乙B第6号証

被告陳述書

平成18年2月10日
東京都新宿区中落合2-5-1 聖母病院
 櫻井昭彦



東京地方裁判所 民事35部
合A2係 裁判官 殿

1 私は、平成7年より、亡幸子さんの診療・治療にあたっていた精神科医です。

2(1) 私は、昭和60年3月に慶應義塾大学医学部を卒業し、同大学で研修を修了した後、東京武蔵野病院精神科厚生協会大泉病院で精神科医として勤務しました。その後、平成6年8月に、慶應義塾大学医学部精神神経科助手となりました。
 平成8年4月に東京都済生会中央病院精神神経科で精神科医として勤務し、平成14年5月から現在に至るまで、聖母病院で精神科医として勤務しています。

(2) 教育活動としては、平成4年度、5年度には、国立埼玉病院附属看護学校において、「精神科各論」の講義を担当し、平成5年度、6年度には、慶應義塾大学医学部精神神経科教室心理研究室において、スーパーヴァイザーをしていました。平成6年8月から平成8年3月までは、慶応義塾大学医学部精神神経科教室助手として、研修医の指導(診療・理論)、学生臨床実習の指導をしていました。
   さらに、平成10年度、11年度には、済生会中央病院附属看護学校において、「病因論」(1年次)、「精神科各論」(2年次)の講義を担当しました。

(3) また、私は、昭和61年4月より平成6年7月まで、8年間にわたり、慶應義塾大学医学部精神神経科学教室心理研究室において週1回のペースでスーパーヴィジョンを受けています(精神分析的精神療法及び認知療法)し、平成2年4月から平成8年7月まで、6年間にわたり、週1回のペースで個人分析を受けるなどしました。

  また、平成2年11月には、精神保健指定医となっております。

(4) 著書、論文も、多数あります(別紙)。

3 本件について、まず最初に述べたいことは、境界性人格障害の治療が極めて困難であること、それに加えて、幸子さんの症例は、通常の境界性人格障害とは異なる、極めて困難な人格障害であったということです。

(1) 人格障害は、従来のうつ病等の概念に当てはまらない症状を総称しているという側面があり、いまだに解決していない多くの議論があります。そのため、評価する人が異なると、異なった診断が下されることなども珍しくありません。
  人格障害研究の先駆者であったK・シュナイダーは、「精神病質人格の類型学的な名称を用いるにしても、そのレッテルをはることをもって満足してしまい、そのような名付けられた人の人格については『用がすんだ』としている人は臨床家とはいえない」と述べているほどです。

(2) 特に、人格障害の患者さんの中には、自己の内部にある衝動性や怒りを統率しようとする意志や知性を有してはいるものの、分離不安に基づく甘えが強く、治療関係を結ぶと、すぐに治療者を全欧資して転移感情を示し、恋愛感情が報われないと激しい爆発的な行動という形に至ってしまう方が多くおられます。


(3) 人格障害の治療がどれほど困難であるかは、多くの文献で指摘されていますし、どの病院でも、人格障害の患者の治療が困難を極めることは、共通認識になっていると思います。
 原告側の準備書面等を拝見すると、人格障害には、ルーチン的な治療方法があって、その通りに治療すれば治癒するはずとお考えのようですが、そのようなことはまったくありません。
  人格障害の患者の心理療法では、適切な治療技術であるとか、方法は、ほとんど効力がありません。また、精神療法自体が、5年から10年というスパンで理論が変わっていくという現状であり、当時または現在の理論及び技法が「確立されている」とはとても言えません。

(4) 人格障害の患者を治癒するに際して、治療者は、患者の絶望感を感じ、患者を理解し援助できることなどを示し、患者は見捨てられないであろうことを明確にすることが必要です。
  患者は真夜中過ぎに危機を生じることが多いのですが、時には、治療者は、患者に自殺念慮が高じたときにはいつでも電話するように等ということを固く約束させねばならないこともあります。そうすることで、患者はしばしば安心し、衝動を制御することが可能になるのです。

(5) 私は、幸子さんを死の危険から救うために、あらゆる努力をしてきました。
   しかし、河合隼雄先生が「境界例」の中で述べているとおり、人格障害の治療は「まさに治療の目的が境界的」なのです(乙B3)。

(6) 本件独自の問題として重要な点は、幸子さんの病状が、極めて危険な特徴を有していたことです。

@ 通常の人格障害の患者は、人格の連続性を保った上で、理想化と脱価値化(相手を神様扱いしたり、悪魔扱いしたりという激しい揺れ)を繰り返すという揺れを持ちますが、幸子さんの場合は、そこまでの人間関係を持てず、誰も信じられない、という状態でした。

 A幸子さんは、幼いころから長女として両親から期待をかけられて育ち、家庭内で強くてオールマイティーな「ヒーロー」の役割を担っていましたが、ヒーローとしての自分は両親から愛してもらうことができても、無力で弱い自分は愛してもらえないと感じていたため、両親に素直に甘えることができませんでした。
  このような家族関係の中、幸子さんは、無力で弱い自分を抑圧し続け、抑圧した自分をわかってくれない家族を信用しないようになっていました。
  幸子さんは、幼少時よりうつ状態になりやすく、自殺企図があり、中学3年のときにも、刃物を持ち出したりしていたようです(乙A11)。
 幸子さんが家族を(信用したいのに)信用できなかったこと、家族との会話が原因で希死念慮を抱くなどしていたことは、カルテにも多く記載されているとおりです。

B しかし、このような状態を続けると、表面的な自分とは別の「抑制された自分」が、いきなり噴出することは避けられません。
  看護師が、「人格が2つあるような感じを受け、一つは、社会に適応できる人格、もう一方は取り残されてしまった子供のままの人格で、後者が突然出てきて死にたいといって今回のようなことがおこると考えられる」「今回のこと(5月17日の自殺企図)も特に目立ったサインも出さず」(H7.5.18、乙A3の4、143頁)と述べているとおり、幸子さんは、「子供のままの人格」が突然出てきたときに、自殺企図を起こしていました。幸子さん自身も、上記のような状態を、自ら「オートパイロット」「バージョン1とバージョン2」などと表現しています。
  幸子さんは、状況に合わせて自分を「作る」ことを習慣とするようになっていましたが、心の奥底に積み重なった抑圧されたエネルギーの重さに耐えきれなくなった時に、突然人が変わったような「オートパイロット」状態となり、致死的な自殺企図(リストカットのように、致死性の少ないものではなく、直ちに死に結びつく可能性が高い縊首のような自殺企図)を起こす、ということを繰り返していたのです。
  幸子さんは、ごく些細なことを引き金として「オートパイロット」状態に陥りました。たとえば、私の態度(他の患者と話しているというような、極めて些細なできごと)、家族の態度、あるいは大切にしていたものを紛失したなどということに極めて敏感に反応し、「自分は誰からも大切にされていない」と感じると、即座に「誰も信用できない」「死にたい」という考えに陥り、自殺に走ることがよくありました。

(7) 本件で最も重要なことの一つは、幸子さんの病気の真の原因は、他者に対する信頼の欠如であり、その他者とは、主にご両親であったということです。
  しかし、幸子さんは、本来なら頼れるはずの家族に対する期待も信頼も失っており、その結果として、唯一頼れる相手である主治医の私に対する転移が生じたのです。家族の愛情というものを信じられない幸子さんにとって、信じられる愛情は唯一恋人としての愛情であったため、私に対する転移も恋愛転移の形をとりました。
  平成8年1月23日に長谷川病院で行われた心理検査の報告書には、「感覚的感情的な反応性も、知的観念的な活動もともに活発であるが、この両面が適切に統合されず葛藤を生じやすい。つまり防衛機制が葛藤的なものになりがちである」「対人関係への執着を示し、過度の対人的感受性をもつために自らにとじこもる傾向、ひとりよがりな傾向が強く」「自己主張的態度による反動形成が不安定になり、潜在する依存願望や自己不全感が意識化してくると、依固地な自己主張・現実を無視した自己顕示という方向をとる。自我の防衛力は脆弱で、知覚機能や現実の歪みは著しい。SCT(文章完成テスト)では、自殺願望、過去への執着、両親の死への不安、愛情希求、愛されたい願望、自己存在感の希薄さなどが短い文章で述べられている。ROT(ロールシャッハテスト)にみられる、両親のイメージカードがないこととあわせて考えるならば、両親から愛されなかったことへの敵意、怒りの感情が根底に渦巻いているといえよう。」(乙A13。傍線は原本のまま)などと記載されています。
  さらに、幸子さんも、亡くなる直前、中久喜医師に対して、「家族からも友人からも他人は自分をacceptしてくれていたのではなく、私のactive performanceをacceptしていたのだと思った。ただ桜井先生は私全体をacceptしてくれた。それは初めての体験だった。それがなくなったので土台がくずれ、自分の中がemptyになってしまった。」と述べています(甲A2、平成12年3月2日のカルテ)。
 したがって、恋愛転移さえ解消すれば自殺念慮が消失し、幸子さんが回復するというのは誤りであり、真の原因である他者に対する信頼の欠如という問題点が解消されない限り、幸子さんが回復することは難しかったのです。
(8) 本件で問題になっている「転移」についても、若干触れておきたいと思います。
  @心理療法には数多くの学派や療法がありますが、どのような立場であっても、治療の要となるのが、治療者と患者との相互関係であることを認めています。
   患者が治療者に向ける感情は、本来、過去の重要な人物に向けるべきものを転移している場合が多いのです(サンドラー〔J・Sandler〕は、転移について、「自己の過去の重要な対肖像との関係を反復している」と述べています。)。つまり患者は、相手を治療者に替えて過去を再体験しているのです。
   このような転移を起こすということは、つまり、患者が過去の内的葛藤としてひきずっているものを、治療者との関係に置き替えるわけで、それは、これまで抑圧しようとしてきた対象と関わろうとする前向きな姿勢といえます。したがって、転移を起こすこと自体が、一歩前進と言えるのです。
  また、治療者にとっても、転移性の関係を築くことは、実際には知ることのできない、患者の幼児期の葛藤状況を知ることができる利点があります。  転移の様相は、様々です。意識面だけでおこるものではないので、表面の状態だけで簡単に識別することはできません。陽性転移と陰性転移を同時に抱くような場合も少なくありません。
 さらに、「逆転移」についても、若干述べておきます。
  逆転移は、初めは治療を疎外するものとしてだけ受け止められていましたが、現在では、分析作業の価値ある道具と見なされています。
  治療者側は、患者のどんな思いや行為をも、理解と愛情をもって受け入れることが要求されます。それは、深い「共感」によって可能となるのですが、この共感の基になるものこそ、逆転移による「同一視」(主体が対象を模倣し、対象と同じように考え、感じ、振る舞うことを通じて、その対象を内在化する過程のことをいいます)なのだと言われています。
  このように、転移と逆転移は、最上の治療手段であるという側面も有しているのです。

