「母陳述書」11の続き

何が起きても仕方がない、と内心は覚悟をして送り出しましたし、幸子が帰国するまで、本当に無事に戻ってきてくれるのだろうか、と本当に心配ばかりしている毎日でしたから、無事に戻ってきたときはうれしく、ほっとしました。

 幸子の死後、同じようにお子さんを亡くされた方から、うつ病の人が一人で海外旅行に行けるはずがないのに、よくそんなことを許しましたね、と言われたことがあります。でもそれは、中久喜医師が許可されたことですし、幸子が自分で決めたことですから、覚悟を決めて許したのです。

それにしても、今、この旅行記を読むと、幸子が桜井医師と断絶しても、旅行中には依然として同医師のことで精神状態が不安定になることが多かったということがわかります。また「わたしは死ぬまであなたを愛するだろう。ただ好きという感情では言い表せられない何か。今でもあなたを殺したい位愛しているのだから」という言葉は、今読んでも、やはり普通の恋愛感情と違い、病的なもののように、私には思えます。ですから、桜井医師に持っていた幸子の感情は、本当は恋愛感情ではなくて、病気のようなものだったのではないかと私は思っています。



(3)ヨーロッパ旅行後〜Mさんとの交際・婚約

しかし他方で幸子は、ずっとあこがれていたヨーロッパに行き、また旅行中に見知らぬ土地で初めて出会った人々と交流しました。ですから、この旅行は幸子にとってはとても良い経験だったのではないかとも思います。旅行記を読んでいなかった当時も、帰国後、幸子から聞いた話は全てとても面白くて、旅行を楽しんだ、ということがわかりました。

 その上、旅行記にでてきますが、アムステルダムのコンセルトヘボーで席が隣り合ったMさんと、99年9月初め頃からおつきあいを始めるようになりました。それまで幸子は何人からの男性から交際や結婚を申し込まれたことがあったのですが、いろいろな理由でお断りしてきたそうです。幸子自身は、ロンドンに留学することになっていると言って断っていたと話していました。留学の話をすると、大抵の男性はあきらめた、ということです。

  ただし、私や夫が、幸子には知られないように、そういった方々には、それとなく幸子の病気のことを話したこともありましたし、あるいは幸子の自殺未遂の直後、病院に担ぎ込む手助けをしていただいた方もいらっしゃいましたから、留学のことを聞いて、ということもあったとは思いますが、むしろ、病気や自殺未遂のことを知って、幸子との交際をあきらめられていたのではないかとも思います。

  ところが、Mさんは、ロンドン留学のことを聞いても、むしろ留学に賛成してくださり、また、離れて暮らしながら交際することも一向に構わないし、そういった経験もあるということで、気になされない、とおっしゃられたということでした。幸子はそういうMさんの反応を見て、しばらくおつきあいをしてみようかな、と言っていたと思います。また、私や夫には詳しくは説明していませんでしたが、幸子はMさんに、これまでの自分の病歴や自殺未遂歴について話していたようです。

しかしMさんは、そういうことを聞いても、気になさらなかったということです。私たち家族も、そういう方は初めてだったので、信頼できる方なのではないかと思いました。9月初めに交際を始めて、「婚約した」と幸子から聞いたのが9月の終わりで、すぐに二人で婚約指輪を買いに行ったようで、見せてくれたことがありましたが、本当に出会ってからあっというまでした。Mさんと交際を始めて、幸子の具合が悪くなるということよりは、むしろ調子がよいときのほうが多かったので、私は、二人の交際に期待を抱いていました。

 ただ、10月頃、Mさんのお父様とお目に掛かり、何かのきっかけで口論になってしまい、そのため、幸子の状態が一時的に悪くなり、また、Mさんとの関係が危なくなりました。私は、何とかしようとしましたが、結局、2000年4月まで、お父様との関係は決裂していて、Mさんに対して幸子は、お父様とは絶縁するようにと、ずいぶん無理な要求をしたそうですが、Mさんはそれを受け容れたということでした。

  私はそういう経緯について、この時期は、かなり詳しく聞いていました。幸子はMさんとお会いした後、家で私と次女に、Mさんのことをよく話していたのです。ただ、私たちが聞いていたのは、もっぱら幸子の「おのろけ」で、実際にMさんと交際している時にどういうことが起きていたのかは、Mさんからお話を伺う機会がなかったので知りませんでした。ですから、「おのろけ」だけを真に受けて、二人の関係は順調なのだろうと考えていました。

