第6期、治療を引き受けたことによって病状の悪化と自殺企図を引き起こした時期(その4):2000年1月中旬〜2000年5月2日

(1)2000年1月中旬、幸子より電話があったが、被告医師は電話の後で自殺企図が起きる、というこれまでのパターンを想起せず、N医師や家族への通知を怠った。その結果、1月12日に自殺未遂が起きた。

(2)この自殺未遂の直後、M氏より「何らかの回答がほしい」と懇願されて手紙と絵を送付するが、これは、幸子の恋愛転移・依存を強化し、、あるいは自殺の原因ともなりうるものであり、不適切であった。

(3)被告医師は、M氏より懇願された「幸子との話し合い」をこのときいったん拒絶した。3月半ばにも、M氏および幸子より関係再開の要請があったがやはり1月と同様に拒絶した。
 以上二回の要請に対する拒絶の理由は、「自分(被告医師)がB中央病院第二セッションにおいて被害を受けたから」というものであり、決して「面接をすると、それがかえって幸子の悪化や自殺企図につながるから」とか「恋愛転移を解消するために、つらいかも知れないがあえて関係を絶ちましょう」などといった幸子の生命の安全や病状の改善を目的としたものではなかった。もし生命の安全や病状の改善を目的とした拒絶であれば、幸子本人にはともかく、M氏や家族にそのように説明するはずであり、また、その後面接を再開することもなかったはずである。要するに、面接を拒絶したのは幸子のためではなく、自分本位な理由に過ぎない。

(4)実際、3月下旬、被告医師は幸子の再度の要請を突如受け入れる。いかなる理由であれ、幸子との関係再開に応じることは危険であり、幸子の生命の安全や病状の改善という観点から、要請を拒否すべきであった。

(5)ここで被告医師が考慮しなければならなかったことは以下の点である。

A.「恋人役」という治療方法を実施したという事実

B.1995年から起きていた自らの性愛性の逆転移、そしてそれが幸子に対する曖昧で思わせぶりな言動につながっていたこと

C.そのような逆転移を背景に95年以降、幸子の恋愛転移・依存を放置・強化し、これを自らの能力ではまったく改善できなかったという事実

D.チームとしての医療が実践できず、ひたすら自分と幸子との関係だけが突出しているという事実

E.幸子の家族とのあいだに協力的な関係が全く築けていないという事実

F.以上の医療過誤によって、幸子が重篤な医原性境界性人格障害となってしまっている事実

G.A大学病院・B中央病院第一セッション・第二セッションを通じ、自らの面接や電話→幸子の容態の悪化→幸子の自殺企図というパターンが繰り返されているのに、それがまったく改善の方向に向かっていないという事実

H.K病院のG医師からの要請を受け入れたことによって、かえって事態が紛糾し、ますます幸子の病状が不安定になっているという事実

I.N医師からの要請を受け入れた結果、B中央病院第二セッションで再び幸子の病状を悪化させ、自殺企図を招いているという事実

 このような一連の事実を冷静に考慮すれば、幸子の執拗な面接再開の要請に応じればこれまでと同じことが繰り返され、決して幸子の回復にはつながらないことが被告医師には容易に理解できたはずである。

(6)M氏は99年9月以降の状況しか、N医師は97年以降の状況しか知らなかった。したがって、以上のような5年にわたる被告医師と幸子との関係を、客観的に認識できる状況ではなかった。その一方、幸子、両親、次女、そして被告医師は、95年から97年までに至る状況をよく認識していた。

(7)これら関係者のうち、母親とM氏は、幸子の要求に応じてしまう傾向があった。母親はずっと幸子の看病をし、もっとも心理的に近い位置にいる家族であったのだから、これはやむを得ない行動である。M氏は、母親と同様看護する立場にあったことに加え、幸子と被告医師との関係について幸子からしか聞いておらず、その病的な依存についての認識ができなかったためである。
 したがって、両者の見解は、この時点で参考にすべきではなかった。参考にすべきは、比較的距離をもって冷静に被告医師と幸子との関係をみていた父親と次女であった。

(8)しかし、そういった意見を聞かずとも、被告医師は専門家なのであり、また自らの失敗によって幸子の「トラウマ」を形成したという自覚があるのだから、冷静に事態を判断し、幸子の再三の要請をここでも拒絶すべきであった。にもかかわらず、被告医師は関係再開を受け入れてしまった。しかもその理由は、「幸子は被告医師と『和解』したいと言っているから」というものであった。つまり、幸子の生命の安全や病状の改善を目指したものではなく、きわめて「個人的」かつ「利己的なもの」でしかなかった。

(9)一方、3月末以降、幸子の精神状態は安定し、人間関係も良好になっていた。これは主として、M氏を中心として、新しい人間関係によって幸子が支えられるようになっていたからである。したがって、この時点で被告医師がいなくなっても、幸子が徐々に恋愛転移を解消し、少なくとも最初のA大学病院入院前の状況にまで回復してゆく条件は整っていた。
 しかし被告医師は、このような全体的な状況を検討することもせず、治療的な観点は一切もたないまま、きわめて個人的な理由から、関係を再開してしまった。

