被告準備書面(4)

平成18年5月24日

東京地方裁判所 民事第35部 合A2係 御中
 
被告訴訟代理人
弁護士 F
弁護士 I

1、境界性人格障害の治療が、極めて困難であること
(1)境界性人格障害の治療は、一般に非常に困難を伴う。その理由は、潜在的な問題の本質が、人格形成期にまでも戻らざるを得ないこと、人格構造事態を変化させることは大変困難なことなどによる。対人関係に不安定さにより、治療者との安定した治療関係が結べない事例も多い。標準化された有効な治療技法が未だ確立されていないことも、境界性人格障害の治療を困難にさせている原因の一つである。
(2)対人関係については、対象の些細な仕草や言動に対して非常に敏感に対応し、自傷行為などの衝動行為を行う。これら衝動行為、自殺企図や自殺の脅しなどが、対象を自分の意のままに操ろうとする対人操作等の手段であることもある。幸子も、まさにこのような境界性人格障害の特徴にあてはまる。
(3)境界性人格障害の患者は、その70%以上が1回以上の自殺企図を行い、3回以上の自殺を企図する者が57%、患者の8〜10%が自殺で死亡するという報告があるとおり、境界性人格障害のもつ精神病理は、自我と密に結びついている。幸子の自殺企図も、境界性人格障害の精神病理に基づくものである。(乙B8)。
(4)境界性人格障害の患者の治療は困難であるが、治療者がもっとも注意しなければならないことは、見捨てられる恐怖を引き起こし、混乱させないようにすることである。治療担当者が自分の知らないところで次々と変わることは、対象についての一貫性・恒常性の感覚をもてない病理を有する患者にとっては、大変致命的な外傷になるのである(乙B3・91頁)。

2 故幸子さん(以下「幸子」という。)の自殺企図について
(1)幸子は、A大学病院入院前から希死念慮を抱いたり、自殺企図を行うようになり、平成6(1994)年8月から死にたいように思うようになり、12月には薬を貯め込んで妹に見つかったり平成7(1995)年2月28日にはスカーフで首を吊りかけたなどのエピソードがある(しかし、幸子は、原告らにはこれらの事実を話さなかったようである。)。
 A大学病院入院後も、被告が本格的に精神療法を開始する以前の平成7年5月17日に、幸子は、突如として自殺未遂を行っており、幸子の病状は、当初から非常に治療困難な状態であった。
 その後も、HK意見書(被告側協力医)6頁、7頁記載のとおり数多くの自殺企図を行っている(その多くは、被告医師の治療的関与のない期間に行われている)。

(2)特に、幸子は、自ら「オートパイロット」「バージョン1,バージョン2」と表現しているとおり、人格の解離傾向(突然別人のようになる)を伴う重篤で危険な人格障害であった。中でも治療を困難にしたのは、別の意識状態(誰からも愛されない無力で弱い自分)になった時に、いきなり致死的な自殺企図を引き起こすという危険な特徴であった。
 そのため、被告も、N医師も、一貫して、幸子が感情を抑圧せずに言葉で表現できるような治療を行っていた。

3、 被告が、幸子の「恋愛性転移」を誘発したり、増悪させたという事実はないこと、被告が幸子の転移を解消する努力をしていたこと
(1)A大学病院時代について

@A大学病院においては、当初からチーム医療がとられており、すべての患者について、2名の主治医と担当看護婦がついていた。また、担当者やスタッフの間で、頻繁にミーティングが持たれていた。入院直後は、メインの主治医であるA医師がほぼ毎日、指導医としての被告が週2日程度の頻度で面接を担当していた。

A 平成7(1995)年5月17日の千鳥が淵の自殺企図以降は、被告がメインの主治医となった。
 この頃、被告が幸子の「恋人役」をするというような発言をした事実はないし、そのような方針がとられた事実もない。
 これは、カルテに、母同伴のもとで、「医者としての付き合いしかできぬと言ったのに対してpt(患者)がふられたと反応したことにつき、(本人も交えて)報告」したこと(乙A1・187頁)、被告が「父(原告)に幸子さんはdateのようなつもりで面接にきていると批判した」(甲A1の1・90頁)等の記載があることから言っても明らかである。

