Q 氏 の 陳 述 書
*一部、省略・削除してある。
1.はじめに
今回、「準備書面(3)」において、かつて桜井医師が私に対して、「幸子さんに対してかつて恋愛感情があったし、今もある」と明言したことを否定し、また、幸子さんが桜井医師との面接や電話の後で必ず死のうとした、というパターンがあったという事実を否定しています。さらに、彼女の自殺を止めたのは桜井医師であると主張しています。私は、以下に事実を示し、桜井医師の上述の主張が全て誤りであることを明らかにします。
2.幸子さんとの出会い
私が幸子さんと出会ったのは、[中略]私が[中略]フィルハーモニー管弦楽団のコンサートマスターをしていた時で、幸子さんが中学生の時でした。1987年前後であったと記憶しています。当時、私は、同楽団のヴァイオリン奏者であり、ヴァイオリンの指導的立場にあったW先生に師事しており、幸子さんも同先生の生徒として指導を受けていました。しばらくして、幸子さんが大学に入学した後、幸子さんがサークルでのトップ奏者として活動することに悩んでいたこと、また、W先生が幸子さんのボウイング(ヴァイオリンの運弓の技術)の指導に悩んでいたこともあり、1992年頃から私がW先生のアシスタントとして、幸子さんのヴァイオリンの指導に当たりました。また、幸子さんには、当時の私の仕事(家庭教師)をお手伝いしていただく相談もしていました。発病するまでの幸子さんは、W先生のお宅で深夜まで一緒にボウイング談義をしたり、自分が将来どのようにヴァイオリンを弾きたいか、などということを積極的に語ったりする、非常に前向きな「明るい女の子」であった印象が強くあります。また、家庭教師のアシスタントをお願いする話をしていた時も、「教えることとは何か」「どのように教えることが生徒の役に立つのか」「教育の現状をどのように考えるか」という私の問いかけに、自分の環境を鑑みながら積極的に意見を述べる、合理的思考を持ち社会性にも富んでいる、頭脳明晰な大学生であったと感じていました。このころ印象に残っていることは、私の家庭教師の方法論に付いて「Qさんのような人との関わり方があるのか、驚いた。自分も実践してみたい」という意欲を見せていたことです。
3.慶応大学病院入院から退院直後まで
幸子さんと私の関係が変化したのは、1995年1月の阪神大震災後のことです。私は、震災直後からボランティアグループを設立し、同年5月まで神戸市灘区で活動をしていました。当時、W先生は体の御不調で入退院を繰り返しておりましたが、短期間の退院の際にお電話をさせていただいたところ、「幸子さんが入院してしまった。あまり面会も許されないようだが、Q君には会いたがっているそうなので、連絡を取ってほしい」と知らされました。私は直ちに幸子さんの実家に連絡をしたところ、「是非面会にきてほしい」とご両親に言われ、東京に一時戻ったおりに慶応大学病院に見舞いに訪れました。
その時の光景、会話は、私の脳裏に焼き付いて離れません。病院を訪れた時(3人部屋だったと記憶しています)、幸子さんはベッドに座って「ぼうっと」していましたが、私が病室に入ると、「Qさん・・」と一瞬絶句して、「こんなになっちゃったの・・」と私の顔を直視しました。幸子さんはとても大きな目をしていましたが、目を大きく見開いたまま私の顔をまっすぐに見据えて、「こんなになっちゃった・・」と何度か繰り返しながら大粒の涙をぽろぽろと流していました。
その時に、幸子さんは「私の主治医は、Qさんととても気が合うと思う。とても感性が鋭い人で、絶対に真樹さんと話が合うはず」と語ってくれました。その時には名前は聞きませんでしたが、幸子さんの話から、良い主治医がついていて、幸子さん自身が信頼しきっていることがうかがわれました。私は幸子さんの性格もよく知っておりましたので、幸子さんがそのように言うからには、主治医の先生が恐らく芸術分野の興味も持ち、幸子さんのまっすぐな感性を上手に受け止められる方だと想像しました。
その後も何度か病院を訪れたことがあり、病院内でヴァイオリンのレッスンをしたこともありました。そういった何度かの面会の中で、幸子さんが桜井医師について話をしていたことがあり、「話が盛り上がってしまって面接時間をオーバーする」「毎日会いに来てくれる」ということを聞きました。私は仕事柄、カウンセリングについて一定の知識があり、面接時間は固定されたものだと思っていたため、幸子さんの話を聞いて少し驚きましたが、「きっと熱心に治療してくれているのだろう」、と思った程度でした。
幸子さんが強制的に退院させられた後、私は、比較的ひんぱんに幸子さんと会うようになりました。当時私はパソコン通信で音楽仲間たちと交流していましたが、幸子さんもこれに入会して、彼らとともに音楽活動をするようになりました。
4.1996年1月の自殺未遂事件
96年1月、家庭教師の仕事をしていた私に、幸子さんのお母さんから緊急のお電話がありました。幸子さんが「パソコン通信の仲間に会う」と言って出かけたまま行方がわからなくなったというものでした。私は授業を中断し、すぐに捜索に加わりました。その時に捜索に加わったのは、幸子さんの友人たち、ご家族、それに、私の友人数名でした。以前幸子さんが自殺企図をした千鳥ヵ淵や慶応大学病院、都内のホテルなどを中心に翌日午前2時頃まで捜索を続け、その後も夜明けとともに捜索活動を再開しました。結果として渋谷区内のホテルで幸子さんは発見され、東京女子医大病院に緊急搬送されて、一命をとりとめました。その時以降、幸子さんのご両親と連絡を取り合う回数も増え、時にはご両親以上に幸子さんに関わることになりました。
5.自殺未遂直後に、私が桜井医師から事情を聞くに至った経緯
1月の渋谷での自殺企図直後、私は一度慶応大学病院を訪れて、桜井医師と面談しています。ご両親は、これまでのいきさつから、桜井医師から直接事情を聞けるような心境ではありませんでしたので、私がご両親の代理として事情を聞いてくる、ということになったと思います。
すでにそれ以前から、私はご両親から「桜井医師の対応は非常に不自然で、ひょっとしたら幸子に好意を持っているのではないか。幸子もそう思っているようだ」という話を聞いていました。それまで私は、長い間子どもたちの家庭教師をしていましたが、不登校児童など問題を抱えている子どもたちの指導がメインでしたので、半ばカウンセラーのようなことをやっていました。ですから、心理学やカウンセリングの知識も若干持ち合わせていました。
その経験から、私はご両親に対して「担当する医師がクライアントに個人的な好意を持つことはあり得ないし、もしそれを医師本人が感じたとしても、それを悟られるようなことをするはずがない。クライアントがうつ状態で自分の感性に合うと感じた場合、それを恋愛感情であると錯覚する可能性は強いので、その状態ではないか」ということを申し上げました。しかし、ご両親は私に対して、「絶対におかしい」と繰り返しおっしゃっていました。
6.1995年1月9日:桜井医師より事情を聞く
以上のような事情がありましたから、私がご両親の代理として桜井医師に会いに行った目的としては、以下2点に関する回答を桜井医師から得ることになりました。
1)桜井医師が幸子さんに個人的な好意を持っていなかったか、あるいは、そのようなそぶりを示してこなかったのか。
2)桜井医師が、幸子さんの一時的な依存の対象として、いわば「恋人役」になるという、特別の治療法をあえて用いたのか。
