父 親 の陳 述 書
*一部省略・削除したところがある
1 はじめに
私は、このたび、桜井医師の治療に関して陳述したいと思います。ただし、私が、幸子の看病や桜井医師の治療に最も接していたのは、幸子が慶応大学病院に入院していた時期であり、それ以外の時期には、妻とは違い、幸子や桜井医師の治療にはほとんど接していませんでした。したがって、幸子の治療について私が陳述する内容は、大部分、慶応大学病院入院時代のことになります。他方、私の記憶や当時私が抱いた感覚と慶応大学病院のカルテに記載された内容との間には、ずれがあるように思えます。ですから、以下では、主として私の記憶にもとづいて陳述し、カルテの引用は最小限にとどめます。
2 入院以前の幸子
(1)私との関係
幸子は、[中略]1973(昭和48)年4月に生れました。子供の頃より向上心を持ち努力家で、探求心とこだわりを持つ娘でした。また、正義感もあり、人に優しい娘でした。他方では、文学、絵画、音楽などの芸術作品が大好きでした。その点では、私との趣味がよくあっていて、大学入学までは、私と音楽や絵画について話をすることがよくありました。
たとえば、幸子はよく美術館に行っていましたが、それは私が絵を描き、絵画が好きであるところから影響を受けたと思います。また幸子は絵画についての感想を私に聞く時がありましたが、幸子も私と同じ感覚で絵をとらえているところがあり、私とよく意見が合いました。たとえば「ルドンの緑色の輝き」「クレーの配色」について、幸子も私も同じように感銘を覚えている、といった話をしたことを覚えています。
音楽についても事情は同じでした。私がクラシック音楽を好んでいたので、幸子も自然とクラッシックを聴くようになったのだと思います。たとえば、ドビュッシーやラヴェルの室内楽の曲について、お互いに感銘を受けたという話をしたことを覚えています。
子どものころから始めたヴァイオリンも、私がバイオリニストのオイストラフが好きだったため、娘にヴァイオリンを習わせたいと思っていて、幸子にすすめたものでした。ヴァイオリン教室にも、私が車で送り迎えをしていました。その後幸子は大学でもクラッシック音楽の合奏サークルに入りました。
私は若い頃から車の運転が好きでしたが、中学校ぐらいからだったと思いますが、幸子は必ず助手席に座り、私とその時々の話題についてよく話していました。そういう時、幸子は必ずナビ役をやっていたので、都内の道にもかなり詳しくなりました。その後幸子は、男友達の車に乗せてもらい助手席に座ることが多くなり、そのときには、彼らの運転を批判したりしていましが、その際の基準は、常に私の運転であったような気がします。
それ以外にも、私は会社の野球部でキャッチャーをやっていたため、幸子とはよくヤクルトスワローズの古田選手の配球など、かなり細かいことまで話していました。車に乗っている時以外にも、テレビで野球中継をしながらずっと野球についての話をしていたこともありました。
以上のような芸術や野球以外にも、幸子との会話では、政治もよく話題になりましたが、こういった話題について話せるのは、家族の中で私と幸子だけでした。ですから、幸子がフランス音楽、特にドビュッシーやラヴェルが好きで、クレーの絵が好きだった、ということを記憶しているのは、妻や次女ではなく私なのです。私と幸子との接点は、母親に比べれば、それほど多くはなかったかもしれませんが、芸術・車・野球・政治といった特定の話題については、私としか共有することはなかったと思います。
(2)私から見た幸子
私から見て、幸子は比較的おとなしい子供だったとは思いますが、自分の意見をはっきり言い、あるいは、初対面の人に対しても、物怖じせずに話ができる子でした。私の会社の同僚が、私の家に遊びに来ると、次女は彼らとは話ができなかったのですが、幸子はきちんと挨拶をしたり、話の相手をしたりして、同僚からはしっかりした娘だと言われていました。そういう娘だったので、まさか、心の病になるなどとは考えもしていませんでした。
3 発病から入院まで
(1)うつ状態になる
当時私が幸子から聞いた話や、妻や次女からの話を総合しますと、まず1994(平成6)年、大学三年生の時、幸子は音楽サークルでコンサートミストレス(サークル内の事実上のリーダー)に選ばれたのですが、まもなく、サークル内で幸子と下級生との間に軋轢が生じました。また、そのとき幸子は、もともと同じサークルにいたボーイフレンドに助けを求めたのですが、援助を断られ、その結果、彼との関係が破綻し、その頃から次第にうつ状態となったということです。
ただし、私も妻も次女も、病気になったきっかけは、主としてサークルの問題だと思っていました。たしかに、失恋も幸子にとっては痛手だったとは思いました。しかし、私は、幸子が妻にサークル内のもめ事や下級生についての愚痴などを話しているのをそばで聞いていたことがありますから、幸子が体調を崩した原因は、そういったサークル内での人間関係にあるとずっと考えていました。
(2)東京女子医大への通院と桜ケ丘記念病院での受診
うつ状態になって間もなく、幸子は東京女子医大病院に通院するようになりました。その経緯について直接幸子から詳しく聞いたことはありません。しかし私自身は、そういった状態になったのは、人生において初めて挫折感を味わった事が原因ではないか、と当時考えておりました。やがて幸子は、家で寝たきりの状態になりました。困り果てていたところ、母親の友人の紹介で、1995年3月、桜ケ丘記念病院の水島医師の治療を受けることになりました。
(3)病院側との認識の違い
幸子が慶応大学病院に入院する詳しい経緯については、水島医師からの紹介で、幸子が慶応大学病院に初めて行った際に、大野医師が記載したカルテを見て初めて知りました。このカルテによれば、大野医師の診断を受けた幸子は、即日入院を勧められ、95年3月、幸子は入院することになりました。この時、幸子は一人で病院に行ける状態ではなかったため、次女が肩を貸しながら病院にたどり着いたということです。
カルテでは、入院前、幸子が自殺をしようとしていたなどと書かれています。しかしそのことについて、私も妻も次女も、医師からも幸子からも、一切聞いていませんでした。カルテを見るまで、つまり幸子の死後まで、このような事実については一切知りませんでした。
また、慶応大学病院に入院する詳しい経緯についても、私はカルテを見て初めて知りました。私や妻、そして次女は、「よくなるために入院する」と幸子から伝えられていただけでした。また、病院側から、自殺の危険性があるから入院させる、という説明は受けておりませんでしたし、その後、桜井医師からも、幸子が自殺をする意志をもっていたから入院させた、という説明はなく、幸子の死後にカルテを見て、初めて知ることになりました。
したがって私は、幸子はすぐに治って退院できる、という認識しか持っていませんでした。つけ加えれば、入院時のカルテには、「傷病名うつ病」と記されています。しかし、慶応大学病院退院の95年12月まで、幸子を含めて家族の誰一人として、病名を告知された者はいませんでした。幸子の死後、カルテをみて、私は初めて、慶応大学病院では幸子がうつ病であると診断されていたことを知ったのです。
(4)発病と自殺未遂の原因についての私の認識
当時私は、サークルの問題で困っている時に、元恋人の助けが得られなかった、ということが、幸子のサークル内での孤立を深め、これがうつ状態になった原因ではなかったか、と考えていましたし、現在でもその考えは変わりません。また、サークルでの問題、というのは、下級生による幸子に対する「いじめ」「いやがらせ」だった、というのが私の認識です。
ところが、その後入院後の治療では、元恋人のことや失恋にばかり焦点が当たるようになっていきます。入院後のカルテを見ると、面接では幸子の失恋についての話題がほとんどであったようですが、なぜサークルの話題がほとんどなかったのか、私たち家族から見れば理解できないことです。
4 慶応大学病院入院直後 (1995年3月〜5月半ば)
(1)入院直後の治療体制
慶応大学病院入院直後、私たち家族は、桜井医師が「担当医」、もしくは「主治医」として紹介され、また、A医師も幸子を担当する医師として紹介されました。A医師はその後別の病院に移られましたが、その後も、幸子の治療に当たられていたと記憶しています。女性のB医師も幸子の治療に当たるようになりました。
(2)入院当時の家族の日常と面会
当時、私達家族は、川崎市に住んでおりました。次女は、アルバイトで[中略]勤めており、妻はフルタイムで[中略]した。私は[中略]勤務先まで、毎日遠距離通勤をしておりました[中略]。しかし、それまでも家計の状態はそれほどよいものではありませんでした。そして幸子が入院すると、さらに経済的負担が増えましたので、私は家計を支えるために毎日残業をするようになり、帰宅は連日23時以降になりました。そのため、私は平日病院に行くことが、ほとんどできないという状態でした。
最初の2ヶ月間は、職場が近かったということもあって、次女がよく面会に行っておりましたが、5月頃からは、妻がほぼ毎日のように、夕方頃から面会に行くようになりました。休日は私の担当で、面会に行くと、私は幸子や他の患者さんと一緒に、よく卓球をしたことを覚えています。
私は当初、3ヶ月位の入院で治るだろう、たいした病気ではないし、すぐによくなって退院できると思っていました。ですから、私は桜井医師に対して、治療の方針について数回質問をしたことがありますが、それでも、幸子の病名や治療法について質問をしたことはありませんでした。そのため、95年10月以前は、私が桜井医師にした質問は、主として、退院はいつ頃になるのか、ということだけであったと思います。
5 千鳥が淵の事件と桜井医師の治療方針
(1)事件について
1995 年5月17日、幸子は病院を抜け出して千鳥が淵で自殺をしようとしました。妻から聞いた話で、妻が陳述書に詳しく書かなかったことですが、千鳥が淵から幸子が最初に電話をかけたのは病院ではなく自宅で、受話器を取ったのは妻で、幸子と次のような会話があったと聞いています。
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幸子:「お父さんいる?」
妻:「いないよ」
幸子:「死ぬ前に、お父さんとお母さんの声が聞きたい」
妻:「お父さんは残業でまだ帰って来ていないよ。今どこにいるの?」
幸子:「外」
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妻によれば、以上のようなやり取りがあり、受話器から車の音が聞こえたため、病院にいない事が分かったため、妻は動揺して受話器を落としてしまったということです。そこで次女がかわりに電話に出て、幸子の居場所を聞き出し、幸子のいる千鳥が淵へと急いで向いました。
この時、私は会社で残業をしていました。会社に妻から電話があり、「幸子が大変な事になったから、すぐ帰ってきて欲しい」というような話しを聞き、急いで家に帰りました。帰ると妻の置手紙があり、自宅で連絡などのために待機していてほしい旨の内容でしたので、指示に従って自宅にいました。その後、妻から電話があり、そのときに幸子が無事であるという報告を受けるとともに、A大学病院まで迎えにきて欲しいと言われたので、慶応大学病院まで車で迎えに行きました。