B 被告は、厳密には自由連想法ではないが、自由連想法の技法を用いた比較的受け身な面接を行っていた(精神分析的精神療法)。
 面接回数は、週4回1時間の面接であったが、英国流の精神分析では、境界例について週4回から6回の自由連想法による精神分析療法を行っているし、我が国においても上記のような面接は広く行われている(乙B6・7頁、被告本人7頁)。
 このような面接が、「禁忌」であるとか、「逆効果である」とかいう知見はどこにもない。面接時間を延長したことは2回あった(2時間が1回、3時間が1回)が、幸子の状態が不安定だったためである。治療構造を最後まで保持できる例は極端に少ないと言われていること、治療構造を強固に守り続けることによって患者が傷つき(乙B3・100頁)、治療に悪影響を与えることもあり得ること、自殺の危機を救う必要があることなどを考えれば、この程度の延長は、何ら非難されるべきことではない。
 また、被告は、個々の患者のレベルにもよるが、上記程度の面接を行っていた患者は他にもおり(被告調書5頁)、特に幸子のみを特別扱いしていたわけではない。

C 被告らの懸命な治療により、幸子は、被告を含めた何人かのスタッフにある程度の信頼感を持つようになり、自分の気持ちを話すことができるようになっていった。それに伴い、行動も安定し、集団療法等を楽しむようになった。
 被告がメインの主治医になって以降、A大学病院を退院するまで、幸子は、大きな自殺企図を起こしていない。

D 幸子は、8月中旬に昔のボーイフレンドと面会して拒絶され、その後2週間程度は呆然とした状態が続いていたが、同じ時期に、両親との関係が悪化したことで行き場をなくし、ある程度心を開いていた被告に対して、強いすがりつきを示すようになった(被告調書8頁他)。そして、幸子の転移は、「振り向いてくれなければ死ぬ。」「恋愛以外の人間関係は受け付けない、恋愛が成就しなければ死ぬ。」という、極めて危険な性質を持っていることが明らかとなった。

E被告は、幸子の信頼を断ちきらないよう(信頼を断ちきってしまえば、5月17日の自殺企図の時と同じように、誰も信頼できる人がいなくなり、いきなりの自殺企図に走る危険性があった)、細心の注意を払いながら幸子の転移を扱わざるを得ない状況となった。
 被告が、細心の注意を払いながら幸子の「恋愛感情」に対処し、その中で、「医師として、治療をすることしかできない」と伝え続けていたことは、カルテにも多く記載されている。
 例えば、「『(Drを)独占したい、一番大事にしてほしい』と言う。<それはムリなところがある。大事にするつもりはあるが独占、一番は常にはムリかもしれない。>と言うと、『死にたい』状態に入りそのままである。ここでDr怒ってしまう。<ムリ(一番、独占)なことを言って、それで死にたいといわれても困る>」(乙A1・171頁)、「Drとしては、大枠として治療というものがあり、そのなかでPtとおつき合いしている、と考えていることを伝える。(個人としておつき合いするのと、治療としておつき合いするのはやはりおつき合いの仕方が、ずい分違うのである。)」(乙A1・185頁)、「私は治療を提供する。これは大したことだと思うが、あなたの求めているものと違うかも」(乙A1・191頁)、「私被告の患者とおつき合いする目的は治療のためである」(乙A1・195頁)などである。
 幸子も、被告が「恋愛感情」を受け入れてはくれないことを、十分に認識した。このことは、「Drも結局他の人たちと同じだと思った。私が本気になると引いてしまう。」(乙A3の4・215頁)「<自分の気持ちをよく見てみると、やはり治療のためにおつき合いしているのが確か>というのは、本人に深刻に伝わったようである」(被告が幸子に対して恋愛感情を持っておらず、単に「治療」しているに過ぎないという事実が深刻に伝わったという趣旨)(乙A1・192頁)等、診療録に詳細に記録してあるとおりである。