 A患者が治療者に対して恋愛性転移を生じることは、それほど珍しいものではありません。しかし、患者が恋愛という形で表現していても、その質は様々な内容を含み、性愛的なものを基本にしつつ、両親のイメージから時には神のイメージまで広がっていると言われています。

  そして、治療者が転移性恋愛に直面した場合には、直ちに治療を中断するのではなく、治療の継続の可否を慎重に検討すべきです。特に、本件のように、患者が強い対人不信と見捨てられ不安を持ち、他に信頼できる人物を持ちにくい時の治療中断は、大きなリスクを伴うのです。

4 面接回数、治療構造等について
(1) 週4回1時間面接するという構造は、当時最もポピュラーであった精神分析の原法(毎日面接、すなわち休日を除く週4〜6回)と比較しても、妥当な回数です(日本では週1回しか面接を行わない場合もありますが、国際精神分析協会では、週4回以上のみを精神分析と認めています。)。

(2) 私が面接以外に2度目の診察を行っているのは、精神分析療法としての面接ではなく、担当医としての対応です。さらに、やむなく面接時間を延長したこともありますが、長時間の面接が行われた時に時間を記録しているのは、例外的に時間を延長した時にそのことを記録するためでした。

  病棟という透明性の高い環境の中で、「治療構造を無視」した振る舞いなど、できるはずがありません。

(3) また、当時我が国において主流を占めていた精神療法技法では、治療者は、患者が口を開くまで待っているのが通常のやり方とされており(患者が沈黙を守っている間は、治療者も患者が話を始めるまで待つことが要求されます。)、患者が発言しない間はお互いに沈黙して座っていることは、何ら不自然なことではありません。

 さらに、上記技法によれば、治療者は、積極的に自分の意見を述べるのではなく、患者がどのような発言をしたとしても、受け身的・中立的な立場でいることが要求されていました。
  このことをもって、「ラブシーン」と呼んだり、「思わせぶりであいまい」と評価するのは、精神分析療法を誤解した主張といわざるを得ません。
  当然、精神科医の芳賀医師が、いたたまれずに席を立ったなどいう事実もありません。
  上記のような私の注意が「思わせぶりな態度」というのであれば、まったく筋違いだと思います。

(4) さらに、自殺企図を有する患者を取り扱う上で、最も重要なことの一つは、治療者が、回復までの長い期間、患者は見捨てられないであろうことを明確にすべきこととされています。
  そのため、前述のように、患者が危機的状況にある場合には、いつでも電話をかけるように約束させることもあります。これにより、患者は衝動を制御することができ、面接で自殺念慮を細かく話すことが可能となるのです。

(5) 治療構造についても、原告側の理解は正確ではありません。
  精神療法において、治療構造(面接質の状態、時間や回数の設定、料金額、面接室における治療者と患者の位置、治療目標をはじめとした契約内容等)が重要であることは、そのとおりです。
  しかし、治療構造とは、無機質な「ルール」の固まりではありません。その全体から醸し出される雰囲気、ムード、安全感こそが「治療構造」として最も重要な機能を果たすのです。さらに、治療においては、「無構造な」治療というものはあり得ません。たとえば、面接室や面接時間を定めない面接が行われることもありますが、これは「無構造な」治療なのではなく、"面接室や面接時間を定めない"という治療構造が設定されているのです。
  また、臨床の現場においては、患者のニーズにあった治療構造を構築する必要があるし(治療構造には固定的な唯一の方法があるわけではありません)、例えば、幸子さんの場合もそうでしたが、人格障害の患者の場合には、厳格な枠組みを設定すると(たとえば、面接時間を無理に打ち切ってしまうなど)、症状が悪化する場合があるのです。

5 第1期(1995(平成7)年5月17日〜同年11月8日)

(1)@幸子さんは、平成7年3月4日に、慶大学病院に入院されました。
  ご本人は、入院時、抑うつ状態になったきっかけとして、サークルの幹事に就任し、運営がうまくいかずに悩むようになり、不眠や食欲不振などが徐々に現れるようになったこと、2年交際していた同じサークルの男性と別れたのをきっかけに、さらに"つらい"と感じることが多くなったことなどを挙げていますし(乙A1・3頁)、入院直後にも、「私と社会をつなげてくれていたのは彼だけ、その彼を喪ったのは大きい」「誰かに甘えたらどんどん依存していってしまうような気がする」(乙A3の4・93頁)「どうしても(別れた)彼の事を考えてしまうと・・・死にたいような気持ちになってしまうんです」と述べています(乙A1・26頁)。また、N医師にも、「始まりは大学3年の時、ボーイフレンドとの葛藤、ついには break up。その后[原文のまま]抑うつのエピソードのくりかえし」(乙A15・2頁)と述べています。

 A幸子さんは、幼少時からうつ状態になりやすく、自殺企図があり、中学3年の時にも、刃物を持ち出すということがあったようです(乙A1・72頁)。 また、慶応病院入院前にも家で寝たきりの状態になったり、自殺企図を起こしたりしていますし、入院直後の平成7年3月26日にも病棟内で自殺企図を起こして看護婦に止められるなど、入院時の病状は極めて悪いものでした。

  極めて小さな事柄であっても、それをきっかけとして「死にたい」という気持ちを抱くことが多くありました。
  幸子さんは、死にたくなる時のパターンとして「助けがもらえないとなると、死にたいという気持ちになるのが私の思考パターンだから。」と述べています(H7. 6. 13、乙A3の4・164頁)。

 B 入院後、平成7年5月17日の自殺企図までは、私と山田医師の二人が主治医となりました。メインの主治医はA医師であり、精神療法も山田医師に引き受けてもらい、かつ、退院後も山田医師が通院治療を行うという前提のもとに治療が行われていました。その他、婦長と他のナーススタッフ等も加わり、層の厚い治療環境(チームによる治療)を構築していました。

 薬物療法は、精神運動抑制(意識や行動性が低下することです。)に対しては効果があり、平成7年3月末には、幸子さんの精神運動抑制は改善されていました。しかし、精神運動抑制が改善されるにつれて、悲観的かつ破壊的な行動が現れるようになりました。そのため、私たちは、幸子さんは単なる鬱状態ではなく、人格障害の可能性があると考え、幸子さんを支持するための体制を強化しつつ、精神療法及び投薬を行っていました。
 C 平成7年5月17日、幸子さんは、何ら自殺企図を伺わせるような言動を一切することなく、突然致死的な自殺企図を引き起こしました。自殺企図を起こす直前、幸子さんは、手作りのスカートを完成させたり、作業療法に熱心に参加したりしており、作業療法中は表情もよかったことが観察されております(H7.5.17、乙A1、60頁、乙Aの4、142頁)が、突然行方不明になりました。幸子さんは、自殺未遂の直前、紐を携えて病院を抜け出し、元ボーイフレンドとの思い出の場所である千鳥が淵の藤棚まで行き、ご両親に最後の電話をかけています(つまり、ご両親に対して助けを求めているということです。)。幸子さんは、自宅に電話してから家族が現地に到着するまでの時間も計算していたそうですが、幸いにもパトロールの警官に保護され、一命を取り留めました。
  自殺未遂実行当日、お父さんは、幸子さんが運ばれた病院に来院せず、お母さんは、帰り際に幸子さんに声をかけることもなく帰ってしまったというエピソードがありました。また、自殺直後、幸子さんは「(一番助けて欲しい相手は、家族ではないかという質問に対し)離れてるから、そんな風に思わない。」(H7.5.22、乙A4の3、145頁)今まで人に頼ったことがない。」(H7.5.22、乙A3の4、148頁)「(安定を求める対象は誰かという質問に対し)家族は諦めてるから。血のつながりがあっても、心が通い合ってるというわけではないでしょ。」(H7.6.8、乙A3の4、160頁)などと述べ、最も自分を理解してくれるはずのご両親が理解してくれておらず、家族には頼れないという思いを強く抱いていました。
  通常、当時ほど支持的な治療環境(患者のもつ不適応の原因を直接問題にするのではなく、受容的共感的態度でその苦しみを理解し、その理解を伝え、患者を支えることによって、患者自身が再適応を獲得するように導く治療環境のことです。)が提供されていれば、患者さんは改善する場合が多いのですが、このような環境でかえって退行(現在の状態より以前の状態へ、あるいはより未発達な段階へと逆戻りすることです。)したため、私は、幸子さんの以前の環境があまりにも悪かったために退行を起こしたのではないかと推測しました。
  そして、幸子さんの回復は、幸子さんの病状をご両親が理解するかどうかにかかっていると考えました。
  しかし、幸子さんの苦境は、ご家族に理解されていませんでした。そのため、私は、幸子さんとご家族の間に信頼関係を作り、幸子さんが「家族から愛されている」と感じることができるようにしなければならないと考えたのです。このような中、当然の事ながら、私が、幸子さんに対し、「あなたは家族に愛されていない。」などと述べたことはありません。
(2)@ 私は、当時研修医だった山田医師のみを、上記のように困難な症状を有する幸子さんのメインの主治医とするのは不適切であると考え、自分がメインの主治医になることにしました(お母さんは、千鳥が淵での自殺企図後、家族は家に連れて帰ろうと決心したのに、私が入院の継続を主張したのでそれに従ったと述べていますが、自殺企図直後でとても退院などできる状態ではないということは、治療スタッフ側の一致した見解でしたし、家族からも退院の提案はなされておりません)。
  そして、幸子さんの治療のため(安全を確保しつつ幸子さんが成長できる環境を整えるため)に、まず、次のような方針を立てました。
A 危険でない行為については、一定の自由を付与し、さらに、言葉や芸術活動等での表現を促すこと。
    情緒を全て抑圧すれば、抑圧されたエネルギーが貯まり、いきなり噴出しやすくなるからです。(「人一倍、誰かに甘えたい、という気持ちが強いにもかかわらず、それを表出せずにため込んだ結果爆発し、その後誰も私を助けてくれないと訴える矛盾したパターン」(H7.5.18、乙A3の4、144頁)です。)。最も大事な点は、幸子さんが感じている「悪い子の自分はいてはいけない」という意識に対し、「悪い子の部分を出しても大丈夫な、ある程度踏み込んでも人間関係が損なわれないという経験」をする必要があるという点であり、自殺をしたい気持ちになった時に、信頼できる人に対して、行動ではなく、言葉でその気持ちを表現できるようになることでした。また、危険なことではなく、危険ではないことでエネルギーを発散できるようになることでした。
    また、幸子さんは、生命を大事にできない一方で、より重要度の低い規範は守れる(日常生活では常識的に振る舞うことができる)という本末転倒が見られたので、本当に危険な行動や自己破壊的な行動はしっかりと抑制し、危険ではない範囲での試行錯誤や言語による表現は育てていく、ということを行う必要がありました(わがままを許していたわけではなく、必要な制限は加えていました。)。
    原告側は、「ある程度踏み込んでもダメにならないという経験」は、病因接近的な治療方法であると述べていますが、上記は、「病因接近的な治療方法」ではありません。「相手にあわせるだけの自分ではなく、自分が自分であっても大丈夫な関係が必要」という非常に基本的なニーズが幸子さんにとっては満たされていないので、これを満たす必要がある、ということです。
B 家庭内はお父さんの主導であり、お母さんの愛情(感情)が幸子さんに十分伝わっていなかったため、私が毎週お母さんと面接し、お母さんが自信を持って母親らしく幸子さんに接することができるように、あわせて、ご両親が、幸子さんの「抑圧された自分」を理解し、受け入れられるように、家族面接をするなどしてサポートすること。

