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 このように、「個人的な交際」をしたいし、その気持ちを伝えたい、という本心がありながら、それを言えば、被告医師を困らせてしまうし、また、即座に断られて自分が傷つき、なおかつ死にたくなるから、言えない、被告医師も、そういったことを幸子に言わせようとしない、という状況に、幸子は追い込まれていたのです。

 精神療法という治療は、本当は、心にあることを、包み隠さず言える、ストレスをためない場を患者に提供するものではないかと思っていましたが、幸子はカウンセリングを受けるたびに、どんどんストレスをためていっているのではないか、と当時私は感じていました。ところが、そういう幸子の苦しい胸の内があるにもかかわらず、桜井医師は「個人的な交際」はできない、とおっしゃりながら、他方では、幸子に対する「恋愛感情」や「愛情」が、他の人に対するものと比べようもないほど大きい、と幸子の気持ちをぐらつかせ、不安定にさせることを治療の場で次々におっしゃられていたと聞きます。上で引用した幸子のレポートには、そういった桜井医師の発言がこと細かく記されており、これを読んだ私は、そういう面接だったから、幸子は毎回、面接の後、具合が悪くなり、危険な容態になったのではないか、桜井医師はそうやって幸子の気持ちをもてあそんだのだ、と当時考えましたし、今もそのように考えています。

 しかし、これは慶応大学病院を退院した時から変わっていないことなのですが、幸子は桜井医師との面接を強く望んでいたために、これをやめさせるわけにはいきませんでした。幸子はそういう自分の感情がどうしてわいてくるのか自分でわからない、と言っていましたから、おそらく、自分でそういう感情をコントロールすることができなかったし、客観的に自分の気持ちを見つめることができなかったのだと思います。そして、ことによると、それが幸子の病気だったのかもしれない、と私は当時から考えていました。

 ですから私は、幸子から桜井医師を取り上げてしまったら、つまり、二人の面接をまわりがやめさせてしまったら、自殺の危険性が高まってしまうだろうと恐れ、桜井医師が、中久喜医師と協力するなどして、幸子の治療に真剣に協力してくれなければ、幸子の治療は進展しない、と考えたのです。そういった状況を私は、それ以前と同じように、桜井医師によって幸子が「人質」にとられているようなものだ、と思っていました。


 また私は、せめて、幸子におかしなことを言うのをやめてもらいたい、と思っていましたが、桜井医師は、9711月以降、幸子の気持ちを混乱させるようなことを言い続けておりました。

 しかも、桜井医師との面接や電話の後で、幸子の様子がおかしくなり、自殺をしそうになるのが明らかなことが、以前同様に頻繁に起こっていきました。その上、先程も述べましたように、桜井医師は、面接の回数を増やすとともに、電話でのカウンセリングを、ほとんど毎日のようにされていました。

 たしかに、桜井医師から電話があり、電話の後で接骨院に行く時、幸子の様子が急転することは、それほど頻繁ではなかった、と記憶しています。しかし、それでも私は、幸子が電話を終えた後、接骨院にちゃんと出勤しているのか心配になり、接骨院がある建物と道路をはさんで反対側にある建物にある喫茶店に行き、たしかに幸子が勤務している、ということを何度も確認していました。

 桜井医師からかかってきた電話を終えて、そのすぐ後に容態が急変するよりは、出勤するまでに、電話のことを幸子が思い出して、そうして容態が急変するかもしれない、出勤せずに、どこかに行ってしまうかもしれない、と思ったのです。

 しかし、接骨院にはきちんと出勤しておりましたので、私は接骨院という職場や、仕事に従事することによって、幸子が自分の不安定なところを支えているのではないか、と考えておりました。この点については、すでに申し上げましたが、後で幸子の日常生活が幸子を支えていた、ということについて再度ふれることにして、以下では、桜井医師の治療について、さらに述べさせていただきます。


(11)桜井医師の面接回数の増加


 桜井医師からの毎日の電話以外には、すでに申し上げましたように、水曜日と土曜日の面接がありました。これらの面接のあとでは、幸子の容態がほぼ必ず悪化し、桜井医師から私に電話があり、危険であるから迎えに来てもらいたい、という要請を何度も受けたことがありました。ですから電話が鳴るたびに、不安と恐怖心にかられ、おびえていた日々でした。