  他方、私や夫、あるいは次女がMさんに対して、この5年間幸子がどういう状態だったのか、桜井医師との関係はどうだったのか、ということについて詳しく説明したことはほとんどありませんでした。Mさんは幸子からの説明をずいぶん聞いていたようですが、それはあくまで幸子からの説明でした。もし家族から説明したとすれば、幸子の説明とは相当違うはずでした。しかし結局、幸子が常にMさんと一緒にいて、私たち家族も全員フルタイムで働いているという状況で、また、Mさんだけと私たちが話すと幸子に怒られそうだった、ということもあり、それまで家族がどういう状況だったのか、桜井医師と幸子がどういう関係だったのか、さらには、桜井医師の治療の後で幸子の具合が必ず悪くなったり死のうとした、ということについて、わたしたちからMさんにお話しする時間は、ほとんどなかったと思います。

  例えば、Mさんからあとから聞いた話では、桜井医師との関係について幸子は、純粋な恋愛として説明していたということで、またMさんも、どうやらそのような話を全て信じていたようです。しかし、私も夫も次女も、桜井医師に対しては嫌悪感をもっており、家族の間でその名前を出すことすら避けていました。ですから、まず第一に、幸子と桜井医師について話すことは全くと言っていいほどありませんでした。たしかに、幸子から何かをうち明けられたことがあったと記憶していますが、Mさんと交際するようになってからは、そういうことは一切ありませんでした。

  また幸子も、私たちが桜井医師について話すことをいやがっていることを知っていたので、それまでと同様、家族に対しては一切話しませんでしたし、ましてや、Mさんを交えてその話をすることなどありませんでした。私はといえば、桜井医師のことはもう忘れたかったですし、Mさんとの交際が順調にいってくれれば、幸子が桜井医師と関わることはなくなるわけですから、Mさんに桜井医師と幸子との関係について詳しく話す必要はないと思っていました。私は、ただただ、桜井医師とのことを早く忘れてほしいと思っていました。

 つけ加えれば、1999年9月頃は、以前お世話になっていたQさんやそれ以外のお友達とも、幸子はやや疎遠になっていた時期でした。ですから、そういったお友達から桜井医師とのことや幸子の病気についてMさんが詳しく聞くようなことはありませんでした。また、幸子の病気のことをMさんに話すとすれば、幸子には内緒で話さなければなりませんでしたが、私とMさんが二人きりになるという機会はほとんどありませんでしたし、幸子の病気についてMさんに詳しく話すという機会はありませんでした。

  たった一度だけ、幸子の病気についてお話ししたことがありましたが、それは、慶応大学病院の白波瀬丈一郎医師の論文(「精神分析と精神医学の重なり」『AERA MOOK精神医学がわかる』朝日新聞社、1998年、140-146頁)をMさんにお見せして「幸子の病気はこれじゃないかと思うんですけど」と私が言ったときだけでした。Mさんもたしか「ああ、これですねえ」とおっしゃったように記憶しています。

  しかし、病気について、あるいは桜井医師について詳しく話したことはありませんでした。前にも書きましたように、桜井医師については忘れたいし、もう幸子には関わってほしくはないし、婚約をしたMさんにも関係がないことだ、と私が思っていたからだと思います。とにかく二人がうまくいけばよいことで、桜井医師のことを幸子が次第に忘れてくれることが私の願いだったからです。


(4)Mさんとの同居

交際を始めて1、2ヶ月経過した頃、幸子は大阪に行ってMさんと一緒に住むことにした、と言ってきました。私は幸子が家から出ていってしまうことについては、とても不安でしたし、私自身寂しくなると思っていましたが、中久喜医師が、ロンドンに行くための予行演習でちょうどいいだろう、とおっしゃって許可されたということで、また、Mさんと一緒にいたいという幸子の気持ちが強いように感じられましたので、反対しませんでした。私が「寂しくなる」と幸子に言ったところ、幸子は「時々帰ってくるから」とか、「Mさんがいずれ東京の方に転勤して、おうちを建ててくれると言っているの。だから それまでの辛抱よ」などと言ってなぐさめてくれました。