桜井医師とは小1時間ほどお話をいたしましたが、「自分は決して幸子さんに個人的な好意を持ったことはない」「幸子さんに個人的な好意があるかのような言動をしたことはない」「意図的に恋人役をやったことはない」という三点を桜井医師は強調し、同時に、「患者がそのような誤解を持つことは多い。だから、幸子さんとのセッションでも、一定の距離以内に近づいたことはないし、個人的に時間を延ばしたり、特別なセッションをしたことはない。それは医師としての常識」ということを述べておられました。
私は、この頃から、幸子さんに関するメモに取っています。このメモは、幸子さんが自殺未遂をして東京女子医大に運び込まれ、その後、同病院の医師から説明を受けた時から、長谷川病院に幸子さんが入院中の時期にわたってとり続けたものです。したがって、1月9日以降、桜井医師に話を聞きに行った時にも、メモをとりながら会話をしました。
この一連のメモを読み返しますと、1月9日、私が桜井医師に対して「発言が引き金になった可能性は?」と質問したことが記録されていますが、これは、桜井医師の「発言」が幸子さんの自殺の「引き金」になった「可能性」はあるのか、という趣旨の質問でした。これに対する桜井医師からの回答は「・・・・何回もあったことなので」というものでした。さらに桜井医師は、「まずかった点」として、「私が身内になってしまった」と述べています。
また、同じ時期の記録で、幸子さんが自殺未遂した直後に、私がご家族や桜井医師から聞いたことを整理したメモもあります。これは、記録の内容から、1月9日以前か、その直後に作成したものだと思います。このメモには、「支えがどうしても必要なので、自分がそれになった」という桜井医師の説明が書き留められています。これは、桜井医師が、95年「6月」以降、幸子さんに「支え」が「必要」だと考えたので、「自分」が「支え」になった、という意味だと思います。また、同じメモには、95年12月30日、幸子さんが桜井医師に電話をして、「がんばって直してステキな女性になるからまっててね」と言ったのに対し、「待っている」と同医師が答えた、という幸子さんの話も記録しています。この点に関する桜井医師の見解が、次のように書き留められています。「(桜井医師)それは単に、「良くなるのを待っている」というつもりで言っただけ」。幸子さんは、はたしてこの言葉をどのように聞いたのでしょうか。
7.長谷川病院入院の時期
幸子さんはその後、長谷川病院に入院しました。救急車で運び込まれた東京女子医大を退院する時に、その後のご相談をした際、閉鎖病棟のある同病院を紹介されたということを、ご両親から聞いています。幸子さんは長谷川病院に連れて行かれた時、入院に頑強に抵抗していましたが、「任意の入院でないと退院できなくなる可能性がある」という私たちの説得に、最後はしぶしぶ従って入院することになりました。その時に、幸子さんはご両親に対して、非常に大きな不信感を持たれたようです。私の家が近かったこともありますが、幸子さんはご両親との面会を望んでおらず、必然的に私が病院に通うようになりました。
幸子さんが長谷川病院に入院した際、担当の原医師とかなりつっこんだ面談をいたしました。家族ではない私のような立場の者が同席するのは異例ですが、ご両親が私の同席を望まれ、原医師もその点を理解してくださって、当初から私が幸子さんを含めたご家族のカウンセリングがあった際には全て同席しました。その際、原医師から、桜井医師をよくご存知であること、最終的に家族との信頼関係を取り戻して通常の生活に戻ることを目標に、家族とのグループセッションを重視していることなどの説明があり、ご両親も私も「この先生なら信頼できるかもしれない」と期待を持ちました。
長谷川病院では、幸子さんとかなり長い間話をすることができました。また、ヴァイオリンを持参してレッスンをしたこともあります。その中で、幸子さんのそれまでの状態を、彼女自身の言葉で聞くことができました。その際幸子さんは、うつ状態になるまでの人間関係や、慶応大学病院での出来事を、比較的詳細に語ってくれました。特に桜井医師との関係では、「絶対に心が通じ合った瞬間があった」と、幸子さんは強く主張していました。
また、彼女からも、お母さんからも、慶応大学病院で桜井医師から次のような発言があったと聞き、メモに残しています。例えば、「先生も一時迷ってたんだよ」という言葉を記録していますが、これは、桜井医師が、幸子さんと結婚することについて真剣に「迷っていた」ということを幸子さんに言った、ということです。また、「『お嬢さんを下さい』って言ったらお父さん、驚くかなあ」という発言があった、ということも記録しています。
その後、幸子さんは長谷川病院を退院し、桜井医師との済世会中央病院第一セッションが始まります。原医師がそのように決断した真の事情はわかりませんが、「幸子さんが桜井医師と決別するためには、桜井医師とのセッションが必要である」、という原医師の説明を受けました。
8.済世会中央病院第一セッション開始当初
私は、心理学の知識などがあったため、一度強い感情を抱いた相手と決別し、依存の対象を喪失したことを認めた上で人生の新たなステップへと進んでいく、という作業をするカウンセリングが「モーニングワーク」と呼ばれること、そして、その作業が患者にとって大変つらいものである、ということを知っていました。そのつらさに耐えられず、幸子さんは自殺未遂までしたのだと考えていました。ですから、済世会中央病院第一セッションが始まることが決定した時点で、毎週水曜日のセッションが終わった直後には、幸子さんをサポートできる態勢を作らなければならない、と考えていました。その場合には、私だけでなく複数の人間でサポートし、ケアすることが重要だと考えました。ただしこのときには、幸子さんが自殺をくり返す、というその後に起きる事態は全く想定していませんでした。
したがって、済世会中央病院での桜井医師との面接後に起きうる事態として私が想定していたのは、幸子さんが大変落ち込んだ状態になってしまう、というものでした。そこで、そのような幸子さんを何人かの人が支えていくことが必要だ、と考えたのです。96年4月頃から済世会中央病院で第一セッションが始まりましたが、私は、5月になったら、協力してくれそうな仲間に手伝ってもらおうと考えていました。
他方、幸子さんが長谷川病院を退院した後、幸子さんと私は、ひんぱんに会ったり電話で連絡を取り合うようになりました。しかも彼女は、御両親にも話さないような自分の内面の話を、私にはちゃんとうちあけてくれました。そういった濃密な関係が作れたのは、私たちの共通の師匠であるW先生の(結果として)遺言(「さっちゃんをよろしく頼むわよ」という内容です)があり、また、幸子さん自身が私を信頼してくれていたこともありました。私とパソコン通信の音楽仲間との合同発表会には、幸子さんがW先生をサポートして演奏会を聞きにきてくれたということもあり、W先生、そしてヴァイオリンが、幸子さんと私をつないでいました。
退院後、何か励みになることを幸子さんに持ってもらおうと考えた私は、音楽仲間が企画した会で幸子さんにコンサートマスターをやってもらうことにしました。この会はパソコン通信で知り合った弦楽器奏者仲間が集まって弦楽合奏をする会で、私が指揮をして、何曲かの練習会をしました。この会で取り上げた曲の中で、コンサートマスターのソロがある曲があり、幸子さんにはその練習をしてもらおうと思ったのです。そのため、96年4月中にはかなりひんぱんに連絡を取り合っていました。幸子さんがソロを弾く会は、96年5月5日に行われることになっていたからです。この会で、幸子さんのサポートを頼もうと思っていた友人にも会うことになっていました。
9.1996年5月1日の自殺未遂:事態の深刻さを認識する
