*固有名詞など、削除・省略したところがある
1 はじめに
私は、故幸子(以下、姉と呼びます)の妹です。この裁判では原告に入っていませんが、実際には両親と同じ考えで、この裁判には最初から関わっています。この陳述書で述べますように、私は両親と同じ意見で、被告医師が慶応大学病院入院中に姉の病を作り出し、さらに、その後の治療や関わりあいの中で姉の病気を悪化させ、最後には死に至らせたと考えています。
ところが被告医師は「準備書面」の中で、姉は病院に入院する前から境界性人格障害の症状があったと主張しています。しかし私や両親、姉を子供の頃から知っている私達の親戚や姉の学生時代の友人に聞いても、被告医師のそのような主張を信じる人は一人もいないと思います。入院前の姉を知らないのに、被告医師がなぜそのように断定できるのか不思議でなりません。
私は1歳違いの姉と共に、物心ついてから20年以上一緒に生きてきました。年子であるとはいえ、性格や好みが違うので、そういうところで姉の事は自分なりに客観的に捉えてきているつもりです。慶応大学病院に入院する前の姉を知らない被告医師に、姉の生育歴についてあれこれと言われる事には大変憤りを覚えます。
そこで、以下では、被告医師の描く入院前の姉と、私が知っている入院前の姉がどれほど違うかという事について、まず述べていきます。
2 私と姉との関係について (発病前)
(1)子供の頃の、私と姉の違い
私は姉と1歳違いで、1974(昭和49)年に生まれました。両親や姉、あるいは親戚から聞いたところでは、小さい頃、私は年中外で遊び回っている、わんぱくで手が付けられない子供だったという事です。実際私も、子供の頃、周りからそのように言われていた事を覚えています。姉はそういう私とは正反対で、読書が大好きで物静かな子供でした。しかし、私は思った事をなかなかはっきりと言えない性格でしたが、姉の方は言うべき事をきちんと言うというところがあり、私から見て大変に頼りがいのある姉でした。
姉と私は、両親のどちらと行動を共にするかという事についても大きく違っていました。例えば、子供の頃から私達家族は、[中略]デパート[中略]に行くのが大好きで、よく週末になるとショッピングに出かけていました。そういう時は必ず、父と姉は手をつないで先頭を歩き、その後に母と私が話しながら歩いていました。私と母はそういう時、いつも、「あの2人は仲がいいからね」などと話しながら、父と姉の後をついて歩いていたのをよく覚えています。
また、父と姉はテレビの野球中継を見ながら会話をしていたことがよくあり、絵画やクラシック音楽の事についてもよく話していたと思います。しかし私は、姉ほどは野球や芸術に関心がなかったので、父とそういう会話をする事はなかったと思います。むしろ、私の話し相手は主に母であり、近所の幼なじみと遊んだことや学校での出来事についての話をする事が多かったと思います。
このような違いのほかに、デパートに行った時に、どこの売り場に行くかという事でも姉との違いははっきりしていました。デパートに行く時は、大抵集合時間と場所を決めて、両親と子供の二つのグループに別れて買い物を楽しみました。そういう時、姉は書店で本を立ち読みして気に入った本を買ってもらえるのを楽しみにしていましたが、私はぬいぐるみを買ってもらえるのを楽しみにしていました。ですから両親から、「お姉さんを見習って本を読みなさい」と言われた事もありました。
ある時期まで、姉と私の大きな違いは、姉よりも私のほうが、わんぱくで手が付けられない子供だったというぐらいでした。しかし私は小学校3年生の時、自転車に乗っていたところを車にはねられ、1か月近く入院しました。両親の話によると、事故に遭って病院に運ばれた時はかなりの重傷だったようで、その時に両親は病院の先生から、頭を激しくぶつけたので障害が残るというような事を言われたそうです。私自身も、事故に遭う直前から病院で意識が戻るまでの記憶は全くありません。この事故以降、母は「生きていればそれでいいから」というような事を言う事がたまにあり、その結果、私はある意味では母からは甘やかされて育てられてきたと思います。
例えば、私の勉強の成績には波があり、いい時と悪い時との差がはっきりしていたのですが、その事についてあれこれと言われるような事はありませんでした。また、私の性格も、事故以降は大きく変わり、それまでのような活動的なところがほとんどなくなり、外で遊ぶよりも家の中で遊ぶ事が多くなりました。事故に遭う前は木登りでも何でもしていましたが、事故に遭ってからはスポーツをするような事はほとんどなくなり、自転車に乗るようになったのも、ようやく数年前からです。このように私は、事故にあった後、とても内向的な性格になっていったと思います。
そんな私とは正反対に、姉は勉強もスポーツも出来ましたし、言うべき事はきちんと言う子供でしたから、姉は私とは違い、将来を期待されていたのだと思います。
このように私たち姉妹は、性格は随分異なっていましたが、仲は大変良かったです。テレビを一緒に見たり、同じ漫画や本を読みあっていました。
例えば、高校の時、姉は、深夜テレビで放送されていたお笑い番組やロックバンドの出る音楽番組が大好きでした。当時、私たち子供が見るテレビは、子供部屋の押入れに入っていたので、深夜、私達はこっそり押入れを開けてそのような番組を見て、思わず笑ったり歓声を上げたりしていましたから、不審に思って母が様子を見に来る事もありました。
また、姉と私は少女漫画が大好きでしたので、あの話は、この後どうなるんだろう、などという他愛もない話を2人で明け方までしている事もありました。
テレビや漫画のように、私と話が合うものもありましたが、私よりも姉の方がずっとよく知っていたのが、小説などの文学作品でした。特に当時の姉は、渋澤龍彦や村上春樹の小説などを愛読していましたし、海外小説もよく読んでいたと思います。今でも姉の部屋には、たくさんの本が並んでいます。私もそのうちのいくつかは姉に勧められて読んだ事があり、姉と私の共通の話題になる事もありました。しかし、私と姉との大きな違いは、やはり姉は小説を初めとしてたくさんの本を読んでいて、いろいろな事をよく知っていたというところではないかと思います。
それ以外にも私と違う点は、姉は7歳の頃からずっとやめずにバイオリンを弾いていたところにあると思います。私も姉と一緒にある時期までは習っていましたが、その後興味を失い、ある時期からやめました。しかし姉はずっと習い続け、大学に入ったらオーケストラに入る事を夢見ていたように思います。
このように、バイオリンを続けていた事やスポーツが得意だった事、文学作品をよく読んでいた事で、姉は父とスポーツや芸術の話が出来たのだと思います。また、姉はそういう会話をする中で父から影響を受けていたと思います。
このように、姉は普通の女子中学生や女子高校生、女子大生と大きく変わらなかったと思います。テレビの娯楽番組やお笑い番組を見て、少女漫画と小説が大好きで、クラシック音楽を聴き、西洋の絵画が好きだったのが姉でした。そして、私のつたない人生経験の中で、姉と似たような趣味や経歴を持つ女性は、たしかにそれほど多くはありませんが、それでも、幾人かは知っています。
(2)中学時代から大学入学までの姉
姉は中学受験に失敗していました。希望していた本命の学校に受かる事が出来なかったので、[中略]中高一貫の女子校に入学し、そこで6年間を過ごしています。そのため早くから、希望通りの大学に行きたと考えて受験に臨んでいたと思います。[中略]
92年4月、早稲田大学に入学した後、姉は希望通り早稲オケに入りました。しかし、いわゆる体育会系の団体と同じような上下関係があり、そのような人間関係を経験した事がなかった姉は、そういったやり方についていけないようで悩んでいました。例えば合宿に参加した時、姉を含め一年生女子は、演奏ではなく食事の準備や雑用をさせられたという話を聞いた事があります。その頃、姉は毎晩母に相談していました。おそらくこの頃から、姉の相談相手や話し相手は父ではなく母に変わっていったと思います。
(3)サークルでコンサートミストレスになる