 A 当時、治療スタッフが立てた治療方針は、前述したとおりです。原告側の解釈は誤っていますし、私が「誤った治療方針に基づいて」「幸子の被告被告医師に対する恋愛転移・依存を強化させ」た等の事実もありません。

  また、当時、私が、「恋人役」をするという治療方針を立てた事実や、このような宣言をしたという事実は、まったくありません(仮にそのような事実があったら、すぐに問題になっていたと思います。このようなことはあり得ません。また、このような方針を私が立てていたとしたら、私が幸子さんに"恋人にはなれない"という趣旨のことを繰り返し伝えていたことと矛盾します。)。
  また、原告側が指摘しているような、「幸子さんにプロポーズしたらご両親はびっくりするだろうな」「お父さんが嫌いだからあなたとの結婚をあきらめた」というような「変なこと」を言ったということはありません。用事もないのに窓越しに幸子さんを見ていたり、幸子さんが朝早く大学に行く日には、わざわざ幸子さんを見送るために朝早く病院に来ていた、というようなこともありません。
  他の医師や看護婦から、私と幸子さんの関係の「異常性」を指摘されたことも、まったくありません。

B さらに、私たちは、医長の指示(病棟医長とも相談しながら)により、継続的に投薬も続けていました。

C 幸子さんについては、複数名の担当医、担当看護師、病棟婦長を初めとする看護スタッフ、家族に対するサポートからなる、よく計画された複合的な治療がなされ、スタッフ間のコミュニケーションも頻繁にとられていました。幸子さんの病状が危険であったことから、このような体制がとられたのですが、ここまで充実した体制がとられるのは、珍しいことです。


D私は、このような治療方針に従い、できる限り治療構造を守って治療を行っていました。診療録を見ていただければ、各医師の面接が定期的に行われていたことは明らかです。ただし、前述したとおり、人格障害の患者の場合、治療者が必死に治療構造を守ろうとしても、最後までそれを保持できる事例は極端に少なく、どうしても必要な場合には、面接時間の延長等をせざるを得ませんでした。

Eなお、原告側は、境界性人格障害という診断を行うにあたり、「診断面接」を行っていないと述べていますが、本件については、当初から、山田医師と私による面接、看護スタッフによる会話、病棟での行動観察について記録がなされており、その量は、通常の診断面接をはるかにしのぐ情報量を持っています。診断面接には生育歴を順に聞く方法や、自由連想法を用いて一定回数面接し、その内容を検討する方法(予備面接ともいわれます。)がありますが、いずれよりも多い情報をすでに治療者側は保持しており、診断確定のための資料は十分でした。また、当時の精神医療における実体からみても、境界例の診断面接は行われていないないケースが圧倒的です。

(3) 自殺企図後、家族に理解されないという幸子さんの絶望的な思いは、幸子さんを救おうと必死に努力している私に向けられるようになりました。
  家族や周囲の第三者を信頼することができなかった幸子さんが、自分を救ってくれそうな第三者にすがりつくという傾向は以前からあり、芳賀医師も「(スキンシップ的やさしさを)被告医師にもとめていたようである。・・・ここの線は、前の彼とのやりとりの再現である。被告医師が前の彼におきかわっている。」(H7.6.29、乙Aの1、104頁)などと述べていますし、幸子さん自身、カルテの他の箇所にも、このような記載は多くあります。
  後に、長谷川病院の主治医も、このような幸子さんの性質を評価して、「異性との関係で"全面的依存"というstrategyを持ち出し、それによって相手が逃げた場合には、unstability、自傷行為が表面化するよう」(乙A10)とか、「表面上は人格ができているように見えるが中味がからっぽ、このからっぽなところをDrS[桜井]にうめてもらい安定的人格になるという」「familyのパターンとしておまかせ主義、強い力にゆだねてまかせてしまう→pt(幸子さん)自身も被告医師にまかせてしまう→自我はからっぽのまま このptの場合、一つの対象に依存すると、こういうパターンになる。」と述べているとおりです(乙A14)。
 ただ、平成7年6月から8[原文のまま]にかけて幸子さんの主な関心事は、別れたボーイフレンドのことであり、この当時私に対して確認されているのは、「依存心」と「期待」でした。恋愛感情であることは主治医にもスタッフにも明らかになっていません。

(4) ご両親は、この頃幸子さんの症状が「次第に重篤なものになっていく」と述べていますが、事実はその逆です。
  特に、7月から8月にかけて、幸子さんは、全体としてはだいぶ快方に向かっていました。
  平成7年5月の時点では「今まで人に頼ったことがない」「誰も信用しない」と公言し、抑圧したエネルギーが頂点に達すると、いきなり危険な行動に出ていた幸子さんが、私、芳賀医師、山田医師及び受け持ち看護師・病棟婦長等の若干の看護スタッフに対しては信頼を持ち始め、いきなり自殺企図を図るということはせずに、まず、自分の言葉で表現するようになり、また、私たちに対する信頼と不信の間を揺れ動くようになりました(これは「誰も信用しない」)と述べていた幸子さんが、人を信用しようとし始めた段階であり、このような揺れ動きが生じるのは極めて自然なことです。)。これは、大きな前進でした。「死にたい」と言って助けを求めることができる第三者が存在するという事実は、幸子さんを生命の危険から救ったのです。
  実際、この時期、幸子さんがいきなり自殺企図を図るということはありませんでしたし、臨床的にも、幸子さんの状態は5月よりもかなり改善していました。
  芳賀医師も、「最近は自殺企図を起こす前に本人よりきちんとサインが出てきており・・・以前できにくかった調子の悪さを言葉で(態度のみならず)伝えてきているようです。・・・(以前は)バージョン1と2との変換があまりに急激で、かつ相いれない様相を見せていた時期が5月〜6月中・・・あったのですが、徐々にバージョン1と2の割合がこなれてくるにつれ、自殺企図に至る前にサインを出したり、全体的に弱い部分も受け入れつつといった感じの広がりのある心の状態で・・・抑うつ気分というもの自体ずい分軽くなってきているようでもあります。とりあえず、桜井医師に全面的に信頼をよせ、安心しているようであります。人を困らせても相手が自分によってゆらがない、相手が安定していて、自分を見捨てないというあたりをいつも確認したくての行為もよくあります」(H7.8.7、乙A1、146頁〜)など、幸子さんの前進を記録に残しています。

(5) 原告側は、私が、6月28日の面接で、「私がいないと困るだろう。」と述べ、退院を阻止した(自分から離れていくことを阻止した)と主張していますが、これもまったく事実と異なります。
  幸子さんは、当時、突然に、「退院する。もう通院もしない。」と述べましたが、私は、幸子さんの生命の危険を感じて、説得にあたりました。
  「私がいないと困るだろう。」という発言は、ご両親の主張とは趣旨が異なります。私が夏休みをとる直前、幸子さんが退院したいと言い出したため、私は、「私が夏休みでいなくなってしまうと困るので、退院したいという気持ちになってしまうのでしょうが、きちんと入院して治療を続けた方がいいと思います。夏休みではありますが、出てくる日もありますから。」と述べ、入院治療を続けるように説得したのです。
  さらに、原告側は、私が、7月1日、特に問われもしないのに自ら個人的な情報を幸子さんに伝えた、と主張しています。
  私は、それまで、幸子さんには個人的な情報は一切伝えていませんでしたが幸子さんは、私の個人的な事項をあれこれ尋ねてきました。私は、まったく何も答えないと、幻想がふくれあがって転移(依存)が助長される危険性があると考え、それらの事情を考慮した上で、年齢程度の事柄について返答しました。

(6) 幸子さんは、7月3日、病棟からご両親に電話をかけたのを契機として精神不安定になりました(A医師は、「3〜5歳のだだっ子でほしいものが手に入らない状態を見ているようだった」「自殺に至る可能性あり 要注意!」とカルテに記載しています。乙A1、107頁)。翌日は、女性の友人が面会に来た後落ち込み、お母さんに電話したところ、「そういう話は聞きたくない。」と言われ、お父さんも「くやしかったらそれをバネにしてがんばれ。」「(幸子さんのことも)それで教育してきたので今さら変えるわけにはいかない。」と述べた(乙A1、108頁)ため、幸子さんは、自殺企図を心配しなければならないほど落ち込んでしまいました。
  うつ状態を呈し自殺念慮を起こしやすい患者さんに対し、しっかり頑張るようにというような叱咤激励や助言をすることは、してはならないこととされています。なぜなら、うつ状態を呈している患者は、単純にこのような助言等に基づいて行動に移るので、これは患者を単に最も深い絶望の淵へと投げ込むだけだからです(渡辺昌祐他著「プライマリケアのためのうつ病診療Q&A」299頁)。
  このような状態から幸子さんを救うために、私は、緊急避難的に、2時間弱の面接を行いました(枠をはみ出してしまった時にその旨の記載がある事実は、私が面接の時間に注意を払っていたことを示しています。)
  この際の面接で、幸子さんは、医師の共感では絶望は収まらず、面接してもどうにもならない、と述べています。両親には期待しても無駄で、その分、彼、または治療者などに向かってしまうのだ、とも述べています(乙A1、108頁。このエピソードは、家族から見捨てられたと感じた幸子さんが治療者側にすがりつくようになるという流れをよく示していると思います。)。