F原告は、被告が治療者をおりるべきであったという趣旨の主張をしているが、誤りである。幸子は、被告の治療を受けるまでは、"無力な自分""弱い自分"をさらけ出せずにいたが、被告によって、やっとこのような自分もさらけ出すことができるようになっていた。被告が治療を回避してしまえば、「無力な自分、弱い自分をさらけ出すとやはり人は逃げてしまい、本当に自分は理解されない。」となって、幸子が自殺に走っていた可能性は高い。従って、被告が治療を回避するという選択は、不適切であった。現に、平成7年11月には、幸子が被告一人に執着してしまうため、面接回数を週2回に減らしたが、被告が治療者を下りるべきという意見はなかった。

G幸子は、平成7(1995)年12月にA大学病院を退院したが、面接は、週2回行われていた。
 平成8(1996)年1月に自殺未遂を起こして長谷川病院に入院したが、同年1月11日のカルテには、「異性との関係で"全面的依存"というstrategyを持ち出し、それによって相手が逃げた場合にはunstability自傷行為が表面化するよう」という評価(乙A10)が、同年1月28日のカルテには、「ptと被告Drの間におこったキョリがつまってくること、どの治療者でもおこる。ptの問だい、そういう対人カンケーを作るptの問だい、小さい頃からあると思う。男性とのカンケー そういう時に聞きおこる。くり返されている。治療者がとりわけ入れ込んでやっているわけじゃなくてptがさせている。」という評価が記載されている(乙A12)。

(2)B中央病院について
@被告は、平成8年4月にB中央病院に移ったが、同病院における面接回数は、週1回(1時間程度)であった。

AB中央病院時代にも、被告は、幸子に対し、幸子の恋愛性転移を解消し、自殺を回避するための懸命な努力を行っていた。これは、カルテを見れば一目瞭然である。

B幸子は、平成8(1996)年8月7日、K病院に入院したが、その後、1年以上にわたり、被告は幸子とほとんど接触していない(平成8(1996)年11月28日、幸子から被告に対して、「声が聞きたかったんです」という電話がかかってきたのみである。)また、被告は、幸子の病状等も一切知らされていない。

(3)N医師のもとにおける「モーニング・ワーク」
@平成9(1997)年2月、N医師が幸子の主治医となった。10月、N医師から被告に対し、「モーニング・ワーク」として、3ヶ月程度、幸子の面接を担当してほしいという話があった。被告は、当初は断ったが、幸子と約1年間接触がなかったこと、優秀な精神科医であるN医師の見立てや方針に従うべきだと判断したことなどから、これを引き受けることとした。
 当然、この当時にも、被告には、「恋愛性逆転移」などなかった。

A あとからわかったことであるが、モーニング・ワークが始まる前、幸子は、「彼(被告医師)は拒絶するであろう、(そうしたら)自殺のきっかけになる」(平成9(1997)年3月8日、甲A1の1・19頁)などと述べ、モーニング・ワークの直前には、自殺念慮が強く危ない状態となって八王子の精神科病院に入院している(乙A15・9頁)。しかし、N医師から被告に対して、幸子のこのような状態についての説明は一切なされなかった。

BN医師のもとで行われたモーニング・ワークには、被告からN医師に対して詳細なレポートを送る、レポートはすべて幸子に閲覧させる、という条件が設定された。
 これにより、被告は、N医師に送るレポートは、幸子が閲覧するという前提で記載をしなければならなかった(幸子は、面接が始まってすぐに、被告とN医師が演技をして自分をだましているのではないか、と述べてパニックになったことがあり、カルテへの記載は慎重に行う必要があった。乙A7・71頁、甲A1の1、75頁他)。