当初は、Mさんが大阪から時々東京に来たときに二人で住めるような場所を探していたので、幸子が大阪に住みたいと言ったときには本当に驚きましたし、大変不安でした。ですが、Mさんと一緒にいたい、という強い気持ちがあったからそういうことを言いだしたのだろうと思いましたし、また、Mさんと住み始めれば、もしかしたら病気が良くなっていくかもしれないとも考え、思い切って賛成したのです。

その後二人は、結婚式を挙げる前に一緒に住み、結婚式は2000年の4月か5月頃に挙げるという計画を立てたようで、年末には都内で結婚式場や衣装の下見を始め、やがて、結婚式は2000年5月13日に決まった、と知らされました。

他方、二人は大阪でアパートを探し、私たち家族は、最低限必要な家具などを東京で買い求めました。幸子はMさんとともに、年末を大阪で過ごし、大晦日から新年にかけては川崎の実家で家族とMさんとともに過ごしました。幸子によれば、大阪に住んでも、毎週1、2回は接骨院の仕事を手伝い、その日には、春日でバイオリンのレッスンを受けて、それから大阪に帰る、ということで、土日は必ずMさんと過ごすと言っていました。また、バイオリンの先生からは、関西方面でいい先生をご紹介していただける、という話になっていたと思います。

二人が大阪に行ってからどういう毎日を過ごしていたのかということは、私は本当のところはよくわかりませんでした。何をしているんだろうと心配して、様子をうかがうために、かなり頻繁に電話をしましたし、そのときには、Mさんにも幸子の様子を伺おうとしていたのですが、自宅に電話をかけるときはたいてい二人が一緒にいて、そばで幸子が聞いている、という状態でしたから、なかなかMさんから話を聞けませんでした。

他方、幸子が時々実家に帰ってきたとき、私と次女の次女が幸子から聞いていたのは「おのろけ」だけでした。幸子が寝込んでいても、Mさんが食事を作ってベッドサイドまで運んで食べさせてくれる、とかどういう会話をしている、とかそういった話で、「新婚生活」を楽しんでいる、というふうにしか理解しませんでした。

私は、幸子から、体の具合が悪くて、食事を作ったり買い物に行けない、という話だけは聞いていましたので、川崎の方から頻繁に食料品を送って二人の生活を手助けするぐらいしかできませんでしたが、いったい何が起きているんだろう、と大変心配していました。しかし、幸子はただ、寝ている、ということしか言わないし、Mさんも幸子がそばにいるという状況では様子をうかがうことができませんでした。



(5)大阪での自殺未遂(2001年1月)

 しかし、2000年1月、幸子は大阪で自殺未遂をした、ということです。Mさんはそのことを、私たちにはなかなか話せなかったということです。その頃、一度、Mさんからお電話がありました。幸子を病院に入れる場合、どうすればいいのか、というご相談でした。何があったんだろうと思いましたが、詳しいことは聞けないまま、とにかく、そういうことはできます、とお答えするしかありませんでした。ずいぶん深刻そうな口振りだったので大変心配しました。幸子の死後うかがったところ、当時幸子は自殺未遂をしていて、目を離せない状態だったそうで、Mさんが困っていたところ、幸子の方から、自分を入院させるという選択肢もある、と聞いたので、せっぱ詰まって私に相談されたということです。しかし、そういうことも、幸子には聞かせられない話ですから、外から電話をかけられたということです。

さらに、これも幸子の死後Mさんからうかがった話なのですが、幸子は私との関係が子供の頃から大変悪かった、という話をMさんに話していたそうです。それは、次のような事情がありました。96年か97年頃だったと思いますが、一晩だけ、統合失調症の患者さんばかり入院している精神病院に、幸子を強制入院させてしまったことがありました。「とても危ない状態であるから強制入院させてください」という柏木さんの指示でしたので、半信半疑だったのですが、ずっと幸子についていただいていたので、その言葉を信じて入院させました。直後に、仕事から帰ってきた次女の次女が「かわいそうだからすぐ退院させて」と主張して、翌日すぐに退院させました。