結局姉は、友人数名と共に早稲オケを辞めて、早稲田大学にある弦楽サークルに入りました。このサークルには早稲オケのような上下関係がなく、姉は当初は人間関係などにも問題を持つ事なく上手くやっていたようでした。その間、サークルのメンバーだった2人の男性から同時に交際を求められていましたが、姉はどうしてよいのか判断できず、その恋愛相談などを毎晩のように母と私にしていました。姉はそれまで女子校だったため、男性と交際した経験がなく、また、それまで男性を自分の方から好きになって交際したいと考える事さえなかったと思います。それだけに姉は、二人の男性から同時に交際を求められた事には戸惑っていましたし、相談を受けた母も、姉から異性について相談をされたのが初めてだったので随分心配して、毎晩のように私も加わって姉の話を聞いていた事をよく覚えています。
3 発病から入院まで(〜1995年3月)
(1)サークルの運営をめぐる軋轢
姉が弦楽サークルに入ると、姉が入っているという理由で、私もこのサークルに加入し、チェロを弾くようになりました。サークルの主な活動は週2回、6月と11月末の定期演奏会に向けて練習を行う事でした。しかし、その合間を縫って気の合う仲間でカルテットを組む事も出来ました。例えば大学二年生の時に、姉は何人かの仲間と小人数編成のグループを作り、ヴィヴァルディの四季を演奏した事があったように思います。
このように弦楽サークルは、早稲オケと違い、気の合う仲間同士が気軽に演奏できる雰囲気があったと思います。しかし、私は加入後すぐに、このサークルでは楽器が弾ける人が注目されてサークル内での発言力も強いという事に気がつきました。また楽器の演奏が上手な人は、サークルの役職につく可能性が非常に高いという事も分かりました。
サークルのリーダー職は、定期演奏会までに演奏をまとめていく「コンサートマスター」(男性であれば「コンマス」と略称される)や「コンサートミストレス」(女性であれば「コンミス」と略称される)でした。サークルでは、年2回行われる定期演奏会に向けて、全員で曲を決めて練習をしていきます。
演奏会直前には、特別にお願いした指揮者が指揮をとって練習をするのですが、それに至るまでの練習で指揮をとって演奏をまとめていくのは、コンマス・コンミスの仕事でした。ですから、この役職に選ばれる人は、音楽や演奏について知識や経験があって、サークルの中でもよく意見を言い、誰からもその人の意見が支持されるような、合奏団の中で最も力のある人として認められるような人でした。姉は幼い頃からバイオリンを習っていたため、サークルの中ではバイオリンが弾けるほうでした。そのため、サークル内でも発言力があり、次期コンサートミストレスとして注目されていました。
コンミスは、サークルの次期最高学年の3年生、つまり現2年生の間から、夏の合宿で同学年の総意で選出され、そして上級生、つまり現3年生の意見を取り入れて選出するのが慣例だったようです。その結果、まず同学年の間では、姉をコンミスにしたいという声が大きく、また上級生の要望もそのようなものであったため、姉はコンミスになりました。しかし、姉は最初からコンミスになる事を望んでいたわけではなく、いわば仕方なく引き受けたという事を聞いた事があります。こうして93年8月の夏合宿で、姉は正式にコンミスに選ばれました。
上級生が姉をコンミスに推薦した理由は、音楽的な知識や経験に加えて、全体を統率する指導力を持っていると考えられたからだと思います。ただし、姉の上級生の場合、サークルの運営はコンミスの女性1名だけによって行われていたわけではなく、実際には、彼女を支える男性2名を加えた合計3人によって担われていたと思います。
また、コンミスの女性が交際していた男性は、さらに一つ上の上級生で、先代のコンマスでした。ですから、上級生のコンミスは、たくさんの人たちによって支えられていました。また、姉の上級生たちは、大学に入る前から楽器を習っていた人が多かったので、全体としてまとまっていたと思います。姉は、この上級生によるサークル運営を模範のようなものとして見ていたように思います。
93年11月末のコンサートで、上級生は引退しました。引退した上級生は、その後はサークルの運営に口出しをしないというのが慣例だったようです。こうして、それ以降、姉がサークルのリーダーになっていきましたが、それと同時に問題が起きました。
姉がコンミスになった時、姉の学年にいたメンバーは、姉を除けばほとんど楽器初心者でした。これに対して姉の下級生である1年生(以下、私とは同級生ですが、「下級生」と呼びます)には、幼少の頃から楽器を習っていた人が多くいました。したがって、下級生のほうが上級生に対して演奏家としては上位にいたために、彼らの発言力が強く、しかもサークルの運営については自分たちの考えを持っていたため、彼らはその後、サークル内で積極的に発言していました。
しかし、姉がコンサートミストレスになって出した方針は「一生懸命練習をした人を評価する」「楽器初心者でも頑張って練習をすれば、楽器経験者よりも評価する事もある」というものでした。ですから、姉は練習にまじめに参加するメンバーを中心にサークルを運営していこうとしました。
下級生たちは、演奏技術が上であるのに自分たちが運営上で優先されない事に不満を持ち、その結果、姉と下級生が対立する場面が次第によく見られるようになりました。そういう時、上級生は全く介入しませんし、姉の同級生も下級生に対しては音楽上の問題であるという事で口出しができないという状況になりました。また下級生は、最上級生とカルテットを組んだりして、最上級生とのつながりを、一学年飛び越して作っていました。
私から見れば、これは単なる「いじめ」でした。「いじめ」でよくあるように、姉の場合も誰かが介入すれば状況は違っていたと思います。しかし、傍観者としての態度をとる人たちがあまりにも多かったので、私は当時から、姉の下級生はもとより、上級生にも同級生にも怒りと不信感しか持っていませんでしたし、現在もそうです。
姉と下級生との対立というものが、姉にとってどれほど辛いものであったのかという事を、私は現段階では上手く説明する事が出来ません。しかし、初心者でもちゃんと練習をする人を優先してサークル運営をするという方針に対して、下級生たちが、いろいろな形でたてついてきて、姉の運営を妨害したという事は確かです。
例えば下級生たちは、練習時間に遅刻しても、演奏の上級者であるから、最前列の席に座って演奏するのは当然だと考えていました。しかし姉は、練習に出てきてまじめに活動に参加するメンバーを中心としたサークル運営を基本と考えていましたから、そういった下級生のメンバーと、週2回の練習の場で対立していきました。
例えば、こういう事がありました。下級生たち数名が麻雀をしてきて練習に遅れてきた事がありました。その人たちは練習をしなくても楽器が弾ける人たちです。姉は遅れてきた理由を聞いて、そういう理由で遅れてこないように、きつく言った事がありましたが、注意された下級生は文句を言っていたと思います。
一見些細な事かもしれませんが、こういう事の繰り返しが、週2回の練習の中であり、そのような中で下級生は、自分たちが主導権を握り、上級生を抑えたかたちで練習をおこない、そして演奏会をしたいと考えていたように思います。これに対して姉の学年の人たちは、姉を除けばほとんど楽器初心者でしたから、彼らに反論できなかったのです。その結果、姉一人が、7名程の下級生メンバーと練習の場で対立を繰り返す事になりました。
このような経緯で、サークル活動の場で対立が深まり、しかも徐々に姉の同級生がサークルに出てこなくなりました。ただし、通常の活動に参加しなくなった姉の同級生たちも晴れの舞台である定期演奏会には参加する、という虫のいい参加の仕方をしていました。同級生たちは、姉の苦境を見て見ぬふりをしていたのです。こうして、同級生が少ない中で、週2回の練習が姉と下級生との対立の場となり、姉は私を除けば、参加してくるサークルのメンバー全員が敵のような孤立無援の状況でした。
この対立が最も表面化したのは、94年の春の合宿だったと思います。姉がコンミスになってから初めての合宿で、コンミス就任からわずか数ヶ月後の事でした。私もこの合宿に参加していたのですが、この時、私の同級生、つまり姉の下級生である一年生たちに呼び出され、姉の出した方針に従うつもりはない、と告げられると同時に、姉の方針と彼ら下級生(私の同学年)のやり方のどちらにつくのか、と問い詰められた事がありました。私はどうしてそういう事をしなくてはならないのかわかりませんでしたが、姉のほうが大事でしたので、「お姉さんを選ぶ」というような事を言ったと思います。そして、そういう出来事があった事を姉に伝えました。