C被告と幸子の面接は、面接開始直後、「無期限」に設定し直された。N医師は、陳述書の中で、第2回セッションの1997年11月17日に、被告が幸子に恋愛感情があると告白したため、面接を3ヶ月で強制的に終結することは不可能になった、と述べていたが、証人尋問において、上記のような事実はなく、面接を無期限にするということは、第2回セッション前にすでに決められていたし、被告と幸子の面接が「無期限」となった理由についても、「恋愛感情」云々ではなく、「終結ということにこだわるよりは、一応押入の中にしまっておいたDr被告との体験を始末することによって感情をwork・・・する」、今まではfreezeされていた感情が解けて、将来につなげていくことができる、何が発展していくかわからないので、期限を限定しないように決めた、と認めている(甲A1の1・66頁、N医師調書21頁)。

D モーニング・ワークを開始した当初、幸子は非常に状態が悪く、すぐに精神状態が悪化して即時の自殺企図をおこす可能性が高いという状態であった(被告調書11頁〜)。
 面接を開始して間もなく、幸子は、「私を愛してくれないなら死ぬ」という発言をするようになった。特に困難だった点は、幸子が「恋愛」に固執した点である。時には、「愛情」という言葉や、「私はあなたに死んでほしくない、気にかけている、元気になって欲しい」という言葉で納得することもあったが、「恋愛感情」という言葉を使わなければ納得しないことなどもたびたびあった(被告調書14頁)。
 例えば、平成9(1997)年11月12日、幸子は、母が被告の結婚を打ち明けたために極めて不安定となった。同日の深夜にも自殺の危機が生じたため、Q氏が3時間かけて自殺を止めるための説得をした(甲B9・13頁。)。その後の11月19日、幸子は最初に被告に結婚祝いを渡し、面接は非常に乾燥した感じで進行したが、最後の方には、幸子は、「先生はどうせ私のことなんか考えていないんだろう」「もう今回で終わりでいいですね」「先生のためにもっと聞きたいことはありますか」と述べ、言外に「もう死にますからいいですね」と匂わせていた。そして、「何で私は被告医師に恋愛感情を持ってしまったのか?普通私は相手が好きでないとこちらからすきになったりしないのに」などと述べ、被告から「恋愛感情」という言葉を引き出そうとし続けるやりとりが続いた。このときは、幸子は非常に不安定で、「恋愛感情」を否定すれば即時に自殺企図に至る危険性が高かったため、被告は、幸子を危機から救うため、やむなく、「恋愛感情」という言葉を使用した(乙A7・48、49頁、被告調書12頁〜)。

E治療を行うためには、まず患者が生きていることが大前提である。被告は、入院という安全網もなく、家族の協力が得られにくいなどの困難な状況の中、幸子に自殺の危険が切迫している時には、まず、第一段階として、ぎりぎり「愛情」という言葉を用いて、幸子を自殺企図から引き戻そうと努力した。被告の努力がなければ、幸子は即時、自殺企図を敢行していたと思われる。
 被告が、無責任に治療を中断したり、幸子を突き放したりせず、救命の努力を最大限続けるという方を選んだのは、全く正当なことである。

Fしかし、被告は、幸子を自殺企図から引き戻すことができ、治療を行える状態になった時に、幸子が徐々に現実を受け入れられるよう、少しずつ、恋愛感情を持っていないし、今後恋人同士になることはあり得ない、ということを、一年以上かけて伝えており、幸子もこれを少しずつ受け入れていくようになった。
 例えば、「実際に交際してほしい、という申し出が幸子さんからありました。被告はこれを再度お断りしました。(延々と押し問答がありました)」(乙A7・89頁)、「土曜の電話で被告は幸子さんを恋人として選んでいないとはっきり言った。」(乙A7・138頁)、「被告が幸子さんに言ったこと<私があなたに対して持っている愛情は、生命の根元に関わっている、(これ以上大きなものはない)ものである。私が"恋愛"を選択しなかったのは確かであるが、この愛情をみてほしいと思う>」(乙A7・190頁)などとカルテに記載されているとおりである。