私が迎えに行った時間が朝方で、病院の外で妻と妹が待っていた事もあり、幸子の無事を二人から聞いたので、その日は幸子に会わず帰りました。私としては、疲れ切っている妻と次女を帰宅させて休ませる必要がありました。また、当日の看護記録を見たところ、幸子は私に会いたいと希望したようですが、「とりあえずは休むこと」を病院側からすすめられ、幸子がこれに同意した、とあります(95年5月18日の看護記録より)。ですから、私たちも、病院を信頼して幸子をお任せしたと思います。
(2)事件後に示された桜井医師の治療方針
千鳥が淵の事件後しばらくしてから、私と妻、そして妹が桜井医師と面接した時のことです。桜井医師は私たちに対して、次のような治療方針を告げました。1)これまで家族は父親主導であったが、今後は母親主導にする。そのために、母親がより家族の中で発言し、幸子が母親に甘えるようにする。2)この方針で治療をすすめていくために、母親が毎週水曜日に桜井医師と定期的に面接する。3)幸子のわがままを、両親が許してゆくこと。
(3)3つの治療方針が出された理由について説明がなかったこと
当時、桜井医師は、なぜこのような方針を出すのか、一切説明しませんでした。しかし、我が家では、子供たちが小さいときからずっと、両親が共働きであったため、幼少期から幸子が母親に甘えられる機会が少なかったのは事実でした。ですから、幸子が妻にもっと甘えられるようにするという方針について、私なりに想像して、納得いたしました。病名も病気についての治療方法についても、何も説明はありませんでしたから、私としては、そうして納得する他はありませんでした。
また、家族の中で母親の発言を増やしていく、という治療方針も、それまで、家族のことに関して、父親である私が最終的に決定していましたから、幸子が母親に甘えられるようにする、という方針と関連付けて考えれば、道理にかなった方針である、と当時は考えました。
しかし、以上のようなことは、全て私が考えたことで、桜井医師からうけた説明ではありませんでした。したがって、妻と次女、そして私が現時点で話し合ってみると、たとえば、当時桜井医師が使った「母親主導」という言葉に関する私たちの解釈は、異なっていたということが分かります。妻と次女は、母親を中心にして、母親の主導権や判断の下で幸子の治療を進めていくことだ、と理解していたようです。
結局、こういった解釈の違いが起きたのも、当時桜井医師が、「治療方針」を出しながら、その意義や根拠について、私たち家族にまったく説明しなかったことが原因であると考えます。そして、そういった説明がなかったため、私たち家族は幸子の病気をちゃんと理解してやれないまま、幸子に対して、うまく接していくことができなかったのだと考えます。
(4)病の原因は私の教育方針や家庭環境にあると理解したこと
私自身は、それまで幸子の「育て方」が「父親主導」であったから、今後は「母親主導」にする、というように、桜井医師の治療方針を理解していました。つまり、次女や妻とは異なり、幸子の「教育方針」として、「母親主導」とか「育て方」という言葉を理解していたのです。
私がそのように理解した理由は、今から思い出してみれば、例えば当時、「幸子のことで父親が最初に決めてしまうのはよくない」といったことを桜井医師から言われたことがあったからだと思います。また同医師は、治療によって幸子を「育てなおす」というように説明していたことがあったと記憶していますので、「父親(母親)主導」という言葉を、「教育方針」として私が理解したのだと思います。
私はそれまで、自分の教育については何も疑問を抱いたことがありませんでした。ですから、それまでの自分のやり方が間違っているという考えには、幸子が入院した時点ではすぐには思い至りませんでした。しかし、私は桜井医師の説明や、幸子が私に同医師の言葉として話したことから、幸子の病が、私を含めた家庭環境にあるというように説明され、その説明に納得していったように思います。
先にも申し上げたとおり、桜井医師はこのような方針を出した理由を、私たち家族には、一度たりとも明確に説明しませんでした。しかし、当時私は桜井医師から、「本人は十分がんばっているのだから、あまり幸子に対して「がんばれ、がんばれ」と言わないでもらいたい」、という指示を受けました。
私はそれまで幸子に対して、向上心を持って努力することを望んでいました。言葉でそのように常に言っている、ということはなかったと思いますが、そういった態度をとっていたのかもしれません。また、入院以前は、とても強い娘だと思っていましたから、病気などすぐに克服できるだろうと考えておりました。
したがって、私自身は、幸子の病がそれまでの家族関係に端を発するものである、ということを理由に、千鳥が淵の事件直後、家族に対して桜井医師が示した、上記のような治療方針が立てられた、と解釈しました。すでに申し上げましたように、私自身、それまでは自信を持って幸子を育ててきたつもりでしたが、幸子がどうして病気になったのか皆目見当がつかなかったため、桜井医師から上記のように指摘されると、自分の教育方針が間違っていたのかもしれないと考えるようになったのです。また、私とは解釈が異なっていたようですが、妻も次女も、ひとまず桜井医師が示した治療方針に納得したのだと思います。
以上述べましたように、私は、桜井医師の説明から、幸子が病気になったのは「家族のせい」、とくに「両親」あるいは「父親」のせいだ、というふうに理解するようになっていきましたので、私は次第に、幸子に対する接し方に自信を喪失していくようになりました。しかし、副担当の山田医師からは、次のようなことを言われてなぐさめられた記憶があります。「同じような家族環境で育った女性で、病気にもならずにまっすぐに育っている人はいくらでもいる。だから、あまり気にしないように」と。
このような言葉にはなぐさめられましたが、やはり主治医である桜井医師の説明と治療方針には間違いがない、と考えて、桜井医師を信じて、従っていきました。
6 「恋人役」という治療方針を伝えられる
(1)「私が幸子さんの恋人役をします」と伝えられる
以上のような方針を示されてからしばらく経ったある日のことです。時期は定かではありませんが、千鳥が淵の事件以降で、6月の中旬以前ではなかったかと思います。千鳥が淵の事件から6月中旬以前だとすれば、私が病院に行ったのは、カルテによれば、5月18日(木)、5月20日(土)、5月21日(日)、5月 26日(金)、5月28日(日)、6月4日(日)の6日ですので、そのうちのいずれかであった可能性が高い、と現時点では考えております。
その日、私は慶応大学病院に幸子を見舞いに行った際、どういう経緯か忘れましたが、桜井医師と二人きりになって面談をしました。面談の場所は、看護婦部屋の側の小さな部屋でした。桜井医師から、千鳥が淵の事件についての説明を受けたのではないかと思います。この面談の後、席を立とうとしたところで、次のような会話があったことをよく覚えています。
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桜井医師:「私が幸子さんの恋人役をやります」
私:「そんなことできるんですか?」
桜井医師:「大丈夫です、できます。私、元演劇部ですから」
私:「そうですか」
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私が以上の会話をよく覚えているのは、「恋人役をやります」という桜井医師の話があまりにも唐突で、奇異な感じがしたからです。しかし、それに加えて、私が桜井医師に「そんなことできるんですか?」と問いただし、これに対して桜井医師からは、「大丈夫です、できます、私、元演劇部ですから」という答えが返ってきたからです。
「準備書面」で桜井医師は、「恋人役をする」と言った覚えはない、と否定しています。しかしながら、私の記憶はたしかであり、そのときの雰囲気と語調から、桜井医師が思いつきで言ったとは、とうてい思えませんでした。とりわけ「元演劇部」という発言は、「恋人役をやる」という発言とともに、大変印象深く覚えています。
また、「恋人」ではなく「恋人役」という言葉を使ったからこそ、私はそれを一つの「治療方針」として理解したのであり、その後、その言葉を信じて、私は、その「治療方針」に従って幸子の治療が行われている、と考えたのです。これは事実であり、私の思い違いなどでは決してありません。桜井医師が私と一対一で面談をしたのは、95年では、ほんの数回しかありません。ですから、よく思いだし、「恋人役をする」と言った、という事実を法廷で認めてもらいたいと思います。
(2)「恋人役」という治療について私が理解したこと
ただし、「恋人役」をすると、どうして病気がよくなるのか、ということについて、桜井医師が説明したわけではありませんでした。「できます、私、元演劇部ですから」という回答があった以上、あとは任せるしかないと私は考えましたので、それ以上は聞かなかったのです。ですから、当時は私なりに解釈するしかありませんでした。
精神医療のことなど一切知らなかった私が当時考えたのは、サークルでのいじめと連動するかたちで失恋があり、それらがきっかけにして病気になったのだから、「恋人役」として桜井医師がそういう幸子を支えるような「治療」があるのだろう、ということだったと思います。
しかし、「恋人役」が「治療」として行われることについて、私は大変な違和感を覚えました。この感覚は、その後もずっと持ち続けることになります。その後、 95年11月頃に、桜井医師の治療が幸子の病状悪化につながっている、と私が感じて、治療体制の変更を要請する背景には、この違和感があったからだと思います。これが、妻や次女と私との違いでした。
その違和感は、桜井医師が、「恋人役」として振る舞うとすれば、結局それは幸子のことを「だます」ことになるのではないか、という疑問から生まれています。幸子が日常生活の中で、特定の男性と恋愛をすることについて、私は特に問題がないと思っていました。それは、お互いに合意の上でのことだからです。しかし、「恋人役」とは、幸子がそれを「治療」であるということを知らないまま、幸子が桜井医師に恋愛感情を抱くようにし向ける、つまりは、幸子をだます、ということを意味するのではないかと思いました。そのようなことを、一つの治療方法として実行することに、倫理的な問題はないのか、という疑問を持ったのです。
したがって、「そんなことできるんですか」という私の質問は、実際は「そんなことをしていいんですか」という意図で行ったつもりでした。しかし桜井医師は、「できます」としか答えませんでした。また、同医師が「恋人役をします」と言ったのは、私が席を立った瞬間だったので、私もその場で生まれたかすかな疑問について桜井医師にさらに質問することができませんでした。さらに、医師が言っていることですから、そのようなことが可能なのか、と問うことがせいぜいだった、ということもあったと思います。
(3)次女も「恋人役をやります」と告げられていたこと
その後私は、この話を妻に伝えました。実は、次女からも、これと前後して、「恋人役をやる」ということを桜井医師から伝えられた、ということを私は聞いておりました。ですから、桜井医師が「恋人役」という治療方針に基づいて幸子を治療していた、ということは、私だけでなく、妻も次女も認識していたことでした。ただし、幸子には、当然この話は内緒にしておりました。
(4)桜井医師が「おかしなこと」を言っている・幸子が桜井医師を好きだ、と聞かされたこと
その後私は、妻や次女から、桜井医師が幸子にいろいろとおかしなことを言い、あるいは幸子が桜井医師のことを好きになっているということを、折に触れて聞くようになりました。このことについては、妻が陳述書で述べています。また、妻の陳述書で引用されている幸子のレポート(98年1月10日付、中久喜医師宛)で、よくわかります。