(7) 平成7年8月11日は、幸子さんの元ボーイフレンドの誕生日であったため、幸子さんはプレゼントを準備するなどして面会を楽しみにしていましたが、拒絶されてしまいました。
 幸子さんを元ボーイフレンドと会わせるという提案は、お母さんから出されたもので、私は、お母さんと慎重に話し合いました。この際、私は慎重に検討してくださいとお母さんにお願いしました(なお、当時、芳賀医師は、夏休みのため不在でした)。
  幸子さんは、この面会の後、「結局どうしようもなかった。彼は私のことは重要に思っていないし、死にたいという言うのを言って、自分のために何とかしてくれと言ったけれどだめだった。」(H7.8.13、乙A1、153頁)と述べています。
  また、8月後半ころから、幸子さんは、ご家族が幸子さんに対して持っている「共同幻想」(幸子さん自身の言葉です。)、並はずれて有能で元気な幸子さんという非現実的な期待をくつがえすことはできないということを、たびたび述べるようになりました。
  同時にこの頃、私の担当患者が増え、幸子さんは、「被告医師の一番の患者の座」が揺らぐことを心配しています(平成7.9.2、乙A1・166頁)。
  9月1日の看護記録には、面会に来た父親と話したあと、幸子さんが、「やっぱり私のことをわかってくれない。家族がうまくいってない。母親も大変だから、おまえがもっと大人になりなさいと言われた」と述べたことが記載されています(乙A3の4・208頁)。
  9月2日には、看護師に<親への期待が裏切られたという感じ?>と問われて、「期待していない。ああいう人なんだと諦めている」と言いつつも、苦しさを訴えています(乙A3の4・209頁)。
  この後から、幸子さんは、私に対し、「患者でなくなったら個人的な関係を持ちたい。」などと述べ(H7.9.3、乙A1・167頁)、恋愛感情をあからさまに表現し、それに止まらず交際を望み、それがかなえられない時には自殺のほのめかしを陰に陽に表現するようになりました。ここで困ったことは、幸子さんの自殺企図は通常の境界例の患者さんのような手首切り等の自傷に止まるものではなく、同年3・5月に行われた縊首のような致命的な形をとるというです。元ボーイフレンドへの期待が残っているうちは、私に対するすがりつきもそれほど強いものではなかったのですが、元ボーイフレンドから拒絶された後、8月後半から9月初頭にかけて家族にも見捨てられたと感じて、幸子さんは私一人に強くすがりつき始めたのだと思われます。
 そして、幸子さんの転移は、「振り向いてくれなければ死ぬ。」「恋愛以外の人間関係は受け付けない、恋愛が成就しなければ死ぬ。」とうい極めて危険な性質を持っていることが、次第に明らかになっていきました。
  幸子さんの転移が、親子関係の愛情に関係する原初的な転移であったことは間違いありません。しかし、親子関係に絶望していた幸子さんにとって、親子間の愛情のような愛情はすでに愛情を意味しなくなっており、過去、「受け入れられた」と感じることができた相手は、唯一「恋愛」の相手だけであったため、恋愛という形を借りた転移に発展したと考えられます(幸子さんが信頼できる「お父さん」を求めていたことは、幸子さんが後に中久喜医師を「ビッグ・オー」として父親のようにしたっていたこととも重なります。)。
 芳賀医師も、「以前は彼にふられると死んでしまう(自殺)のではないかという構図からDrにみはなされると狂うのではないかという方向に変化している」(H7.9.7、乙A1、172頁)などと述べています。
  このような状況が明らかな中で患者を保護しようと考えることは、治療者の思い入れによる逆転移ではなく、客観的に正当なことであります。
(8) 幸子さんの私に対する転移が上記のような強いものであったため、私は、幸子さんの信頼を断ち切らないよう(信頼を断ち切ってしまえば、5月17日の自殺企図の時と同じように、誰も信頼できる人がいなくなり、いきなり自殺企図に走る危険性があったためです。)、個人的なつきあいはできないが、医師として、幸子さんが納得するまで治療をする、と言うような返答をするなど、細心の注意を払いながら幸子さんの上記転移を扱わざるを得ない状況となりました。
  さらに、他のチームのメンバーも、幸子さんの恋愛性転移を解消するために、努力をしていました。
  なお、ここで注記しておきたいのは、「病的依存」と「恋愛性転移」を同等に論ずることは正しくないということです。人格障害の患者が治療者に恋愛性転移を持つことは多くありますが、患者が治療意欲を持っていれば治療は十分可能ですし、治療を中止する危険性も十分考慮に入れるべきです。さらに、幸子さんは、他人に対する信頼を欠如していましたが、私に対してのみある程度心を開き、「恋愛」という形で人間関係を保とうとしたのです。

(9) 幸子さんの治療は困難を極めました。
  カルテの、「(幸子さんは)Drのちょっとした態度でたびたび死にたくなり、修復不能となってしまう。・・・Drを独占したい。一番大事にして欲しいという。それは無理なところがある、大事にするつもりはあるが独占、一番はムリかもしれない。というと、『死にたい』状態に入りそのままである」(H7.9.6、乙A1、170頁〜)等の記載を見てもわかるとおり、私がやんわりと断っただけでも、すぐに自殺企図が生じてしまう危険性が発生するという状態でした。
  また、幸子さんは、私が何度も説明し、説得しても、逆のことを理屈立てて考えてくるために、困惑して、カルテに、「かなり説得力のあることを細かく考えている」「このPtは不可能を可能にしたくなる人で、また有能な人である。」と記載したこともあります(H7.9.19、乙A1、185頁〜)。
  そのため、私は、幸子さんの病状を十分観察し、慎重に言葉を選びながら、幸子さんの「恋愛感情」に対処する必要がありました。また、希死念慮が強くなってきたら必ず報告するように何度も約束させるなどする必要がありました(このような約束を守ってもらうためには、まず、幸子さんから信頼を得なければならないことは、言うまでもありません。)。
  なお、原告側は、「面接の意味や面接そのもののストレスを幸子と話し合う」べきであったと主張していますが、このような面接は、当時行っていました。
  この時点では、幸子さんは他者と信頼関係を築こうと努力している途上だったのですから、面接の否定的意味(ストレス等)についてだけ話し合うのではなく、良い面、悪い面ともに話し合うなど、慎重に行うことが必要でした。
 なお、表面的には私に対する恋愛転移として現れていましたが、前述したとおり、幸子さんの真の問題点は第三者に対する信頼の欠如であり、唯一信頼できると感じた私に必死でしがみつくようになったのです。つまり、それまでの幸子さんの希死念慮と、それ以降の希死念慮の性質は、まったく同じ根を持っているのです。
(10) 私は、このような難しさの中、何度も、私の関与は治療としての関与であり、恋愛としての関与ではないということを、幸子さんに伝えています(たとえば、「『(Drを)独占したい。一番大事にして欲しい。』という。〈それはムリなところがある。大事にするつもりではあるが、独占、一番は常にはムリかもしれない。〉というと『死にたい』状態に入りそのままである。ここでDr怒ってしまう。〈ムリな(一番・独占)ことを言ってそれで死にたいと言われても困る。〉」(H7.9.6、乙A、171頁)、「自分と幸せになろうとは思っていない」「元気になりたいと思っているのであれば、それに対してDrはお手伝いしておつき合いする。」(H7.9.19、乙A1、185頁)「昨日の〈自分の気持ちをよく見てみると、やはり治療のためにおつき合いしているのが確か〉というのは、本人に深刻に伝わったようである。」(H7.9.21、乙A1、192頁)「私の患者とおつき合いする目的は治療のためである」(H7.9.26、乙A1、195頁)、「被告医師も○○君もきもちはこちらにはむかない、ということだからもうあきらめるしかない、というところまできた。」「やけになっていた時の発言とは違い、・・・『人にたよってまっていてもしかたがない。1人でゆっくり解決していこうか』というような流れをもつものであるようだ。」(H7.10.13、乙A1、209頁、記載はA医師)、「DrはPtの回復と幸福のために働いている。個人的な交際ということは、できないということであるが、をくり返し説明する。」(H8.5.1[?H7.9のはず]、乙A7)などを見ていただければ、わかるとおりです。)。
  幸子さんも、私が「恋愛感情」を受け入れないことを、十分に認識していました。このことは、「Drも結局他の人たちと同じだと思った。私が本気になると引いてしまう。」(H7.9.8、乙A3の4、215頁)「〈自分の気持ちをよく見てみると、やはり治療のためにおつき合いしているが確か〉というのは、本人に深刻に伝わったようである」(H7.9.21、乙A1、192頁)等、診療録に詳細に記録してあるとおりです。
  また、9月5日、幸子さんは、密かに持ち込んだ薬を捨てているところを発見されましたが(幸子さんはあくまで薬を捨てていたのですから、これは「自殺企図」ではありません。)、この、薬を隠し持っていたエピソードは、「恋愛関係はあり得ない」ということが幸子さんに明確に伝わっていたことを示すものです。
 なお、私は、「医者と患者が結婚した例は、日本にはないし、世界にだって1例か2例くらいしかない」という趣旨のことを述べたことがありますが、このれは、幸子さんが私に対して恋愛感情を示す言葉を述べたため、「そんなことは許されることではないし、事実、そんな例はほとんどない、だから自分たちの間でも起こり得ない」ということを、幸子さんに納得させようとする中で述べた言葉です。

(11) また、原告側は、私が幸子さんからすがりつかれることによって自分の満足を得ていたなどと述べていますが、とんでもないことです。
  多くの文献にも記載されていますが、人格障害の患者にすがりつかれることは、治療者側にとってかなりの負担です。特に、希死念慮を強く持つ患者にすがりつかれることは、治療者にとって極めて苦しいことであり、治療者側が陰性(怒り等のマイナスの感情)の逆転移を起こすケースが多くあることは、多くの文献で紹介されています。しかも、幸子さんの場合は、すがりつきを否定してしまっては適切な治療関係を築くこともできないという困難な事例でした。「自分の満足を得ていた」など、とんでもないいいがかりです。

(12) なお、お父さんは、治療方針を変更するように婦長に「抗議」し、11月8日に私、婦長、ご両親で話し合いをしたところ、婦長から、「今後、幸子の治療体制を、被告医師医師を主とするのではなく、何人かの医師でチームを組んで治療するように変える」とう説明を受けた、と述べていますが、そのような「抗議」があったとは聞いていません。また、婦長には、治療方針について決定する権限はなく、独断でこのような発言をするはずがないことを見ても、このような事実などなかったことがおわかりいただけると思います。

6 第2期(1995(平成7)年11月8日〜同年12月1日)

(1) この当時、幸子さんの主治医は私と前田医師の2人でした。ただ、前田医師は、1年目の研修医であり、突然の自殺企図の危険がある極めて困難な境界性人格障害の患者の治療にあたったという経験を有していませんでした。さらに、幸子さんは、依然として私に信頼を寄せているという状態でした。そのため、この時期、私が週4回の面接を行っていたことは、まったく妥当なことです。他の医師や看護スタッフも、しばしば幸子さんと話をしたり、危険時には介入したりしています。

(2) 原告側は、この時期、私が治療から完全に撤退すべきであったと述べていますが、人格障害の患者の場合、主治医を変更するに際しては、万全の注意が必要なのです。このような無責任な主治医交代を行えば、再び幸子さんが誰も信用できない状態に落ち込み、突然の自殺企図が起こる可能性がありました。
    また、幸子さんの転移の真の原因が、第三者に対する信頼の完全な欠如であることを考えれば、恋愛性の転移を解消しても「混乱」は解消できず、また新たな恋愛性転移を生じるか、または突然の自殺企図を繰り返すという状態に戻る可能性が極めて高かったと思います。