しかし、会の直前、4月29日にW先生の訃報が届き、告別式がありました。幸子さんにとっても私にとっても非常に大きな衝撃でしたので、私は幸子さんの状況を注意深く見守っていました。翌4月30日がお葬式で、その翌日の5月1日(水)日中、私は幸子さんと会い、別れた後実家に戻りました。そのあと幸子さんが桜井医師の面接に向かったということは、当時知りませんでした。
そこで、済世会中央病院の同日のカルテを見ると(以下、1996年5月1日付、済世会中央病院カルテ参照)、面接の中で幸子さんは、「個人的な関係を望んでいる」という意味で「待っていてくれますか」と桜井医師に問い、これに対して桜井医師が、「個人的な交際」は「できないことであるが」と答える、というやりとりが、2時間もしくはそれ以上続いたということがわかります。また同医師は、「不安定なとき」に電話をするように、と面接のなかで幸子さんに指示し、その晩と翌週に桜井医師が勤務することになっていた大泉病院と済世会中央病院の電話番号を教えた、ということがわかります。
さらに、カルテによれば、幸子さんがこの面接終了後の午後7時頃、桜井医師に電話をかけていることがわかります。幸子さんはこの時「先生は私のことをどう思っているのか」と「くり返し」聞き、桜井医師は「個人的な交際ということは、できないことであるが」ということを「くり返し伝えるうちに」「やや疎通良好」となり「最後に世間話など」をした、とあります。これで会話は終わったのでしょう。カルテでわかるのはここまでです
同日の夜、9時以降だったと思いますが、幸子さんから私に電話がかかってきました。最初幸子さんは「オフ会に出られなくなってごめんなさい」と、そのことばかりを話していましたから、私は幸子さんが自殺を企図しているとは考えていませんでした。しかし話をしているうちに、W先生の話ではなく桜井医師の話になったので、「これはおかしい」と感じ、どこにいるのかを問いただしました。しばらくやり取りをしているうちに、どこかのホテルにいるということがわかり、「これはまずい」と感じ、話を引き延ばして所在を確かめました。[中略]最初はあれこれとごまかしていたのですが、「桜井先生のことについても、少し話をしてみる必要があるかもね」という私の説得にこたえ、ようやく居所をはっきり言いました。私はご両親に連絡をした上で、ホテルにかけつけました。
ホテルに着いてから、幸子さんとずいぶん話をしました。彼女は、「桜井先生は、私のことを待っている、と言った。病気が治って医者と患者の関係でなくなったら、堂々とおつきあいできるはず。それまで待ってくれると言ったのに、そんなことはできないと言って、私を捨てようとしている」と訴えました。
しかし、私は、治療の過程で幸子さんが一方的に恋愛感情を抱いてしまった、という桜井医師の説明を信じきっていましたので、幸子さんが自分の「誤解」について検討し、事態を客観的に見極めるように促す方向で話をしました。「桜井先生の考えていることをもっと理解しないとダメだよね」というかたちで、とにかく幸子さんの意識を、現時点ではなく今後のこと向けるような話の仕方をしました。
このとき幸子さんは、「本当に通じ合ったことがあったの。それも一度や二度ではなく」という話をしましたが、これは以前から聞いていた話でした。そのような幸子さんの話が、偽りであるようには感じられませんでした。しかし私は、「患者が医者に恋愛感情を持ってしまうことは良くあること。医師が患者に対してどのような形であれ恋愛感情を表明することはあり得ない」と考えていましたので、婉曲的な言い方で、幸子さんにその点について何度か指摘したと思います。
結局午前3時頃まで話をして、幸子さんはようやく落ち着きました。そのときには、幸子さんが購入していた睡眠薬を取り上げて朝食を共にする約束をした後、幸子さんが完全に寝たことを確認し、ホテル内の危険なもの(カミソリ、ボールペンなど)をすべて持ち出して、一旦家に戻りました。この段階で私には、幸子さんが私の帰った後自殺を試みることはないだろうという、確信に近い感覚がありました。この感覚はとても重要で、これ以降も「今日は大丈夫だろう」と思って別れた後、何らかのきっかけなしに幸子さんが自殺を試みたことはなかったと思います。翌日早朝にはまたホテルに行き、朝食を共にしながら話をして、少し安定した状態になりました。その数日後、私は桜井医師に電話をして、ホテルでの経緯を伝えました。カルテを見ると、5月4日の記録に、私が電話で報告し桜井医師が幸子さんに「個人的交際」を断ったというのがこのときの自殺未遂のきっかけだった、と私が桜井医師に指摘したということがわかります。
この96年5月1日以降、私は、モーニングワークが幸子さんにとっては大変つらいものであり、面接後に幸子さんは、単に落ち込むどころか自殺しようとするのではないか、幸子さんの状態はそこまで深刻なのではないか、と考えるようになりました。
また、5月1日以降、以前から作ろうと考えていた、幸子さんをサポートする態勢を作りました。これは、私やお父さん、そして私の友人などが各自で一週間のスケジュールを調整して、交代で毎週水曜日には幸子さんを済世会中央病院に迎えにいく、というものでした。幸子さんは、その後もセッション後に必ず危険な状態になっていましたが、このサポート態勢があったので、さしあたり自殺未遂は全て未然に防ぐことができました。
10.1996年5月22日:桜井医師との面接後に起きた幸子さんの自殺未遂を止める
そのような態勢を作ってから間もない5月 22日、自殺既遂寸前で、幸子さんの自殺企図を止めたということがありました。同日の済世会中央病院のカルテを見ると、面接の中で幸子さんは桜井医師に対して、「恋人がいるという話を聞いた」と言っています。これは、「桜井医師に恋人がいるという話を聞いた」という意味です。これに対して桜井医師は「否定はしない」という回答だけをした模様です。
もちろん、この日は、先述したように、幸子さんをサポートする態勢を整えた後だったので、友人が幸子さんを迎えに済世会中央病院まで行っていました。しかし幸子さんは、「用事がある」と言って迎えにきた友人を先に返してしまいました。そのことを知った私は、「危ない」と思って幸子さんに電話をしました。電話は通じず「これはまずい」と判断し、直ちに居所の確認を始めました。結局、彼女がある友人に話していたことを頼りに、新宿のホテルに彼女がいることを突き止めて、ホテルに向かい、運良く彼女に会えました。そこから、自殺をやめるように説得し、ようやく阻止することができました。
11.桜井医師に対する治療改善の要請
しかし今回は幸子さんの状態が非常に悪かったので、翌日、彼女を私の実家に連れて帰りました。そのときに、長谷川病院に入院している時や退院後にも話したことを彼女から聞きました。すなわち、「桜井医師と心の奥で通じ合ったことがしばしばあった」という幸子さんの話です。そのような話は、非常に具体的で、例えば、お父さんに「幸子さんを下さい」と言ったらびっくりされるでしょうね、と桜井医師が幸子さんに言った、というような具体的なエピソードを数多くともなっていました。したがって、どう考えても幸子さんの「妄想」と片付けることができませんでした。
それまで私は、「医者が患者に恋愛感情を持つわけがない」という確信、および1月9日に桜井医師が私にした説明に基づいて、いくら幸子さんの話が真実らしく聞こえても、そういった話は「幸子さんの一方的な思い」なのであり、そしてそれが拒否されたことから生まれる絶望感が自殺の原因であろうと考えていました。具体的には、桜井医師とのセッションにおいて、同医師が恋愛感情はないと幸子さんに対して明言することで、幸子さんは絶望感を抱き自殺をしようとするのだ、と考えていたのです。ですから、私など周囲の者は、いわばクッションのように、傷ついた幸子さんをそのたびごとに受け止めることが重要だ、と考えていました。そのような態勢を維持しつつ、幸子さんには、つらくとも桜井医師の治療を続けてもらえばきっと恋愛感情の解消という目標にたどり着くことができるはずだ、と考えていました。