G N医師は、陳述書においては、この間の面接は治療的ではなかったし、適切ではなかったという趣旨のことを述べているが、証人尋問において、事実は全く逆であることが明らかとなった。N医師は、被告の面接を「不適切」と考えるどころか、面接は幸子にとって有益であるし、中断すべきではないと考えており、幸子にも面接を続けるようにとアドバイスしていたのである(N医師調書25頁)。
 N医師のカルテをみても、被告と幸子の面接は適切ではない、ということは、一切書かれておらず、「関係は切らないほうがいいと思う」(甲A1の1・116頁)、「彼がどうであれ、この関係を続けてあなたの心を復活させよう」(同126頁)、「何でもいえるというのは幸子さんにとって健康な関係」(同146頁)、「(幸子がこの一年を無駄にしたと述べたことに対して)無駄ではなかったと思う、それなりに意味があった。幸子は変わった、幸子の自我の成長に貢献したと思う。こういうお互いに建設的な関係はできると思う」(同176頁)、「Th(N医師)としては、彼女は彼と人間的つながりがあるとすれば彼女に生命力を与えることのできる人であって、続けて恋人関係を求めるのでは彼は応じられないと思う」(同185頁)、「現在あなたは人間の心をもつようになってきている、これをのりこえて初めてコンプリートな人間になる」(同213頁)などという記載が多くある。そして、面接が中断した時にも、N医師は、このまま続けていけば建設的な方向に向かっていったのに、と考えていたのである(N医師調書31頁)。

H 実際、この面接の間、幸子には、一定の前進がみられた。
 N医師は、幸子に「感情を表現できるように」と繰り返しアドバイスしていたが、被告の面接を通して、感情を出すことができるようになっていた(N医師調書25頁他)。
 幸子は、面接開始からしばらく経った平成10(1998)年1月頃から、接骨院で、週4回、看護婦のアルバイトを始めている。
 また、原告は、被告が関与していた時期に自殺企図が起こっていたという趣旨の主張をしているが、この時期、感情の波たちはあっても、大きな自殺企図はほとんど起こしていない(平成10年10月に、家族からお見合いを押しつけられたということで大量服薬をしたのみである。)。被告が面接をしていない時期には繰り返し自殺企図がなされていたことを考えれば、被告の面接が、幸子の自殺企図を防いでいたことは一目瞭然である。
 また、医師になりたいとか、イギリスへ留学してバイオリンを習いたい等の希望を持てるようになっている(被告調書18頁他)。
 さらに、N医師に対して、「私ははじめてかわりのきかない他者(N医師のこと)を見つけた」と述べるなど、恋愛関係以外にもかわりのきかない第三者が存在しうるということを理解するようになっている(甲A1の2・136頁)。
 N医師も、面接が中断した頃には、幸子の症状が改善していたことを認めている(N医師調書31頁、32頁)。

I 上記面接は、平成11(1999年)4月に中断したが、被告は、治療終結にあたって、N医師のオフィスを訪れて報告している(被告調書35頁)。

4 幸子が自殺した当時、幸子の転移は解消していたこと
(1)平成11(1999)年4月、被告と幸子の面接は中断したが、その後、平成12(2000)年1月ころ、幸子から、「婚約しました。」という電話がかかってくるまで、被告は幸子と接触していない。
(2)被告は後に知ったことであるが、幸子は、平成11年後半、M氏と婚約し、同居を始めている。また、一人でヨーロッパ旅行に行ったり、ロンドン留学を予定するなど、母によれば、"全てがよい方向に向かっているように思える"(甲B1・59頁)という状態であったようである。
(3)しかし、幸子は、平成12(2000)年1月に、A大学病院入院中に知り合った友人が自殺をしたときいたこと、群馬大学へ進学できなかったり、音楽留学してもプロになれないということをいわれたこと、結婚問題についてもかなり悩んでおり、時には「結婚の破棄」「離婚」を口にするなど、精神的に不安定な状態であった。
 N医師は、「彼女は被告医師に対する転移感情を私との関係の中でワークスルーしまして、非常によい、転移に関してはよくなっていたわけです。それで、その時点で彼女は実家から離れておりました、大阪に住んでますから、東京に友達がたくさんいたわけですね。大阪でいなかったわけです。そういうサポートシステムがなにもなかったわけですね。そういうことで非常にさびしい気持ちを持ってた。それから結婚の準備っていうのも、これも大変なことですね。・・・・そういうことでストレス状態にあったわけですね。それで、被告医師の表面的なサポート、それでもいいから、そうすれば自分の心がまた賦活されると、そう考えたわけですね。私もそれを理解できたわけです。」と述べている(N医師調書33頁)。

