで悲しそうで、暖かそうで辛そうな、複雑な顔をしていた。
 茶碗に置いた箸を取り直して、味噌汁の最後の一口を流し込む。
人肌位に冷めた大根を食べ終えると、まだテーブルにはおかずもご飯も残っているけれど
お腹と胸はいっぱいになっていた。


「ん?もういいの?」

「・・・うん・・・」

「じゃあ、片づけるから、空、シャワーでも浴びなさい」

「・・・うん・・・」

「新しいパジャマと下着、出しとくから。
 一昨日から、お風呂入ってないでしょ?」

「・・・」

「・・・」

「・・・ねえ・・・お母さん・・・」

「ん?なあに?何か言った?」

 私の背中の少し後ろから聞こえる母さんの声は、ちょろちょろと水の流れる音と、
食器の重なる音に混ざり合って、聴き取り難い。
立ち上がって、母さんの背中に向かって、心持ち、強い声で。


「・・・ロボットって・・・ぶたれると、痛いのかな?・・・」

「・・・」

「・・・えっ・・・と・・・」

「・・・なに、言ってんの」

「・・・」

「痛く無いわけ、ないじゃない」

「・・・」

「友達に、ぶたれたんでしょう?・・・痛いに決まってるじゃない」

「・・・あ・・・」

・・・
・・


 バスタオル一枚を身体に巻き付けただけで二階に上がった私は、ベッドの上に腰を下ろして、
汗が引くのを待っていた。
濡れた髪は適当に拭って、タオルも掛けずに放り出してある、いつ乾くのか解らないけれど。
そのまま、羽根布団の上に倒れ込むと、天井の木目がいつもより、ちょっと大きく見えた。


『・・・いいじゃない、明日は日曜なんだし、ゆっくり休んだら?』


 シャワーからあがる時に、母さんがそんなことを言っていた。
そうだった、今日は土曜日だった。
土曜日は一時限が60分と、10分長くなっているけれど、あと2時間足らずで終わる。
結局、二日続けてズル休みしてしまった、ということ。


『今日から一週間、みなさんと一緒に学園生活を送ることになりました・・・』


 土曜日、あれから一週間経った。
セリオと会った、あの日から、ちょうど一週間。


『・・・ありがとう・・・ございます・・・』


 セリオとの一週間も、もうすぐ終わる。
また、一人だけで窓枠の外をゆっくりと流れる季節を眺める生活が、始まる。


『奇麗な・・・水色ですね・・・』


 明後日の月曜日には、右肩の向こうに見えた涼やかな彼女は、失われてしまう。
風が巻くと鼻をくすぐった、淡い蜜柑の香りは、もうすぐ、失われてしまう。


『痛くないわけ、ないじゃない』


 痛々しく折れた右腕は、治ったのだろうか。
昨日も、今日も、ちゃんと学校に出てきていたのだろうか。

私にぶたれたこと、ほんとうに、痛かったのだろうか。


『・・・痛い・・・です・・・』


机の上を見遣ると、一対だけなった空色の硝子玉が、光を失って、転がっていた。






まだ、間に合うよね。


 微かに柔軟剤の匂いのするパジャマを、しわくちゃのベッドの上に放り投げて、
手にしたトレーナーとジーンズのスカート。
鏡も見ないで強引にまとめた髪の先に、約束の髪飾りを結わえつける。
ソックスを履き終え、飛び出すように階段を駆け降りると、
母さんが、欠伸をしながら廊下にモップをかけていた。


「ちょっと、行ってくる!」


 母さんのサンダルと並んで揃えられているスニーカーに両足を突っ込む。
いつも緩めに紐を結んでいる靴は、するりと足を飲み込んで、
私は、玄関のドアを開けた。
 真昼の日差しは、目が眩むほどにまぶしくて。
少し蒸す、水溜まりの乾き始めた道へ、走り出す。