 また、そのような要請がなくとも、面接の後に容態が悪化することは明らかだったので、私は毎週水曜日には、心配になって済世会中央病院に行って、面接が終わる夜遅い時間まで待っていたこともあります。というのも、桜井医師の面接は、中久喜医師との面接のように時間が厳守されるようなものではなく、夜遅くまで面接が長時間にわたって延長されて続けられていたことがしばしばだったからでした。
 そういう時、深夜まで幸子を待っていた私が、通常の窓口が閉まっていましたので、夜間診療の受付の窓口で、診察費を支払っていたこともありました。面接が終わるのが深夜であれば、その日の診察代が支払えなくなることもあり、私が後日まとめてその分を支払っていたこともあったと記憶しています。そのようにカウンセリングが深夜に及ぶときは、病院全体の電気がほとんどついておらず、警備員が見回っている状態で、私はその場で幸子を待っていましたから、女性をそのような時間まで面接する、というのはどういうことなのか、と疑問に思っていました。また常に私は、面接の後に何が起きるかわからない、という恐怖心を常に抱いておりました。


(12)母親としての抗議

 私は、幸子が慶応大学病院に入院する以前は、人に質問したり意見を言えるような性格ではなく、また人を最初から疑ってかかるとういこともありませんでした。慶応大学病院時代も、桜井医師とは面接を通じて幾度となく会話を交わしましたが、治療方針などについて気軽に質問したり意見を述べたりすることができませんでした。慶応大学病院時代にもっと桜井医師に対して強く意見を述べたり、抗議すればよかったと後悔しておりますが、当時の私にはそういった力がありませんでした。

 しかし、97年から夫がパーキンソン病になり、母親の私が問題を解決していくしかないという立場に立たされました。そして、幸子を救うためなら何でもしようと捨て身になりました。済世会第2セッションの頃になると、人前でも比較的話ができるようになりました。

 ですから、幸子の容態が悪くなったという報告を桜井医師から受けると、私はある時期から、「あなたはまた(自殺の)引き金を引いたんですね」、と桜井医師に対して激しく抗議するようになりました。実際、幸子の容態が悪くなり、自殺に向かいそうになる時、その「引き金」になっていたのは、幸子から見れば、あるいは幸子から事情を聞けば、桜井医師の面接や電話だったのは明らかだったからです。桜井医師は、そういった私の抗議に対して、まったくお答えにならないか、「そのようなことはない」とお答えになっていたこともあったと記憶しています。ですが、Qさんの話によれば、面接の後具合が悪くなる、という現象を、桜井医師はお認めになっていたということですから、ご自分の面接が「引き金」であった、ということをおわかりになられていたのではないか、しかし、私に対してそのことをお認めにならなかっただけではないか、と思います。

 中久喜先生を信頼して幸子の治療をお任せしてきていましたが、桜井医師が幸子に恋愛感情を表明される、ということがあったあとで、中久喜先生は幸子に対して、治療が長引くかもしれない、という懸念をお伝えになられた、と私は幸子から聞いたことがあります。

(13)幸子を支えていた日常生活とそれを妨害した桜井医師


 こういった状況がある一方、すでに申し上げましたように、幸子は98年初頭から、接骨院で、看護婦として働き始めました。幸子の話によると、職場でよい方々とめぐりあい、仕事をしている時はしっかりと働いている、とのことでした。私や夫が、時々その様子を見ることもかねてご挨拶をしに行きましたが、職場の医師や看護婦も患者さんたちも、幸子が病気である、などということには全く気づかれておりませんでした。また私たちも、幸子自身も、そういったことについて、医師や看護婦には一切お話ししたことはありませんでした。

 しかし、とくに仕事の上で幸子の病気が原因で問題が起きたことはなく、時々本当に具合が悪くて出勤できない日もありましたが、ほとんど欠勤もなく、本当に、元気に仕事をしていたと記憶しています。