姉はもともと勝ち気なタイプで、人に弱みを見せようとはしませんでしたから、下級生からどのような事を言われても、一見すると何もダメージがないように見えたと思います。その事もあって、引退した上級生も姉の同級生も、その事にあまり問題を感じなかった、ということも、ことによるとあったのかもしれません。しかし先程述べたように、実際に対立の場面に居合わせていた私から見れば、それは明らかに「いじめ」であり、姉の同級生や上級生は、そのことを知っていながら介入しないという態度をとる傍観者でした。その結果、姉がサークルの事について相談できたのは、母や私しかいませんでした。姉は毎晩母と私に愚痴をこぼしていました。
ただし、姉が相談しようとして断られた人物がいます。それが、姉が当時交際していた○○さんです。以下で、姉と○○さんとの関係について述べていきたいと思います。
(2)○○さんとの交際について
前にも述べましたが、姉は弦楽サークルに入ってから、同サークルの男性2人から同じ時期に交際を申し込まれ随分悩んでいました。私はその頃、「△×君と○○君、どちらと付き合うほうがいいと思う?」という相談をよく受けていました。そのうちの一人である○○さんは、大学2年生の春、花見のシーズンに九段下にある千鳥が淵公園で姉に土下座をして交際をお願いしたということです。このことがあったため、姉は○○さんと交際する事を決めたそうです。そういう出来事があったという事は姉から聞きました。こうして姉は、○○さんと交際を始めます。[中略]彼は幼少からピアノを弾いていて、ピアノのサークルにも入っていました。また、ある時期から、姉のバイオリンの伴奏をするようになりました。[中略]二人はいつも練習をしていたと思います。
○○さんは私達の家にも遊びに来ていましたし、○○さんのお母様と会った事もあります。私はサークルも同じでしたので○○さんと接する機会は何度もあったのですが、私から見た○○さんという人は印象が薄く、どういう人かというのは姉から聞く事のほうが多かったと思います。
姉から聞く事が多かったとはいえ、二人の関係には、姉が○○さんに頼り切る、などという事は見られませんでした。むしろ、姉と○○さんは、お互いを高めあっていた、あるいは、「張り合っていた」と言ってもいいと思います。
例えば、姉は大学を卒業したら就職先を電通や博報堂などのマスコミ関係の会社か、いわゆる一流企業にしたいと言っていました。他方で○○さんは、外務省に就職してエリートコースを歩みたいという思いがあったと聞いていました。ですから、付き合う事でお互いを高めあっていきたいという気持ちを二人が持っていたように思えましたし、実際、姉の話からはそういう二人の考え方が分かりました。
また、姉の発表会の時、○○さんが姉の伴奏者として演奏していましたが、二人の演奏は、どちらがどちらに合わせるとか、二人が共に同じ音楽を奏でるというよりも、「張り合ってケンカをしている」と言っていいようなものでしたし、姉も実際、○○さんとの演奏を「バトル」と言っていっていたように思います。
このように、姉が○○さんを頼るとか、ましてや、桜井医師が主張しているような、「すがりつく」などという事は、私から見ても、姉の友人たちから見ても、姉と○○さんとの関係にはありえなかったのです。
そんな中、○○さんは大学2年生の夏、1年近くアメリカに留学しました。私も弦楽サークルのメンバーも成田まで見送りに行きましたが、姉は彼を見送るのに洋服を新調したり、彼からもらったネックレスをして行きました。その時の写真は今もあります。
○○さんは、自分が留学している間の姉のピアノの伴奏者として、同じピアノのサークルで○○さんの先輩にあたる☆さんという男性を姉に紹介していたと思います。その後、☆さんと姉が交際しているという話を聞いた事がありますが、姉からあまり詳しい話を聞いた事はなく、主に母から聞いた事がある程度でした。ただし、☆さんの伴奏が○○さんと違い、姉の演奏とぴったりと呼吸が合うという事を姉から聞いた事があったと思います。
(3)発病の経緯
すでに述べましたように、姉はコンサートミストレスになってから下級生と衝突する毎日でしたが、姉を支えられるような人は姉の学年の中にはいませんでしたし、彼らの多くは、実質的には見て見ぬふりをしていました。私もチェロ初心者のため発言力はほとんどなく、また短大生でしたので、就職活動の関係からサークルから足が遠ざかっていき、姉を支えていく事が出来なくなりました。そして姉は、次第に○○さんに相談するようになったと思います。
ところが、サークルの問題が起こり始めた時に○○さんはちょうどアメリカに留学中で、自分の事で精一杯だったようで、姉の相談に乗れるような状況ではなかったようです。○○さんが留学中、姉は一度○○さんに会いにアメリカに行きましたが、勉強が忙しいというような事を言われて、ちゃんと相談が出来なかったそうです。また現在と違い、メールによる連絡が大変に難しく、国際電話に頼るしかなかったのですが、その料金は大変に高かったようです。○○さんを除けば、姉が相談できるのは私と母で、私達は毎晩のように姉の話を聞いていましたが、サークル内の状況を変えるような妙案は思い浮かびませんでした。
そのうちに姉は、朝起きるのが辛くなり、だんだん体が動かなくなっていきました。その頃ピアノの伴奏をしていた☆さんの勧めで、東京女子医大の精神科で薬を処方して頂くようになったという事を聞いた事があります。しかし姉は、弦楽サークルのコンサートミストレスの任期が終わるまでは頑張ろうと思っていたようで、精神科で薬を処方してもらっている事はサークルの誰にも話さず、私たち家族の前では弱いところを見せていましたが、人前では元気に振舞っていました。しかし任期が終わった94年の冬頃から、本当に姉の体は動かなくなりました。私も両親もどうしていいかわからなかったので、母の友人の紹介で、桜ケ丘記念病院の精神科に勤務していた水島広子医師の診断を受けに行きました。その時も姉は一人で立っていられず、母と私が支えるようにして病院に姉を連れて行きました。その後、水島医師の紹介で慶応大学病院に診察を受けに行きましたが、その時も姉は一人で歩く事も出来なかったため、私がついていきました。
このような経緯で、姉の状態は次第に悪化し、入院後にははっきりとうつ状態になります。しかし、それ以前の姉を知らない人には想像も出来ない事かもしれませんが、姉はもともとは、ハキハキと自分の意見を言う人で、発言の内容はいつも強気で勝ち気でした。ですから、姉の状態がどんどん悪くなっていくのを見ていて、私には「信じられない」という思いが強くあり、姉が精神的な病気になってしまった事が理解できませんでした。
とはいえ、これまで述べてきましたように、姉の不調はサークルでの「いじめ」や、対立、軋轢をきっかけとして始まりましたし、定期演奏会を終えた直後から姉の状態がさらに悪化したのですから、原因はサークルの問題であると、当時私たち家族は考えていましたし、今もそれは変わりません。「失恋」はきっかけでも原因でもなかったと思います。
4 入院直後の姉(1995年3月〜5月半ば)
姉は、水島医師から慶応大学病院の大野裕医師を紹介して頂きましたので、慶応大学病院に行った時、姉は大野医師の診察を受けました。私たち姉妹は、慶応大学病院に行ったのはそれが初めてではありませんでした。私達は、小学生の頃から視力が悪かったため、何度か慶応大学病院の眼科に行った事があります。ですから病院のどこに何があるかという事は、覚えていたところもあり、精神科にも、それほど苦労せずに辿り着けたと思います。精神科に辿り着いた後、私は待合室で待ち、姉は一人で診察室に入っていったと思います。
姉が大野医師とどのような話をしたのかは分かりませんが、診察が終わって姉が出てくると、私も大野医師に呼ばれ、「お姉さんの状態が悪いので明日から入院して頂きたいのですが・・・」というような事を言われたと思います。また、その時に大野医師が「担当医師は私ではなく、桜井医師にお願いしようと思います。桜井医師は名医ですから安心して下さい」というような事を言われたと思います。この言葉の中で特に印象的だったのが「桜井医師は名医ですから」という言葉で、今でもよく覚えています。というのは家に帰って両親に姉の入院の事情を話した時に、両親を安心させるために、その話を強調したからです。