「・・・あらら、元気ねぇ・・・」


 5月半ばを思わせる陽気が、アスファルトを叩いてゆらゆらと熱気を立ち上らせる。
10数メートルも早足に駆けると、もう額に、汗が滲んできた。
生来、体を動かすことが不得手な私の息は、交差点から交差点に行く道のりでさえ
切れ切れになってしまう。
 息苦しさに耐え兼ねて、動きを鈍らせる両の足。
屈み込んで、靴紐をぎゅっと結び直して、一回り大きい蝶結びをまた揺らす。
いつも二、三歩先を行く気持ちを追いかけてゆく。

 歩いては走り、また歩きを繰り返して、最後の角を曲がると、
灰色にくすんだ生地に桜色の飛沫を散りばめた大通りに、辿り着いた。
 バス停に並ぶ人影が、漸く見え隠れする、そんな距離。
背後にバスの排気音を気にしながら、歩く速度を緩めても
胸の鼓動は駆け足で、膝のあたりはぷるぷると、笑っていた。

・・・
・・


 まだ力のうまく入らない足で、ステップを踏みしめる。
10人も乗り込んでいないこの時間の車内に、荒い息遣いが響かないように
最後尾を目指す。
先刻まで、肩で息をしていた私を怪訝そうに眺めていた、
買い物袋を提げた主婦と、腰を丸めたお婆さんは、それぞれ前の方の席へ流れていった。

 いつもより五時間遅れの通学バスの車窓から見える景色は、少しだけ
彩度のチャンネルが絞られていて、それだけで、見慣れている筈のそれなのに、
全く違った街のように、感じられる。
 漸く落ち着きを取り戻した身体に、ゆっくりとひとつ、深呼吸を送ってやる頃、
大通りの桜並木が終わりを告げて、遠景に背の低いビルの並びが加わった。
研究所に向かう坂は、もうすぐ。


桜並木は何時の間にか、うす紅から新緑に、衣を変えていた。


 誰も降りない研究所前の停留所は、若干スピードを落としただけで素通りされて、
バスは、軽く横に車体を揺らしながら、学校行きの停留所に真っ直ぐ向かう。



   セリオは、今日もまた、学校に残されているのだろうか。



 商店街が、ぽつぽつと、姿を見せはじめる。
一昨日の帰り、バスに拾われた停留所が、流れては消えた。



   今日も、ちゃんとあの停留所で、バスに乗ってくれるのだろうか。



 停留所に近づくたび、とりとめのない想いが、沸き上がる。
「次で降ります」のベルボタンに、手を伸ばす。
ボタンは、私の指が触れる一足先に、大きなチャイムを車内に響かせて、紅く灯った。

 車内の乗客の約半分が、商店街に一番近いこの停留所で、降りていった。
のろのろとしたその最後尾で、定期入れを片手に、順番を待つ。
停留所に降り立って辺りを見渡すと、まだ、学校帰りの生徒達の姿は見えなくて、
私はほんの少しだけ、安堵した。

・・・
・・


「お嬢ちゃん、乗ってかないの?」

「・・・あ・・・いいです・・・すいません・・・」

 帰りの停留所の前でセリオを待ち始めてから、これで4台のバスが来て、発っていった。
つい先刻まで頻繁にに見ることができた、他校の生徒の姿も、二、三十分もすると
すっかり疎らになって、代りに商店街へ買物にやってきた大人達の姿の方が沢山目に付くように
なってきた。
それに、ここまで西大寺女子の生徒がやってくるのは希なのだけれど、
それでも珍しく数人見つけることが出来たのは、今の一つ前のバスが過ぎていった頃だった。

 鼻に付くバスの排気ガスの匂いを、学校の方から吹き抜ける風が拭っていく。
私がバスに乗った時はほとんど凪いでいた空に、また、風が戻ってきていた。
ふい、と見上げると、気まぐれな綿雲が、仲間を増やして、早足で駆け回っていた。