しかし私は当時、そういった話を妻や次女から聞いても、おかしなことが起きているとは考えませんでした。妻と次女は、冗談半分ではあったと思いますが、桜井医師と幸子が結婚するのではないか、という話をしていたこともあると聞いています。また妻は、幸子から、桜井医師と結婚できればいいな、などという話をされていた、ということです。しかし私は、そういった桜井医師の発言や態度も全て、桜井医師が「恋人役」という治療方針に基づいてやっていることだと考え、幸子が桜井医師を好きである、とか、桜井医師が幸子のことを好きである、といったことは、話半分に聞いていました。
ただし、幸子を桜井医師がだましている、という感覚は持っていましたから、そういうことを聞いていて、嫌悪感のようなものを感じていたということはよく覚えています。
7 桜井医師と幸子、私と幸子との関係の変化
(1)言葉を交わさず目を見つめ合っている場面に遭遇する
その後、千鳥が淵の事件のあと、次のようなことがありました。その日、私は病院に見舞いに行き、幸子の病室で雑誌を読んでいました。すると、桜井医師が病室に入って来て、幸子のベッド脇に来ました。その時彼は立ったまま、幸子と無言でじっと見つめ合っていていました。そのような状況であったちょうどその時、当時、すでにA医師とともに、幸子の副担当だった女性のB医師が病室に来ましたが、幸子と桜井医師の状態を見ると、急いで出て行きました。そのあと、私も席を立ちました。
私はこのとき、幸子と桜井医師の様子を見ていて、無言ですが、目だけで会話をしているように思えました。また、そういう二人の様子を見て、すぐに向きを変えて病棟から出ていったB医師の態度を見て、「ああ、気まずいという気持ちがしたんだな」と私は思いました。というのも、私も、二人の様子を見ていて、そう思っていたからです。そこで私も席を立ったのです。「気まずい」と思ったのは、二人の様子が、まるで恋人同士のように見えたからです。
このことがあった日は、千鳥が淵の事件のあとで、8月上旬以前の平日の夕方ではないかと思います。というのも、まず、私が幸子に面会をするために慶応大学病院に行っていた日は、仕事が休みの土日がほとんどでした。また、仕事を丸一日休んで平日に行ったこともあり、だいたい水曜日であったと記憶しています。したがって、仕事を持っていた妻や次女とともに行く日は、3人のスケジュールが調整できる土日や休日だったと思います。ですから、幸子と桜井医師が目を見つめあっていた、という場面に遭遇したのは、私が一人で面会に行っていた時だったはずです。また、桜井医師とB医師の二人がそろって病院にいた、ということを考えても、その日は平日であったと考えます。
次に、千鳥が淵の事件以降であると考える理由は、入院当初、それから千鳥が淵の事件があるまで、私が幸子のベッドサイドで雑誌を読み、幸子と会話もなく消灯時間まで病院にいる、ということはなかった、という事実にあります。というのも、入院当初の頃であれば、私が面会に行ったときには、卓球をしようか、と私の方から提案してみると、だいたいは幸子が卓球をやりたがって、それで二人で卓球をする、ということがよくあったからです。
当時、患者さんたちは、卓球大会をして勝ち抜き合戦をして競い合っていました。幸子は試合で負けると大変悔しがって、それで、もっとうまくなりたいと思ったのでしょう。卓球が得意な私と練習をしたがったのだと思います。それは、私とあまり話す話題がなかった、ということもあってのことなのだとおもいますが、私が卓球をしようか、と提案すると、すすんで私と卓球をすることが多かったのです。私の方は、幸子には負けず嫌いのところがあるから、卓球をしていけば病気を治すことにつながるかもしれない、と思っていたため、卓球に誘っていた、というところもあったと思います。
ところが、ある時期から幸子は私と卓球をしなくなります。それでは卓球を全然しなかったか、というとそうではなく、ほかの患者さんとはやっていたのです。そのため、ある時期になると、面会に行っても、私は病棟で雑誌を一人で読んだり、他の患者さんと卓球をしたりすることが多くなりました。
その時期のことを思い起こしてみますと、病院では普段は、夕食があって、その時間まで患者さんたちは卓球などをしていましたが、その時間が終わると、病棟に戻ってきていたと思います。もちろん、卓球大会の前の日などは、食事のあとも卓球をしていることがありましたし、食事のあとで、患者さんたちはお風呂に入ったりタバコを吸ったり、ということがあったと思います。しかし、普段は、だいたい病室に戻っていました。ですから、幸子が私と卓球をしなくなった時期になると、私は幸子が夕食を終えて以降、面会時間が終わるまで幸子のベッドサイドで座っている、ということばかりであったと思います。
また、夕食の前も、以前であればだいたい二人で卓球をしていましたが、ある時期から、幸子が私とは卓球をしなくなっていましたので、幸子がベッドで寝ているあいだ、私はベッドサイドで雑誌を読んでいることが多かったのです。
その頃、私はまだ幸子の気持ちの変化についてあまり注意を払っていませんでしたが、今思えば、次第に私との距離ができていたのだと思います。当時、幸子と妻や次女との関係はうまくいっていたと思うのですが、今になって思い返せば、私との関係が、最初に疎遠になり始めていたのだと思います。
それ以外にも、以前であれば、家族についての話や、絵画や絵の展覧会、クラッシック音楽について私が話をし始めれば、幸子が話に乗ってきて、会話をすることが当たり前でした。しかし、ある時期から、そういう話題で私が話をしても幸子が乗ってこなくなる、ということばかりになりました。
以上のようなことを思い出してみると、私と幸子が卓球をせず、私がベッドサイドで雑誌を読んでいる、という状況は、千鳥が淵の事件よりあとのことだと考えざるをえません。
また、その日が8月上旬以前であった、と考える理由ですが、それは私が、幸子の私に対する態度が変わったな、と感じたことが8月上旬にあったからです。最初にそう考えたのは、8月上旬に[中略]花火大会があった直後であったと思います。幸子がB医師やほかの患者さんと一緒に病院から花火を見学した、という話を、自宅に帰ってきたときに大変楽しそうに話していたのを聞き、私は、自分に対する態度と異なるので違和感を覚えた記憶があります。つまり、8月上旬以前、すでに、私がベッドサイドで雑誌を読んで、幸子とは卓球をしなくなり、幸子が私を避けるような感じがして、よそよそしい態度をとる、という状況があったために、花火大会についての幸子の話を聞いて、違和感を覚えたのです。
妻は、この花火大会の時に芳賀医師に対して「桜井医師と幸子はどうなんですか?先生先生と言いすぎるから困っています」と訴えた、と陳述書に書いていますが、8月上旬、幸子が元恋人と会う前から、私も妻も、そして次女も、幸子が家族を無視するような態度をとり、桜井医師に対する執着心を見せ始めていたので、家族と幸子が離れていっている、と感じ始めていたのです。ただし、妻や次女が、幸子は桜井医師と結婚するかもしれない、と冗談半分に話していて、あまり違和感を覚えていなかったのと異なり私の方は、おそらくこの頃から、違和感を覚えるようになっていったのだと思います。それは、私が当初から、「恋人役」という治療方針に違和感もしくは軽い嫌悪感を覚えていたからだと思います。
(2)元恋人との再会
その後、8月半ば、桜井医師は幸子と元恋人とを病院で会わせたと聞いています。しかし「お別れ」は思いのほか幸子に打撃を与えていないようであると思えました。したがって、母親は、桜井医師の「恋人役」という治療が成功したのであろう、と考え、そのように、当時手帳に書きとめたのです(妻の「陳述書」を参照)。
この認識は私も同じでした。「恋人役をやります」と聞いたのは私ですから、その治療方針に基づいた治療が成功したのだろう、と思いましたし、それが、当時の私と妻、そして次女の認識でした。元恋人に再会させる、ということについては、「恋人役」という治療方針に基づいたことなのだろう、と想像しておりましたから、むしろ再会させることによって幸子の病気が良くなるだろう、というように捉えていたのだと思います。実際、私が覚えている限りでは、元恋人と再会したあと、しばらくは、幸子は安定しているように見えました。
8 桜井医師への幸子の依存が強まる (1995年9月)
(1)幸子の病状悪化と家族との溝が深まった
私は、妻や次女とは異なり、ある時期以降、「入院してから幸子の病気がどんどん悪くなっている」と感じていました。すでに述べましたが、入院当初と比べると、幸子が私や家族に対してみせる態度が、次第に変化していったからです。とくに95年8月以降、私が面会に行っても、幸子は桜井医師と話すばかりで、私とは一言も口をきかない、ということが多くなり、また、私への態度も冷淡になり、私との溝が深まっている、と当時感じていました。
また、9月以降になると、私が面会に行って幸子と話をしていて口論になったりすることがありました。そういう時、私は幸子が主張することは「わがまま」である、と指摘したのですが、幸子は、桜井医師がそういうことを主張しても構わないと言った、ということを盾にして、私や妻の言うことを聞かなくなっていたからです。
そういうことは、入院当初まではなく、幸子は、母親よりはむしろ私のアドバイスや方針に従っていたところが多かったのです。また、千鳥が淵の事件の時も、病院から抜け出して、まず自宅に電話をかけてきて、母親と私に話がしたい、と電話口で訴え、また、発見されて保護されたとき「家に帰りたい」と次女に訴えたと聞きます。ですから、その時までは、それ以前と同様に、何か問題が生じたときはまず両親に相談していたと思います。
(2)「幸子から家族が引き離されている」と考えた
当時家族、とくに私は、先にも述べましたように、幸子から家族が引き離されてしまっている、と感じていました。幸子は桜井医師に執着するが、家族が見舞いに行っても、以前とは全く違って、家族と話さなかったりすることが多くなり、家族がそこにいても、もっぱら桜井医師とだけ話をしていたことが多くなっている、と私は感じていました。
「幸子の病状がこの頃どんどん悪くなっているようだ、ただベッドに伏せっているだけでなくて、桜井医師に執着するようになっている、おかしいよ」と私は当時、妻と次女に言っていましたが、そういった私の話は二人とも聞き流していたようでした。私と妻や次女とのこういった違いは、今から思えば、「恋人役」という「治療」に、人をだましてよいのか、という嫌悪感を私が抱いたが、妻や次女はそうではなかった、というところに由来するのではないかと思います。
ただし、妻や次女は、幸子が桜井医師と結婚するかもしれない、という話を冗談半分で話しているような状況でしたから、私が「よくない」と捉えていることも、二人から見ればそれほど深刻ではなかった、とも言えます。そういった二人の様子を見ていると、私自身も、幸子と桜井医師とのおかしな関係に、大いに違和感を覚えながらも、「まさかおかしなことはないだろう」と思うことにして、自分の違和感だけを根拠にして、幸子の病状が悪化している、などという主張を繰り返し、あるいは、桜井医師を問いただすまでには至らなかったのです。
ところが、95年9月以降、幸子の桜井医師に対する執着はますますひどくなりました。私が当時、妻から聞いていた話では、幸子が頻繁にナースコールをして、桜井医師を呼び出し、同医師との面接を看護婦さんに要求する、ということでした。また、これも妻から聞いた話ですが、病院から外出する時などは、頻繁にタクシーに乗るようになりました。これも、些細なことのように見えますが、幸子が以前はしなかったことで、親としては、幸子が「大きく変わってしまった」と思うことでした。