 また、97年頃から、お友達を介して、新たにバイオリンの先生と知り合い、その先生が主宰する教室の発表会で、年に三回くらい、バイオリンの演奏をさせていただいておりました。この当時幸子は私に次のように言ったことがあります。「お母さんバイオリンを習わせてもらってありがとう。受験のときやめなくてよかった」、「音楽が心を癒してくれる」と。

 演奏した時のビデオが残っていますが、とても病気には見えませんし、当時、先生にも、教室の誰にもお話ししていませんでしたが、誰一人として幸子が心の病であり、常に死にたいという気持ちになる、などということに気づいた方はいらっしゃらなかったと思います。演奏会で発表するには、伴奏をつけていただくピアニストの方々と交渉したり、一緒に練習をしなければなりませんが、そういった方々との関係も大変うまくいっていたと家族は考えていました。

 春日にあるバイオリン教室に泊まり込んで練習をし始めたのも、この頃ではなかったかと思います。「具合が悪くなったから来て」と連絡があり、2回ぐらい練習場に行ったこともあります。そういうこともありましたが、他方では、泊まり込んでいたために、日中いらっしゃるほかの生徒さんに、先輩としてアドバイスをしていたこともあったと聞いています。

 また、幸子にとっては、家を出て「一人暮らし」を初めてする、という経験でしたが、自分で自立して生活する、という練習を努力してやっていたのだと思います。実際、幸子は私にそのように言っていたこともあります。

 98年頃から、私は桜井医師から幸子を引き離したい一心で、お見合いの話を紹介してもらい、幸子にお見合いを勧めはじめました。幸子もまた、桜井医師以外の男性と交際してみたかったのだと思いますが、お友達などからのご紹介で、98年頃から、何人かの男性と交際するようになりました。

 しかし、そういった男性とお会いしている最中でも、桜井医師から電話があったと聞きます。桜井医師は、お見合いの相手と一緒のところだ、ということをご存じの上で、そういったお電話を幸子の携帯電話にかけていたのだ、と当時幸子も私も感じていました。

 当然、そういった電話がかかってくると、幸子は桜井医師とお話を始めることになり、それは長時間にわたるものでした。また、そういう時、幸子と桜井医師との会話は、誰が聞いても、明らかに恋人同士のようなものでした。デートの最中に頻繁に電話があり、しかもそういった会話が延々と続いたことが何度かあったため、結局、お見合いのお相手は御気分を害されてしまった、と幸子から聞いたことがあります。

 また、お見合いをする日に電車が事故で不通になり、お見合いに遅刻したことがありましたが、その翌日頃の面接で桜井医師から「私が(電車を)止めました」と幸子におっしゃったことがある、と私は聞いたことがあります。つまり桜井医師は、幸子がほかの男性とおつきあいしてもらいたくない、という意思をこの時に明らかにしたのだと思います。

 ですから、桜井医師は幸子がほかの男性と交際することを好まれないばかりか、そういった交際を妨害したいと考えていらっしゃるのだ、と私は当時考えていました。また、先に述べましたように、幸子がほかの男性と会っている時に、桜井医師がお電話をされているのも、そういった幸子の交際を妨害するためなのだろう、嫉妬しているのだろう、と私は考えていました。

 もちろん、97年末以降、桜井医師が幸子に言ってきたことを考えれば、そういった桜井医師による妨害は良く理解できました。また、先ほど引用しました、幸子から中久喜医師宛のレポートにも、そういった桜井医師の発言が記されておりました。しかし他方では、奥様がいらして、幸子とは個人的な関係にならない、とおっしゃっていた桜井医師が、なぜそのようなことをするのか、私には到底理解できませんでした。

 それでも、人前でバイオリンを演奏したり、仕事をしたり、お見合いをしたり、という幸子の日常生活が、もう一方では、たしかにありましたから、桜井医師との面接や電話のあとで自殺をするかもしれない、という危惧は常にありましたが、他方では、接骨院やお見合い、バイオリンの発表会などであった様々な人との関わりを通して、幸子がやがて病を克服してくれるかもしれない、というかすかな希望もありました。

 つまり、桜井医師との面接や電話の後で状態が悪くなる、ということは依然としてありましたが、中久喜医師の治療によって状態を改善させ、職場やバイオリン教室、演奏会などでしっかりとしていたということも、他方ではあったのです。