しかし、そのときのことが幸子にはずっと心の傷になっていたようで、Mさんにそのときのことを話して、自殺未遂のことを話せば、両親は自分を強制入院させてしまうから、話さないでほしい、と言ったそうです。こういう話を聞いてMさんは、私たち両親が幸子に対してひどいことをしてきた、という印象を持たれ、他方、Mさんの方で私たち両親とも話したいというお気持ちがあっても、幸子の側に立っているというところを幸子に見せていないと信頼を失ってしまう、とお考えになっていたそうで、なかなか私たちと話そうという機会がなかったということです。

しかし、2000年の3月か4月頃、川崎の実家に幸子と一緒に泊まっていたとき、Mさんの隣に寝ていた幸子が、夜中、私の布団に潜り込んでいた、ということを知り、幸子の話がかなりオーバーで、本当は幸子は母親に甘えるふつうの子供で、親子の関係もふつうだ、ということにようやく気づかれた、とMさんが幸子の死後に話してくれました。もちろん、幸子の話していたこととは裏腹に、これまで書いてきましたように、幸子が病気になってからずっと、幸子と一番よく接していたのは私でしたし、一番よく話していたのも私で、幸子のことがよくわかっていたのは私でした。

ですから、幸子がMさんに自殺のことを口止めしたのは、以前と同様に、自殺未遂を理由に、強制入院になってしまうことをおそれたからだったと思います。ですから、私との関係について、かなりオーバーなことをMさんに話していたのではないかと思います。 しかし、当時はそういうことがわかりませんでした。そこで私は心配して、たしか1月か2月に一回、様子を見るために、大阪の二人の住まいを訪ねたことがあります。このときには、事前に「行こうか」と相談すると、幸子が断ってくることがわかっていたので、新幹線に乗ってもうすぐ到着する頃に電話をかけて、半ば押しかける形で様子を見に行きました。Mさんは用事があって外出されていたので、途中で落ち合って近所のスーパーで買い物をして帰りました。Mさんは翌日出勤されていたので、幸子と一緒に過ごしていましたが、結局、その時期はほとんど寝たきりの状態でした。しかし、深刻な話はなく、二人でうまくやっているという話ばかりでした。Mさんが帰ってくる時、階段を上がってくる足音が聞こえるのですが、Mさんは他の人と違ってどういう足音がするのかわかる、ということを話してくれたりしていて、Mさんの帰りを楽しみに待っている生活をしているようだ、と感じました。

2000年2月頃、幸子は一旦実家に帰っていたのですが、その頃、Mさんの声を電話で聞くだけで、お父様とのけんかを思い出すと幸子が言い始め、Mさんとの結婚がだめになってしまうかもしれない、ということがありました。私は、一度もお話ししたことがなかったお父様にお電話をして、何とか幸子と会って和解していただくように働きかけたのですが、結局このことが幸子に露見してしまい、計画は失敗に終わりました。しかし、結局、Mさんとは和解して、5月の結婚式の話を進めていったようです。

前にも書きましたように、こういったことがあった後、一度だけ、Mさんと川崎の実家で二人きりになったとき、Mさんから、1月に幸子が自殺未遂をしたと聞いたような記憶があります。ですが、それまでの事情を説明できる心の余裕がなく、そのときも結局、説明できませんでした。もちろん前にも申し上げましたように、過去のこととは関係なく、二人の生活の中で幸子の病が改善に向かっていけばそれでいい、という気持ちもあったので、詳しく話す必要はない、と考えていたところもあったかもしれません。さらに、幸子から聞いていた結婚生活についての話がすべて「おのろけ」だったため、自殺未遂をしたという話自体が信じられず、それ以上話を聞こうとしなかったのではないかと思います。


(6)桜井医師とのカウンセリングの再開

ただし、3月頃だったと思いますが、私はたぶんMさんからうかがったと思うのですが、幸子が桜井医師ともう一度話したがっているが、桜井医師がそれを断ったとのことで、幸子の具合も悪いらしく、大変困っているという話を聞きました。そこで私は、幸子の病気をよくするために、という一心で、思い切って桜井医師にお電話をして、幸子ともう一度話してやってください、とお願いしたことがありました。このときのやりとりは、それ以前のやりとりに関する記憶と一緒になってしまっていて、今のところ正確に思い出せませんが、たしかなことは、このとき結局桜井医師は、私の申し出を断られた、ということです。その後、どうなったのか、私は全く存じ上げませんでした。