さらに、ある時幸子が外出の時に、ずいぶんお金を使って何十枚もCDを買ってきた、ということがありました。発病以前、幸子がそのような無駄使いをすることはなかったので、妻は幸子に注意したそうですが、それに対して桜井医師は、「CDを買って(病気が悪くならなければ)済めばそれでよいだろう」と言って、幸子の「わがまま」を許した、ということです。それ以外にも、幸子は、私たちが「わがままだ」と言ったりすることがあると、そういった桜井医師の発言を持ち出して、「桜井医師がそう言ったからいいのだ」と妻に反論したと聞きます。
つまり幸子は、親である私たちがどのように考えるのか、ではなく、桜井医師がどのように判断するのか、ということを基準にして行動するようになっていました。そのような幸子の態度は、発病以前には見られないものでした。発病以前であれば、幸子は家計のことも良く理解していたので、私たち両親に気を遣いながら生活していたと思います。
9 桜井医師の治療に不信感を強める
(1)「この先どのような治療を行ったらよいか判らない」と桜井医師に言われた、という話を妻から聞く
9 月のはじめの頃は、まだ、私も、そういった幸子の変化や「わがまま」について、それほど気にしていなかったかもしれません。しかし、9月の下旬頃ではなかったかと思いますが、妻は桜井医師から幸子の治療を「この先どの様な治療を行ったら良いか判らない」と言われて動揺したということですが、妻からこの話を聞いた私も大変驚きました。しかも、その後も病状は悪化するばかりだったのです。
このときを境にして、私は桜井医師の「恋人役」という治療方針に不安を覚えるようになり、また、幸子の「わがまま」な振る舞いが全て、桜井医師の「恋人役」という治療の結果だと思うようになりました。そして、幸子は「恋人役」という治療方法によって、その病状を悪化させている、と考えるようになったのです。
(2)「恋人役」と病状悪化とを関連づけて考えるようになる
以上のように、桜井医師に対する強い不信感を持つと、病院内での幸子の「わがまま」や、幸子の私に対する冷淡な態度が、大変気になるようになりました。それは、「治療」によって病状が悪化しているのではないか、という疑いを持つようになったからではなかったかと思います。たとえば、おそらく9月下旬以降のことだったと思いますが、面会に行った時に、幸子がナースコールをして看護婦さんを呼びだし、桜井医師との面接がしたい、という要求をした場面に、一度だけ出くわしたことがあります。こういったことは、それ以前であれば、それほど気にしなかったかもしれません。
しかし、桜井医師の治療に不信感を抱いたことにより、そして、こういった「わがまま」は、たいていは、桜井医師との関連の中で主張されていた、ということにより、私は、幸子の「わがまま」を、桜井医師の「恋人役」という治療と関連づけて、同医師のそのような治療によって病気が悪くなっている、と考えるようになったのです。当初からこの治療方法に、一種の嫌悪感を抱いてきたからこそ、妻や次女よりも先に私の方が、幸子の容態の悪化の原因は、桜井医師の「恋人役」という治療方法にあると考えたのだと思います。
また、9月下旬以降になると、私ばかりでなく、妻も次女も、幸子の「わがまま」については、大きな違和感を持つようになり、幸子の病状が悪化していると考えるようになり、桜井医師の治療に対して徐々に不信感を持ち始めていたと思います。以上のような経緯で、9月下旬以降、私たち家族が一致して認識していたのは、桜井医師に幸子が執着することによって、家族から幸子が切り離されている、ということでした。
ただし、桜井医師の治療に不信感を強めたにもかかわらず、私が治療体制の改善を病院側に要請したのは、それよりもずっと後のことでした。10月頃だったと記憶しています、カルテによれば11月の初頭のことでした。それは、「入院したのに病気が悪化するのはなぜなのか?」という疑問を抱きながらも、それについてのはっきりした答えを見いだせないまま、不適切な治療によって幸子の病気が悪化したと確信するに至らなかったからだと思います。
10 私の抗議により治療体制が変更される
(1)治療体制の改善を申し出る
10 月終わりか11月初めか、定かではないのですが、ある日私が幸子の面会に行って、看護婦室の入り口付近を通りかかった時、看護婦が2人で、「幸子の態度が最近悪い」、「ことあるごとにナースコールをするなどして桜井医師を呼び、あるいは、同医師との面接をくり返し要求する」といったことを、私の方に背を向けて話しているのを聞いたのです。彼らは、私に気づいていなかったので、私は挨拶しませんでしたが、話だけはしっかりと聞いた記憶があります。
すでに述べたとおり、この時点で、私は、桜井医師の「恋人役」という治療方法に疑問や嫌悪感を抱いていました。また、9月下旬以降は、幸子の桜井医師に対する執着がひどくなり、それに伴って幸子と家族との距離が離れていってしまい、その上、桜井医師自身が妻に対して、「この先どうしてよいか悩んでいる」ともらしていると聞き、同医師の治療に対する不信感をはっきりと持つようになりました。
したがって私は、治療が失敗することにより、幸子が元恋人との間であったような別離を桜井医師との間でくり返し、幸子の病がさらに悪くなる、という恐れを抱くようになり、次のような恐怖心を抱くようになりました。桜井医師の「恋人役」という治療によって、幸子は桜井医師を好きになってしまい、離れられなくなっているに違いない。しかも桜井医師は、そのような関係を解消できなくなっているのではないか。しかし、しょせんは医者と患者の関係なのであるから、またもや幸子は、前の恋人との間であったのと同じように、桜井医師との関係でも、結局、失恋をして、さらに病気を悪くしてしまうのではないか、と。
以上のような危惧を抱き、それと同時に、看護婦達でさえ問題にしているのだから、もうこのことは誰もが認識していることで、私だけが考えているわけではない、と確信しました。そこで私は看護婦長に対して、桜井医師と幸子との治療関係を、すぐに改善するように、と要請しました。その日は10月頃だったと記憶してきましたが、カルテを見ますと、これが11月8日のことであったようです。その日私は、「恋人役」という治療方法では、幸子の病が悪化するばかりになってしまうから、幸子と桜井医師を引き離さなければならない、と考え、そのようにしてもらうように婦長にお願いしたのです。口頭で述べたことなのですが、大体、次のようなことを言ったという記憶があります。
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桜井医師が恋人役という治療を行って、幸子の状態が前から比べてどんどん悪くなってきてしまった。家族と離れていって桜井医師に執着するようになってしまった。この状態はよくないから何とかしてもらいたい。
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(2)治療体制の変更を告げられる
11 月8日のカルテには、たしかにこの時の話し合いとおぼしき記録がありますが、ここでは私の記憶にもとづいて、話し合いに至った経緯と、話し合いの場面について述べていきます。私が抗議をしたすぐあと、まず私、そしておそらくこの日一緒にいた妻も、婦長に呼ばれ、看護婦の控え室の奥にある部屋に通されました。私の話を聞いた婦長は、事実関係を確認するために、桜井医師を呼び付けました。二人の会話は、あたかも尋問のような形でしたから、婦長が桜井医師に事実関係を問いただしている、というような印象を受けました。この会話によって桜井医師から事実の確認をうけると、婦長と他の治療スタッフが、私たち両親に対して、治療体制を変更する旨のお返事と説明をされたのです。部屋には、桜井医師、婦長、そして私と妻がいました。それ以外に誰かがいたのか、記憶が定かではありません。
この時、主に婦長から、大体、次のような説明を受けたと思います。今後、幸子の治療体制を、桜井医師を主とするのではなく、何人かの医師でチームを組んで治療するように変える、と。この時、桜井医師はほとんど話をしなかったと思います。以上のように、私も含めて家族は、私の抗議によって、治療体制が改善された、と記憶しています。
(3)主治医交代は10月に桜井医師から幸子に告げられていた
ただし、幸子の主治医を桜井医師から前田医師に変更する、という決定は、桜井医師から幸子に対して、10月13・18日の面接で桜井医師から、極めて唐突に告げられています。
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<95年10月13日付、桜井医師のカルテより>
11月で主治医交代ということについて
本人は「仕方ないよ」と言いつつ、ショックはある程度はみえる。
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<95年10月18日付、桜井医師のカルテより>
11月からの主治医予定を伝えるとおどろき、ショック受けたという。「泣きつけそうもない。」
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このようなことは、当時私たち家族には知らされていませんでした。少なくとも、前田医師が幸子の治療に関わるようになったのは、私が抗議をして治療体制が変わってからだと記憶しています。しかし、私たちは、誰かが主治医になるのではなく、チームで治療が行われるようになる、と教えられたのです。桜井医師にかわって前田医師が主治医になる、などとは教えられていませんでした。
11 強制退院の経緯
(1)退院のきっかけとなった事件
以上のように、私の抗議によって治療体制が変わりました。しかし11月29日、幸子は病棟の屋上につながるドアをあけるカギの入った箱のガラスをわります。これが強制退院の理由になります。
(2)桜井医師が退院を主張したことで、退院が決定した
幸子がこの事件を起こした直後、退院させるかどうかといった今後の方針について、桜井医師や他のスタッフで会議のようなものがありました。私と妻は、その話し合いが行われている部屋のそばで待機をしていました。会議が終わって強制退院が決定した、ということを伝えられた際に、私と妻は病棟のすぐ外にある部屋で、婦長からこう告げられました。
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会議の席上、桜井医師が幸子の強制退院を主張して、退院が決まった。
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婦長自身は、強制退院ではなくともいい、と考えたようなのですが、桜井医師が退院を強く主張し、また席上、同医師は、転院先として自分が勤務している△△病院があるから、という理由も示し、強制退院をしたほうがよい、という意見を述べた、と聞きました。
(3)大泉病院への入院を拒絶した理由:桜井医師の「脅迫」
このようにして強制退院が決まった後、桜井医師は私たちに対して再三、大泉病院への入院を勧めてきました。しかし幸子は、ヴァイオリンが弾けないから入院はいやだ、と言っておりました。また妻は強制退院の際に、桜井医師から次のように言われた、と証言しています。
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<妻の記憶>