(3) 平成7年11月末、幸子さんは、病棟のガラスケースを破壊するなどの行動に出たため、病院側はこれ以上幸子さんを開放病棟で治療することは無理であると判断し、幸子さんは12月1日に退院されました。
   退院時は、ご家族と主治医等の間で十分に話し合いを行い、私は、閉鎖病棟のある大泉病院への転院、主治医を代えずに通院加療、家族が医療機関を選んでの転院という選択肢を提示しました。
 継続治療が可能かどうかについては、主治医2名(私と前田医師)、病棟婦長などを交えた面接を行った上で話し合われ、その上で病棟婦長と病棟医長が合議した上で決定されています(私が強制退院を主張したために退院が決まったというわけではありません。)。前田医師が1年目の研修医であることから前田医師が主治医となるのは無理であり、また、突然起こる可能性がある自殺企図を開放病棟の中で防ぐことは困難との理由から、慶応病院での入院継続はできないというのが私たちの判断でした。
   私は、「他院に転院する場合には、紹介状を書きます。」とはっきり返答していますし、ご家族が選ぶ医療機関への転院も選択肢として提示しています。 しかし、後に幸子さんは、家族に伴われて××病院を受診したものの、治療を断られたと私に話していました。
   私は、当時、大泉病院に週2日勤務していましたが、大泉病院を選択肢の一つとしてあげた理由は、@精神科専門病院であること、A閉鎖環境であり、突然の自殺企図という不安を防いで安全感をもった治療が可能なこと、B他の医師も閉鎖環境での困難な病状の治療に熟練した医師ばかりであり、主治医不在日等でも集団で安全を確保することができること、Cスタッフが精神科の専業で経験が長く、困難な患者にも無理なく対応できること、D当時の状況の下で私との治療関係を保持することは、幸子さんの生命保持上最も有効と判断したこと、などです。

(4) 幸子さんのご家族は、上記のように、主治医らとの面接に参加し、大泉病院を見学した後に最終的に意思決定しているのであり、この決定が私の発言に「脅えた」ためだとは、到底考えられません。
(5) また、私が、お母さんに対し、「どこへ行っても幸子さんは私のところに戻ってきますよ。」などと述べた事実はありません。

7 第3期(1995(平成7)年12月1日〜1996(平成8)年1月6日)〜4期a(1996(平成8)年1月7日〜同年2月27日)
(1) 幸子さんの退院後、私は、引き続き幸子さんの主治医として治療を継続しました。退院の時点では、幸子さんは、あらゆる対人関係において信頼という感覚を欠いており、私に対してのみある程度心を開き、恋愛と依存という形で人間関係を保とうとしている状態でした。
 また、この時点で治療の中断を明言すれば、幸子さんは見捨てられ感を生じ、自殺の危険が高まったと思われたこと、境界例の患者は、治療者が次々変わると、対象への一貫性・恒常性の感覚を持てない病理を有し、大変致命的な外傷体験になるという特徴を有すること、患者が治療意欲を持っていれば、治療を破壊するのではなく、治療を継続することはまったく可能であったことなどからいっても、治療の継続はまったく正当なことでした。
(2) 幸子さんの通院中、私は、幸子さんの「恋愛感情」に細心の注意を払いながら、繰り返し面接を行っています。
カルテを見れば、私と幸子さんの間で、幸子さんの転移について繰り返し面接がもたれていることがわかります。他の医師もしばしば介入し、平素から複数のスタッフにより観察され評価されていました。

(3)@ 幸子さんは、平成8年1月6日に自殺未遂を図りました。
A その直前の平成7年12月1日、私は閉鎖病棟のある大泉病院への転院を勧めましたが、ご両親は「危険は承知の上で外来通院を希望」し(H7.12.1、乙A1、262頁)、週1回の通院以外は、家族の保護下におかれることになりました。入院を選択しない以上、自殺のリスクが高まるという説明は、退院時に十分ご家族に対して行っています。

B平成7年12月19日、幸子さんは窓から飛び降りようとする自殺企図を起こしています。理由は、「自分のケアのことで両親がいさかっているので、私なんかいなければいいと思った。」「両親は自分が必要な人間だというが自分が必要な人間とは思えない」(乙A2、15頁)とのことでした。それでも、ご両親は、幸子さんを入院させるなどの措置を採られていません。


C 平成8年1月5日、私は、面接において、幸子さんに対し、「私があなたに恋愛感情を持っているのかいないのかについては、今日はお答えしません。」「私はあなたと医師患者関係を超えて個人的な交際はしません。」と述べています。当時の幸子さんの状況から言って、「心の中にも恋愛感情は一切ありません。」と断定して答えることは、重篤な自殺企図につながる可能性があったために、上記のように答えたのですが、必要最小限、恋愛関係にはならないということは、はっきり伝えています。

    平成8年1月5日の面接では、幸子さんは、「もう来ません」と言って立ち上がるなど、自殺の危険性が認められたため、私は、再度入院することを勧めましたが、お母さんは否定的でした。そのため、私は、幸子さん本人に危険行為はしない約束をしてもらった上で、同伴していたお母さんに幸子さんの危険な状態を説明し、お父さんにも電話で事情を説明し、「心配な状態であるので、困った時は電話を下さい」と述べるなど、できうる限りの措置を講じました。
    その直後、の平成8年1月6日、幸子さんは自殺を図っていますが、私のアドバイスに従い、閉鎖病棟に入院していれば、このような事態は避けられたはずです。
    なお、原告側は、「幸子が失踪した際にも、次女からの支援の要請に適切に対応しなかった」と主張していますが、カルテにも記載のあるとおり、私は、病院内の危険箇所(以前転落事故があった6号棟の5階、転落の危険があると思われる2号棟の5階、窓がはずれるため転落の危険がある11階の食堂)を見回るようスタッフに指示するなどしています(H8.1.6、乙A2、21頁)。

 D原告らは、私の発言が幸子さんの行動化のきっかけとなり、幸子さんの自殺企図を招くという「パターン」があったと述べていますが、幸子さんの入院中の自殺企図は、平成7年4月(廊下で首つりを図った)、5月17日、12月19日(両親と諍いを起こして窓から飛び出そうとした)などもあり、幸子さんは、いろいろな理由で自殺企図を行っていました。

 E 幸子さんが私に拒絶されたと感じれば危険であり、受け入れは全て恋愛と受け取られるという二者択一の状況で、私が環境の調整に腐心し続けていたことは、カルテの詳細な記録を見ても明らかです。

   また、私は、このような困難な状況の中、慎重に配慮しながら、私の関与は医師としての関与であり、恋愛としての関与でないことを何度も幸子さんに伝えています。

(4) 平成8年1月27日のK病院のカルテには、お母さんが、「私の口グセ すぐに『死にたい』と言ってしまう。桜井医師にも言われて『MO(母)がかわらないと』と。」と述べられたこと、幸子さんが「(家族に)相談できるくらいならしなない」と述べたこと、お父さんが「Drにも言われた。たいへんなときやさしくしてやってほしいと。でも形だけ。12月にEl(退院)して家にいるときできるだけやさしくしていたが、心の交流はできなかった。・・・2〜3日前からは本当に自分たちが変わらなければと思ってる。前はPtだけが変わるしかないと思っていてぶつかった。」と述べたこと、医師が「Ptと桜井医師の間におこったキョリがつまってくること、どの治療者でもおこる。Ptの問だい、そういう対人カンケーを作るPtの問だい、小さい頃からあると思う。男性とのカンケー そういう時に危機起こる。くり返されている。治療者がとりわけ入れこんでやってるわけじゃなくPtがさせている。」「桜井医師1人で全部やるの大変だったかも。・・・親身にやって下さってそれが裏目に よくあること。」と評価していたことが記載されています(乙A12)。

8 第4期b(1996(平成8)年2月28日〜同年11月27日
(1) 幸子さんが長谷川病院を退院する前、私は、同院の原医師から、長谷川病院での通院治療と平行して(主治医はあくまでも原医師という前提で)、幸子さんと面接して欲しいという依頼を受けました。
 そのため、私は、幸子さん及びご両親と面接し、G医師に詳細な事実経過を説明した上で、従前同様に面接を継続しました。
  原医師は、幸子さんの回復のために必要と考えたからこそ私に面接の継続を依頼したのであり、私が面接を引き受けたことは、まったく正当なことです。私がK病院に送った情報提供書は、誤りでも虚偽でもありません(情報提供書には、正確には、「8月上旬には以前の彼を本人が病院に呼び出して面会して、にべもない返事を受け取って傷ついてしまうということがあり、この後から主治医に対して依存的、また恋愛感情類似の感情を抱くようになったと思われる。」と記載しました。)。私は、幸子さんに対して恋愛性の逆転移など有していませんでした。さらに、また、幸子さんの恋愛性転移が一方的なものであること、元ボーイフレンドとの別離により、すがりつける相手が私だけとなり、私に対して恋愛性転移が集中した、というのは、正しい分析です。

(2) しかし、長谷川病院での家族面接が、家族の不協力により頓挫するなど、K病院においても、家族の理解を得ることは困難だったと聞いています。

(3) この時期、私は週1回1時間程度の面接を行っていました。
  できるだけ延長しないようにしていましたが、私が幸子さんの恋愛感情を受け入れないことや、バイオリンの教師が急死したことなどにより生じた見捨てられ感から、危険な状態となり、1時間の枠を維持することが困難なこともありました。
  幸子さんに関する全体の管理(入院、家族対応、危機の管理)等は、長谷川病院の原医師が引き受けており、原医師は、幸子さんが自分の生命を守れない時には、入院を勧める等の危機介入と管理を行ったり、必要な場合には面接の中断を行ったりしていました。ただ、幸子さんが自分の命を守れない状態でも、ご家族が長谷川病院への入院を決定しないという場面がくり返されていたということを、私は原医師から聞いています。
 さらに、幸子さんが電話で連絡してくることもありましたが、面接を休むという連絡以外では、助けを求める電話でした。電話により、幸子さんは落ちつくことができたのであり、私の「不適切な対応」によって幸子さんの病状が悪化したという事実は、まったくありません。

(4) 幸子さんは平成8年8月から長谷川病院に再入院しましたが、入院中、幸子さんからの連絡はなく、私は幸子さんにはまったく関与しませんでした。幸子さんの家族からも連絡はありませんでした。そのため、私は、平成8年8月以降の幸子さんの病状等を、一切認識していませんでした。