ですから、3月終わり頃から幸子が桜井医師と接触を持ち始めた、などということすら、全く知りませんでした。Mさんからも、そういう話は聞いていませんでした。後で聞いたところでは、Mさんは幸子からきつく口止めされていたということです。

他方、3月終わりになって、全てがよい方向に向かっているように思えることが続いて起きていきました。先にも書きましたが、Mさんのお父様との関係は、その時期まで本当に悪く、Mさんはお父様と籍を抜いて絶縁しなければならないし、お父様を結婚式には招待しない、という話になっていたようです。ところが、3月の終わり頃、幸子から、Mさんのお父様にご挨拶に行く、という電話が来ましたので、私は本当に驚きました。たしかその頃から、結婚式で親戚を招待することについて幸子と話していると、Mさんの方のご親戚をほとんど呼べないから、Mさんがかわいそうだ、ということを幸子が言っていたことを覚えています。それまでは、お父様から自分を守ってくれなかった、と言ってMさんを非難するようなこともあったのですが、「かわいそう」と同情しているので、私は「あれ」と思った記憶があります。

2000年4月1日、幸子はそれまで大げんかをして絶縁していたMさんのお父様と名古屋で会ったそうです。名古屋では、Mさんのお友達ご夫婦とお食事し、その後お父様とお食事をしたりカラオケをしたりして、楽しい時間を過ごし、すっかりうち解けて、それまでは、お父様を結婚式にご招待しない、ということになっていたのですが、今度は急きょ、お父様も含め、Mさん側のご親戚をご招待するという話が進んでいきました。

さらに、幸子はことあるごとにMさんのお父様のことについて楽しそうに話すようになり、すっかりお父様のことが気に入ったようで、私たち両親は、その変わり様にびっくりしましたが、本当に喜びました。この話を中久喜医師に報告に行ったところ、中久喜医師は本当にうれしそうで「何があったんでしょうね」とおっしゃられました。

その後幸子は、自分のつてをたどって、京都にバイオリンの先生をしてくださる方を見つけ、それまでは先生がいない、ということで困っていたのですが、そちらの方も希望が見えてきました。私は、それでも、目標を作っておいた方がよいと勝手に考えて、東京でのそれまでの先生が主催するコンサートに幸子が出演するようにしておきました。

また、4月上旬、幸子は大阪に住むようになって初めて一人で大阪市内に外出していた、ということを電話で話してくれましたので、本当に状態が良くなっているんだなと感じていました。その直後、4月上旬に、私は夫とともに、幸子とMさんのお住まいを再度訪ねました。その日は、Mさんのお友達のご家族とお花見に行き、その後で、Mさんのお知り合いのご招待で、お食事をしたということで、すっかり元気になっていました。

私たちが訪ねた翌日は、それまで幸子が寝たきりだったため、家具などがまだそろっていませんでした。そこで四人で大阪市内に家具を買いに行きました。Mさんは、幸子と外出するのが久しぶりであるということをおっしゃっていたので、幸子の病気が良くなっていると私たち両親も考えました。その後、京都に花見に行かないか、と幸子に誘われました。夫は子供の頃、貧しくて修学旅行で京都に行けなかった、ということを子供たちに話していて、幸子はそのことをよく覚えていたので、父親に京都を案内したいと言っていました。しかし、私たちは仕事の都合もあって、どうしても帰らねばならず、結局幸子とMさんは、その後京都に行かれたということで、京都の桜の写真を送ってくれたり、来年は行こうね、という話をしたりしました。

  また、あとでMさんがお話になったことですが、この二日間の滞在中、私が一度幸子に「今までいろいろとごめんなさい」と謝ったそうですが、それに対して幸子が「もう過ぎたことだからいいわよ」と答えたそうです。そのような会話を聞いて、Mさんは、ご自分のお父様とばかりか、幸子は自分の両親とも和解をした、とお考えになったようです。