妻:「他の病院への紹介状を書いていただけますよね」
桜井医師:「書いてもいいですが、どこへ行っても幸子さんは私のところに戻ってきますよ」
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以上の発言を聞いた妻は、大泉病院に入院したら、幸子は一生病院から出ることができず、桜井医師に依存し続けてしまう、という危惧を抱いたということです。私自身も、桜井医師に対する幸子の依存があったため、大泉病院への入院には反対でした。ただし、私の方は妻と異なり、そういった危惧がありながらも、もう一方では、他の病院が見つからない、という最悪の場合、選択肢がほかにないのだから、入院させるしかない、とも考えていました。
ですから私は、桜井医師があれだけ強くすすめるのなら、大泉病院がどういうところか、見るだけは見てみようと、幸子が退院した後で一度だけ見学しましたが、病棟の状態は、幸子を入院させよう、と思えるような設備ではなく、また医療スタッフも、桜井医師ともう一人のお医者さんのたった二人だけしかいなかったので、これでは幸子が桜井医師と「ベッタリ」となってしまい、「桜井医師だけの患者」になってしまう、という危惧を抱いたので、結局、見学後、私は入院を断りました。また、妻と相談しましたが、二人で話し合って出した結論も同じでした。それ以外にも、幸子がヴァイオリンを弾けない、ということで入院をいやがっていたことも、重要な理由でした。
12 慶応大学病院強制退院後から渋谷の自殺未遂事件まで
(1)桜井医師による治療の継続
幸子が慶応大学病院を強制退院となった後、私たち家族は、危険を承知で幸子を自宅につれて帰って看病することにしました。また、桜井医師と週1回の面接をすることも認めました。
たしかに、妻は桜井医師と幸子を切り離したいという強い意見を持っていました。しかし私は、ほかに頼れる医療機関もなく、また、すでに治療体制が変わって、桜井医師一人に幸子が依存するというものではなくなっている、と考えていましたから、週1回の通院であれば大丈夫だろうと考えました。さらに、幸子が桜井医師と面接をしたいと強く主張したため、しかたなく許したというところもあったと思います。
しかし、現在カルテを見ると、12月5日から1月5日まで週3回の面接が実施されていた、ということが判ります。これだけ頻繁に面接をしなければならなかった理由が判りません。
(2)この時期の自殺未遂について
通院中、幸子は自宅のベランダから飛び降りようとしたことが一度だけあり、カルテにもその話が記載されています。また、このときの幸子の自殺未遂は、私と妻が幸子の今後のことで口論していた時におきました。ですから、自分のことで両親が争うのを見たくない、という気持ちからの行動だったかもしれない、と私は思っています。
しかも、私たちの前でこういうことをしたのは、発病してから幸子が亡くなるまで、これ以外にあったということを私は聞いたことがありません。
そもそも、幸子が自殺をしようとするようになったのは、慶応大学病院入院中からであり、その9ヶ月前の入院時には全くなかったのです。
13 渋谷での自殺未遂事件(1995年1月)
カルテを見ますと、1月5日、幸子と面接した後、桜井医師は、つきそってきた妻に対して、いろいろとアドバイスを与え、さらに、この日の夜7時過ぎには、私にも電話で話をした、と記録されていますが、妻にも私にも、そういった記憶は一切ありません。
翌1 月6日、私は幸子と次女を車に乗せて、[中略]送っていきました。幸子は、[中略]音楽サークルに[中略]向かう予定で、次女の方は新宿方面に向かったということです。しかし、幸子はその後いくら待っても会場に現れないため、会の人から自宅にいた私に連絡があり、私はすぐに、「幸子がどこか別のところに行ってしまったのではないか」と思い、ふと、幸子の机の周りを見ていたところ遺書を発見して読みました。そして、自殺をするために失踪したのだと考えました。
そこでまず、幸子のヴァイオリンの兄弟子であるQさんに連絡しまたした。Qさんは新宿駅に行って捜索したのですが、結局新宿駅に幸子が現れなかったため、今度は、自殺用の薬を買うためにどこかの薬局に現れているかもしれない、と考え、新宿と渋谷の薬局をまわっていただいたと思います。
そのあと、大学の友人達やパソコン通信の会の人たちにも協力してもらい捜索を行いました。しかし、なかなか発見できないため、まもなく警察にも捜索をお願いしました。私は、慶応大学病院に幸子が帰ってくるかもしれないから、ということで、Qさんたちと、慶応大学病院の救急の受付で落ち合って朝を迎えました。そのうちに、妻から渋谷のホテルで幸子が意識不明で発見されたという連絡を受け、救急車で運び込まれた東京女子医大に向かいました。幸子は同病院のICUに入院しましたが、「今晩が山です」と言われました。しかし、人工透析によって、奇跡的に一命を取り留めた、と聞きました。
東京女子医大の先生に今までのいきさつを話しますと、桜井医師との関係を切ったほうがよい、というアドバイスを受けました。そこで、幸子を入院させる病院を自分たちで早急に探さなくてはならなくなりましたが、なかなか見つかりませんでした。困っていたところ、東京女子医大の医師が、女性医師に付く方がいいでしょう、と言い、またおそらく、彼女に長谷川病院を紹介してもらったと思います。
14 桜井医師による治療についての説明(96年1月9日)
(1)Q氏が桜井医師に面会をする
カルテを見ますと、1月9日、妻はQ氏とともに慶応大学病院の桜井医師に面会に行っています。妻によれば、幸子が発見された直後、Q氏に対して妻が、「幸子が桜井医師からいろいろと変なことを言われていた」、つまり、桜井医師が幸子に対して「恋愛療法」のようなことを行っていたのが幸子の自殺未遂につながっていないか、ということを話したそうです。
しかし、それを聞いたQ氏は、最初は「まさかそんなことはないでしょう」という反応だったそうです。しかし妻が繰り返し訴えたために、「それでは実際に桜井医師に聞いてみましょう」ということになり、A大学病院に行ったということです。ただし、妻は感情のわだかまりがあって桜井医師には会いたくなかったため、かわりにQ氏に桜井医師と話してもらったということです。
しかし、桜井医師と会ってきたQ氏は、私たち家族に対して、桜井医師は、そういった治療は行っていない、と述べたと説明し、またQ氏も、桜井医師の言葉を信用していたようでした。
(2)桜井医師に対して治療を断る
しかし私自身は、「恋人役をします」という桜井医師の言葉を直接聞いていましたから、桜井医師が嘘をついていると思って、「それは違います、恋人役をやります、と被告先生は私に言いました」とQ氏に言った覚えがあります。
ですが、そのように嘘をつく人物に、幸子の治療など任せられないと考えて、「関係を切ってほしい」ということを伝えて、桜井医師との関係はいったんここで断ち切ったつもりでおりました。それは妻も同様だったと思います。幸子の治療は、その後長谷川病院の原医師にお任せすることになります。
15 長谷川病院入院
(1)入院直後の病名と治療体制
長谷川病院のカルテを見ますと、入院は96年1月9日であることが確認できます。主治医は女性の原医師で、私が記憶しているところでは、幸子が入ったのは、閉鎖病棟の中でも一番軽度の患者を受け入れるための病室でした。入院当初、幸子は多量の薬を投与されていたため、朦朧として、生気がないような感じを受けました。
私たち家族は、幸子が入院中、何回か家族療法の面接を受けました。マジックミラーのある部屋で幸子を含めた家族の様子を医師が観察し、主としてG医師が家族の問題点を指摘し、そこから幸子と家族の関係を改善するための指導がありました。
以上のような治療を受けている途中で、原医師は、幸子の病名が「境界性人格障害」あるいは「ボーダーライン」あると言っていました。1月10日のカルテには、「境界型人格障害」という診断名が記されています(長谷川病院のカルテを参照)。
すでに述べましたように、私たち家族は、慶応大学病院入院中、幸子の病名を桜井医師から告げられたことは一度もありませんでした。病名を告げられたのは、K病院が初めてでした。慶応大学病院のカルテには、芳賀医師により「医原性Borderline Personality Disorder」(10月26日付けの「申し送り」)と記載されていますが、A大学病院の頃、私や妻は、そのような病名を知らされていませんでした。
長谷川病院で「ボーダーライン」という診断名を聞いても、それがどういう病気であるか、当時私にはほとんどわかりませんでした。たしかに原医師からは、「人間関係」をめぐる病気だという説明を受け、難しい病気になってしまったのだ、と大変深刻な気持ちになったことを覚えています。ただし、この病気そのものと、桜井医師に幸子が依存してしまっているという現象とは別のものなのだろうから、ますます難しい病気なのだろう、と考えておりました。
当時、幸子と原医師との面接は週1回程度で、それ以外は、カウンセラーとの面接があったと思います。しかし、K病院のシステムは、主治医と患者とのコンタクトは週1回で、それ以外は、カウンセラーが自分の面接の報告を主治医に行う、というものでした。幸子は、直接主治医と話ができず、自分の病状をちゃんと説明できないため、このようなシステムはいやだと言っていたのを覚えています。また、厳しい持物検査があり、外出や時間の管理も厳しい、ということについても不満を漏らしていました。
(2)桜井医師との治療再開を原医師が提案する
入院後しばらくして、原医師は家族療法の面接中に、桜井医師を知っていること、また、幸子の病気を早く治すために、桜井医師と幸子を再び会わせる必要がある、と述べました。「桜井医師と幸子を会わせなければ絶対になおらない」というニュアンスがある、明確な発言でした。しかし私は、原医師が桜井医師を指導・コントロールしながら治療を進めていくのだろう、と考えましたので、幸子を桜井医師に再会させるという治療方針を了解しました。
また、Q氏も私たちと同じような説明を原医師から聞いたということです。ただし、Q氏が、桜井医師と面接を再開するのであれば、原医師が二人の関係をコントロールしてもらいたい、と要請した際に、理由は述べなかったそうですが、「それはできない」と回答したということでした。
ただし、この頃幸子と桜井医師は、電話で話しているので、正確には、すでに関係は再開していたと思います。たとえば、96年1月16日付の長谷川病院のカルテには「PM:8 桜井医師にTELしている」と記されています。同年2月16日付けの長谷川病院のカルテには、「外泊中桜井医師に連絡したが素気なくされ。」と書かれており、前日の15日に1日だけ帰宅した際に、幸子が桜井医師に電話をした、ということがわかります。妻と次女も、幸子がこの時期にしばしば桜井医師に電話をしていた、ということをよく覚えていると言っております。
(3)桜井医師が原医師の要請を受け入れた理由
そもそもこの時点で原医師からの要請を断るべきだった桜井医師が、断らずに受け容れたのはなぜだったのでしょう。約二年後、済世会中央病院のカルテに残されている面接と電話に関する幸子の記録を見ると、次のように書かれています。
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幸子レポートより:<98年8月19日の面接・電話に関する、幸子から中久喜医師宛レポートより>
Dr.がなぜ長谷川病院時代も私を治療したのか?