(10)しかも被告医師は、週一回、電話で「世間話」をする、という治療構造(この治療構造や治療の目的自体が適切なものとは思われない)をまもなく自分から破棄し、電話とメールによる頻繁な連絡を開始した。さらに4月22日には、誘惑的な言動によって幸子をB中央病院に来るように促し、面接を実施した。

(11)この時点で、過去の被告医師への恋愛転移・依存は、再び強化されていた。そのことは、M氏が被告医師に説明したように、幸子が4月22日の前日から、被告医師からの連絡を待って神経をいらだたせていたこと、同日朝、幸子が被告医師からの連絡が来ない、という理由で容態が悪かったことから明らかである。
(12)被告医師とのコンタクト(電話・メール・面接)は、明らかに幸子の容態悪化と結びついていた。それは4月27日、自殺の予告を電話で被告医師に告げていることからも明らかである。5月1日の自殺企図も、被告医師への恋愛転移・依存を原因としていた。また5月2日の自殺企図も、被告医師が電話で「あなたの自殺を止めることはできない」と発言したことに端を発している。

(13)ことさら専門家でなくとも、ここで幸子の被告医師への病的な依存(嗜癖)が被告医師との接触により強化され、95年以来の精神状態が再現したことは明らかである。
すなわち、被告医師との接触→依存・転移の強化→自殺企図というパターンである。

(14)幸子の自殺企図の原因は以下の通りである。被告医師に強い恋愛感情を持ち、なおかつ嗜癖と言えるほどの強く依存していた幸子は、1)被告医師にもっとかまってもらいたいという依存欲求、2)曖昧な態度に終始する被告医師への怒り3)被告医師から見捨てられる不安、等の感情を心の中に保つことができず、行動化して自殺企図を起こしているのである。だからこそ自殺企図は被告医師との面接後や電話後に起きているのであり、被告医師に無関係な自殺企図は全くないと言っても過言ではない。それに加え、幸子の自殺企図は、被告医師に対する復讐という性格ももっていた可能性がある。幸子はしばしば「5年間を返してほしい」と述べていた。

(15)また、幸子はこのような被告医師に対する怒りから被告医師を告訴したいという希望を持っていたが、それがうまくいかないと知って絶望したという側面もあるかも知れない。というのも、99年4月以降、ある弁護士から「医療裁判は何らかの事件すなわち人命が奪われる、ということがない限り起こすことは難しい」と聞き、「私が死なないと裁判にならない」と幸子がもらしていたからである。5月2日の晩、M氏が弁護士と知り合いの友人と電話をしていて、「やはり裁判は難しい」ということを話しているのを幸子が聞いたことも一つの引き金になったかもしれない。

(16)だが、いずれにせよ、自殺の直接的な最大の原因、決定的なものとなったのは5月2日の被告医師の電話による対応であった。なぜなら、「私の自殺をその都度止めなさい」という要請を被告医師が拒否したからである。こういったパターン、すなわち、被告医師が何ら問題がなかった、と利己的に類推するやりとりの後で幸子が死を選ぼうとする、というパターンは、A大学病院入院時代にはじまり、それ以降、一貫してみられているものである。したがって、幸子の要請にどのように対応するかについては、少なくとも「それはできない」などという結論をすぐに出すことはきわめて危険であることは明らかであった。

(17)たしかに幸子が「自殺する」と言うたびに被告医師がそれを止めることは現実的に無理である。だが、精神科医であれば「どうしてそのようにして(毎回自殺を止めて)もらいたいのだろうか?」と尋ねたり、「自殺を図ることを防止する他の方策はないのだろうか」と一緒に考えたり、「自分が毎回自殺を止めていたのでは、もし自分がいないときに自殺が起きてしまう。だから、もしものときのためにより信頼できる救急医療機関とつながっておくべきではないだろうか」とうながしたり、「あなたが私に復讐したいという気持ちは理解できるが、もしそれだけの目的で死んでしまえば、あなたをこれまで支えてきた他の人々を裏切ることになるのではないか」などと言うことができたはずである。
 あるいは「ここでは結論を出さないで、連休明けに話し合いましょう」と提案した上で、M氏やN医師と協力しながら、自殺の危機を回避する方策を話し合ったり、両親や次女に協力を要請することも十分に可能であった。そのようにしても、おそらく幸子の希死念慮はそう簡単には治まらなかっただろうが、少なくとも「できない」と言ってしまうよりは遙かにリスクが軽減されたはずであり、精神科医であるならばそのようにするのが当たり前である。

(18)とはいえ、そもそも、2000年3月末に関係再開を受け入れた時点で、このような事態になることは予測ができた。それにもかかわらず要請を受け入れたのであるから、当然、そういった事態に対処する心構えと準備をしておくべきであった。また、危険な治療を再開することは明らかであったのであるから、過去5年にわたる治療の失敗を徹底的に点検すべきであった。しかし、そういった準備も点検なく、関係を再開し、なおかつ、治療構造を破壊し、幸子の嗜癖を強化し、過去の関係性を再構築し、その結果、幸子の自殺をもたらした。

 以上のように、2000年3月末から2000年5月までの被告医師の治療は、いかなる計画も方針もないまま実施され、当初から予測できたにもかかわらず、幸子の病状悪化と死をもたらしたものである。

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