  4月19日は幸子の誕生日でした。私は、自分の勤務している家具店で売っていた大きめのダイニングテーブルを届けに、配送のトラックに乗せてもらい、深夜東京を発って大阪に向かいました。Mさんの教え子さんたちをおうちに招待して「たこ焼きパーティーをする」と幸子が言っていたので、それまで持っていた小さめのテーブルと取り替えることにしたのです。朝早くトラックで幸子たちのアパートに着いた私は、ダイニングテーブルを部屋に入れた後、Mさんがお帰りになるまでずっと幸子と過ごしていました。ところがその日私は、親戚が危篤であるという知らせを突然受けて、本当に残念でしたが、急きょ大阪を離れなければならなくなりました。Mさんが大学から帰られてから、二人はお誕生日をお祝いしたということでした。

 4月下旬、ウェディングドレスの最後の着付けや、結婚式場の教会へのご挨拶などのため、幸子はMさんとともに実家に帰り、あわただしい日を過ごしていました。私と夫も、ドレスの着付けなどに立ち会い、結婚式が間近になったということを実感し、いつか幸子が幸せになってくれる、と考えながら、本当に楽しい毎日を過ごしていました。ですから、ちょうどこのときに、幸子が済生会中央病院で、桜井医師と会ったということなど、夢にも思っていませんでした。この話を私が聞かされたのは、幸子の死後のことでした。


(7)幸子の自殺

 その後、幸子が5月1日に自殺未遂をしたことを、偶然大阪に行っていた次女から聞きました。また次女が東京に戻るとき、駅まで送ってくださったMさんから、幸子から口止めされているが、ということでしたが、桜井医師と幸子が電話などで1ヶ月間ずっと接触している、ということを聞いたそうです。次女も、そしてその話を聞いた私たちも、その時点で初めて、それは大変なことになっている、ということを認識しました。また、幸子がなぜ、結婚式を間近にしているときなのに自殺未遂をしたのか、という原因がわかりました。つまり、桜井医師と関われば、幸子は必ず具合が悪くなり、自殺をしようとするということは、私たち家族の中では常識でしたから、原因は幸子が桜井医師と関わっていることだ、ということは、話を聞いてすぐにわかったのです。

そこで、私たちは5月2日、翌日もう一度次女が大阪に行って様子を見る、ということに決めました。しかし、5月2日の深夜にMさんから電話があり、幸子が自殺をして、病院に運び込まれて危篤だという話を聞き、その日のうちに家族とお友達のWさんと車で大阪の病院まで駆けつけて、翌5月3日の午前中には到着して病院側から説明を受けましたが、結局昼頃、幸子は息を引き取りました。


(8)葬儀

 幸子の通夜と葬儀を川崎ですることになりましたが、通夜の前日、桜井医師から実家に電話がかかってきて、「通夜に参列したい」ということをいわれたそうです。電話に出たのはMさんでしたが、その時点でMさんは私たちから、幸子が桜井医師と面接した後必ず自殺をしていた、という話を初めて聞いていたので、そのことを桜井医師に、次のようにおっしゃりました。「(あなたを好きだった)幸子さんの気持ちとしては、あなたに参列してもらいたいと私は思いますが、しかしご家族はそうではないと思います。今回のことは、あなたが原因だったということもあるんですから」と。すると桜井医師は次のようにお答えになったそうです。「だから私は三浦さんのお母さんに、幸子さんには会えませんとお断りしたんです」と。

これは先にも述べましたように、私が3月頃、どうしても幸子の病気を何とかしたいと思って、桜井医師にお電話したときのことをおっしゃったのだと思います。それに対してMさんは大変憤られて桜井医師に「あなたそれでも医者ですか」と怒鳴られました。桜井医師はこれに対して「ごめんなさい、反省します」と言ったということです。しかしMさんは、「何でこの時点でそんなことを言うのか、自分の責任とか自覚というものがないのか、自分が元主治医をしていた患者が亡くなったというのに、それをあたかも家族のせいで自分は知らない、などとどうして言えるのか、しかも、最後に関わったのは桜井医師本人なのであって、結局幸子と再び接触することを受け入れたのも桜井医師自身ではないか」と大変憤られていました。

私も、同じように「あなた、それでもお医者さんですか」と桜井医師に対して何度も何度も抗議した記憶があったので、このときのMさんのおっしゃったことはよくわかりました。桜井医師は、どういうときでも、とうていお医者様とは思えないような、無責任なことばかりおっしゃる方だったからです。