しかし、この5月22日の事件を境にして私は、彼女が自殺を決意しようとする意志が硬いときには、私を含めた周囲の者では、そのような意志を簡単に変えさせることはできないのではないか、という恐れを持ちました。そこで私はすぐに桜井医師に電話をしました。カルテには、5月24日の記録で、「もう打つ手がありません」という私の発言が記載されていますので、これがその日であったと思います。ただし、実際には、私は次のように説明したと記憶しています。「本人の状況を変えられるのは、医師であり、幸子さんが特別の感情を抱いてしまっている桜井医師しかいない。両親や私たち友人にできることはもうほとんどない」と。
しかし同医師は、「家族や友人が協力してことにあたってほしい、対応が難しければ入院させてほしい」といった回答をくり返すばかりで、幸子さんと桜井医師本人の関係をどうするのか、どのように考えているのか、ということについては、何も述べませんでした。
私はこの事件以来、桜井医師との関係を何とかしないと幸子さんの状況を変化させることはできない、という確信を抱き、桜井医師と頻繁にコンタクトを取るようになりました。そういった同医師との会話の中で、私は一度、済世会中央病院で桜井医師を問い詰めたことがあります。その時は、幸子さんのセッションが終わった後、幸子さんを待たせた状態で桜井医師と話をしました。その中で、桜井医師とのセッションの後に幸子さんが必ず状態が悪くなることを認識しているのか、と問いかけましたが、桜井医師からは「それは柏木さんなどから聞いているから知っているが、セッションの中では何も問題になることは起きていない。幸子さんは人をだますのが上手だから、私もだまされてしまっているのだと思う」という発言がありました。
12.桜井医師と電話をした後、幸子さんが自殺をしようとするのを止める
5月1日のときのように、幸子さんが桜井医師に電話をかけ、話が終わった後に自殺をしようとすることもあり、これは事前に予測できないものでした。しかし、そのようなとき、その電話のあと幸子さんは例外なく、私にも電話をかけてきました。そういうときは、なぜ電話をかけてきたのかわからないときもありましたが、話していくうちに、口調や話の内容から、自殺をしようとしている気配があったときは、「死のうとしている」と彼女が告白するまで電話で会話を続け、そこから説得をして自殺を思いとどまらせていました。私がそのように自殺を止めた回数は、カルテには記録されていませんが、幸子さんが桜井医師と電話をした後、ほぼ毎回です。
13.長谷川病院入院から軽井沢の自殺未遂まで
済世会中央病院第一セッションは、ある意味で幸子さんの傷を深めてしまった期間でした。私は、桜井医師が幸子さんに恋愛感情を持っている、という幸子さんの話を「誤解」に基づくものだと考えていましたし、幸子さんには、表現の仕方は婉曲的でしたが、それに近いことを何度か言いました。ご家族は私とは少し認識が異なりましたが、96年1月に桜井医師から聞いた話をお伝えして以来、幸子さんの言うことは彼女の「誤解」である、と認識するようになったと思います。こうして、幸子さんが信頼関係を結びたいと思っていた全ての人間が、彼女が一番信じてもらいたい話を全く信じてくれない、という状況が作り出されてしまいました。
その後も、桜井医師とのセッションや電話のあとで自殺の危険性が高まるという事態が引き続き起きましたが、5月24日に桜井医師に述べたように、幸子さんが私以外の周囲の説得を受け入れて自殺をやめるということが少なくなり、自殺を思いとどまらせることが毎回大変になってきました。それは結局、先程述べたように、幸子さんと周囲との信頼関係が彼女に取って最も大切な場面で築けなかった、ということが原因でした。私自身に対しても、幸子さんは不信感を向けてくることがありました。ですから、前に述べたように、私は桜井医師に「彼女を説得できるのは被告先生だけです」と申し上げたのです。しかし、結局その後も同医師とのセッションや電話のあとで自殺の危険が高まるという事態が繰り返され、次第に、私やご家族も、精神的にも肉体的にも、その疲弊が極限にまで達していきました。
そのような状況では、彼女をサポートすることがこれ以上できない、と判断せざるを得なくなり、結局幸子さんはK病院に入院しました。ただし、入院後、私は幸子さんからヴァイオリンや卒業論文について相談を受けていたので、生きる目標を見いだしていると思っていました。ですから、退院直後に自殺未遂を行うなど予想もしていませんでした。
ただし、軽井沢に向かう途中、幸子さんは私に電話をしています。しかし、途中で切れてしまったため、最後まで話ができませんでした。そして、これも後から幸子さんから聞いた話ですが、自殺をする直前、軽井沢のホテルから桜井医師に電話をして、その対応に傷ついて、大量服薬をして死のうとした、ということでした。
14.中久喜医師の治療が開始された当初
軽井沢の自殺企図の後、97年2月から中久喜医師とのセッションが始まりましたが、開始当初、幸子さんは「中久喜先生は何もしてくれない。話を聞いてくれるだけで、こんなセッションで良くなるはずがない」という内容の不満を私に述べていました。この頃の幸子さんは、いまだ非常に不安定な状態でした。夜中に家を抜け出して私に電話をしてくることもたびたびありました。その都度、何とか自殺を思いとどまらせることができましたが、何度か危ないことがありました。そういうときには、私の実家に連れて帰り、夜を徹して話をしたことが何度もあります。
しかし、ある時期から、中久喜師との面接や電話の後、幸子さんの自殺衝動が収まっているような感触を持ち始めました。例えば、ある日の午前中に幸子さんから電話がかかってきた時のことです。普通は、一時間ほど話をしていると、自殺衝動が収まったり居場所を教えてくれたりするのですが、この時はどうにもなりませんでした。私は携帯電話で幸子さんと話しながら車を飛ばし、ちょうど[中略]病院でN医師が診察している日でしたので、中久喜医師の元に駆け込みました。電話を中久喜医師に手渡した直後に私自身は気を失ってしまったので、同医師と幸子さんとの会話の内容はわかりませんが、この時は中久喜医師が幸子さんと会話を行ったことにより、間一髪でことなきを得たのです。その直後、「まさか中久喜先生が電話に出るとは思わなかった。騙された気分だ」と幸子さんから言われましたが、電話を切ってしまったらそれまで、という状況だと思いましたので、私にはそれ以外に取りうる方法はありませんでした。
以上のように、私が中久喜医師のところまで電話をつないだのは、それ以外に方法がなかった、ということ以外に、それまでの時点で、同医師との面接や電話の後、彼女がN医師に説得されて自殺をあきらめる、ということが何度もあったからです。
15.桜井医師との関係再開を提案した理由
中久喜医師との治療が開始されてから数ヶ月後、私は、この時期に至っても、依然として幸子さんが桜井医師に対して強い「恋愛感情」を表明し続けていることに驚いていました。ただしこの時期には、桜井医師から96年1月に受けた説明を信じ続けていましたので、「恋愛感情」は幸子さんの一方的な思い込みであると考えていました。