(5) なお、前にも述べましたが、長谷川病院カルテには、幸子さんが幼少時よりうつ状態になりやすく、自殺企図があり、中学3年の時には、刃物を持ち出すということがあったこと、(乙A11)、幸子さんには、1つの対象に依存するとその対象にまかせてしまい、自我はからっぽのまま、というパターンがあること(乙A14)、「私にとって彼(元ボーイフレンド)は全てだったのだが、それを支え切れなかったよう」と述べていたこと(乙A11)、「(ご両親は)私よりも、妹がかわいかったみたい。妹が68点とって帰ってくると"がんばったわね"というが、私が95点とっても"長女なんだからがんばりなさい"と」言われたと述べていたこと(乙A10)、「今まで人に甘えたこと内ので、甘え方を知らない」と述べていたこと(乙A10)、「今は被告医師が一言"僕は君のことをずっと見てあげる"と言ってくれればおちつくのに」という言葉に対して、主治医に「それは無理」と言われ、「わかってる」と返答したこと(乙A10)、主治医が「異性との関係で"全面的依存"というstrategyを持ち出しそれによって相手が逃げた場合にはunstability、自傷行為が表面化するよう」評価していること(乙A10)などが記載されています。
 また、心理検査では、「自己主張的態度による反動形成が不安定になり、潜在する依存願望や自己不全感が意識化してくると、依固地な自己主張、現実を無視した自己顕示という方向をとる。自我の防衛力は脆弱で知覚機能や、現実感覚の歪みは著しい。STCでは、自殺願望、過去への執着、両親の死への不安、愛情希求、愛されたい願望、自己存在感の希薄さなどが短い文章で述べられている。ROTにみられる両親のイメージカードがないこととあわせて考えるならば、両親から愛されなかったことへの敵意、怒りの感情が根底に渦巻いているといえよう。」という検査結果が出ています。(以上乙A13)。また、長谷川病院の医師は、患者と医師の距離がつまってくるのはどの治療者でも起こることであるが、それは患者の問題で、治療者がとりわけ入れこんでやっているわけではなく、患者がさせているのだと述べています(乙A12)。
 これらは、私がこの陳述書でくり返し述べていることを、裏付ける評価・結果です。

9 第5期a−1(1996(平成8)年11月28日)
  平成8年11月28日、幸子さんから私にあてて電話がありましたが、幸子さんは、「声を聞きたかったんです。」と述べるとともに、普通に挨拶をして電話を切りました。自殺をほのめかすような言葉は一切なかったので、私は、普通に挨拶をして電話を切りました。幸子さんが、「好きだけれども、辛いから自殺しようと思っている」と述べたという事実はまったくありませんし、私が「声が聞ければよかったのだろう。」と突き放した冷淡な言い方をしたという事実もまったくありません。
  幸子さんは、その後、自殺企図を起こしました。しかし、私は、そもそも幸子さんが長谷川病院を退院したこと自体知らせれていませんでしたし、幸子さんは電話で自殺をほのめかすような発言を一切していなかったのですから、「死のメッセージ」であることを予測することなど、到底不可能でした。

10 第5期a−1(1996(平成8)年11月28日〜1997(平成9)年11月11日)
  平成8年11月28日以降、平成9年11月11日に至るまでの約1年間、私は、幸子さんとは一切接触をしていません。転移が強ければ、いつでも私に電話ができたはずですから、幸子さんの転移は、解消に向かっていたのではないかと思います。

11 第5期a−3(1997(平成9)年11月12日〜1999(平成11)年4月5日)
(1) 平成9年2月、幸子さんの主治医は中久喜医師となりました。中久喜医師は、米国で多年にわたり診療を行ってきた精神科医・精神療法家であり、その手腕については日本でも定評がありました。

(2) 同年10月、中久喜医師から、「モーニング・ワーク」(「喪の仕事」。愛着依存の対象を喪失した際に起こる心的過程を「喪」といい、徐々にその愛着依存の対象から離脱していく営みのことを、喪の仕事といいます。)として、3ヶ月程度、幸子さんの面接を担当して欲しい、という話が持ちかけられました。
  当初、私は、「以前の流れから見る限りよくないと思います。」と断ったのですが、 私と幸子さんは約1年の間接触がなく、幸子さんの状態から判断することができなかったこと、優秀な精神科医師としての中久喜医師の見立てや方針に従うべきだと判断したこと、中久喜医師が、「治療の責任はすべて私がとるし、医療管理もすべて私が行う。」と明言したことなどから、これを引き受けることとしました。
  なお、中久喜医師は、計画に家族を入れておらず、家族を除外した形で一連の面接を開始しました。
  お母さんは、"中久喜医師は桜井医師に、医者としてではなくて、「白衣を脱いで」、個人として外の喫茶店などで会うようにしませんか、とご提案された"とか(甲1号証・26頁)、"中久喜医師は、桜井医師が幸子に恋愛感情を表明した時点で、桜井医師に対して、医者としてではなく個人として幸子と病院の外で会ったりできないだろうか、とご提案された"(同号証30頁)と述べていますが、私が幸子さんに対する恋愛感情を表明した事実などありませんし、N医師が私に対してこのような提案をした事実もありません。
(3) 幸子さんと私の面接では、中久喜医師の治療方針の下、下記のとおり特殊な条件設定がなされませいた。
   A 私から、中久喜医師に、面接の詳細なレポートを送る。
   B 中久喜医師は、私の書いたレポートをすべて患者に閲覧させる(この特殊な条件設定がなされたため、私は、幸子さんを失望させるようなことは書けなくなってしまいました。)。

(4) 幸子さんの状況による現実的な結果として、水曜日に長めの面接を行い、土 曜日に短い面接(30分程度)を行い、月曜日、火曜日、金曜日の午後早い時間時電話で話す、という構造を設定する必要がありました(これ以外には、閉鎖病棟に入院する他なかったのですが、主治医の中久喜師は入院に消極的でした。)。

(5) 面接を始めて間もなく、幸子さんは、「私を愛してくれないなら死ぬ。」という発言をするようになりました。
  幸子さんは、「私を一番大事にしてくれないと死ぬ。」と懇願し、私に気に入られようと努力し、私が「恋愛感情はない。」等と述べたことにより傷ついたと感じると「もう来ません。」と宣言し、ここで私が引き留めないと「引き留めなかったからもう死にたい。」と述べるなどということが盛んに繰り返されました。
  特に困難だった点は、幸子さんが、「恋愛」に固執した点です。なんとか幸子さんに理解できる表現を用いて、まずは愛情が存在することを伝えなければ、幸子さんは死んでしまうと思われました。しかし、「人間的な愛情」「親の愛情」という表現では、幸子さんは受け入れることができなかったのです。幸子さんにとっては、「恋愛」で愛されているか、何ら愛されていないのか、の二者択一だったのです。
  また、言葉の順番としても、愛情はあるが恋愛感情はない、というのではだめで、恋愛感情はないが愛情はある、という順番でなければ幸子さんは納得しませんでした。
 特に、幸子さんに生命の危険が迫っている時には、私も親子が感じるような原初的な愛情をもっているという話をするなど、なんとか自殺の危機から救う必要がありました。
  私が「いかなる愛情も持っていない」と言い切ってしまえば、幸子さんは、すぐに自殺してしまったと思います。
  治療を行うためには、まず生きていることが大前提ですから、私は、まず、第一段階として、ぎりぎり「愛情」という言葉を用いて、幸子さんを自殺企図から引き戻そうと、必死に努力しました。私が、医師として「幸子さんに死なれたくない」という気持ちを有していたことも事実ですが、幸子さんには自殺を阻むだけの人間的なつながりが極めて乏しく、自殺回避のために私が払った努力は、通常レベルを超えていました。私がこのような努力をしたのは、私が幸子さんに「恋愛感情」を持っていたからなどではなく、幸子さんが自殺するのをなんとか回避しようと努力していたためでした。
 私は、精神科医として、専門的な見地から、当時の幸子さんの状況に応じて、それにふさわしい言葉で幸子さんを救おうとしていたのですから、私の説得が適切であったかどうかは、一般人がどう解釈するかではなく、あくまで専門的な立場から評価するべきだと思います。そして、専門的な見地からいえば、当時の状況において、私の説得が不適切であったとは到底思えません。
 そして、幸子さんを自殺企図から引き戻すことができ、治療を行う状態になった時に、幸子さんが徐々に現実を受け容れられるよう、少しずつ、幸子さんに恋愛感情を持っていないし、今後恋人同士になることはあり得ない、ということを、1年以上かけて伝えていきました。 
  この時期は、幸子さんが、多大な危険と困難を抱えながらも、「治療者としての愛情はあっても恋愛感情はない」という現実を少しずつ理解し受け入れていくようになった時期でもあるのです。
  私の努力の結果、第5期a−3では、幸子さんは、不安定な状態にもかかわらず、致死的な自殺企図を起こしていません(平成10年10月2日、お母さんから「見合いを強制」されたこと、「あなたがいるから妹が家を出るというし」といわれたことをきっかけとして、「結局、自分がいないと、家の中はうまくゆくと思って」薬を大量服薬し、入院したということはありました。甲A1の1・149頁)。

(6) ただ、前述したように、幸子さんとの面接には特殊な条件が設定しれていましたし、K病院時代のような、いざというときには閉鎖病棟に入院させる等の安全網が存在しませんでした。私が得られる第三者からの協力は、特に幸子さんに危険が見られる際に、ご両親に面接の後の保護をお願いできる程度でした。したがって、カルテの記載も、そのような前提で読まれなければなりません。幸子さんにとっては、親の愛情という表現も、治療者の人間的な愛情という言葉も伝わらず、恋愛で愛されているか、人間存在としてもなんら愛されていないのかの二者択一でした。カルテに記載された私の言葉は、幸子さんの命をつなぐための、救命のための努力の結果といえます。
  また、特には、面接時間が延びることがありましたが、これは、前述したような困難な状況があったからです。面接終了時には、幸子さんは自分の感情をコントロールできなかったりすることがよくあり、そのため、終了前に、休憩の意味でお茶を飲む時間をもうけてクールダウンし、最後におちついてまとめの時間をつくることが時々ありました。生きるか死ぬかという消耗しきった状況を考えれば、幸子さんを落ちついて帰すためにも、妥当な措置でした。
  なお、私の「プレゼント」は、幸子さんからの「プレゼント」のお返しでしたが、私がお返しをした理由は、お返しをしなければ、幸子さんが「見捨てられた」と感じてしまう状態にあったこと、治療者がそばにいない時に、治療者とのつながりを実感し、死を回避できる可能性が高いと思われたこと、などが挙げられます。
  さらに、私の「プレゼント」はすべて芸術に関連したものでしたが、幸子さんが、芸術については鋭敏な感覚を持っていたため、通常の人間社会では活用できない幸子さんの病理的な感覚も、芸術の世界では活用でき生きる糧になる、という可能性を少しでも教えようとしたことによります。

(7) これまで何度も述べてきたように、私はこの時期も、誘惑的な言葉を用いたりしたことはありません。また、私は幸子さんを恋愛関係へと誘惑したいなどと思ったことは一度もありません。患者さんに恋愛関係を望まれることはとても困ったことなのです。
  この時期は、これまで再々述べてきたおとり、非常に困難な治療を継続せざるを得ない時期であり、私は、自殺企図の危険が高い時には、一定の力で幸子さんを「生きたい」と思える方向に導き、治療に適した状態になると、私は喪の作業を行うという繰り返しでした。

(8) お母さんは、"桜井医師は、幸子に対するご自分の恋愛感情が、慶応病院入院時にもあったし、その気持ちは今もあると告白した"(甲1・21頁〜)、などと述べていますが、そのようなことは、一切ありません。  また、幸子さんのレポート(同号証32頁)に記載された、私が述べたという言葉も、幸子さんに都合がいいように解釈されてしまっています。