<人に預けてどうにかなるという考えそのものがなかった。医者の保身を押し通してしまった。私に対しては、ものすごい非難があった。
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16 済世会中央病院での桜井医師の治療再開(済世会中央病院第一セッション)・長谷川病院への強制入院
(1)家族の状況と桜井医師の治療再開についての認識
幸子が桜井医師との面接を済世会中央病院で再開してからは(以下、「済世会中央病院第一セッション」と呼びます)、私自身は、その前のように家族療法を受けることもなくなり、幸子の治療について詳しく聞いていませんでした。ただし、渋谷の自殺未遂事件以来、私たち家族は疲れ切っていて、家族以上に幸子をサポートしていただいたQさんから、何があったのか、という話を事後的に聞くことの方が多かったと思います。
私自身は、幸子の治療については、桜井医師の治療そのものに不信感を持っていたものの、原医師によるコントロールがあると思っていましたので、慶応大学病院入院時代のようなことは起きないだろうと思いこんでいました。
しかし、Qさんからの事後報告を聞けば、幸子の病状は改善するばかりか、悪化の一途をたどり、目を離せば自殺をしてしまうかもしれない、という状況が常にあった、とのことでした。なぜそのようなことが起きるのか、私には見当がつきませんでした。Qさんも、当時はとにかく自殺をとどめることに精一杯であったと記憶しています。
(2)桜井医師との接触のあとで幸子が自殺未遂をする、というパターンにQさんが気付く
ただし、幸子の死後にQ氏に聞いたところ、今から思い起こせば、桜井医師と面接をしたあと、幸子の具合が必ず悪くなる、ということが繰り返されたので、桜井医師に一度その点について、「あなたのところに来るとかえって悪くなる」という「警告」を発した、ということがあったそうです。桜井医師は、そのような現象に気づいていたかは不明ですが、「私は一生懸命やっているのですが」と回答するばかりで、原因を検討しようとすらしなかった、ということです。
幸子のことで疲れ果てていた私たち家族を見かねて、つきっきりで幸子の面倒をみてもらっていたQ氏からは、何かあるごとに、そのたびに報告をもらいましたから、桜井医師との面接や電話のあと、幸子が自殺を試み、あるいは、具合が悪くなる、ということについては、家族の間で、それとなくそれぞれ感じるところがあったのではないかと思います。私は「また(A大学病院入院時と)同じことをやっている」、と認識していたと記憶しています。
しかし、そのような現象を最も把握していたのは、家族で一番幸子の面倒をみていた妻だったと思います。当時は、そういうことを話す余裕がありませんでしたが、現在妻から聞くと、慶応大学病院入院時から、幸子が桜井医師との接触のあとに状態が悪くなる、という場面に何度も遭遇し、この時期にも、もっと危険な状態になるということが何度もあったので、なぜ治療のあとで病状が改善せず、かえって悪くなるのか、とずっと不思議に思っていたということです。
(3)長谷川病院への強制入院
1996 (平成8)年8月半ばの時点で、こういう状態では、もはや治療の継続は不可能であったと思います。桜井医師は、そのように幸子に告げ、別のお医者さんに変わるなどの決断をされるべきであったと私は思います。大泉病院への入院を私たちが拒否しているのですから、それ以外に方法がなかったでしょう。しかし、結局、桜井医師が治療の中断を決断しないうちに、私たちのほうで、もはやそれ以外に方法がないと判断した結果、8月末頃、長谷川病院に入院させました。これにより、桜井医師との面接も終わりました。入院中、数回の外泊がありましたが、治療は長谷川病院で行われました。
17 軽井沢での自殺未遂 (1996年11月末)
(1)自殺未遂の経緯
長谷川病院入院中、幸子は卒論を書き上げ、翌97年3月の卒業を目指していました。しかし、96年11月27日、K病院を退院した幸子は、翌28日、家を出たまま行方不明になります。八方手を尽くして探しましたが見つからず、警察に捜査願いを出しました。同時に、幸子の友人にも捜索に協力してもらいました。結局翌11月29日の昼近く、軽井沢のホテルから連絡があり、チェックアウトの確認時に、意識不明で発見され救急車で軽井沢病院のICUに運ばれたということでした。そこですぐに、幸子の友人の車を私が運転して妻とその友人の三人で軽井沢に向かいました。次女はその後から駆けつけました。
(2)私のパーキンソン病の発病
病院に到着する前に、軽井沢警察から、幸子の持物を見てほしいという連絡がありました。そこで、先に警察に行ったのですが、そこで幸子の鞄を見たときに、私の心と体に大きな変調が起きました。私はその場で、幸子の死というものを強く意識したのだと思います。が、それと同時に、私の身体の中で、今まで精神的に耐えてきたものが破裂してしまったような、すべての糸が切れてしまったような、異様な自覚症状があり、自分で自分の手足が全くコントロールできなくなってしまったのです。後日、この症状がパーキンソン病と診断されましたので、発病のきっかけは、この時のことにあったと思います。この時の発病以降、私は自分のことで手一杯となり、幸子のことは、妻や幸子の友人に、事実上押しつけてしまう、という結果になります。
この後は、同行した幸子の友人にすべて助けられながら、軽井沢病院ICUにたどりつきましたが、見る影もない幸子の姿を見て私達は泣きました。とはいえ、幸子はここでも奇跡的に一命を取り留めました。
(3)桜井医師に電話で冷たい対応をされて死を選んだ
卒論を書いて卒業を目指していた幸子がどうしてこんなことになってしまったのか。後ほど聞いたところでは、幸子は死を覚悟して軽井沢のホテルに行ったのですが、ホテルから桜井医師に電話をして「声を聞きたかった」あるいは「死ぬ前に声を聞きたかった」と言ったということですが、しかし桜井医師からは「声が聞ければよかったのだろう」と冷たい返事しかなく、それで自殺を決行したということでした。
ですから、幸子の自殺の引き金を引いたのは桜井医師の一言であったと思います。また、私はその話を聞いて、これまでと同様、幸子が桜井医師に電話をして裏切られて自殺未遂をする、というパターンであると思いました。
桜井医師は、軽井沢から幸子が11月28日にかけた電話に関する記録を一切残していません。これは、桜井医師の職務上の怠慢であると考えます。
(4)中久喜医師が主治医になるまで
その後、軽井沢病院から退院する際、受け入れる病院がなかなか見つからなかったのですが、同行した幸子の友人が入院先を探し出し、転院が出来ました。さらに、中久喜医師を紹介していただきました。こうして、97年2月以降、幸子の主治医は中久喜医師となりました。
18 中久喜医師が主治医になる (1997年2月〜)
(1)中久喜医師と幸子の病状について
中久喜医師と治療を開始した当初、家族面談があり、同医師に会いましたが、私自身は合計二回しか同医師に会いませんでした。しかしそのときの同医師の発言や、その後妻から時々話を聞いている限りでは、同医師の治療がうまくいっているという感触がありました。
幸子から聞いたと思いますが、中久喜医師は幸子の病名を「うつ病」である、と述べたということです。それ以外の同医師による治療や97年2月以降の幸子の治療については、私は詳しいことは聞いていません。
当時妻から聞いていた話では、中久喜医師はまず幸子に処方されている薬の量を減らすように指示をされたということです。その結果、幸子は、副作用でずいぶん苦しんでいましたが、中久喜医師の治療方法を信じて、従いました。そして次第に、薬の量が少なくなっても、禁断症状が見られなくなっていった、と思います。
幸子がN医師を大変信頼していた、ということが、幸子や妻からの話を聞いていてわかっておりましたので、治療はうまくいっているのだろうと考えていました。
(2)幸子の日常的な努力
とりわけ、私が中久喜医師の治療がうまくいっているのではないかと考えたのは、同医師との治療を始めて以降、幸子が前向きになっていろいろなことをし始めたからです。大学医学部の受験やアルバイトなどがその例です。
軽井沢での自殺未遂までは、「先生が、先生が」と、桜井医師に執着するばかりであった幸子が、中久喜医師の治療が始まると、それ以外の様々な方向に目を向け始めたのです。さらに、そうやってがんばっている幸子を応援している中久喜医師の態度を伝えて聞いていたので、同医師の治療を信頼していたのです。
その後も幸子は、接骨院のアルバイトやヴァイオリン教室での人間関係、親友との関係を通じて、より健全な日常生活を営むようになりました。その中で、幸子は生きるために努力をしていました。
もちろん、私たち家族から見れば、幸子の性格や健康状態は、発病以前と比べると、大変ひどいものでした。しかし、それでも、日常的には何とか希望を持てた日も少なからずあったのです。桜井医師以外の人々と幸子が作っていた人間関係と比較すれば、同医師と幸子との関係が、いかに異様で不自然なものであったか、ということがわかるのです。
(3)当時の私と幸子の関係
中久喜医師の治療が始まり、さらに、その後桜井医師と済世会中央病院で面接を再開した時期(以下、「B中央病院第二セッション」と呼びます)、私は当時朝5時に起床して6時に出勤し、残業をして23時に帰宅する、という生活を送っていました。その結果、家族との接点自体が少なく、またパーキンソン病を発病して以来、私自身が日々病と闘うことになり、今日に至るまで、体調は悪化の一途をたどっているため、なかなか娘の病状について事細かく注意を向けられる状態ではありませんでした。その結果、私は自分のことで手一杯になり、幸子と家のことはすべて妻にまかせてしまっていました。