精神科に入院するという事は、それまでの姉の状態からは想像も出来ない事でしたが、とにかく姉の体が動かず、家族だけではどうにも出来なかったため、両親も姉の入院を決めたように思います。
姉が慶応大学病院に入院した当時、私は九段下にある会社でアルバイトをしていました。家族の中で私の職場が都内にあり慶応大学病院に一番近かったので、夕方5時を過ぎると、[中略]毎日のように慶応大学病院に通っていました。途中、姉のために、駅構内でケーキを買い、あるいは、病院の門を入った所にある花屋で花を買ってから行っていたことを覚えています。
姉の病室は3人部屋で、姉のベッドは病室に入って向かって右側の廊下側にあったと記憶しています。その頃の姉は、面会に行くと大抵いつも点滴をしており、その上、薬の副作用のため、意識も朦朧としてろれつが回らない時もあったため、私がどのような話をしたか、姉はよくわかっていなかったと思います。姉がそのような状態だったため、今日はどういう一日だったかとか、他愛もない話しかしていないと思います。でも、行くととても喜んでいましたし、明日も来て欲しいという事を姉はよく言っていたと思います。
5 千鳥が淵の事件と桜井医師の治療方針(1995年5月17日〜)
(1)千鳥が淵の事件の経緯
95年5月17日、私は姉を見舞うために慶応大学病院に行きました。カルテには△△さんが帰った後に姉の様子が悪くなったと書いてありますが、そういった詳しい経緯はあまり記憶にありません。姉の状態があまり良くなかったので、帰るのに躊躇したのは覚えています。しかし、面会時間が20時までだったため、規則に従って帰るしかありませんでした。家に帰り、今日の出来事を母に話した後、お風呂に入りましたが、お風呂から上がった直後、電話が鳴り、母が受話器を取りました。すぐさま母の様子が変わり、「幸ちゃんどこにいるの?」というような事を言っていたと思います。その会話の様子から、姉が病院の外にいる事が分かりました。母は動揺して受話器を落としてしまいましたので、私は受話器を拾い上げ、今どこにいるかを何度も姉に聞きました。すると、「千鳥が淵にいる」と話してくれたので、「そこで待ってて。すぐに迎えに行くから」というような事を言って、母には父に連絡するように伝え、急いで千鳥が淵に向かいました。 先にも述べましたとおり、当時、私は九段下に勤め先があったので、千鳥が淵周辺の地理はわかっていましたし、千鳥が淵がとても広いという事もわかっていましたので、すぐに九段下の交番に向かい、「縞々のパジャマ姿でサンダル履きの女性はいませんでしたか?」と警察官に話したところ「その方でしたら、麹町の警察署にいますよ」という事でしたので、急いで麹町警察署に向かいました。
あの頃はオウム真理教の地下鉄サリン事件があった後だったので、九段下は多くの警察官が警備にあたっていました。そのため、姉の発見も早かったのではないかと思いました。麹町警察署に着いてすぐに姉と会いました。「(面会の時、姉の気持ちに)気がついてあげられなくてごめんね」と言ったら姉は、「病院にいても良くならないから、おうちに帰りたい」と泣きました。「じゃあ、すぐにでも家に帰ろうね」というような事を言ったと思います。
その後、母が麹町警察署に来たので、母にも事情を説明し、その結果、退院に向けて話し合おうという事になったと思います。その後、麹町警察署から覆面パトカーに乗せてもらい、慶応大学病院へと向かいました。深夜、慶応大学病院に戻った際、桜井医師と芳賀医師、姉、母、私の5人で、今回の事件の経緯について話し、退院させてもらいたいとお願いしました。しかし、桜井医師・芳賀両医師から、「もう少し様子を見よう」と言われ、話し合いが終わり、退院しない事になりました。
(2)桜井医師から治療方針を告げられる
千鳥が淵の事件が起きた後、桜井医師は姉がいない席で、両親と私に対して、次のような治療方針を示しました。これは、母の陳述書に書いてある通りですが、私も記憶が一致しているので、同じ事を書いておきたいと思います。
@これまで家族は父親主導だったが、今後は母親主導にする。そのために、母親が家族の中でもっと発言し、姉が母親に甘えられるようにする。
Aこの方針で治療を進めていくために、母親が定期的に桜井医師と面接をする。
B姉のわがままを、両親が許してゆく。
この治療方針は、桜井医師の説明では、姉の病が、それまでの家族関係から起こったものである事を理由に立てられたものでした。それまでは、父が何でも家族の事を決めていたのですが、姉にはそれが良くないという理由であったと思います。また、姉はこれまで両親の言う事を聞いて育ってきましたが、それも良くないという事で、姉のわがままを許すという方針が出されたと思います。たしかに、妹の私が、交通事故以来、両親に甘やかされてきたのと異なり、姉の場合は、常に両親の期待に応える形で育ってきたところがあったので、私は、そういうところが姉の病気につながっている、と桜井医師が考えているのかなと思いました。
しかしもう一方で、姉がそこまで両親の言いなりになってきたようにも思えませんでしたから、桜井医師の方針には違和感も覚えたように思います。しかも、その後、姉の病気が悪化するばかりだったので、私は桜井医師に対する不信感やいらだちをおぼえる事にもなります。ただし、その事については後で述べる事にしたいと思います。
少なくとも千鳥が淵の事件直後は、まだ姉の病状がそれほど悪化していなかった事もあり、桜井医師に対する不信感は、ほとんどなかったと思います。この事件の後から、私ではなく母が姉の面会に行く事が多くなっていきましたが、私は、桜井医師の方針から考えれば、母との面会が増えることはいいことだと思ったほどです。ただし、姉が慶応大学病院から抜け出して千鳥が淵に行くという行動を取るに至った心境を考えると、私が一人で面会に行き続ける事に不安を覚えていましたから、母の面会が増えることは心強かったです。そのような状況で、私は父と同様、「(姉の)恋人役をします」と桜井医師に告げられたのです。
6 「恋人役をします」と桜井医師から告げられる
「(私がお姉さんの)恋人役をします」と桜井医師から告げられたのは、千鳥が淵の事件以降の事です。また、カルテを見ますと、6月21日(水)に、芳賀医師・桜井両医師と私の三人で面接を行っています。「(私がお姉さんの)恋人役をします」という発言は、この面接の後だったと思います。というのも、この三人の面接の時、私は両医師に対して、家族歴や弦楽サークルの事、姉の元恋人の事について話をした覚えがあるからです。ですから、その後「恋人役をやります」と言われた時には、面接でした話がきっかけになって、そのような「治療方法」が採用されたのだろうと思い、その時点では納得したのです。
また、「恋人役をします」と告げられたのは、私が一人で来院した時でしたから、カルテで確認したところ、その後私が一人で来院しているのは、6月24日(土)、6月29日(木)、6月30日(金)、7月10日(月)です。したがって、「恋人役をやります」と告げられたのは、これらの日のいずれかではないかと思います。
その日、私は姉と面会し、面会時間が終わるぎりぎりまで病室にいました。そのため、急いで病棟を出ようとしていました。姉のいる病室を出ると、そこはすぐ廊下です。廊下に出ると、向かって左側を急いで歩き、病棟を出るための扉まで行き、ドアノブに手をかけました。ちょうどその時、突然背後から桜井医師に声をかけられ、「幸子さんの恋人役をします」と言われました。
私の推測ですが、多分、この時に桜井医師は、病棟を出るドアのすぐ横(右側)にあるナース室か、その隣にある面接室のような部屋、あるいは当直医の部屋から出てきたと思われます。
このように、「恋人役をします」と、突然振り返りざまに言われましたが、私自身は面会時間が終わろうとしていたので、急いで出ていこうとしていましたし、しかも大変唐突な話でしたから、「そうなんですか」といった程度の返事をして病棟を出て行きました。その日、家に帰って夕食時にこの事を両親に話したところ、私とは別に父も桜井医師から「恋人役をします」と言われていたという事がわかりました。ですから私も含めて家族三人は、「恋人役」も「治療方針」なのだと認識したのです。しかし、この事を姉には一度も話した事がありません。