 私はカルテを見ていないのでわかりませんが、桜井医師は、お医者様として治療室でしか幸子を見ていないため、ことによると、同医師が書いたカルテなどを見ると、あたかも幸子がずっと寝たきりであったり、人前でも様子がおかしかったかのように思えてしまうかもしれません。しかし、ここまで申し上げましたように、決してそんなことばかりではありませんでした。

 幸子の話では、そうやって幸子が頑張っていることについて中久喜医師は、「幸子さん、それは進歩ですね」と言って、いつも幸子が前向きになるようなかたちで、はげましていらした、と聞いていましたので、家族は心強く思っておりました。

 しかし、幸子は被告と面接や電話を繰り返すなかで、どうしてもはっきりさせておかねばならないことがでてきたようです。それは、一つの面接のなかで、幸子が覚えていることと桜井医師がカルテに書き留めたことがかなり食い違っている、ということだったようです。


(14)桜井医師による三者面接のキャンセルと自殺未遂

 ところが、実際には桜井医師のカルテが、面接の記録として中久喜医師に送られるため、幸子は中久喜医師に桜井医師との面接に関して説明する時にも、ずいぶん苦労したようです。なぜなら、中久喜医師が被告から送られてきたカルテに基づいて幸子と桜井医師との関係を見ようとしていたからです。慶応大学病院入院時以来、桜井医師の「嘘」の報告によって自分が周囲から誤解されてきた、と考えている幸子にとって、この問題は大変重要だったのだと思います。

 99年春、幸子、中久喜医師、桜井医師の三者で面接を行い、幸子は中久喜医師に、ふだん自分と桜井医師がどのような会話を行っているのか、実際にそばで聞いてもらう必要がある、と考えたようです。それ以前、一度三人で面接を行ったことがあったと思いますが、それだけでは中久喜医師に理解してもらえない、ということがあったのではないかと思います。

 この二度目の三者面接を実施することになった詳しい経緯について、私は説明されていませんでしたが、おそらく以上のような理由ではなかったか、と私は考えています。桜井医師が話す話の内容が、意味不明のもので一貫性がなく、聞いている者を混乱させることは、慶応大学病院入院時以来、私はよくわかっていたことでもありましたから、幸子が面接中に混乱することはよくわかりますし、そのような桜井医師のおかしな話し方を、中久喜医師に認識してもらいたい、と幸子が考えたのも、よくわかるのです。先に引用しました幸子のレポートを読んでも、そのことはよくわかります。

 また、このように私が考える理由は、ほかにもあります。99年になると、桜井医師は、それ以前よりもはっきりと、幸子と個人的な関係にはなれない、ということをおっしゃるようになったと聞いていました。また、以前はたしかに、「恋愛感情がある」とおっしゃっていたのに、この時期になると、そういうものもない、ということをおっしゃるようになった、ということを幸子が私に漏らしたことがあります。

 前にも申し上げましたとおり、当時幸子が済世会第2セッションを始めた理由は、真実を知る、ということ以外に、桜井医師と個人的に交際できるかどうかという可能性を探る、というものではなかったか、と私は考えておりました。なぜなら桜井医師は、少なくとも97年の末には、幸子に対して恋愛感情がかつてあり、そして現在も依然としてある、と明言されたからです。

 ところが桜井医師が、個人的な交際を拒絶するばかりか、幸子に対する恋愛感情まで否定するようになってきたのですから、99年頃、幸子は、面接を続ける意味がわからなくなっていたのではないかと思います。
 しかも幸子は、桜井医師との面接で多く時間とエネルギーをさいてきたのに、桜井医師はますます幸子とご自身との関係について前向きな考えも姿勢もお見せにならなくなっていた、と聞いておりました。ですから幸子は、この面接が無意味である、ということに、薄々気づき始めていたのではないでしょうか。

 ところが桜井医師は、あいかわらず誘惑的なことをおっしゃることがあるので、幸子としては、そういう状態を中久喜医師に聞いてもらい、この面接を今後どうしていくのか、ということについて、ご意見をうかがおうと考えたのではないかと思います。