(4)平成12(2000)年3月、被告は、M氏と母から、幸子と話をしてほしいという連絡を受けた(母は、このときの経緯についてあまり記憶がないと証言しているが、被告が幸子と面接すると具合が悪くなるという事実があったのであれば、わざわざ被告に対してこのような依頼をするのは不自然である。幸子の具合が悪くなると、被告の助けを求めていたというのが事実である。)。しかし、被告は、これを断った。
 同年3月30日、N医師から、同様の連絡があった。被告は当初、これを断ったが、N医師は、「幸子さんは相当改善している。被告医師との面接が、幸子さんに悪い影響を与えることはないだろう。」等と述べ、幸子に会うことを重ねて強く要望した。そのため、被告は、やむを得ずサポートを引き受けた。
 被告は、定期的に時間をとるのは現実的に無理であるが、和解するという目的で会うことは同意する、とN医師に述べ(乙A7・210頁)、以後、定期的にではなく、一回ごとに次回を約束するという形で幸子と話をすることになった。

(5)被告がN医師から連絡を受けた当時、幸子の被告に対する転移は解消していた。N医師も、「彼女は被告医師に対する転移感情を私との関係の中でワークスルーしました、非常によい、転移に関してはよくなったわけです。」「(転移は)十分に解消したと考えました。」と述べているとおりである(N医師調書33頁)。
 実際、被告が幸子と電話で話した際にも、幸子は以前のように「振り向いてくれなければ死ぬ」という発言はなく、ただ淡々と昔を懐かしんで世間話をしている様子で、被告に対する転移は解消し、症状も改善していた。

(6)面接開始後、幸子の状態は大部よくなり、大阪で聴講生の可能性を探ったり、バイオリンをひいたり、M氏の父と和解したり、将来の計画についてプランを立てたりと、全体的に活発になった(N医師調書33ページ、甲B3・11ページ他)。

(7)その後も、幸子は、被告との話の中で、声が柔らかい感じで、とても気持ちが落ち着いており、恋愛感情云々という話はおろか、からみついてくるようなところも全くなく、とても友好的で、症状はかなり改善している様子であった(被告調書20ページ)。
 4月26日には、恋愛ではない感情が生きるのに必要なものだとも知らないで、それを受けとらなかったなどと述べたり(乙A7・211ページ)、「Dr被告が自分の生死をにぎっているのではないことがわかった」(乙A15・27頁)と述べるなど、転移は解消していた。原告がいうように、「ことさら専門家でなくても、ここで幸子の被告への病的な依存(嗜癖)が被告との接触によって強化され、95年<平成7年>以来の精神状態が再現した」などという状態には全くなかった。

(8)原告は、この期間の「世間話」の「枠組みが外れた」結果、「予想外の結果が生じた」という趣旨のことを述べているが、「枠組みが外れた」という事実はない。被告は、当初から、定期的にではなく、一回一回の約束で話をするという約束をしていたのであり、枠組みを外れたことはない。

(9)4月下旬から5月にかけて、幸子の状態は悪化したが、幸子は当時、結婚問題に悩んでおり(5月13日に結婚式を控えていた。乙A16)、実家や友人から離れた大阪に住んでいるという状況の中、かなりストレスフルな状況にあった。幸子が最終的な自殺を図った5月2日のカルテにも、「不安定、結婚する不安」と記載されている(乙A15・27頁)。