しかし、幸子さんは、桜井医師に再会したいと強く訴えるばかりか、そのような希望が強い自殺願望にも結びついているように感じました。そのため私は、済世会中央病院第一セッションでの桜井医師との決別作業が途中で終わってしまったことが彼女の自殺願望の原因なのだろう、幸子さんにとってはつらいだろうが、やはり桜井医師との決別作業をおこなわざるをえないだろう、そして、桜井医師のモーニングワークを成功させれば、幸子さんはきっと病気を克服できるようになるに違いない、と考えるようになりました。
そこで私は、97年秋頃、中久喜医師に対して桜井医師とのモーニングワークに取りかかってほしい、という要請をかなり強い口調で申し上げました。中久喜医師は、そのとき、「それも選択肢の一つである」という見解を示されたので、私は自分の判断で桜井医師に電話をして、治療の再開を要請しました。その内容は、私が中久喜医師に要請したものと同じです。すなわち、お願いする治療の内容はモーニングワークであり、中久喜医師がコーディネーターとして立ち会うこと、目標は幸子さんが桜井医師と精神的決別を行うこと、というものでした。桜井医師からは、「協力できるかもしれないが、それは中久喜医師次第である」という回答を得ました。以上の経緯については幸子さんにも話しましたので、彼女もこの関係再開に期待を持ちました。中久喜医師がどのような理由から、桜井医師との関係再開を決断したかはわかりません。幸子さんの希望を尊重し、また、桜井医師を信頼して決別作業を行おうとお考えになったのではないか、と私は考えておりました。
以上のように、中久喜医師のもとでそれなりの安定を保っていた状態であるのに、敢えて桜井医師とのモーニングワークに踏み切った、私やご家族の状況を、ここでもう少し詳しく説明しておきます。
当時の幸子さんは、とても前向きな部分が出ておりました。将来のこと(精神科医になりたいという希望やヴァイオリンで人を感動させる演奏がしたい、など)について、私とも幾度となく話をし、また、実際にも定期的にヴァイオリンのレッスンを受け、新しい発見に喜びを感じている様子もありました。しかし、一方で、何をやっていても突き当たってしまう「被告先生の姿」があり、こうした前向きの作業に完全には立ち向かえない状況でもありました。その姿は非常に痛々しく、「生きたい、何かをしたい」という感情とそれを妨害する「行き場のない恋愛感情」そして、時には自殺衝動にまで高まってしまう絶望感との狭間でもがいている幸子さんの姿を見続けることは、私にも、ご両親にとっても厳しすぎる状況だったと言えます。
私にとっては、幸いにして中久喜医師という「信頼に足る」医師を得たことで、幸子さんの根本的な問題である「恋愛転移」を何とかできるのではないか、という希望がありました。幸子さん自身も中久喜先生を信頼しており、その影響力の中でなら、予想される自殺企図(桜井医師との面接の後で起こるであろう自殺への行動)さえ押さえ込めれば、モーニングワークを行うことができるのではないか、と考えたのです。もちろん、そのことは桜井医師にも伝えましたので、精神科医としての知識と経験から、幸子さんに対するモーニングワークに協力していただけるとも信じておりました。
16.1997年11月:済世会中央病院第二セッション開始直後、面接後に自殺をしようとするパターンがくり返される
セッションが始まってから、面接や電話の後で幸子さんの具合が悪くなったり自殺の危険性が高まるような状況が頻発し始めました。私は当初、以前と同じパターンであり、決別作業の中では避けられないことだと思っていました。その頃のことで、はっきりと記憶しているのは、97年11月のことです。幸子さんは、その日に行われた面接の後で私に電話をかけてきて、面接の内容について話してくれました。その時の話と内容が一致しているのは、11月12日のカルテです。このカルテによれば、「先生(被告)の態度が違う」「先生(被告)は死なない限りはあなたを診ますと言ったではないか、昔のことを話すと言うことは今の関係がないと言うことではないか」と幸子さんが桜井医師を問いつめています。また、お母さんが幸子さんに桜井医師が「結婚した」ということ話した、と記されています。
同日の深夜、幸子さんから電話がかかってきました。最初は要領を得ず、何のために電話をしてきたのかという質問にも答えず、押し問答のような会話が続きました(「どうしたの?」「別に」という会話をくり返す、というものです)。幸子さんが危機的な状況にある時の電話はいつもそのように始まりました。会話の糸口を根気よく探してしばらく話していると、少しずつ中身のある話になっていきます。最初は感情を全く見せずに淡々とした口調ですが、そのような状態の時が非常に危ないことはわかっていましたので、とにかく幸子さん本人の口から何かを話させることが必要だと思っていました。
そのうち、話は桜井医師との面接とその後の電話のことになりました。その日は、面接の後で家に帰る途中で桜井医師に電話をした、ということでした。そのなかで幸子さんは、「桜井医師が結婚したらしいということを知り、そのことを問いただしたが、はっきりした回答はなかった」ということを話しました。また幸子さんは、電話の中で慶応大学病院の時の話をしたが、当時は「意志が通じていた」が、今回はそういうことがないし、桜井医師の態度が全く違う、と訴えていました。
このとき私は、桜井医師と幸子さんの関係がどのようなものだったかをもう一度きちんと確認する必要がある、という点を強調し続け、幸子さんが今後のことに目を向けるような話し方をして、自殺を思いとどまる方向で話を進めました。このような会話を続け、3時間ほど経過して、結局幸子さんは自殺を思いとどまり、帰宅しました。
私はまだこの段階では、桜井医師は決別作業を進めているのだと考えていました。しかし幸子さんはこの頃、桜井医師が「以前の(私の精神)状態を解凍しようとしている。そんなことをしたら大変なことになるのに、どうしてそんなことをする必要があるのか」と訴えていました。彼女の「恋愛感情」を解消するというのならわかりますが、そうではなくわざわざ活性化しようとしている、という話でした。そのようなことが決別作業の中でどうして必要なのか、私には全く理解できませんでした。
また幸子さんは、「桜井医師の言っていることはコロコロ変わる」などと、治療での桜井医師との会話にかなりストレスを感じている様子でした。その結果、面接の後で必ず状態が悪くなり自殺の危険性が高まる、ということが頻発しました。ただし、悪くなるのがほとんど桜井医師との面談の後でしたので、ある程度予想がついてなんとか手が打てました。
17.「桜井医師が幸子さんに対して恋愛感情を表明している」ということを聞く
しかし、第二セッションが始まって一ヶ月ほどしてから、私は幸子さんから次のような話を聞くようになりました。あるセッションの中で幸子さんが、「私が苦しんでいる時に結婚した」と桜井医師を責めた際、同医師が、「私はあなたに対して個人的な恋愛感情を持っていたし、今もそれはある。しかし、恋愛感情と結婚は別のものであり、一番大切な人と結婚できないこともある。一番大切なのは幸子さんだが、結婚は別のものなのだ」と答えた、と。
また、「以前の桜井先生は私のことを大切にしていたのに、今は(結婚して奥さんもいるから)私のことが邪魔になっている」と桜井医師に言うと、「そんなことはない。今も幸子さんを大切に思っていることに変わりはない」という答えが返ってくるというのです。