 また面接を続けていくうちに、幸子は、桜井医師がご家庭をお持ちになっていること、つまりは奥様がいらっしゃる、という厳然たる事実を言葉の端々から感じて、そういった方と個人的に交際することが現実的にありえない、ということについて、何度も考えざるを得なかったのではなかったか、と考えます。

 桜井医師は、奥様のことを幸子によくお話しされていたようで、奥様の足が太い、というようなお話を幸子に話された、ということも、私は聞いています。一体どういう意図で、そんなことをお話になられているのだろう、とそういう話を聞いて私は混乱するばかりでしたし、もちろん幸子も、同じ気持ちだったと思います。

 さらに、桜井医師のご自宅に間違ってお電話してしまい、奥様が電話にお出になられた、という経験について、私は幸子から直接聞いたことがあります。これは、桜井医師が、「この番号に電話をするように」と指定された電話番号に、幸子が電話をしただけで、つまりは桜井医師の伝達ミスだったのです。ところが、桜井医師はご自宅に幸子が電話をした、ということについて大変お怒りになったということでした。そういった理不尽な対応について、幸子は疑問を持っていました。いずれにせよ、こういったことがあり、またそれ以外にも、桜井医師の奥様の存在をいやでも考えざるを得ない、という状況が、そのような形で何度もあったのだと思います。

 そういった経緯があったために、幸子が桜井医師と関係をこれ以上続けても、どれほどの意味があるのか、という認識に達していたのではないか、と私は考えています。

 ところが、あとから考えれば、ということですが、幸子は、自分の転移と依存のために、桜井医師との面接を中断しようにも、できなかったのでしょう。

 こういった事情が、おそらくは背景にあって計画されたのが、二回目の三者面接だったのだと思います。しかし、桜井医師は、三者面接の直前、「家族が急病である」と中久喜医師に告げて、面接をキャンセルされました。

 その後の経緯について、私の記憶が定かではないのですが、たしか、幸子は中久喜医師からの連絡を受けたあと、日曜日だったので、桜井医師がご自宅にいらっしゃると思い、電話をかけて事情を説明してもらおうとしたのではないかと思います。ところが、奥様から、大泉病院に行っている、ということを聞いて、唯一の「家族」である奥様がご病気であるというお話が嘘ではないか、桜井医師が嘘をついて三者面接を断ってきたのではないか、と言って怒っていたと記憶しています。

 そこで幸子は、大泉病院の被告に電話をしていろいろなことを言って抗議したのだと思いますが、その内容については私はきちんと覚えておりません。ただ、幸子が怒るのも無理はないし、桜井医師が本当に嘘をついているのではないかと思っていました。桜井医師に電話をした直後、幸子は大量服薬をして病院に担ぎ込まれています。その頃接骨院に通っていた患者さんで、うちによく遊びにいらしていた方に手伝っていただいて、病院に運び込んだと思います。私はそのあと、桜井医師に電話をしてこのような経緯について説明したのではないかと思いますが、記憶が定かではありません。ただ、幸子が翌日には接骨院で普段通り働いていたのをよく覚えています。

(15)治療関係の解消

 その後、はっきりとは覚えていないのですが、幸子は自宅からではなく、春日のレッスン場にいるときに、桜井医師の奥様に電話をしたのではないかと思います。幸子から聞いた話では、奥様はどこかの病院に入院されていたということで、どういう経緯かはわかりませんが、とにかくお電話をしたそうです。最初に電話をして話していたところ、幸子の携帯電話の電池が切れて一回話が中断し、もう一回かけ直して、話を続けたということでした。奥様は病院に入院されているはずでしたが、病院では携帯電話が禁止されているはずなのに、どうして通じたんだろう、と幸子がいぶかっていたのを覚えています。また、どういう話をしたのか、ということについて詳しくは覚えていませんが、これまで桜井医師が自分に対して何を言ってきたのか、ということについて説明したのではないかと思います。