(9) なお、私が幸子さんの見合いに対して慎重になったのは、幸子さんが、実は 家族に依存しており、結婚は解決をもたらさず、かえって、結婚によって、本当は頼りたい家族からも見放されたと感じ、病状がさらに悪化する可能性がある、と考えたためです(ただ、幸子さんに対しては、上記のようにダイレクトに説明するわけにはいきませんでした。)。
  最終的な自殺既遂の時点でも、幸子さんは結婚式を挙げる直前だったことを想起すれば、私の判断が正しかったことがおわかりになると思います。

(10) 上記の通り、幸子さんの面接は困難を極めたため、私は何度も、中久喜医師と、面接を中断することや、幸子さんを入院させること、幸子さんの病状などについて話し合いました。
  しかし、中久喜医師は、「面接を今中断したりしたら、幸子さんは死ぬだろう。どこで被告医師先生と幸子さんとの関係を切るか、タイミングが難しい。」と述べ、中断を許してはくれませんでした。

(11) このような状況の中、中久喜医師は数週間の長期の冬休みをとって帰米してしまうことがあり、同医師に主治医として適切な措置を採ってもらえない時期がありました。
  そのため、私は、中久喜医師不在の間、主治医としての権限を持たないままに、幸子さんの生命を自殺から遠ざける努力をしなければならないという、非常な困難な事態に直面することになってしまいました。
 さらに、幸子さんは自殺念慮を持っても家族に頼ったり相談したりしませんでした。
  そのため、私は、幸子さんが危機的状況にある時には、幸子さんが納得するまで話し合うとともに、できるだけ間隔を開けずに対面または電話で話をしなければなりませんでした。
  なお、お母さんは、幸子さんの自殺未遂は必ず私との電話の後に起きていたとか、私と面接や電話をすると、ほぼ確実に幸子さんの具合が悪くなっていたなどと述べています(甲1・27頁)が、そのような事実はありません。そのような事実があるとしたら、なぜ、中久喜医師は、幸子さんと私との面接を中断させなかったのか、また、ご両親は、幸子さんを私のもとに通わせ続けていたのでしょうか。まったく疑問だと思います。

(12) 平成11年4月になって、幸子さんは、私の妻に対して「私は被告医師先生の恋人です」「必ず復讐します。奥さんも家族ですから連帯責任です。方法は教えません。」「無言電話をかけさせているのは私です。」などと述べたり、私に対して「これから奥様にファックスを流します。あなたの家庭を壊してやります。」などという「脅し」をするようになりました。
  そのため、私は、これ以上の面接の継続が帰って幸子さんの危険を招く可能性があること、家族と自分に身の危険が及ぶ可能性があることなどを考慮し、上記電話の翌日に予定されていた、中久喜医師、私、幸子さんの3者の二度目の面接を、中久喜医師に事情を話した上でキャンセルしました。それとともに、私は、平成11年4月3日の面接を最後に、4月5日、幸子さんに対して、治療中断の連絡をしました。

(13) なお、私は、カルテに、「本日の面接で、私としてはやはり治療のトラウマが問題だと認めざるを得ません」(平成9年11月12日)と記載していますが、これは、治療のミスを認めたものではありません。
  前述したように、境界性人格障害は、治療方法が確立しているわけではなく、治療をすれば必ず治るというようなものではありません。
  ただ、幸子さんは、当然、治療を受ければ治るという強い期待を持って、治療を続けていました。この期待がなければ治療を続けることはできないのです。それにもかかわらず、幸子さんの病状は、完治することはなく、幸子さんは入院中に、「(がんばっても)元ボーイフレンドに見捨てられた」「(がんばっても)家族から見捨てられた」という体験に重ねて、治療者から「(がんばっても)期待を裏切られた(病気が治らなかった)」という経験をせざるを得なかったのです。さらに、幸子さんは私に対して強い恋愛感情を抱くようになりましたが、当然のことながら私はそれを受け入れなかったため、幸子さんは、今度も自分の恋愛感情が受け入れられなかったと傷ついていました。これらのことのために、私は、「治療のトラウマ」という記載をしたのです。

12 第5期b(1999(平成11)年4月6日〜2000(平成12)年1月ころ)
(1) 平成11年4月、私は幸子さんとの面接を中断しましたが、その後、平成12年1月ころ、幸子さんから「婚約しました。」という電話がかかってくるまで、私は、幸子さんと一切接触していません(幸子さんからも、連絡は一切ありませんでした。)。
   当然、幸子さんがどのような症状であるか等も、まったく知りませんでした。
   なお、私は、上記電話の後に幸子さんに手紙と、本から切り抜いた絵を送りましたが、これは、幸子さんが電話で「婚約した」と話していたので、その婚約祝いとして送付したものです。
   私は、幸子さんが婚約するほどに回復したと思っていましたし、電話の印象でも、幸子さんは相当改善している印象を持ちました。
 このことは、約1年にわたる長期間の間、入院もしていなかった幸子さんが、私とまったく接触を持たなかった事実からもわかることだと思います。

(2) 後に私が知ったところによれば、幸子さんは、平成11年後半、Mさんと婚約し、同居を始めたそうです。お母さんの陳述書を読むと、幸子さんは、一人でヨーロッパを旅行するほどに回復しており(しかも、旅行の様子を書いたレポートを読むと、初めての外国旅行、しかも一人旅とは思えないほどしっかりした態度で旅行している様子がわかります。甲1・49頁)、そこで知り合ったMさんと交際をはじめ、すぐに同居を始めたと書かれています。さらに、ロンドン留学もする予定だったとも書かれています。
   お母さんによれば、"全てがよい方向に向かっているように思える"(甲1・59頁)という状態だったようです。
   また、中久喜医師も、陳述書の中で、「被告医師によって、関係終結の宣言を彼女は受け止めることができました」「病状の改善は、被告医師との神経症的な関係から自由になったことと関連していると思われます」と述べています。
   幸子さんは、この頃、私への転移も解消し、相当回復していたようです。

13 第6期−1(2000(平成12)年1月ころ〜同年3月30日)

(1)私と幸子さんは、平成12年1月から同年3月30日までは、ほとんど接触していません。
 なお、中久喜医師のカルテを見ると、中久喜医師は、幸子さんと、週1度程度のペースで面接をしているようです。そのため、中久喜医師は、幸子さんの症状等について、詳細に認識していたはずです。

(2)中久喜医師のカルテを見ると、この頃、幸子さんは、「結局、彼(Mさん)とうまくやってゆけるのかという心配はstrangeなので帰るところもない、行くところもない、自分の家はだめ、…<見捨てられ不安>」(平成12年2月、日付不明。甲A2・8枚目)「Mさんは"1月は大変だった…離婚したいという"大変なのはこっちだったのだし、…離婚した方がいいだろうといったらこっちの云い分を認めてくれた」(平成12年2月25日、甲A2・9枚目)と述べるなどしています。

(3)前記のとおり、平成12年1月に私が幸子さんの電話連絡を受けた後、1月24日、幸子さんの婚約者であるMさんから私に対し、幸子さんに手紙を出してやってくれないか、という連絡がありました。私は、一度は断りましたが、再度Mさんから懇願され、1月25日、幸子さんに手紙を出しました。


(4)その後、平成12年3月16日、Mさんから、幸子さんと話して欲しいという連絡が入りましたが、私は、これまでの経緯から、幸子さんとの接触はよい結果をもたらさない可能性があることを説明し、お断りしました。さらに、同じころ、お母さんからも、同様の趣旨で電話がありました。私は、Mさんに対して説明したのと同じ説明を行い、さらに、幸子さんと私がよい関係を築けない可能性があると説明として、幸子さんが私の妻を「脅した」ことを話し、再度断りましたが、お母さんは、「命がかかっているんですから赦してやって下さい。」などとおっしゃるのみでした。しかし、私は、幸子さんと会うことをお断りしました。
 お母さんは、陳述書で、"2000年3月から5月まで、幸子と再度交流を始められていますが、どうしてお断りにならなかったのか"と述べています(甲1・62頁)。
 しかし、再度話を始めたのはN医師の判断によるもので、私の判断ではありません。また、お母さんは、陳述書において、当時においても、私が幸子さんの診察をするのは問題であると考えていたという趣旨のことを何度も書かれていますが、そうであるならばなぜ、お母さんは、幸子さんと話すことを強く希望されたのでしょうか。

(5)平成12年3月30日、中久喜医師より、「幸子さんから、会って欲しいという伝言を受けている。」という連絡がありましたが、私はお断りしました。
 すると、中久喜医師は、「幸子さんは相当に改善している。桜井医師との面接が、幸子さんに悪い影響を与えることはないだろう。」等と述べ、幸子さんと会うことを重ねて強く要望しました。
 私は、当時、約1年の長期にわたり幸子さんに会っておらず、病状を知り得なかったこと、中久喜医師が非常に経験のある精神科医であるためその判断は正しいだろうと考えたこと、幸子さんと会って、破壊的に終わっていた人間関係を改善できれば、幸子さんの病状の改善に役立つだろうと考えたことなどから、幸子さんと話をすることに同意しました。
 私は、主治医である中久喜医師の要請があったため、やむを得ずサポートすることを引き受けましたが、以後、幸子さんが亡くなるに至るまで、診察料は一切受けとっていないし、精神療法等の治療行為も行っていません。

14 第6期−2(2000(平成12年)年3月31日〜同年5月2日)

(1)以上の経緯で、私と幸子さんは、平成12年3月31日、電話で話をしました。
 その際、幸子さんは、以前のように「振り向いてくれなければ死ぬ。」という趣旨の発言もせず、言葉尻をとらえて私を追求したりもせず、「死にたい。」とも言わず、ただ淡々と昔を懐かしんで世間話をしている様子でした。
 私は、幸子さんが以前とはまったく変わっており、私に対する転移も解消の方向に向かっており、症状も改善しているという印象を受けました。
 私は、このことを、同日、中久喜医師にファックスで知らせています。

(2)幸子さんは、4月15日、Mさんと一緒に中久喜医師の診察を受ける目的で上京し、B中央病院における私の診察の合間に面会しました。その時間はわずか15分程度でした。

 この時、幸子さんは笑顔で世間話をしたり、平成12年5月に結婚式を挙げることなどを話していました。「死にたい。」という趣旨の発言はありませんでした。平成11年4月以降、私が幸子さんと面会したのは、この時だけです。
 私は、約1年間接触がなかったこと、面会したのが15分程度であったことなどから、幸子さんの詳しい病状を把握することはできませんでしたが、話をした限りでは、N医師の治療の下、病状は大きく改善しており、今後自殺企図を起こす可能性は少ないだろうし、病状はますます改善していくのだろうと考えました。