さらにその後も幸子さんから話を聞いていくうちに、桜井医師が「慶応大学病院時代は自分も幸子さんのことが好きだったし、今もその感情はある。自分にとって幸子さんは一番大切な人だが、一番大切な人と社会的な関係を作れるとは限らない」という趣旨の発言を繰り返している、としか思えなくなりました。これは、以前、桜井医師が幸子さんの家族や私にした説明と全く異なる内容でした。幸子さんに面接の話を聞くと、何度もそうした話が出てきました。
そのように、「個人的な恋愛感情がある/あった」ことを桜井医師が言う、という幸子さんの話には真実味がありました。他方で幸子さんは12月に入ってから「被告先生は、私を引き止めるために好意があるふりをしているのではないか」という疑いを持つ時期もありました。
18.幸子さんからカルテのコピーを見せられ、桜井医師が「恋愛感情はかつてあったし、今もある」と明言した、という事実を認める
このような曖昧な状況が変化したのは、12月20日かその数日後、桜井医師が中久喜医師に送ったファックス、つまりカルテのコピーを見てからでした。このカルテは、幸子さんから聞いたところでは、この時期になって桜井医師のほうから見せてくれるようになったものでした。第二セッションが始まった時には、桜井医師が書いた中久喜医師宛の報告を幸子さんが見ることがあるなどとは、全く考えていませんでした。医者同士の連絡ですから、本人に見せない方がよいこともたくさん書かれていると思っていたからです。幸子さんも「桜井医師のレポート」を見られるとは全く思っていなかったのですが、ある時期から、幸子さんにも「桜井医師のレポート」のコピーがまわってくるようになったのです。
そのようなカルテのうち、特に、11月21日のカルテには「お互いに(否認しながら)恋愛感情(少なくともそれに近いもの)を動かした」、「私が彼女に引きつけられたのも確かなことのようです。また、彼女の記憶にある私の台詞も、曖昧で誘惑的なものがありました」と記されていたました。
また、12月17日付のカルテには「あるものを、「そんなことは一度も思ったことはない」と否定してしまう。それでおかしくなる。月曜の電話でも私はその気持ち自体はあると言うことを言った」、「気持ちはあっても外側の世界ではそれに答えることができない」、「私はものすごい力で幸子さんを下の方(無意識の方)で引っ張っている。それなのに寄ってくるとバッシングする。(これが非常に重要なことだと感じています)まったく虐待であると思う。申し訳ないと思う。」と記されています。
これらの記述は、一つ一つの文言から始まり、その内容に至るまで、私がそれまで幸子さんから聞いていた話とほぼ一致していました。私はその時点までそういった話でさえ「幸子さんの願望が混ざったもの」と考えていたのですが、このとき、幸子さんの話がカルテの記述によって全て裏付けられたのです。私は大変に驚き、強いショックを受けました。
私はそれまで、幸子さんを病気から回復させるには、桜井医師との決別が不可欠であると考えていました。その際に前提としていたのは、幸子さんの「恋愛感情」が「幻想」であり、桜井医師の方は幸子さんに恋愛感情など持っていない、ということでした。実際に同医師からは、幸子さんに恋愛感情など持っていない、彼女の恋愛感情は一方的なものである、と説明されていました。ですから、そのことを前提にして幸子さんのサポートに関わっていたのです。ところが、桜井医師が「慶応大学病院時代から恋愛感情を持っていたし、今もある」と幸子さんに恋愛感情を告白した、ということになると、二人を引き離すことができませんし、幸子さんの病気を治すこともできなくなってしまいます。
そこで、私自身が事実を確認するために、幸子さんからカルテを見せられてからすぐに、桜井医師との面談をお願いしました。97年12月25日のカルテに私に関する記述がありますので、これがそのときの記録であると思いますが、以下では私の記憶に従って陳述していきます。
19.桜井医師が私に対して「恋愛感情があったし、今もある」と認める
まず、私がアポイントを取ったところ同医師は、12月25日は「忙しい」という回答でしたが、私は「どうしても会いたい」とお願いして面談をいたしました。以下で、その時のやりとりについて述べていきます。なお、この時の会話は、その後幸子さんに何度も繰り返して再現して説明して共有化しており、とても鮮明に覚えているところが多いです。桜井医師の一つ一つの発言を反復して理解しようとし、また、それまでの「桜井レポート」を示しながらその発言の意味を二人でじっくりと、それこそ幾度となく繰り返し話し合いました。そこで、覚えている限り、私と桜井医師の発言とやりとりの内容を詳しく提示していきたいと思います。
まず、私は桜井医師に対して、単刀直入に、「慶応大学病院時代から、さっちゃんに恋愛感情をもっていたのですか?」という質問をしました。これに対する桜井医師の回答は、ほぼ次のようなものでした。「いいえ。そのようなことはありません。以前にも申し上げた通り、ご家族に問題があったために、親代わりをしてしまったというのが本当のところです」。
続いて私は、ほぼ次のような質問をしたと思います。「しかし、ここ数回のセッションでは、お互いに恋愛感情を認めるような発言をしていますよね」と。これに対する桜井医師の回答は、「それは恋愛感情ではありません。私にとって幸子さんはとても大切な人ですが、あくまで患者として大切であるということです」という内容のものでした。
しかしこの回答では、ファックスの内容と矛盾します。ですから私は、幸子さんにとってもらったファックスのコピーを示しながら、「それでは、ここにあるファックスの内容は否定されるのですか?」と質問しました。それに対する桜井医師の回答は、「それは読み方だろうと思います」という曖昧なものでした。
以上のような回答では、とうてい納得がいきませんでした。そこで、桜井医師が幸子さんに対して、「好意」のようなものを持っているかどうかをまず確かめようと思い、次のように質問しました。「それでは、桜井先生はさっちゃんのことが好きではないのですか? 僕から見てもさっちゃんはとても素敵な人だと思いますけど、桜井先生はそうは思いませんか?」と。この私の質問に対する桜井医師の回答は、「もちろん、幸子さんはすばらしい女性だと思います」というものでした。
そこで私は、桜井医師の真意を問いただそうと考え、「それ(すばらしい女性だと思う、ということ)は個人としての感情ではありませんか?」と質問しました。しかし桜井医師は、私の質問には直接は答えませんでした。
その後のやりとりのなかで、桜井医師は、次のように私に対して質問をしてきたと記憶しています。「では、Qさんは幸子さんに対して恋愛感情を持っていると言えますか? 個人としての評価は恋愛感情だけでしょうか? 私は、Qさんが幸子さんに持っている感情が恋愛感情ではないとすると、なぜQさんがこんなに幸子さんに関わっているのか、どうしても理解できません」。
しかし私にとっては、恋愛感情がなくとも大切な人をサポートするのは当たり前だ、という気持ちがありました。ですから、桜井医師と私の基準が異なるのだろうと考えて、次のような質問をしました。「それは、恋愛感情がないとこんなにお世話をすることができない、と思われているからですか?」
以上の質問に対して桜井医師は「そうです」と答え、さらに「Qさんは幸子さんに恋愛感情を持っていると言えるのではありませんか?」と質問してきました。これに対して私は、「いいえ。私はさっちゃんに恋愛感情は持っていません。大切な人ではありますが」と答えました。
しかし桜井医師は、私のそのような回答が理解できない、という意味のことを言いました。それは、「私には、Qさんの幸子さんに対する行動が、どのような情緒によって行われているのかわからないのです」という言葉だったと思います(この「情緒」という言葉は、桜井医師が頻繁に使った言葉であり、非常に強い印象が残っています)。このような発言を聞いたので、私はすぐに桜井医師に対して、「それは、桜井先生が私を理解できないだけでしょう」と反論しました。