 この電話によるやりとりがあった後か、その前なのかは定かではないのですが、幸子は、奥様にファックス(カルテ)を見せて、ご主人が一体何をされてきたのか、しっかりと見てもらいたい、と言っていました。実際、次女か、あるいは親友のFさんに、ファックス(カルテ)を奥様のもとまで届けてもらおうか、などと言っていたこともあります。奥様を「脅迫」する、ということよりも、ご主人のされていることについて「知ってもらいたい」という気持ちで、電話をしたのだ、と私は考えていました。

 また私から見れば、幸子は桜井医師の不明瞭な態度と言葉に振り回されてきたことを自覚していましたので、なんとか関係を断ち切らなければならない、と考えていたのではないかと思います。しかし、桜井医師に強力に依存していましたから、それを自分から断ち切るには、相当のことをしなければならないと思い、常識はずれのことだとしても、あえてご自宅にお電話をして、奥様に対して「脅迫」ととられても仕方のないことまで言ったのではないかと思います。


 このようなことを幸子がするに至った背景には、99年頃になると、幸子自身が、自分がどうしてこういう病気になったのか、ということを本を読んで勉強するようになっていたということもあったと思います。当時幸子は、ずいぶん心理学や精神医療の本を買って読んでいました。とくに転移や逆転移について知り、桜井医師が自分の転移を作り、自分の病を作ったのではないか、と疑うようになったのではないかと思います。もちろん幸子は、そういうことに薄々は気づいていながらも、もう一方では、桜井医師との恋愛関係が真実のものであって欲しい、と考える気持ちのほうが強かったのだと思います。しかし、今から考えれば、そういう強い気持ちこそが、幸子の病気だったのではないか、と私は思っています。

 それでも幸子は、本を読んだりしていくうちに、医師が患者にしてはならないことを、桜井医師が自分にしたのだから、その責任をとってもらわざるを得ない、と考えるようになったと思います。例えば幸子は(桜井医師は自分のことを)「一生面倒をみる義務がある」と言っていたことがあります。ただ、他方では、もし真実の恋愛であれば、桜井医師からそのことを認め、個人的な交際をしてもらいたい、と考えていたのだと思います。

 ところが桜井医師は、個人的交際に関する可能性がないことを、より明確に述べる一方で、相変わらず誘惑的な台詞を面接中に幸子に対して投げかけてきていました。ですから幸子は、桜井医師との関係を断ち切れない、という強い気持ちがある一方で、この状況を何とかしなければ、結局自分の自立はない、と考えるようになったのではないかと思います。

 幸子が自分の自立を以前よりも強く自覚するようになったのは、バイオリンの先生が、幸子にロンドン留学のお話を持ちかけられたことが、一つのきっかけではなかったか、と思います。

 先生は、バイオリンの練習の合間に幸子が被告と「痴話喧嘩」のような電話をしていることに気づき、そういった男性関係をやめさせるため、という目的で、幸子に対して、ロンドンに行ってバイオリンの勉強をしないか、という話を持ちかけられたのだ、と後でうかがったことがあります。幸子にしてみれば、ロンドン留学をすれば、桜井医師との面接は続けられなくなりますが、プロのバイオリニストとして活動する、という目標は大変魅力的だったと思います。

 病気のために、同世代の方々が社会に出て活躍をしたり、進学されたり、ご結婚されたりしているのを横目で見ていた幸子としては、さまざまなあせりがあり、事態の打開を考えていたのだと思います。さらに、接骨院でのアルバイトを通じて、社会との接点を持つようになったのも、こういった心境の変化をもたらした原因の一つではないかと思います。

 加えて、幸子はこの時期になると、病気にさせられた自分が四年間を棒に振ったにもかかわらず、桜井医師がそのことについてなにも責任をとらず、謝罪もせず、幸子の治療もまともにしない上に、幸子の状態を悪くしておきながら、ご自分は結婚をして幸福な家庭を築いているのはおかしい、ということを言うようになっていました。幸子は日曜日に具合が悪くなることがありましたが、それは、桜井医師と奥様が、二人の時間を過しているということを想像してしまうからだ、と幸子が言っていました。

 もし桜井医師と今後面接を続けても、同医師が離婚をして自分と結婚をしてくれない、ということなのであれば、面接を続けても意味がなくなる、と幸子は考えたのではないでしょうか。ところが、強い依存心があったために、なかなか自分から治療関係をやめるという決断ができず、そういう気持ちは、自分でもコントロールできないようなものだったのではないか、と思います。