また、慶応大学病院入院時もしくは退院時から、幸子は私にある種の敵意のようなものを持っていましたので、私に心を打ち明けるようなことはなかったですし、自分の治療がどのような状態であるか、ということについては、99年4月以降、幸子が「裁判をしたい」と私に申し出るまで、幸子から直接聞くようなことはありませんでした。
19 桜井医師の治療:済世会中央病院第二セッション(1997年11月〜1999年4月)
どういう経緯であったのかは、当時私は知らなかったのですが、幸子は再び桜井医師の治療を受けることになりました。記録によれば、97年10月終わりから 11月初め頃からです。しかし、先ほど述べましたように、まず幸子は私に対して、A大学病院から退院して以降、距離をとり、敵意さえ持っていたように思えます。そのため、幸子が私に相談を持ちかけるようなことは一切ありませんでした。他方、私の方も、先に述べましたように、当時仕事が忙しく、また、進行していくパーキンソン病によって心身共に厳しい状態にあったため、当時の幸子の治療については、ずいぶん後から話を聞く、という状態であり、その上、家族と話をすることも大変少なかったので、当時の治療についてはほとんどわかりません。
ただし、妻から要請されて、何回か、夜中に済世会中央病院まで、車を運転して幸子を迎えに行ったことがあります。それは、桜井医師との面接が長引き、その時間まで幸子が治療室にいたからです。なぜそのような時間まで、幸子のような年齢の女性を治療室に引き止められているのか、私にはとうてい理解できませんでした。
また、私が妻から、幸子を車で迎えに行ってほしい、と頼まれる時は、いつも、幸子の具合が悪くなり、つまりは自殺の危険性があるので、付き添って帰ってほしい、という桜井医師の要請があった時でした。ですから、桜井医師の治療を受けると、幸子は必ず具合が悪くなり、自殺の危険性が高まっていた、と理解していました。そのようなことは、それ以前から起きていたので、同じことを繰り返している、としか思えないことでした。ただし、そのように確信できるのは、かなり後になってからのことです。関係が再開されて、幸子の具合が悪くなって死のうとすることが多くなり、それが繰り返されていくうちに、やはりこれはおかしい、という認識に達したのだと思います。
その間、桜井医師が慶応大学病院入院時代に幸子に対して恋愛感情を持っていて、それは今もある、ということを桜井医師が幸子に告白した、ということを私はQ氏から聞いたことがあるかもしれません。しかし、99年4月までの間に、詳しい事情や事実について聞いたという記憶がありません。
また、私も含めて家族は、幸子の慶応大学入院以来、お互いに疲れ切っており、一致団結して幸子をサポートできるような状態ではなかったと思います。ですから、B中央病院第二セッションの時期に、桜井医師がどういう治療を行っているのか、ということについては、妻からの話に基づいて、想像するしかありませんでした。
とはいえ、96年の済世会中央病院第一セッションの頃と同様、済世会中央病院第二セッションでも、面接の後でほぼ必ず具合が悪くなる、ということは妻から聞いていましたし、実際幸子が自宅で寝込んでいるということは見ていました。そしてその原因が、桜井医師の電話や面接の後だということはわかっていましたので、「(済世会中央病院第一セッションと)また同じことをやっているな」「繰り返しているな」と思っていました。
20 幸子から裁判をしてほしいという要請を受ける(1999年3月〜4月)
(1)「恋愛妄想」という「診断」
その後、99年3月か4月頃、済世会中央病院第二セッションが終わるか終わらないか、という時期に、幸子から、桜井医師を裁判で訴えたい、と要請され、そのときに、97年末から99年3月頃までの、桜井医師の治療について、幸子とQ氏から説明を受け、その時に、済世会中央病院のカルテや幸子が中久喜医師に提出したレポートを読んだ記憶があります。
この時の説明では、幸子は、1999年4月頃、最初、Q氏に「被告先生が嘘を言っている、恋愛だと自分は思っていたのにだまされた」と訴え、裁判をしたいと言ったそうです。次いで二人は私に協力を求めてきました。二人は、幸子に対して桜井医師が恋愛感情を告白したにもかかわらず、最終的にはそれを否定するなどして、医師としての責任をとらなかった、また、同医師は慶応大学病院入院時代に、幸子に恋愛感情を持っていて、それで幸子は病気になり、何度も自殺を繰り返してきたのであるが、桜井医師はそれに対する責任をとっていない、と訴えていたと思います。また、この時幸子は、「今までの長い苦しみの時間を返してほしい」と言っておりました。また、自分と同じ被害者を出さないために、裁判で訴えたいとも言っておりました。
私はこのとき、幸子が桜井医師に対して抱く恋愛感情を「恋愛妄想」と記載している診断書のような文書を初めて読みました。そこには「恋人役」という治療法を用いた、などという記述は一切なく、あたかも勝手に幸子がおかしな感情を持ったかのように書かれてありました。しかも、桜井医師は、「助手(ネーベン)」が書いたものであり自分が書いたのではない、と言ったそうです。
慶応大学病院入院時代から私は、桜井医師が「恋人役」という治療方法を用い、それによって幸子の恋愛感情が生まれたと考えていました。また、そのことは桜井医師もよくわかっているだろうと思っていました。ところが、診断書のような書類で幸子を「恋愛妄想」であると決めつける一方で、同医師が実施した「恋人役」という治療方法が一切記載されていませんでした。ですから、私はこの書類を読み、また幸子やQ氏からの説明を聞き、大変驚き、また怒りを覚えました。
その上、幸子とQ氏は、桜井医師は済世会中央病院の面接の中で、幸子に恋愛感情を告白した、と私に説明しました。以前にも聞いていたことではありましたが、様々な記録を読んだこともあり、このときに私は、「恋人役」という治療方法を適用する、という桜井医師の話はすべて作り話で、実は同医師が幸子に恋愛感情を抱いていただけだったのであり、その結果、幸子は、同医師だけを好きになる患者にさせられてしまった、と確信しました。
そもそも私は、「恋人役」という「治療方法」そのものについても、幸子に嘘をつくような治療が適切なのだろうか、という違和感を持っていました。しかし、 99年4月頃、幸子とQ氏からの説明を受け、カルテなどを読んだ結果私は、桜井医師が、幸子だけでなく私たち家族をもだましてきたのだという認識を持ちました。
私はそういった桜井医師の幸子や私たち家族に対する無責任な治療や説明のやりかたに対して、強い憤りの気持ちを持ちました。それと同時に、それまで幸子がずっと、「桜井医師は私のことが好きだ」という言葉を信じてやれず、大変申し訳ないことをした、という自責の念にかられました。
私が当時見た資料のうちで、「恋愛妄想」という言葉が書かれてある診断書とともに強く印象に残っているのは、幸子が中久喜医師に対して提出した、98年1月付のレポートにあった桜井医師の「あなたとは結婚できない。あなたのお父さんがきらいだから」という発言でした。
慶応大学病院入院時、桜井医師は私や家族から幸子を引き離して自分に引きつけてしまった、としか思えない状況があり、また、桜井医師が私に直接会おうとしたことがほとんどなかった、ということ、さらには、私がそばにいても、幸子と桜井医師は、その場に二人しかいないかのような会話をする、ということがよくありました。
そういったことがあったため、桜井医師がなぜそこまで私を避けようとするのか、と考えたことがありました。ですから、桜井医師が私のことを「きらい」だったから幸子と結婚ができないと断言したという話は、私の実感として、よく理解できたのです。
幸子のレポートでは、これ以外にも、慶応大学病院時代に、桜井医師が幸子に対して考えたり言ったりしたことがはっきりと書かれてあり、済世会中央病院のカルテよりも、二人の会話の内容がよくわかるものでした。その結果私は、慶応大学病院の時に、桜井医師が幸子に恋愛感情を抱くばかりか結婚までも考えていた、ということを知りました。
また、幸子のレポートの中で桜井医師は、慶応大学病院の面接で、幸子に対して恋愛感情があるかのような言葉を次々に幸子にぶつけていたということを認めていました。慶応大学病院入院中、妻から聞いていたことでしたが、私はそういったことを桜井医師が述べているのも、全て「恋人役」という「治療」があるからだと思っていました。しかし、99年4月頃、そうではなく、桜井医師が幸子に恋愛感情を抱いていたため、幸子の気持ちを自分に向けるために行ったことだった、と理解したのです。
私は、そのような幸子のレポート全体を読み、桜井医師にだまされた、と感じたのです。「恋人役」という「治療法」をやる、という「治療方針」を信じたのに、結局、幸子が桜井医師の「恋愛感情」という欲望の対象として、「おもちゃ」にされた、と思ったのです。
その上、桜井医師は、幸子に対して恋愛感情がある、といった発言を97年末から99年4月初頭まで繰り返し、それによって幸子をひきつけておきながら、最終的には「親的な愛情」しかなかった、恋愛感情はなかった、などと主張し、幸子を混乱させたのです。この時幸子は、大量服薬で自殺未遂をしています。桜井医師を訴えたい、という幸子の気持ちは私もよくわかりました。
(2)裁判をあきらめる