しかしその時同時に、「恋愛感情がないとあれだけ一生懸命に幸子さんをサポートできないはずだ」という桜井医師の論理に気付きました。そこで、次のように質問しました。「ということは、桜井先生の行動は、さっちゃんに対する恋愛感情があるからだ、ということになりませんか?」
この質問に対して桜井医師は、次のような答え方をしたと思います。「それは・・個人的な情緒がないとは言いません」と。そこで私は、「桜井先生の理解だと、それは恋愛感情ですよね」とさらに質問をしました。これに対する桜井医師の回答は、「いちがいにそうだとはいえないとおもいます」という言葉でした。
しかし私は、以上のようなやりとりのなかで、桜井医師が幸子さんに対して恋愛感情があるということがはっきりし、それにも関わらず同医師が言葉でごまかそうとしていると感じましたので、「恋愛感情がなければ彼女に対してサポートはしない」、という桜井医師の基準を再度取り上げて、「いちがいにそうだとはいえない」といっても、「個人的情緒」は恋愛感情以外の何ものでもないはずだ、とくり返し指摘しました。これに対して桜井医師は、「いちがいにそうとはいえない」というような発言をくり返し、押し問答があったと記憶しています。
しかし、そのようなやりとりのなかで、桜井医師が幸子さんに対して恋愛感情を持っているという、カルテに記載されている通りのことを「そのように言うこともできると思います」という言葉で、事実として認めました。また、同医師の話のニュアンスから、そのような感情は、どうやら慶応大学病院に入院していた頃からあったということがわかってきました。
そこで私は、「それでは、慶応大学病院のときから、先生はさっちゃんにたいして恋愛感情をもっていたのですね?」と質問しました。この質問に対する桜井医師の回答は次のようなものでした。「それを恋愛感情と呼ぶかどうかはともかく、個人的な感情があったことは認めます」と。
以上の発言は私にとって大変重たいものでした。なぜなら、私は、96年1月9日に桜井医師から受けた説明を信じて、幸子さんをサポートしてきたからです。ところが、桜井医師が、実はその頃から恋愛感情があった、ということを認めたわけですから、私たちはだまされていたということになります。
したがって、その点を確認するために、私は次のように質問しました。「それでは、以前、慶応大学病院の時代に恋愛感情があったかどうか、またさっちゃんに対してそのように受け取れる言動をしていないかを確認した時に、何故否定されたのですか?」と。この私の質問に対する桜井医師の回答は、大変よく覚えており、次のようなものでした。「それは・・医師としての立場があったからです」。
そこで私は、「それは、保身ということですか?」と問いただしました。すると桜井医師は、「保身だとは思っていませんが、そう取られても仕方がないかもしれません」と回答しました。しかし、「保身」のために嘘をついた、という説明を受けても、それによって振り回されてきた私としては納得できませんので、さらに次のような質問をしました。「正確な情報を共有してさっちゃんを元気にすることよりも、ご自分の立場を守ることを優先したということですか?」
この質問は一度だけであったかどうかはよく覚えていませんが、これに対して桜井医師は、「そのようなことはありません。幸子さんが元気になるようにということを、一番に考えていました」という回答をしたと思います。
しかし、そのような回答は、「保身」のために嘘をついた、という事実と矛盾するため、私は桜井医師の責任を追及しようと思い、次のような指摘をおこないました。「しかし、先生からの誤った情報で、ご両親や私はとんちんかんなことをさっちゃんに言ってきたことになりますよね。それは、先生の責任ではないのですか?」と。
しかし桜井医師は、「Qさんが幸子さんに話されたことは、Qさんが話されたことであって、私の問題ではないと思いますが」という回答をしました。これでは、単なる責任逃れだと思い、「それはあまりに無責任ではないですか?」と問い詰めましたが、桜井医師の回答は、そのあとも同じようなものでした。
また、この日の会話のなかでは、桜井医師から次のような発言もありました。「個人的な情緒はあったし、今もある。幸子さんに対して嘘はついていない。幸子さんは勘が鋭い人だから、私が幸子さんにそうした感情があったことはわかっていたと思う」。
また、幸子さんが以前から私や周囲に語っていた話、例えば、「幸子さんをくださいとお父さんに言ったら大変なことになるよね。お父さんは苦手だから」「恋愛感情と社会的な責任は別のもの。一番好きな人と結婚できないこともある。一番大切なのは幸子さん」などの発言があった、ということもすべて真実である、と桜井医師は認めました。
以上のような会話が続く中で私は、桜井医師の誠意や治療者としての行動に期待することはもはやできない、と伝えました。それに対して桜井医師は、「自分は既に幸子さんの治療者としての立場は放棄している。治療者はあくまで中久喜先生であって、自分は個人として幸子さんのお世話をしているだけです」との返答がありました。
以上挙げた以外で、鮮明に記憶しているのは、桜井医師が、「個人的な感情があっても応対には気をつけているから問題はない」と強調していたことです。同医師は、治療室の同医師の席と幸子さんがすわっている場所を示しながら、「どんな小さい接触も起きないように十分に注意している」としきりに主張しました。この日のやりとりの間、桜井医師は二度ほど看護婦に呼ばれて席を立ち私のそばを通りましたが、その際に、「あそこからここまで(桜井医師が座る場所から、Qが座っている場所、つまり、いつもは幸子さんが座っている場所まで)これだけ離れている」ということを言って、その点を強調していたことを鮮明に記憶しています。そのことに対して「私(Q)は、必要であればハグもするし、手も握る。フィジカルコンタクトをすること自体が問題だとは思わない。それより、精神的に惑わせることの方が問題ではないか?」ということを言った記憶があります。しかし桜井医師は、個人的な感情があっても接触しなければよい、という点を強調し続け、押し問答になったと記憶しています。
以上の面談の後、私はまず幸子さんに以上の内容を報告しました。その際には、私と桜井医師との問答がどのようなものであったか、私の質問に対して桜井医師がどのように答えたのか、ひとつひとつの言葉を再現しながら、上述したような内容をさらに詳しく話しましたし、その回数は一度だけではありませんでした。そのためだと思いますが、以上の会話があったときから相当な年月が経っているにもかかわらず、この日のことはいまだに鮮明に覚えています。
また、幸子さんに報告したのと前後して、幸子さんのお母さんに連絡を取り、「桜井医師が幸子さんに恋愛感情をもっていて、そして今もあると私に明言した。大変なことになった。2人を切り離すことができなくなっている」という内容の話をして今後の対策について相談しました。
20.恋愛感情を表明されて以降の幸子さんに対する支援と桜井医師に対する認識の変化
97年12月末の段階で、すでに済世会中央病院第二セッションはほとんどが長時間の面接で、日によっては深夜までかかることがあり、そういうときに幸子さんは診察料を夜間の窓口で支払う、という状況になっていました。また、桜井医師との面接や電話のあと幸子さんが必ず自殺をしようとする、ということは以前通りでしたが、その原因についての認識は大きく変わりました。