たしかに、「恋人役」というのは、今から考えれば治療法としてはおかしなものです。その当時でも父は、「そんな事できるんですか」と聞き返したという事です。しかし当時私は、お医者さんがおかしな事をするはずがないと思い込んでいました。また、桜井医師を信頼していましたし、その上私の場合、父と違って、上で述べたように、6月21日(水)に芳賀医師・桜井両医師と私の三人で面接を行って、家族歴や弦楽サークルの事、姉の元恋人の事について話していましたから、その日の話し合いを踏まえての発言であり治療方法なのだろうと考えたのです。また入院を勧めた大野医師から「桜井医師は名医ですから」という発言がありましたので安心していました。
7 姉と桜井医師との関係について
その後、姉は桜井医師の事を好きだとか、彼と結婚できればいい、といった事を言い始めます。しかし、それだけではなく、桜井医師もまた、姉の事を特別扱いしていて姉に好意を抱いていると思えるような場面に遭遇するようになりました。さらに、母を通じて桜井医師が姉の事を好きなのでは、と思わせるような話を聞くようにもなりました。
しかし、最初はそういった姉の話や母の話を聞いても、桜井医師の姉に対する態度を見ても、桜井医師は「恋人役」を演じているのだと思っていました。それは、そのように告げられましたから、当然そういう治療方針を立てて、それに基づいた治療を行っていると思ったからです。
しかし、母が病院から帰って来てから話す話を毎回聞いていくうちに、「恋人役」というにはあまりにも、その枠を超えたもののように感じるようになっていきました。そして、「桜井医師は、ひょっとしたら本気でお姉さんの事を好きになったのかな?」と思うようになりました。実際に私も、同医師が姉のベッドサイドにいて、二人が言葉も交わさずに、明らかに目で会話をしているとしか言いようがない場面に遭遇した事があります。例えば、次のようなことがありました。ある日私が姉のベッドサイドに座って、大好きな漫画の話などをしていました。すると、桜井医師が病室に入ってきて姉の容態を聞き、それから隣に座り、私と姉が話していた話の中に加わっていきました。ところが、いつの間にか私は話の輪に加わっていけなくなりました。その時、姉と桜井医師は「二人だけの世界」で話をしている「恋人同士」としか言いようがない状態でした。姉が元恋人の○○さんと交際していた時でさえ、姉は私と三人でいるような時には、私に気を使っていて、決して「二人の世界」を作ろうとはしませんでした。ですからなおさら、姉が私を無視して桜井医師との話に夢中になっていた、ということを印象深く、また鮮明に覚えているのだと思います。
しかし、私と母は、そういった事があっても、9月頃までは、二人の関係について、それほど深刻に考えてはいませんでした。そのため、冗談半分でしたが、「お姉さん、被告先生と結婚するのかもね」などと母と話していました。姉からも、入院中のいつの時点かは定かではありませんが、桜井医師と結婚ができればいいな、という話を聞いた事があります。
ただし私は、なぜ姉が桜井医師の事を好きなのかよくわかりませんでした。そもそも二人の男性から交際を求められても決断できない人でしたし、自分のほうから積極的に男性に好意を表わすという事は、それまでの姉からは考えられなかったからです。そうだとすれば、「恋人役」という治療法によって、姉が桜井医師の事を好きになったと考えた方が自然でした。そこで私は、姉と桜井医師が結婚するかはともかくとして、同医師に好意を持ったのは治療の一環なのだろうと考え、姉の桜井医師に対する恋愛感情をあまり深刻に考えないようにしていました。また、桜井医師が姉を特別扱いする事や、同医師が姉に恋愛感情を持っているような言動をしているという事についても、治療の方法なのだろうと思っていましたし、姉だけを特別扱いしてくれる事はありがたいとさえ思っていたほどでした。
8 元恋人○○さんとの再会 (1995年8月)
入院中、いつの時点からか、姉は元恋人の○○さんに会いたいと言い始めました。私は○○さんという人がよくわかりませんでしたし、会ったところで姉の病気が治るとは思っていませんでしたから、なぜそれほどまでに○○さんと会う事にこだわるのか理解できませんでした。しかし95年8月になって、結局○○さんとA大学病院で会う事になり、私と母は、もしもなにかが起きた場合には姉をサポートしようと考えて病院の別の場所で待機していました。しかし結局何も起きず、また○○さんと再び恋人になるという事もなくなったと聞きました。姉が○○さんに会いたいと強く主張するようになっていたこの時期には、母も父も○○さんに会えば病気が治るものだと思っていたようです。しかし私は、元々の原因がサークル内での出来事にあると考えていたので、姉が○○さんと会って病気がよくなるとは考えていなかったと思います。
9 姉の容態が悪化する(1995年9月〜)
○○さんと会ってから、姉の容態は良くなったかのように見えたのですが、多分95年9月頃から、それ以前よりも容態がずっと悪くなりました。この場合、容態の悪化というのは、姉の「性格」が変化したという事でもあります。たとえば、ナースコールを頻繁にして、看護婦さんたちを悩ませていました。入院前までの姉は、そのような自分勝手な要求を他人に対してするような人ではありませんでした。
そういった事が9月になって繰り返されるようになり、姉は病棟の患者さんたちから「姫」と呼ばれるようになり、よくない印象を持たれていました。「姫」と呼ばれたのは、あれこれと「わがままな」要求をするという理由からだけではなく「桜井医師の特別な患者さん」というニュアンスがあったと思います。また同医師は、実際姉から呼ばれれば、「飛んでくる」という事がよくあったと母から聞いた事があります。
9月になってそういう状況になり、また入院して半年もたっているのに病状がますます悪化している事について、家族全員「少しおかしいな」と思い始めるようになりました。それと同時に、そういった行動を「わがまま」だと言って両親が姉の事をしかり、両親が姉とぶつかる事もありました。ただし私は、姉との関係はそれほど悪くはなかったので、「先生、先生」と言って桜井医師に執着するようになったり、「わがまま」な事を言うなど、姉の「性格が変わってしまった」という事は感じていましたが、危機感を抱くほどではありませんでした。
この時期だったか、これよりもずっと早い時期であったかは記憶が曖昧ですが、私は父と一緒に、「病気の原因はなんなのか。どのような治療方針を立てているのか。家族はどうすればよいのか」という質問を桜井医師にした事があります。そういう会話は1回か2回しかありませんでしたが、桜井医師の回答は、いずれの場合も説明になっていないばかりか、話として全くつかみ所がなく、結局、同医師が私や父の質問に明確な回答をする事は一度としてありませんでした。
その結果、私と両親は、姉に対してどのように接していけばいいのかわからないまま、発病以前の勝ち気で前向きな姉に接するのと同じように接し続けていきました。母がたまたまうつ病についての本を読み、うつ病の人に対する対応法について知ったので気にするようにはなりましたが、姉がA大学病院に入院中は、入院している姉に「楽しい話」をするのは悪いと思い、どういう話をすればよいのか私にはわかりませんでした。
9月以降、姉の「わがまま」が目に余るようになると、両親はそのことを注意したりして、姉と口論をするような事がよくあったようですが、それが姉の病にどのような影響を及ぼすのかという事について、私も両親も考えていませんでした。他方で姉は、「桜井医師がいいと言っている」という事を盾にして、両親の言う事を聞こうとせず、ますます桜井医師に頼るようになっていきました。
私は姉を見ていて、性格が変わって桜井医師に頼るようになっていたという事はわかっていましたから、姉の病状はこの先どうなるのだろうという不安感はありましたが、父のように、姉から桜井医師を引き離したほうがよいというような事を考えるほどではありませんでした。
10 治療体制の変更・強制退院