(3)私は幸子さんと、週1度程度、電話で世間話をするなどしていました(定期的な約束ではなく、1回1回の約束でした)が、幸子さんは過去を振り返る様子で話をしており、幸子さんの私に対する恋愛転移は、概ね解消の方向に向かっていました。
 4月19日は、幸子さんのお誕生日でしたが、幸子さんからは、何ら連絡はありませんでした。お母さんの陳述書によれば、Mさんと二人で、誕生日をお祝いされたそうですし、4月下旬には、ウェディングドレスの最後の着付けや、結婚式場の教会への挨拶など、楽しくあわただしい日々を送っていたそうです(甲B1・60頁)。
 4月26日の時点では、幸子さんは、「わたしは黄色い花束(恋愛)でなければいやだと言って、白い花束(恋愛ではない愛情)を受けとらなかった。それが生きるのに必要なものだとも知らないで。」と述べる(乙A7、211頁)など、私に対する恋愛転移も解消し、相当改善しているようでした。また、精神的にも安定し、かなり成長しているようでした。
 さらに、平成12年4月26日、幸子さんは、武田病院において、「桜井先生が自分の生死をにぎっているのではないことがわかった。」と述べていますし(乙A15・27頁)、平成12年5月2日には、武田病院の他の医師が、「不安定、結婚する不安」とカルテに記載しています(乙A15・27頁)。
 原告側は言うような、「ことさら専門家でなくても、ここで幸子の桜井医師への病的な依存(嗜癖)が桜井医師との接触により強化され、95年<平成7年>以来の精神状況が再現した」という状況にはなかったのです。仮に、原告が言うとおりであったとしたら、なぜ、中久喜医師が私との接触を中断させなかったのか、説明できません。
 ただ、私との間の恋愛性転移は解消しても、平成7年3月に入院した時以来一貫して持続している幸子さんの死にたい理由(本陳述書5頁、3(7)に記載したとおりです。)が根本的に解消されていないために、幸子さんの問題は解消されなかったのです。
 幸子さんは、4月27日までは、情緒的に安定しており、依存的でもなければ、幸子さんからの恋愛の押しつけという行為もありませんでした。もちろん、私が、「魅惑的な言動によって幸子さんをB病院に来るように促し」たという事実もありません。

(4)また、前述のように、お母さんの陳述書には、幸子さんは、Mさんと平成12年5月に結婚式を挙げる予定であり、3月終わり頃からは、絶縁状態になていたMさんのお父さんと関係を回復したり、4月上旬には一人で大阪市内に外出したり、お花見をしたり、ご両親と和解したり、結婚式の準備などに追われる毎日で、N医師も喜ぶほどの回復ぶりであったと書かれてあります。
 平成12年4月下旬まで、幸子さんが、普通の社会生活を送るのに何ら支障がないほどに回復していたことは、明らかだと思います。

(5)4月27日、幸子さんは、突然、「これはセレモニーです。さようなら。」などと電話で述べました。理由はまったくわかりません。私は、死のうとしているのであれば思いとどまるようにと説得し、幸子さんはとりあえず説得を受け入れてました。
 原告側は、4月27日、幸子さんが私に自殺念慮を明らかにしていることをもって、「被告医師とのコンタクトが幸子の容態悪化と結びついていた」証拠としていますが、なぜこのようなことが言えるのか、まったく根拠不明だと思います。
 また、原告側は、「今死なれると気分が悪いから1週間後にしてくれ」と私が言ったと述べていますが、そのような事実は一切ありません。

(6)5月1日、幸子さんは自殺未遂を起こしましたが、幸子さんは、その理由として、私については、「約束破り」でメールがすぐに来なかったことや、友人に電話をしたら妻がいるから遠慮してくれと言われたことや、Mさんが3時間も床屋で家を空けたことだ、などを挙げています。
 また、幸子さんは、中久喜医師に宛てたファックスの中で、「今回の自殺未遂ははっきり言って全く彼(桜井医師)に関係がないのですが」(乙A8)と述べています。
 そのことから考えても、この自殺企図が、私への恋愛転移、依存を原因としていたとは到底考えられません。

(7)私は、5月1日、幸子さんが自殺企図を起こしたという連絡を受け、翌日、主治医として幸子さんの危機に適切に対処してもらうため、中久喜医師へファックスを送りました。ファックスの内容は、@5月1日に幸子さんが自殺企図を起こしたこと、A私は幸子さんと距離をとった方がよいと考えていること、B以上についてN医師と話し合いたい、ということでした。
 ところが、中久喜医師は、私に断りなく、上記ファックスをそのまま幸子さんに転送してしまいました(乙A9)。自殺企図を起こした幸子さんに、このようなファックスを送れば、いい結果にならないことは目に見えているのに、私と話し合うこともなく、なぜ、ファックスを転送してしまったのか、私には理解できません。その上、N医師は、ファックスを転送しておきながら、幸子さんを入院させたり、家族に保護を依頼するなどの安全確保の処置を取らなかったのです。
 この時、中久喜医師が、適切な処置を取っていれば、幸子さんの自殺は避けられた可能性が高いと思います。
 その後、私は、幸子さんと電話でお話をしました。割合にしっかりした声でしたが、かなり激高していました。幸子さんは、自殺企図の原因は、私については「約束破り」でメールがすぐに来なかったことだが、「他の人にも裏切られたからで先生のせいばかりではな」く、「Qさんにtelしたら妻がいるから遠慮してくれと言われた」こと、「だんな(M氏)が3時間も床屋で家を空けた」ことなどを挙げていました(乙A7・212頁)。
 さらに、幸子さんは、私に対し、「私を助けて欲しい。毎週水曜日に2時間、私と友人として話して欲しい。1日1日、私が生きていけるようにして欲しい。」と要求しました。私は、主治医は他にあり、責任ある立場であるわけでもないのに、友人としてこのような約束をすることはできなかったため、「治療としてでなければ、そのようなことはできません。」と答えました(乙A7・212頁)。
 私は、中久喜医師に電話するように話し、なんとか中久喜医師と話し合いをさせましたが、その後、幸子さんは私に電話をかけてきて、「中久喜医師に短気を起こすなと言われた。」と述べ、同じ要求を行いました。しかし、結局時間切れとなり、5月7日に、再びこの件について話し合いをする約束をしたのです(乙A7・212頁)。幸子さんも、5月7日に話しましょう、と述べて電話を切られました。つまり、この時点では幸子さんは、少なくとも5月7日までは死ぬつもりなどなかったのです。
 その後、幸子さんは、何があったのか詳細はわかりませんが、再び自殺を試み、翌日3日に亡くなられました。
 幸子さんの自殺が、私との電話を原因としてなされたものとは思えません。なぜなら、上記の電話は、幸子さんとの関わりを完全に断絶させてしまうという話ではなかったのです。治療関係が完全に断絶された平成11年4月でさえも自殺しなかった幸子さんが、5月7日には再度話し合いを行うことを約束していたにもかかわらず、上記電話を原因として自殺企図を起こしたとは到底考えられません。
 このように、私は、中久喜医師へ警告したり、幸子さんを説得するなど、当時私の立場でできる限りの自殺防止措置を講じましたが、主治医である中久喜医師は、自殺防止の措置など、主治医として適切な措置を取りませんでした。

15 以上からすれば、次のような事実は明らかであると思います。
 @ 私は、全期間を通じて適切に治療や面接を行っており、全力を尽くして幸子さんの命を救ってきたこと。
   私が全力を尽くして治療や面接を行っていなければ、幸子さんはもっと早い段階で自殺を遂げていた可能性が高いと思います。
 A 第6期−2(最後の期)に幸子さんと会ったのは、たった1回のみで、その前は約1年間のブランクがあり、しかも、この間、幸子さんは、一人で海外旅行に出かけたり、婚約をするなど、かなり回復していたこと。
   私への転移も解消していたと、中久喜医師も明言しています。
   さらに、第6期−2(最後の期)には、幸子さんは、私と話す時には情緒的に落ち着いていました。私との関係についても「わたしは黄色い花束(恋愛)でなければいやだと言って、白い花束(恋愛ではない愛情)を受けとらなかった。それが生きるのに必要なものだとも知らないで。」と述べるなど、客観的な見方ができており、十分に乗り越えていました。ところが平成12年4月27日に、幸子さんから突然、「これはセレモニーです。さようなら。」という電話があり、その後、幸子さんは自殺企図を行っています。幸子さんは、自殺企図を行った理由として、私の「約束破り」でメールがすぐに来なかったことや、友人に電話をしたら妻がいるから遠慮してくれと言われたことや、Mさんが3時間も床屋で家を空けたことなどを挙げていますが、当時絶大な信頼を寄せていた中久喜医師に宛てたファックスの中では、「今回の自殺未遂にははっきり言って全く彼(桜井先生)に関係がないのですが」(乙A8)と述べています(この時の幸子さんの自殺未遂の動機を中久喜医師らが本人に尋ねていないことは不思議なことです。)。
   したがって、上記自殺未遂が私とは関係なく行われたものであることは明らかです。
 B 仮に万が一、幸子さんの自殺の原因として、一部私への恋愛感情があったとしても、幸子さんと面接または接触することは、すべて中久喜医師の判断の下で行われており、かつ、中久喜医師は、面接等を中断するばかりか、かえってこれを継続するよう指示していたこと。さらに、私は、全期間とおして、幸子さんの恋愛性転移に対して、適切な対応を行っていたのだから、私には過失がないことは明らかであること。
 C さらに、幸子さんの主治医は中久喜医師であるところ、切迫した自殺の危険性があるのであれば、主治医として、入院させる義務があったにもかかわらず、中久喜医師は、このような義務を怠ったこと(入院させていれば、自殺を回避できた可能性は高いと思います。)。
したがって、幸子さんの自殺について、私に何ら責任などないことは、明らかだと思います。
以上

履歴書

櫻井昭彦
男性
  本籍地 東京都
生年月日 昭和34年8月29日生
勤務先 
聖母病院

学歴
昭和53年3月 学芸大学付属高等学校卒
昭和60年3月 慶応義塾大学医学部卒
昭和60年6月 医師免許証登録 第294771号
平成2年11月 精神保健指定医 第8409号
昭和61年4月 以下は精神療法の研修医(一部)
―平成6年7月 慶応義塾大学医学部精神神経科学教室心理学研究室においてスーパーヴィジョンを受ける(8年間、週1回、精神分析的精神療法および認知療法。)
平成2年4月 教育分析を受ける
―平成8年7月 (6年間、週1回)

職歴
昭和60年4月 慶応義塾大学医学部精神神経科学教室入局
昭和60年5月 慶応義塾大学医学部精神神経科研修医
昭和61年4月 慶応義塾大学医学部精神神経科での研修を修了
昭和61年5月 東京武蔵野病院、精神科 医員
平成2年5月 厚生協会大泉病院(精神化単科病院)医員
平成6年8月  慶応義塾大学医学部精神神経科 助手
平成8年4月 東京都済世会中央病院精神神経科 医員
平成14年5月 聖母病院 精神神経科 医長
現在に至る
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