以前であれば、「モーニングワークがつらくて死のうとする」と考えていました。しかし97年12月25日以降は、幸子さんが桜井医師から「あなたに恋愛感情はあるが、社会的関係は作れない」という内容のことを言われるため、そのたびごとに自殺をしようとしている、という認識に変わっていました。それは、私が幸子さんから聞き、カルテで確認し、そして桜井医師から聞いた話によって確認した事実です。
また、その後も幸子さんから話を聞いたりカルテを見るたびに、桜井医師がいつも、彼女の自殺の危険性を高める会話をあえてしていたことがよくわかりました。たとえば、98年1月上旬に、幸子さんが中久喜医師に、桜井医師との会話の内容をまとめたレポートを提出していますが、このレポートに記録されている桜井医師の発言を見れば、彼の発言が、全て幸子さんの自殺を誘発するものであることは明らかでした。
他方、桜井医師自身が済世会中央病院第二セッションの時期に幸子さんの自殺を止めた事実は一度もありません。より正確に言えば、幸子さんが面接室の外で自殺をしようとしたときに、彼女を説得して落ち着かせ、一旦は自殺をあきらめる、というようなことを、桜井医師がしたことは一度もありませんでした。そのようなことは、それまで通り私がおこなっていたか、もしくは中久喜医師によって止められていました。
その後、私は仕事の都合で、1998年2 月頃から、幸子さんの支援に恒常的に関わることができなくなりました。それ以降は、全てご両親にお任せしましたが、主としてお母さんが幸子さんをサポートするようになったと聞いています。ただし、その後も幸子さんからは、断続的に電話連絡などがありました。たとえば、ある日、桜井医師と電話をした後の幸子さんから私に電話がかかってきたことがありました。自殺をしようとしていることはわかりましたので、説得していくうちに落ちついて話せるようになりました。幸子さんが中久喜医師に提出したレポートによれば、これは98年6月13日のことで、会話の間、幸子さんはJR水道橋駅のプラットホームの先頭に立って投身自殺を図ろうとしました。しかしいったん桜井医師との電話が切れたとき、私に電話をしてきたようです。私はそこで彼女に何を言ったのか正確には覚えていませんが、以前と同様、幸子さんは話しているうちに落ちついていきました。そして、「自殺はしない」という確証を得たので、会話を終えました。つまり、このとき自殺の危険性は高かったのですが、それを止めたのは、桜井医師ではなく私だったのです。
21.1999年4月から2000年5月まで
その後、99年4月頃、幸子さんより連絡があり、桜井医師との関係が切れたが裁判をしたいので手伝ってほしい、という要請があったので、弁護士のところに相談をしに行きました。しかし、相談した弁護士には引き受けてもらえず、裁判はできないという結果になりました。さらにその後、しばらく連絡が途絶えましたが、同年10月、幸子さんから電話があり、ヴァイオリンを勉強していたこと、Mさんという人と巡り会ったことなどを語ってくれました。幸子さんの話があまり切迫した感じではなかったので、状況がやや好転したのだろうか、とも感じていました。その後、何度か電話でお話をしましたが、音楽の話やMさんの話に加えて、桜井医師の話も出てきました。その中で幸子さんは、「自分は騙されていた。許せない」ということをしきりに語っていました。また、「こんなになってしまったけど、なんとか生きていきたい。それが裁判をするという目的のためでもいい」と、はっきりと生への意欲を見せていました。
2000年1月初旬か半ば頃に、幸子さんが自殺を図ったという連絡がMさんからありました。その中でMさんは、「幸子さんを桜井医師に会わせてはどうか、本人も会いたがっている」ということを私に告げました。しかし、私は桜井医師が周囲に対して平気で嘘がつけることや、幸子さんのこれまでの経緯を見ていましたので、それは絶対に止めた方が良い、と伝えました。ただその時は、Mさんの横に幸子さんがいる状況で詳しい話をすることができませんでしたので、いつかこれまでの経緯を詳しく説明する必要があると考えました。他方、とりあえず少しでも幸子さんの精神状態を落ち着かせることができないか、と考え、Mさんに幸子さんを東京によこしてほしい、とお願いしました。
1月半ば頃だったと思いますが、幸子さんは東京に来て、久しぶりにゆっくりと話をすることができました。その時には、これまでの近況と同時に、やはり桜井医師のこと、Mさんのことが話題になりました。幸子さんは、自分の状態を知っていながら自分を大切にしてくれているMさんに対する感謝の気持ちを語り、それに対して、自分をこのように苦しめている桜井医師への恨みを語りました。それは、「自分が何年も苦しんでいるのに、桜井医師は結婚もしてのうのうと生きている。私も健康に生きていきたい。でも、こんなにつらいのに、どうやって生きていったらよいのかわからない」ということを訴え、「私のような犠牲者を出さないためにも、桜井医師には精神科医をやめてもらいたい」ということも強く主張していました。私としては、Mさんというパートナーを得てもいまだに苦しんでいる幸子さんに対して、「結婚詐欺に遭ったようなものだから」と声をかけるしかありませんでした。その日は幸子さんは大阪に戻りました。何かあったら電話をするように、東京に来る時は連絡するように、と幸子さんに伝えて別れました。この日が、幸子さんの姿を見た最後の日となりました。
2000年5月2日、両親とともに温泉に逗留していた私は、幸子さんから電話をもらいましたが、旅先だったために電話に出ることができませんでした。メッセージもない、発信記録だけの電話でした。そして、5月3日、Mさんから、幸子さんの死を知らされました。それまでと同じように、私宛に最後の電話があったのだ、仮にその電話を取ることができていたら、今も元気なさっちゃんに会うことができたかもしれない、と思うと、今でもどうしようもないやりきれなさを感じます。
22.おわりに
桜井医師は「準備書面(3)」において、「恋愛感情があったし、今もある」と私に明言した、という事実を否定しています。また、これまで桜井医師は、自分の面接や電話の後で幸子さんが自殺に向かうというパターンがあった、ということを否定しています。その上で、済世会中央病院第二セッションの時期に自分が幸子さんの自殺を止めていた、と主張しています。
しかし、以上述べてきたように、ある時期には最も彼女の間近にいて、そして何度も彼女の自殺を止めてきた私のような立場から見れば、以上のような桜井医師の主張は、全て事実の歪曲あるいは虚偽でしかありません。
桜井医師は私に対して、また、幸子さんに対して「慶応大学病院の頃から恋愛感情があり、そして今もある」と明言しました。また、桜井医師との面接や電話の後、幸子さんが必ず自殺をしようとするパターンがあったのも明白な事実です。さらに、桜井医師が幸子さんの自殺を止めた、という事実は一度たりともありません。彼女を説得したり監視をして自殺をしないようにしていたのは、私、お母さん、そして中久喜医師です。
桜井医師は、診察室の外側で幸子さんがどのような生活をし、周囲の人間がどのようにして彼女を支援していたか全く知りませんし、そのような支援の輪に加わらなかったばかりか、むしろ支援態勢を破壊するようなことをくり返していました。もし桜井医師に、良心のかけらでもあれば、虚偽ではなく、真実を述べ、幸子さん、そしてご家族に対して、自身の過ちを認めた上で謝罪し、精神科医をやめていただきたいと思うばかりです。
以上で私の陳述を終わります。
2006年2月 Q
精神科医を訴える