(10)4月27日、幸子は被告に電話をかけてきて、被告が電話に出たとたんに、突然、「これはセレモニーです。さようなら。」と述べた。4月26日に電話で話をした際には、幸子の調子はよかったので、なぜいきなり幸子の具合側ルックなったのか、被告には全く原因が不明である。

(11)5月1日、幸子は自殺企図を起こした。幸子は、その理由として、被告については「約束破り」でメールがすぐに来なかったこと、友人に電話したら妻がいるから遠慮してくれといわれたこと、M氏が3時間床屋で家を空けたことなどを挙げている(乙A7・212頁。なお、M氏の陳述書によれば、M氏は、実際に、数時間床屋で家を空けている。甲B7・39頁)。
 さらに、幸子は、N医師に宛てたファックスの中で、「しかし、今回の自殺未遂は、はっきり言って全く彼(被告Dr)には関係がないのですが・・・。」と述べている(甲A2・30枚目の、「題名−今回の顛末(なんともはや)」と記載のあるファックス)。

さらに、幸子は、M氏に対しても、「被告医師は関係ない」と述べ、幸子の信頼している友人二人、とくにQ氏から拒絶された、とりわけQ氏の妻が幸子のことを拒絶している、という理由で拒絶されたことが原因であると話した、と述べている(甲B7・41頁)。
したがって、5月1日の自殺企図が、被告への恋愛性転移、依存を原因としていたとは、到底考えられない。

(12)5月1日、幸子の自殺企図の連絡を受けた被告は、幸子に対して「当分あなたに近づかないほうがよいと思います。また、十分に余裕があったらばご連絡をください。それまでは、しばしのご猶予を」という内容のメールを送った(甲A2・35枚目〜36枚目。なお、5月2日午前11時44分に幸子からN医師に宛てて送られたファックスには、「どちらかというと、最後のメールに私は非常に傷つきました。」と記載されているが、N医師は、「傷ついた」という内容として、「幸子さんがちょっと漏らしたんですけれども、被告医師のメールが遅かったってことをおっしゃってましたですね。」「こういうこと(被告が当分近づかないほうがよいと述べること)はしょっちゅう、このようなメッセージ、被告医師との関係の中でおこってきたことなんですね。近づけたり近づかなかったり、その関係の反復なんで、別にそんなに大きいイベントでなかったと私は考えますですね。」と述べている。(N医師調書53,54頁)。
しかし、M氏によれば、幸子は、5月2日の午前中はなごやかで大変調子がよく、テレビやビデオを見たり、一緒に社交ダンスをやろうと述べるなどしていた(甲B7・43ヘ頁、44頁)のであるから、上記メールが幸子の自殺の引き金になったとは到底考えられない。
同日正午過ぎ頃、N医師から、ファックス(乙A9)が転送されてきた(N医師は、事前に被告に何ら相談することなく、ファックスを転送した。)。すると、「幸子のそれまでのなごやかな表情ががらりと変わり、大変厳しい表情になり、また、怒りをあらわにしはじめ」た(甲B7・45頁)。
被告はすでに、幸子に対し、当分近づかない方がよい旨のメールをしていたのであるから、幸子がメールの内容自体に対して怒りを感じたということは考えられない。幸子が、上記N医師から転送されてきたファックスを見て突然怒りをあらわにし始めた理由は文明ではないが、N医師が被告のファックスを転送したため、自分を埒外において医師同士が自分のことについてやりとりしていることを、きわめて不快に感じたものと思われる。
16時30分ころ、被告は幸子と電話で話をした。割合にしっかりした声であった。幸子は、5月1日の自殺の原因について説明し、さらに、被告に対して、「私を助けて欲しい。毎週水曜日に2時間、私と友人として話して欲しい。1日1日、私が生きていけるようにして欲しい」と要求した。被告は、主治医は他にあり、友人としてこのような約束をすることはできなかったため、「治療としてでなければ、そのようなことはできません。」と答えた(乙A7・211ページ)。ただ、被告は、平成12(2000)年3月30日から、1回1回約束して、ほぼ1週間に1回程度、電話で話をしているため、このような形態で話をするということ自体は、続けてもよいという話をしている(被告調書25頁、乙A7・212頁)。
幸子は、17時45分ころ、N医師と電話で話したが、N医師は、「被告医師が友人としてコミットしないのはおかしいので、幸子さんと被告医師との間の友人としての関係性を明確に再定義したらどうか」と話をした(甲B3・16ページ)。N医師によれば、このときの会話は、15分程度であったが、幸子は非常にリラックスしており、うつ状態とも感じられず、全く危険な感じはなかったという(N医師調書37頁、53頁)。
その後、幸子は、被告に電話をかけてきて、「N先生に短気を起こすなと言われた。」と述べ、同じ要求を行ったが、結局時間切れとなり、5月7日に、再びこの件について話し合おうということになり、電話を終えた。電話を終える際、幸子は、5月7日に話し合いをするということについては肯定しており、どちらかが一方的に電話を切ったということもなく、合意のもとで電話を終えている(被告調書25頁、45頁)。
上記会話の途中、幸子の感情は少しずつ穏やかになっており、電話を終える際にも、5月7日に再度電話で話すという約束をしている(つまり、どんなに少なくとも、5月7日までは生きているという約束をしている。)ことからすれば、電話を終えた時点で、幸子が自殺を考えていたとは認められない(被告本人25頁)。