 ですから幸子は、たとえどのように思われても構わないので、奥様に電話をして、桜井医師が自分に対していかにひどいことをしたか、ということを暴露して、それによって、桜井医師との関係を無理にでも断ち切ろうとしたのだと思います。幸子は「自分で自分の退路を断った」とか「橋を燃やした」といった言葉で、奥様に電話したことを表現していましたから、このことはたしかだと思います。このことについて、私は、いつ、どういう経緯であったかは忘れましたが、桜井医師と電話で話した際に、奥様が幸子から「脅迫」を受けたために、外出する際に脅えている、ということを聞いた覚えがあります。しかし、そういうことをされる原因は、ご自分が作られたのではないか、と私は思っていました。幸子がそういうことをするのは、それ相応のことがあったからではないか、と。

 三者面接をキャンセルされたことが発端ですから、奥様にお電話をした、という幸子の行動はやや唐突に見えます。ですが幸子にとって、この面接は今後の事を決定するという点で、また中久喜医師に、桜井医師の問題点をしっかりと見てもらうという点で、とても大切なもだったと思います。幸子は面接の前には、何を言うか、いろいろと考えていたようでした。そこまでこの三者面接を準備していましたから、突然キャンセルをして、なおかつ、その理由が、どう考えても嘘としか思えないようなものでしたから、幸子はその時点で、桜井医師に対して本当に失望したと思います。私自身はその話を聞いて、桜井医師が「逃げた」のだと思いましたし、幸子もそう思ったのだろうなと考えていました。

 病院で面接があり、お薬をいただき、それに対して治療費を支払っていたわけですから、幸子から見ても、家族から見ても、桜井医師と幸子との関係は、医者と患者の関係でした。もし桜井医師が、医師として、患者側の精神状態を理解しながら、ご自分の一つ一つの行動や発言を注意深く行っていれば、幸子の側の対応も大きく異なっていただろう、ということはよくありましたし、
994月の場合もそうだったと思います。突然キャンセルをするなどということを桜井医師がしなければ、また、どう考えてもつじつまの合わないような理由でキャンセルをされるということをしなければ、幸子は大量服薬をしなかったでしょうし、奥様に電話をするようなこともなかったのではないかと思っています。


(16)桜井医師に対する反感

 以上のような経緯で、幸子は桜井医師との関係をいったん解消しました。その直後、幸子は桜井医師の治療が「自分をこんなふうにしてしまった」、ということを法廷に訴えたい、と言うようになりました。法廷で争い、被告に反省してもらい、もっと良い医者になってもらいたい、そして精神医療のなかで、自分のような被害者を今後出さないためにも、裁判をしたい、とも言っておりました。

 私も夫もこれに協力しようとして、弁護士さんを探したのですが、この時にお話を聞いていただいた弁護士さんがおっしゃったのは、こういうケースでは、まず医者の協力がなければ裁判にすることができず、また、「誰かの生命が奪われる」という「事件」になっていないため裁判にはできない、ということでした。このような説明を聞いて幸子は、落胆しながら、「私が死ななければ裁判にならないのね」と言っていたのを私は良く覚えています。

 今から考えれば、桜井医師というのは、幸子にとって、「麻薬」のようなものではなかったか、と私は思っています。つまり、常習してしまえば、副作用が出るかもしれないが、とにかくそれをとり続けることによって、一時的には発作がおさまり、一時的には安定する、というもので、他方では、摂取すればするほど、もっとそれが必要になり、それなしには生きていけなくなるようなものでもある、というものです。しかも、いくら摂取していっても、とめどもなく摂取量を増やさざるを得ず、すぐに薬の効き目がなくなるため、絶え間なく必要になってくる、というものです。そのように考えれば、幸子が少しでも桜井医師と離れると死のうとしたのは、一種の禁断症状だったのではないか、と私は思っています。また、幸子自身が、自分でどうしてだかわからないが、桜井医師のことが好きである、と訴えていたことも理解できるのです。


母の陳述書目次

母の陳述書:続き

精神科医を訴える