9月以降、時期についてはよく覚えていませんが、父が桜井医師と姉との関係がおかしいと言い出して婦長さんに相談するという事がありました。私は姉と桜井医師の関係について何が問題なのか全くわかっていませんでした。姉を特別に親身になって治療してくれている桜井医師に文句を言うのはやめたほうがいいのではないかとさえ考えていました。母もほとんど私と同じような事を父に言っていたと思います。たしかに、姉の「わがまま」が目に余るようになった事もあり、私も姉と口論する事がありましたが、桜井医師の治療にその原因があるとは考えませんでした。
その後、11月に強制退院になったという事を両親から聞きましたが、その経緯がどのようなものだったのか、私はよく覚えていません。
強制退院後、姉は家に帰ってきました。5月に千鳥が淵で自殺しようとしていた事や、強制退院をするような事件を起こしていた事、さらにこの頃には、両親と姉との関係が悪かった事もあり、姉と家で一緒に暮らす事に、不安を覚えたのを良く覚えています。
両親と姉との関係は、入院前までは良好でしたが入院後、次第に姉は両親と対立するようになりました。私は、姉が反抗期もなく育ってきたと思っていましたので、遅いけれども反抗期が来たのかなと思っていた時期もありました。しかしその後、それが自殺未遂につながるようなものであれば、それを反抗期として単純に理解する事はできないと考えていました。ですから姉の身の安全を第一に考えれば、慶応大学病院に引き続き入院するほうがいいと思っていました。強制退院後、渋谷で自殺未遂をするまでの間、私の記憶は曖昧ですが、とにかく日々緊張の連続であったという事はよく覚えています。
11 渋谷での自殺未遂事件(1996年1月)
1996年1月5日、姉が渋谷の事件を起こす前日、私と母は姉と一緒に慶応大学病院に行きました。姉の精神状態が悪く、歩くのもやっとだったからだと思います。慶応大学病院に着き姉が診察室に入り、しばらくたってからの事だと思います。姉が涙を流しながら診察室から出てきて、その表情はきつく、また緊迫した様子で、それは入院中でも滅多に見られなかったような、とても尋常とは言えないものでした。そのため私と母は急いで姉に追いつくと、どこかに行ってしまわないように、両側から姉に付き添って病院から出ていきました。その後、駅構内で食事をしましたが、助けが欲しいと姉がしきりに訴えるので、駅近辺にあった銀行に入り、私が当時知っていた宗教家の人に電話をしました。姉は「死にたいんです」というような事を言っていたと思います。しかし、電話に出た宗教家の方か、もしくはその関係者の方から説教をされたようで、姉は「ここはダメだ」というような事を言っていたと思います。その後、姉の気持ちを何とか和ませようと、渋谷にあるマッサージ屋に行きマッサージをしてもらい、家に帰りました。
翌1月6日、私と姉は父の車で[中略]駅まで送ってもらいました。私は新宿に用事があり、姉は[中略]音楽サークルに出席するため反対方向に向かう事になっていました。同日の夕方頃、母と電話で話した時だったと思いますが、姉が机に遺書を残しており、出席する予定だった会合に出ていないという事を知りました。またその後、Q氏の指示があったからだと思いますが、慶応大学病院にある救急の受付に行き、そこを拠点に姉を捜す事にしました。その後、弦楽サークルの姉の同級生やQ氏の仲間も姉の捜索に加わり、翌朝まで一緒に姉を捜してくれました。
12 桜井医師の無責任な対応
姉が行方不明になったその日の晩、姉が行きそうな場所について、何か心当たりを知っているとすれば、半年以上の間、姉の話を一番よく聞いていた桜井医師ではないかというQ氏の考えに基づき、Q氏と私は、慶応大学病院内の桜井医師がいる部屋に行きました。その時、桜井医師はちょうど部屋から出てきたところだったと記憶しています。そこでQ氏と私は桜井医師を呼び止めて、廊下で桜井医師と立ち話になりました。Q氏は、今日出席を予定していた会に姉が現れず、しかも自宅に遺書を残しているので自殺の危険性がある、弦楽サークルの友人たちやQ氏の友人たちを総動員して捜索をしているという現状を事細かく説明していたと記憶しています。その上で、「あなた(被告)が一番幸子さんの身近にいてよく分かっているんだから、幸子さんが行きそうな所を教えて下さい」という内容の要請をその場で行いました。しかし桜井医師は、「病院内は探しましたが見つかりませんでした。今は診療時間外なので私は関係ありません」というような回答をしました。そこで、Q氏は「そんな言い方はないんじゃないですか」と抗議しました。しかし、それには答えないまま、桜井医師は私達に背を向けて立ち去っていきました。そこで私は、遠ざかっていく桜井医師の背中に向かって、「人殺し!」と叫んだ事をはっきりと記憶しています。なぜなら、医師としてだけではなく一人の人間として、身近にいた人の生命が危険にさらされている時に取る態度や行動ではないと思ったからです。
また、私はこの時まで、桜井医師はきっと姉の事が好きなんだろうと思い、ことによると同医師と姉は結婚するかもしれないと考える事もあるほどでした。したがって、桜井医師は姉の病を一生懸命治療してきたのだとも思っていましたし、この時も、姉の事を一生懸命捜してくれると思っていました。しかしながら、この時の桜井医師の発言を聞き、また、彼のとった態度を見て、私も両親と同じように桜井医師を全く信用しなくなくなりました。
13 長谷川病院入院・済世会中央病院
翌朝、姉は渋谷のホテルで大量の睡眠薬を飲んでいたところを発見されて東京女子医大のICUに運ばれたという事を母からの電話で知り、急いで東京女子医大に行きました。ICUに入ると、姉の顔は青白く腫れ上がり、意識はありませんでした。ICUにいた医師からは、「意識不明の重態で、今夜が山場です」というような事を聞いた覚えがあります。私はあまりのショックで、その晩はどこで過ごしたのか覚えていません。翌日、姉は奇跡的に目を覚ましました。またそれと平行して両親とQ氏は、東京女子医大の精神科の女性医師に今までの経緯を説明していたと思います。そして、その後姉は長谷川病院に入院しました。
この頃からQ氏が、私たちの家族以上に姉のサポートをするようになりました。当時両親は、慶応大学病院入院時の疲労と渋谷の事件の事で精神的にまいっていましたし、姉の育て方を間違えてしまったのではないかと悩み苦しんでいましたから、いろいろとアドバイスをしてくれるQ氏の力を頼りにしていたと思います。長谷川病院入院直後、私たち家族はQ氏を交えて今後の事を話し合い、Q氏が長谷川病院の面会に行って姉の面倒を見ると申し出てくれた事を覚えています。その後長谷川病院では、家族面接を1〜2回ぐらい行った事を覚えていますが、それ以外の事についてはよく覚えていません。
その後、姉は済世会中央病院で桜井医師との面接を始めましたが、私はK病院の原医師による指示だから仕方がないとはいえ、「何で姉の命を何とも思わないような人と、また会わせなくてはいけないの?」と思った事をよく覚えています。しかし、この頃はQ氏がつきっきりで姉の面倒を見ていた時期で、両親も精神的に混乱し続けていたので、姉の病状や面接について私が直接話を聞くような事はありませんでした。その後姉は再び長谷川病院に強制入院し、96年11月末に退院した直後、軽井沢に行って自殺未遂をします。
14 軽井沢での自殺未遂(1995年11月末)
姉が自殺未遂をしに軽井沢に行く当日の朝、母は姉の事が心配で、父方の祖母に連絡をし、姉の様子を見に家に来てほしいと電話で言っていました。その後、私が事件を知ったのは、仕事が終わって家に帰ってきてからでした。姉が行方不明になっているとのことで、私も心当たりの場所などをすぐに捜しましたが検討がつかず、その日は眠れない夜を過ごしました。翌朝、軽井沢警察から電話があり、姉が軽井沢にあるホテルで大量の薬を飲んで倒れているところを従業員が発見し、姉は軽井沢病院のICUにいるという話を聞きました。両親はその日のうちに軽井沢病院に行きましたが、私は仕事が土曜日まで入っていたので、仕事が終わってから軽井沢に行く事にしました。
15 姉と桜井医師の電話での会話
私は土曜日、仕事が終わってから軽井沢に行き、最寄りの駅で姉の友人と母が車で待っていてくれたので車に乗り込み、軽井沢病院に行きました。軽井沢病院のICUは病気を治すための器具が少なく、東京女子医大と比べるととても質素でした。私が姉のベッドに近づくと姉は起きており、「来てくれたの?」というような事を言っていました。私も「身体は大丈夫なの?