(13)その後、何があったかは詳細は不明であるが、幸子は、22時20分頃から40分頃の間に、クローゼット内で首をつって自殺した(甲B7・52頁)。

(14)このように、平成12(2000)年3月から5月にかけて、幸子の被告に対する恋愛性転移は解消していたこと、結婚問題等で悩んでおり、自殺既遂の約10日後には結婚式を控えていたこと、非常にストレスフルな状態にあり、些細なことでも自殺のきっかけになるような状態であったこと、幸子自身、5月1日の自殺企図は、被告とは全く関係がないと明言していること、被告の「当分近づかない方がよい」というメールを見た後の5月1日の午前中も、大変調子よく穏やかに過ごしていたこと、5月1日、2日にかけての幸子と被告のやりとりを見ても、被告が幸子の恋愛転移を「再燃」させた等の事実は全く認められないことからして、幸子の自殺企図の原因が、被告にあったとは到底考えられない。

5、以上述べたとおり、被告は、それまで、幸子の恋愛性転移を誘発したり、増悪させたりしたことは一切なく、幸子の生命の危機を救うよう最大限の努力を払い、恋愛性転移の解消にもつとめてきた。5月1日、幸子が自殺未遂を行ったことを知った時にも、診療契約がないにもかかわらず、主治医である内閣忌諱しに迅速に報告している。当時、幸子は大阪で婚約者と同居中であり、主治医はN医師であった以上、被告にできることは、これ以外にはない。その後も、電話で、幸子に対し「私は、あなたが自殺(企図)すると絶望的に傷つくんです」と説得し、5月7日にまた話をする約束をしている。被告の対応に、何ら落ち度はない。
 また、幸子には、5月2日の夕方、N医師および被告と電話で話した際には、切迫した自殺の危険性は感じられなかった。したがって、被告において、当時、幸子が自殺することを具体的に予見することは困難であった。
 さらに、当時、すでに幸子の被告に対する恋愛性転移は解消しており、幸子の本件自殺は、5月13日の結婚式を直前に控えた不安定な精神状態を背景として、さまざまな人間関係の中で、多くの複合した要因により動揺され、かなり衝動的に自殺企図を行ったものと思われ(乙B8・HK意見書42ページ)、被告の行為とは因果関係がないことも明らかである。

以上、原告の請求は理由がなく、棄却されるべきである。

以上

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