12 最後に

今も幸子のことを思い出すのは大変つらいことですが、何とかここまで書きました。それはまず第一に、どうしてこういうことになったのかを私は知りたい、という私の気持ちがあるからです。桜井医師に、面接室で何があったのか、ということ、本当のことを言ってもらいたいと思っています。面接室は密室で、家族には、何があったのかは全くわかりません。それに、夫から聞けば、桜井医師のカルテは、山田医師や芳賀医師のカルテと比べると、面接室で何があったのかを正確に読みとれることができないものだそうです。私がかつて見たファックスも、済生会のカルテだということですが、幸子は、桜井医師が記載した内容は事実に反している、といつも憤っておりました。幸子がよく言っていましたが、桜井医師は、カルテにご自分にとって都合のよいことしかお書きにならず、ご都合の悪いことはお書きにならないということです。

ですから桜井医師には、慶応病院の頃から、いったい面接室で幸子に何を話したのか、どうしてそういうことを話したのか、ということを法廷でしっかりと話していただきたいと思います。

まず、「恋人役をする」と夫と次女に明言されたのですから、そのことは認めていただきたいと思います。その上で、どうしてそういうことをおっしゃったのか、治療上、どうしてそういうことが必要だったのか、にもかかわらず、幸子が桜井医師に依存したのはどうしてなのか、そのことについてご自分の責任をどう感じられているのか、お話になっていただきたいと思います。

また、済生会第2セッションをどうしてお引き受けになったのか、また、どうして幸子に対して「恋愛感情がある」とかおっしゃったり、慶応病院時代以来「思わせぶり」なことを言い続けられたのか、ご説明していただきたいと思います。

さらに、2000年3月から5月まで、幸子と再度交流を始められていますが、どうしてお断りにならなかったのか、引き受けられたのであれば、どうして幸子との間での自殺のパターンを想起されていなかったのか、4月にどうしてお会いになったのか、最後に幸子が、自殺を止めてくださいとお願いしても、どうしてお断りになったのか、ということをご説明していただきたいと思います。

私は、お医者さんとしてだけでなく、一人の人間として、桜井医師に真実を話していただきたいと願っているのです。人間として良心があるのだったら、法廷で、そしてできれば幸子の遺影と遺骨の前で、真実を話していただきたいと思います。

私たちも親として、桜井医師と無理にでも引き離しておけばよかった、精神医療について勉強して、もっと早く、桜井医師の治療がおかしいということに気づいていればよかった、さらに、幸子の話を信じてやればよかった、と悔いております。ですから私も家族も、いわば重い十字架のようなものを背負って生きていかねばならないのです。桜井医師にも、そういう十字架を背負っていただきたいと思います。

幸子がいない今となっては、この裁判をして私たちが得られるものは何もありません。実際、幸子が亡くなってから、私はもう、この先生きていく意味はなにもないと思っている毎日です。子どもに先立たれた親の心情とは、誰にうかがってもそういったものです。ここまで書いてきたことをお読みになればおわかりかと思いますが、私は夫や次女とは比べものにならないほど幸子と多くの時間を過ごし、喜びと悲しみを共有してきました。その幸子がいない今、私には生きていく希望などないのです。桜井医師を責めたところで、幸子は帰ってきません。

 しかし、せめて、幸子の望んでいた裁判をしてあげたいと思います。生前、99年4月頃、幸子と一緒に、裁判をする可能性を探るためにあちこちに連絡をしていたこともあります。朝日新聞社には、事情を説明して、桜井医師の論文をアエラムックに掲載しているのはいかがなものか、と抗議したこともあります。裁判をしたいという幸子の希望は、生前からあったものですし、私も一緒になってその願いを実現させようとしたことがあったのです。また、Mさんに聞いたところ、幸子は死ぬ前に、裁判がしたい、どうして弱い者がひどい目にあって強いものがなにも罰を受けないのか、と言って、慶応病院や済生会中央病院に電話をかけて、カルテの所在を確認していたということです。

     幸子の願いをかなえることは、同時に、幸子の死が今後の医療に役立つことにもつながります。幸子も、自分のような患者さんを作らないために、裁判をしたいと言っておりました。桜井医師が法廷でお話になられたことは、今後の医療のために必ず役立つと思います。さらに私は、これ以上、幸子のような犠牲者を作らないためにも、できれば桜井医師には、もうお医者さんをやめていただきたいと思っています。私の現在の心情は、以上の通りです。


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