何で軽井沢なの?」というような話をしたと思います。そのようなやり取りがあった後、姉が次のような事を私に話しました。
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実は自殺未遂をする前に桜井医師に電話をしたの。「先生の声が聞きたかったんです」と言ったら「声が聞ければ良かったんだろう」みたいな事を言われたの」
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私はこのような話を聞いた時に、また渋谷の事件の時と同じように、桜井医師は姉に対して不適切な対応をしたと思いました。というのも同医師は、以前は姉の主治医だったのですから、姉から電話がかかってくれば様々な可能性を想定して対応すべきであるのに、それを怠ったと思ったからです。それは私さえできることでした。姉は元気で調子の良い時は、電話をしてきた時から自分から進んで用件を話すのですが、具合が悪い時はしどろもどろに話す傾向があります。ですから私は、様々なことを想定しながら、「お姉さんなの?
今どこにいるの?」など、こちらから話しかけるようにして、姉がどういう状況にあるのかを聞き出そうとしました。それによって、私がどのように対応をするかを決めようと思ったからです。また、姉のその日の予定については母が知っていたので、おのずと私にも情報が入ってきていたので、姉の人間関係などを思い浮かべながら姉の様子がおかしい時には、電話の受け答えでも直接話す時でも、慎重に対応していました。
まして桜井医師は、以前は姉の主治医であり、しかも精神科医なのですから、姉からの電話には慎重に対応して当然だと思いました。ところが同医師は、何も想定せずに冷たい対応をして、その結果姉の自殺未遂を引き起こしました。ですから、そのような対応は姉の事を何も考えていない、極めて不適切なものだと考え、怒りを覚えたのです。
16 中久喜医師の治療(1997年2月〜)
その後、姉の主治医は中久喜医師になりました。私はその事を知り、桜井医師から引き離す事ができたと考えてひとまず安心しました。また、それまで姉は、慶応大学病院に入院してから中久喜医師の治療を受けるまでの間、歩くだけでも大変な日が多く、普通の生活が今後一生できないのではないかと思えるほどひどい状態でした。ところが、中久喜医師の治療が始まってから半年ぐらいすると、医学部に行くという目標を持ったり、将来の事を考えて行動するようになりました。そのため以前と異なり、病人とは思えないところがたくさん出てきて、普通の人のように見えてきたのでとても安心したのです。
また、時期はやや後になりますが、桜井医師と再び済世会中央病院で面接を行っている頃になると、姉は[中略]アルバイトを始めました。このアルバイト先には、一度だけ行った事があるのですが、仕事を要領よくこなしたり、[中略]テキパキと対応したり、[中略]とても病人とは見えない仕事ぶりでした。そういう仕事ぶりをしていたためか、アルバイト先で姉は人気者で、いろいろなかたから相談を持ちかけられたり声をかけられていました。しかし姉は、そういう方々を適当にあしらいながら仕事をしていました。ですから姉は病人には見えなかったですし、姉が病気だと思った人はいなかったと思います。またその頃は、家に帰ってくると大抵、最初に仕事の話をするようになり、桜井医師についての話がなくなりました。ですから私は、姉が健康で調子が良い状態にあると感じました。さらに、アルバイト先で知り合った方の中に生け花の先生をしている人がいて、その人のところに行って熱心にお花を習うようにもなっていました。
そのような時期に、私は姉と韓国に旅行に行っています。母は姉の状態を大変心配していましたが、旅行中、姉の状態はそれほど悪くはありませんでした。軽井沢で自殺未遂をした頃に比べれば、姉の状態は明らかに良くなっていたと思います。そのように姉の状態が改善したのは、中久喜医師による治療によるものだと私は考えていました。ただし、この時期には桜井医師の治療が並行して行われていたので、改善したとはいえ、同医師との接触の後姉の状態が悪くなる、ということを繰り返す中でのことでしかありませんでした。以下では、桜井医師との治療が再開したことが姉に対してどのような悪影響を与えたのかについて述べます。
17 桜井医師との治療再開(1997年11月〜)
済世会中央病院で再び桜井医師の治療が始まったという事は、母から聞いたと思います。しかし、渋谷の事件以来、人の命を軽く考えている人物だと思いましたから、桜井医師の事は全く信用していませんでしたし、姉と関わってほしくありませんでした。
また、この時期になると、桜井医師の「治療」に対する私の認識も大きく変わりました。以前から、桜井医師によるカウンセリングの後で姉の調子が悪くなる事が多いということには気付いていました。しかし、カウンセリングが患者の調子を悪くするとうい事も多々あるのだろうなどと思うばかりで、そこに問題があるという認識を私は持っていなかったのです。
ところが中久喜医師のカウンセリングによって姉の状態が大変良くなったので、桜井医師のカウンセリングと対比させて考えるようになりました。その結果、これまでの様々な経緯を含めて考えれば、桜井医師の治療が、姉にとっては有害であるという認識を持つようになりました。
当時の桜井医師の治療について、私は直接姉から聞いた事がありませんので、詳しい事実については時々母から聞くぐらいでしたが、当時、水曜日の晩、私が仕事から帰っても誰も家に帰っていない事がよくありました。それは、両親が済世会中央病院に姉を迎えに行っていたからです。その中で、姉が夜遅くまで桜井医師と面接をしていたり、自殺をしようとしたという話を聞いた事が何度もあります。私も、両親と姉が夜遅くに帰ってきてから夕食を一緒にとる事がよくありましたが、そういう時は、大抵姉の表情が暗く、歩くのも話すのもやっと、とうい状態で、食事もとらずに部屋にこもって寝ていました。
また、母は火曜日の晩や水曜日の朝には、Q氏をはじめとする姉の友人と連絡を取りあって、姉の容態が悪くなる水曜日の面接に向けて姉をサポートする準備をしていることがわかりました。こうして毎週水曜日は、姉がいつ死ぬかわからないという気持ちを持たざるを得ず、いつも家の中が異様な緊張感に溢れていました。私はそういった状態が恐ろしく、家にいたくなかったので、自宅に帰ることを避けていた時期さえありました。
ですからなおさら、私は姉が桜井医師のところに行ってもらいたくはないと思っていました。しかし、済世会中央病院での面接が始まると、姉は桜井医師に会いたいと言って会いに行ってしまうので、それを止める事はできませんでした。せめて、いつかはやめてほしいと思うばかりでした。
新しいボーイフレンドができれば姉が桜井医師から離れるのではないかと思っていた時期もありました。しかしお見合い相手や、姉にプロポーズをした男性がいても、姉は桜井医師の面接を受け続けました。私にはボーイフレンドが何人もいながら桜井医師が好きだと言い続けて同医師のところに通い続けている姉の心境が理解できませんでした。また、ボーイフレンドがいても桜井医師の存在がどうしても姉の潜在意識には常にあるということも理解できませんでしたし、大変不気味だと思っていた事をよく覚えています。
しかも、桜井医師はそういった姉の気持ちに全くこたえないばかりか、常に姉の気持ちを翻弄していると思っていました。姉は本気で桜井医師と恋愛をしているようでしたが、桜井医師の言葉や態度からは本気で姉を好きなのではないという事がよく分かりました。したがって、渋谷の自殺未遂事件以来、同医師に持っていた不信感や怒りは強まるばかりでした。しかし他方で、姉が桜井医師のところに通いたいという希望を持ち続ける限り、その状況はなんともしがたいという無力感も持っていました。
ところがその後、姉は桜井医師との関係がなくなったという事を母から聞き、その時には、とにかく良かったと思いました。桜井医師との関係がなくなってからヨーロッパ旅行に行きM氏と交際するようになるまでの姉の変化については、よく覚えていません。しかし毎週水曜日に姉が桜井医師と面接をして状態が悪くなったり自殺未遂をするかもしれないという危機感で家の中が異様な雰囲気であったり、さらには、姉が自殺未遂をしたという事を聞かなくなったのは確かです。したがって私自身も、以前に比べて危機感を持たなくなったという記憶はあります。
18 M氏と姉との関係について