 ブロロロロ・・・


 停留所から、10メートル位離れて待つようになった私の横を、また一台、バスが通りすぎた。
今度で、5台目。
商店街には、道草帰りの生徒達が、見え隠れしている。

 空色の硝子玉をいじりながら、また一つ、溜め息を吐く。
ここから僅かに見通せる交差点からこちらに向かって来た人影は、またセリオではなかった。
私の学校の制服に良く似た色合いのジャケットを羽織った女性が私の横を抜けて、
その後ろを行く、買物帰りの親子の明るい話し声が近づいてくる。
その後ろに。

後ろに。


高台から吹く柔らかい風が、淡い蜜柑の香りを、乗せてきた。





「・・・」


「・・・」


「・・・おかえり・・・」


 セリオの、緩く開かれた唇から返された言葉は、時を同じくして到着した
バスの轟音に、溶けて消えた。


 帰りのバスは、空席が目立った行きとはうってかわって、乗り込むときにはもう、
座席はいっぱいになっていた。
 後ろの入口近くの吊革へ手を伸ばした私の隣に、セリオがスチールパイプを掴んで並ぶ、
パイプを掴んだ手は、一昨日、痛々しい姿を露にしていた、右手だった。


「右手・・・治ったんだね」


 バスが、動き始める。体がぐっと、後ろに引かれる。


「はい・・・二日前の夜、研究所の方に、補修していただきました・・・」


 セリオの右手は、あの出来事がまるでなかったかの様に、しなやかに彼女の身体を
支えていた。不意に気が付いて、顔を覗き込むと、頬の擦り傷も、全くなくなっていた。


「・・・もう、大丈夫?」


「右腕は・・・肩から完全に交換しました。
 あの時のような事態に備えて、スペアのパーツが用意されています」


「・・・ほっぺたも、奇麗に戻ったね」


「皮膚の破損は、日常起こり得る事態ですので、
 補修はコーティングの塗布程度の簡易なもので済みます」


「そうなんだ・・・」


 バスが坂に差し掛かる頃には、私達は、言葉を交わすことなく、ずっと、外を流れる
苔の乾き付いたコンクリートブロックの壁を、見ていた。
やがて、窓枠の上から見上げてもてっぺんの見えなかった壁の背が低くなり、
研究所を取り巻く薄緑色のフェンスと、研究所の棟々が姿を現した。


・・・プシュ〜〜・・・


 通学バスは、研究所前の停留所で、私とセリオの二人だけを降ろして、帰りの下り坂に
消えていった。
私が研究所の門を少し入った辺りまで歩いていって立ち止まると、
セリオもまた、その場に立ち止まって、振り向いた。