姉が「結婚したい」と言って家に連れてきた男性はMさんが初めてでした。しかも姉は、両親に会わせるために事前に両親に話をして、ある程度納得させるなどのお膳立てをして、Mさんとの結婚がスムーズに承諾されるようにしていました。それ以前、プロポーズをされた時に、「結婚しようかな」と言っていましたが、それは軽井沢で自殺未遂をして発見された直後で、姉が本気で結婚を考えているようには思えませんでした。また、姉の態度や言動を考えれば、姉の潜在的な意識には、桜井医師に対する思いがあるような気がしました。そのような状態の時、姉は、結婚によって、桜井医師に対する自分の依存心から脱却したいと考えていた節がありました。
ところがMさんの場合は、そのような事が読みとれず、姉は純粋に結婚したいという気持ちだけしか持っていないと思いました。Mさんとの交際について、時々姉から詳しく話を聞きましたが、Mさんの過去の女性関係などに嫉妬している事もわかりました。そのように、交際している男性に関して姉が嫉妬する事も初めてでした。また、「どうしたらお姉さんのように結婚できるのかな」と質問したら、「運命よ」という事を言われました。姉のそういった説明を聞いて、私は「この人と結婚するんだな」と思ったのです。その後姉はMさんと大阪で住むようになりましたが、時々実家に戻ってくると、私と母は、のろけ話ばかり聞かされていました。ですから私達は、姉はMさんと上手くいっていると思っていたのです。
19 大阪で姉に会い、自殺未遂を知る (2000年5月1日)
私は2000年5月1日、関西方面に旅行に行ったついでに姉とMさんに会うために大阪に行きました。私が電話をした時、姉は首に注射針を刺した後だったようで、近所の病院にいるという事をMさんから聞きました。Mさんと最寄りの駅の改札で待ち合わせ、その経緯を聞き、晩ご飯の買い物をしてから病院に向かいました。姉は病院のベッドで点滴を受けていましたが、表情が大変にきつく、それまでMさんとの新婚生活については「おのろけ」しか聞いていませんでしたから、一体どうしたんだろうと大変驚きました。また、姉に会う直前、私は電話で相談事を持ちかけていたのですが、姉は大変しっかりしていて、私に的確なアドバイスをしていたと思います。それだけに、なぜ突然こんなふうになっているのだろうと驚きました。このような表情を見せるのは、以前、桜井医師と関わっていた時ぐらいでした。私は、この時点では、姉が桜井医師との交流を再開した事は知りませんでしたから、姉が私と話をしている時、「桜井医師が忘れられない」と話していた事に言いようのない不安を覚えたのを記憶しています。その時の姉の表情は、なんと表現すればよいのかわからないのですが、顔がこわばっていて目つきが鋭く、きつい表情をしていて、せっぱつまった感じでした。その表情は、入院していたころに見せていた一番悪い時のものでした。
姉は「結婚式も延期したい」と言っていましたが、Mさんと喧嘩したわけでもなさそうだと思いましたし、今頃何を言っているのだろうとも思いましたので、いわゆるマリッジブルー、つまり結婚する前の女性心理としてよくあるような、結婚直前の精神的な揺れ動きのようなものかと思い込もうとしました。そうだとすれば結婚したら落ち着くわけですが、姉の様子は、そのような事ですむような感じではありませんでした。Mさんも緊張していて、表情もこわばっていましたし、電話では余裕のない話し方で、私に用件だけを言い、姉の事に対応する事で精一杯なのだろうと思い、私はMさんに対して、途中から自分の事については話すのをやめたぐらいでした。そのような二人の様子を見て私は、ただならぬ事態が起きていると思いましたが、その原因がわからなかったので、大変不思議な気持ちにとらわれていました。結局その日は点滴が終わると、Mさんと3人で家まで帰り、私は姉がリクエストした料理を作って、なごやかに過ごしました。姉の表情は、私と話しているうちに、少し回復したように思えました。
20 姉が亡くなるまで (2000年5月2日〜5月3日)
翌朝、私は早朝大阪を出発して東京に戻り出勤する事になっていました。これは旅行前から決めていたので、姉の事が大変心配だったのですが、この時点では予定を変更できないと思っていました。出がけに姉は、私に新幹線の中で簡単に食べられるようなものを渡して、気をつけて東京に帰るように、と言いました。その時の顔色は悪くなかったと思います。そしてMさんに最寄りの駅まで送ってもらったのですが、その時にMさんから「ご両親にも内緒にして欲しいんだけれど実は桜井医師と連絡を取っています」というような事を言っていたと思います。私はその話を聞いた時に、一瞬思考が停止してしまうようなショックを受けました。しかしその直後、「ああそうか、桜井医師との関係が始まったから、昨日の姉の表情はあんなにきつかったんだ」と思いました。
この時まで私は、姉と桜井医師との過去5年にわたる関係や、同医師と接触すれば姉は具合が悪くなったり自殺をしようとしたりする、ということを、Mさんに話していませんでした。またこの時は、ちょうど駅で別れる間際であり、そのような複雑で長期にわたる話をどのように伝えたらいいのか全くわからなくなり、大変混乱しました。さらに、東京に帰らずにこのまま当分大阪にいたほうがいいのではないかと悩みました。しかし、5月2日に仕事に行かないと、また翌日から連休に入ってしまうため、関西方面の旅行と合わせて大連休を取ってしまう事になり、仕事に大きな穴を開けてしまうと思ったため、とりあえずは帰ろうと思いました。
Mさんは、両親には内緒にしてほしいと言いましたが、まず両親に話さなければいけないと思いましたので、後ろ髪を引かれる思いでしたが、とりあえず東京の職場に帰りました。仕事が終わって家に帰ると、両親に対して次のように言いました。「お姉さんが大変な事になっている。被告先生と連絡を取っていて、Mさんからは両親には口止めという事になっている」「明日から当分お姉さんの所に行く」と。その1〜2時間後、姉に電話をして「観光がしたいから、また明日からお世話になってもいい? 奈良も近いから行ってみたいな」というような話をし、姉も「来ていいよ」というような事を言っていました。これで、とりあえず今日は大丈夫だから旅行の準備に入ろうと思っていました。その後、[中略]母が私に、「お姉さんが自殺未遂をおこして危ないみたい」と言ったように思います。その後、どういう経緯を辿ったか細かいところは覚えていませんが、母方の叔母がやって来て、急いで大阪まで行けるように話をしてくれていたと思いますが、たまたま姉の友人と連絡が取れ、友人の車でそのまま大阪に向かいました。その後、車がパンクしたりしながら大阪に辿り着いたと思います。到着して、姉はまだ心臓が動いていて意識がないという状態でしたが、2000年5月3日の正午頃、突然容態が急変し、息を引き取りました。
21 終わりに
最初に書いたように、私は桜井医師が姉の病気の原因を作り、自殺の引き金を引いたと思っています。それは、渋谷の自殺未遂の時に同医師が私に示した態度を見てから様々な事が起きていく中で、確信するようになった事でした。桜井医師は、今回の裁判で姉の病気が成育過程の中で形成されたかのように主張しています。しかしながら、同医師は私達の家族の事や姉の幼少の頃や元恋人と姉との関係を知りません。さらに、サークル内の軋轢をきっかけにして姉が病気になったという経緯についても知りません。私がこの陳述書で述べたような事を、桜井医師は全く知らずに、姉の病気の原因が成育過程にあると主張しています。しかし、ここまで述べてきたように、病気になる前の姉には、病気になった後に見られるような兆候はありませんでした。ですから私を含め両親も、姉が入院中のある時期から性格が大きく変わってしまったと認識したのです。そして、その原因は桜井医師の治療にあると確信したのです。
私は、面接や電話で桜井医師が姉に対して言ったことや行ったことは、医師として、そして一人の人間として、してはならない事だったのであると考えます。そういった同医師の言動や行動が、渋谷や軽井沢の事件をはじめとして数限りなく起きた姉の自殺未遂を引き起こしてきたのです。ですから私は同医師のそういった行動や言動を、決して許す事ができません。
どんなに望んでも、もう姉は帰ってきません。そして姉と深く関わった人達は、あの時はああすれば良かったと思い続け一生くやみ苦しんで生きていくのです。ですから私は、特に桜井医師は姉と深く関わり自殺の引き金を引き続けたわけですから、姉を忘れずに一生をかけて償ってもらいたいと強く思っています。そのためにも、この裁判では真実を述べてもらいたいと思います。
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