「・・・ねえ・・・セリオ・・・」


「・・・はい・・・」


「今日で・・・最後なんだよね・・・」


「・・・はい・・・」


 セリオは、相変わらずの無表情で、淡々と応える。
彼女の瞳の奥に、寂しげな色が見え隠れするのは、私がそれを、探そうとしているから。
それは、解っていた。


「・・・これから・・・どうなるの?」


「私は・・・量産試作機です・・・
 これから暫くは、研究所でのテスト運用を行うことになります・・・」


「・・・その・・・後は?」


「・・・わかりません・・・」


「・・・テストが終わったら・・・壊されちゃうの?」


「・・・わかりません・・・ただ・・・」


「・・・ただ・・・?」


 セリオが付け加えた一言に、一縷の望みを繋ぐように、問い返す。
知らず知らずに、セリオとの距離が、短くなる。


「・・・私の記録と、この身体は分離されて、各々保管されると・・・」


「・・・」


「そしてまた、開発において必要とされる度に、活用されると・・・
 そのように、聞いています・・・」


「・・・保管・・・?」


 俄かに、私の表情が曇ったのを見て取ったのだろうか、
セリオは、間を置かずに、言葉を付け加えた。


「・・・人間で言えば、睡眠状態というのが、近い表現です・・・」


「・・・それじゃあ、いつ起きられるの?・・・起きてから、また外に出られるの?」


「・・・わかりません・・・」


「・・・そんなのって・・・」





「・・・それが・・・そのために・・・私は作られたのです・・・」





「・・・」


「・・・もう・・・戻らなければいけません・・・」


「・・・」


「・・・さようなら・・・空さん・・・」


 セリオは、最後の別れの挨拶を、深々と頭を下げて言うと、長い赤毛をさらり、と揺らして
私に、背を向けた。
彼女の瞳は、もう私にではなく、帰るべきところに、向けられていた。



   言わなきゃ



 広い前庭の奥に見える、広い棟の割には小さな入口に向かって、一歩一歩、
セリオが、遠ざかってゆく。
残された時間が、一秒一秒、削られてゆく。





   言わなきゃ





「・・・セリオっ!」


 数十メートルの、残された時間を、繋ぎ止めるように、
途切れそうな糸を、手繰り寄せるように、セリオを呼ぶ。
 大小の乗用車の駐まる駐車場と、潅木の並ぶ植栽の間を真っ直ぐに伸びる道。
私の声が届いたのか、その真ん中で、セリオは振り返る。


「ごめんね・・・」


「・・・」


「一昨日・・・痛かったでしょう?・・・ごめんねっ」


 セリオは、何も応えなかった。
ただ、遠目でよく見えなかったけれど、セリオがほんの少し、微笑んで見せてくれたような、
そんな、気がした。


「・・・それと・・・」


「・・・」


「また・・・会えるよね・・・」


「・・・」


「・・・セリオがいつ起きるのか、また起きたとき、私がどこで、何やってるのか
 ・・・そんなこと、解らないけど・・・」


 私はそう言って、胸元に揺れる硝子玉を引き抜いて、空に振り上げて見せた。
束縛を解かれた髪の一房がほつれて、その何本かが、頬を叩く。


「・・・これっ!」


「・・・」


「・・・ずっとずっと、大切に持ってるから。
 私が変わっちゃっても、セリオが見つけてくれるように、持ってるから!」


「・・・」


「・・・だから!」


「セリオも、ずっとと持っててよね!
 なくさないように、持っててよね!
 セリオが、どこで、どんな風になっちゃってても、きっと見つけてあげるから!」


 セリオは、私が結わえてあげた、小さい三つ編みの先に光る、もう片方の硝子玉を
手にとって、私がそうしたのと同じように、引き抜いた。
彼女は暫くの間、掌に転がる水色の硝子玉に目を落としていて、
そして、両の手で包み込むように握り締めると、また言葉を繋ぐことなく、
私を、見つめかえした。


 でも、セリオの顔はすぐに、滲んで見えなくなってしまった。


「・・・空の、宝物だからね!」


「・・・」


「・・・友達の・・・しるし・・・だからね・・・」


 一陣の、一際強い、風が吹いた。
頬を伝うはずの涙を、舞い上がった桜の花びらと一緒に、吹き飛ばして、


「・・・セリオ・・・さよ・・・」


 喉の奥で、言葉を止める。


「・・・」


「・・・」


「・・・」


「・・・ううん、違うよね・・・」





「・・・じゃあね、また・・・あした・・・」





 私は、セリオに背を向けて、歩き出した。
また会えるからって、言い聞かせながら。
だから、今日はもう、振り向かないんだって、言い聞かせながら。


 研究所の正門をくぐると、小高い丘の上から、180度に広がる空が見えた。
足元に薄雲を纏った空に、握り締めていた硝子玉をかざすと、




まだ見えない、あしたが、見えた。



「みずいろ そらいろ」 おしまい


下校の、ベルが鳴ります


五時限目へ
「さおりんといっしょ」へ
「Forest note」へ
「だ好き」へ