1999 年5月、私は知人に弁護士を紹介してもらい、幸子とQ氏とともに相談をしに行ったのですが、弁護士は私たちの話を聞くなり、「医療裁判は難しい」と言うばかりで、まったく相手にされないという状態でしたので、私たちは三人ともがっかりしました。あきらめずに別のところの弁護士にも相談したのですが、「患者が死ぬなどの事件にならないと」医療裁判にならないと言われました。それを聞いて幸子は、「自分が死亡しないと裁判にならないのか」と言って失望していました。
21 済世会中央病院第二セッション終了後の幸子の様子(1999 年4月〜)
(1)「毎週水曜日に死のうとする」ということはなくなる
すでに申し上げた通り、当時幸子のことについてはすべて妻にまかせっきりしてしまっていたため、私自身は、桜井医師との面接やメールのやりとり、毎日の電話がなくなってから、幸子の状態が変化したどうかは、残念ながら記憶が定かではありません。たしかに、私や妻、次女から見れば、桜井医師との関係がなくなったことは良いことでした。しかし、幸子がそれによって不安定になったのも事実です。裁判をする、ということもいったんあきらめざるを得なかったので、落胆していたことも気になっていました。
ただ、私の記憶するかぎりでは、常に目が離せない状態は変わらなかったとはいえ、桜井医師に会わなくなり、同医師の一言で傷つく、ということがなくなり、毎週水曜日が危ない、と家族が戦々恐々とする状態ではなくなったと思います。
さらに、接骨院の仕事やお友達とのつながりによって、幸子自身、なんとか自分を支えていたのではないかと思います。引用はいたしませんが、99年4月以降、幸子のメールを見れば、友人との関係で、幸子自身が支えられていたということがわかります。もちろん、N医師の治療が幸子の状態を安定させていたこと、そして、妻による努力によって幸子が生きる希望をもつようになっていたことが、そういったことの前提にあったと思います。
22 ヨーロッパ旅行からM氏との婚約・事実婚
(1)旅行決定の経緯
その後、99年6月か7月頃、幸子と中久喜医師との話し合いの中で、幸子が8月にヨーロッパ旅行をすることが決まったということです。どのような経緯でそのような話になったのか、正確にはわかりません。
しかし妻の話では、中久喜医師が毎年必ず夏と冬に休暇をとられるため、夏休み中をどのように過ごすか、という話になり、その間、自殺未遂をしないために入院をするか、あるいはそのお金を使ってヨーロッパ旅行をするか、という選択肢をN医師が示され、幸子が後者にすることにした、ということだったそうです。
また、中久喜医師は、友人が[中略]留学中で、幸子が彼女と向こうで会う、という計画を聞いて、最終的に旅行に許可を出されたということです。ですから、同医師は、幸子が良い人間関係を通じて自分を支えていく、ということを重視していらっしゃったのではないか、と私は考えています。
私や妻は、最初、幸子がヨーロッパを一人で旅行をするという話を聞いた時に、そのようなことが本当にできるのか、旅先で何かあったらどうなるのか、という気持ちになりました。それ以前、幸子は次女とともに韓国に行っていましたが、それは、次女がついていくから認めたことです。とはいえ、中久喜医師と話し合って本人がそう決断したのだから、こちらも覚悟をして送り出そう、と私も妻も決心いたしました。こうして幸子は8月13日から10日間、ヨーロッパ旅行に旅立ちました。
(2)旅行によって幸子が得たもの
ヨーロッパ旅行は、様々な人と出会い、広い世界を見てきたことにより、幸子にはプラスになったのではないか、と私は思っています。妻の陳述書で引用されている幸子の旅行記を読めば、たしかに旅の途中で、桜井医師を思い出して具合が悪くなっている、と書いていますが、それ以外の部分を読めば、幸子がずっと寝込んでいたわけではなく、芸術や風景を実際に体験していたということや、見知らぬ場所や人々との交流があったことがわかります。何が起きても仕方がない、と覚悟をしていましたから、帰国したときにはほっとしました。
また幸子は、私たち家族一人ひとりにおみやげを買ってきてくれていました。妻に比べて、私は幸子との関係がずいぶん希薄になっていましたが、それでも、時々は言葉を交わすことがありましたし、裁判をしたいと言って私に相談してきたことからもわかりますように、私との関係が疎遠になっていたわけではありませんでした。
幸子の旅行記にも書いてありますが、旅行から帰ってきて、疲れて寝込んでしまうようなこともなく、帰国したその日から、アルバイトに復帰しています。妻の話では、患者さんの中に、お年寄りの女性ですが、一人でヨーロッパ各地を旅行されている方がいて、幸子はその方からずいぶんいろいろなアドバイスを受けたということですから、幸子にとって、アルバイトが自分を支える大切な場であったのではないかと思います。
(3)M氏との交際・婚約・事実婚
その後、幸子は旅行中に知り合ったM氏と交際を始めますが、私は幸子がM氏と結婚するなどとはまだ予想していませんでした。幸子からM氏を紹介されたのは、ヨーロッパ旅行から帰った直後で、私も家族も、幸子が無事に帰国してよかったと考えている程度で、M氏がどういう人物なのか、ということをあれこれ考える余裕がありませんでした。
その後、「自分とは趣味も何もかも違う人だ」ということを聞いたことがありますが、「そういう人の方がいいんだよ」と幸子に言った覚えがあります。私がこのように言った時に意識していたのは、かつて幸子が桜井医師について言っていたことでした。幸子は桜井医師のことを、自分と趣味や感じ方が「全く同じ人」だと言っていました。ですから幸子は「同じ人」でなければ恋愛の対象にはならないと信じ切っているようでした。しかし私は、「同じ人」と長時間一緒にいれば息が詰まるばかりであり、自分と趣味や感じ方、考え方がちがう人と交際する方が楽しいはずだと思っていました。慶応大学病院時代に、「なぜ慶応医師ではなくて桜井医師なのか、山田医師の方が女性から見ればいいのではないのか」と聞いたこともありますが、幸子からはっきりとした答えはありませんでした。私はその頃から、「全く同じ人」であるから桜井医師が好きだという幸子の発言に、病的なものを感じていたのです。
M氏と交際を始めてから、幸子が以前よりも元気になったような気がしました。「違う人」との交際によって、幸子に何らかの転機が訪れたのではないかと私は当時考えていました。やがて、幸子から直接であったか、妻からであったかは定かではありませんが、M氏とは婚約をした、さらに、事実婚という形で結婚をする、籍は入れない、という話を聞き、それと前後して、M氏から、結婚を許可してもらいたいという話がありました。
その間、私はM氏の話し方や幸子に対して率直に接している点について好感を持つようになっていきました。[中略]幸子の今までの事情も知った上で、「わがまま」な幸子をリードできる器があり、それができる熱意があると感じました。幸子の気分が悪い時の対応の的確さなどは、私以上でした。
しかし、Mさんに幸子をお任せしようと思った最大の要因は、幸子に対するM氏の愛情を感じたことにありました。ある時M氏は私たち両親に対して、「もう少し幸子さんの側に立ってください」「幸子さんをもっとほめてください」と言いました。以前Q氏から「幸子さんはすばらしい人だからもっと自信を持ってください」と言われたことがありますが、それは親を励ます言葉でした。しかしM氏が、幸子の側に立ってくれ、と私たちに訴えているのは、幸子のために言っているということがわかりました。この発言は大変印象深く、このことがあってから私は、M氏が本当に幸子を愛しているのだと確信し、幸子をお任せして大丈夫だと思ったのです。
私としては、形はどうであれ、幸子が幸せになればそれでよいと考えていましたので、事実婚であるということについてはとくに気にしませんでしたし、今はそういう気にならなくとも、いずれ幸子が籍を入れたい、と言い出すのではないか、とも考えていました。
この時期も、私は相変わらず自分のことに精一杯で、幸子のことはすべて妻にまかせっきりになっていました。しかし、M氏が同席するなかで、幸子を交えて、家族全員で話すことも何度かあったと記憶しています。家族の関係は、幸子の状態が改善されたことやM氏と結婚して幸せになるという展望が開けたことにより、多少は明るい雰囲気になるときも増えたのではないかと思います。
もちろん、幸子が死にたいと言ったり、精神状態が不安定になったりすることがなかった、とは言えません。しかし、私は、妻からの話や、実際に幸子と話す中で、状態がよくなっているのではないかと考えていました。実際、この時期に幸子が自殺をしようとした、という話は聞いたことがありません。
また、M氏との交際から婚約へということがあった2000年9月末頃には、幸子は高校時代のお友達から誘いを受け、10月初旬には九州旅行もしています。ですから、ヨーロッパ旅行から帰ってから、幸子は新しい人間関係を作っていったように思えます。
そのようなことを考えてみますと、それまで幸子が桜井医師との間で作り上げていた異様で病的な人間関係とは異なり、同医師との関係が断絶してからは、N医師の治療、それまで幸子が努力して積み上げてきた人間関係、そしてヨーロッパ旅行やMさんとの交際が、幸子の状態を改善する上でプラスになった、ということがわかります。
23 Mさんと大阪で生活するようになる
(1)大阪での同居と結婚式の準備
その後、ある日幸子が妻に対して、大阪でM氏と生活をする、と言ってきたそうです。妻は、幸子がM氏と一緒にいる時間を多く持ちたいと思っているから、そのように考えを変えたのだろう、と思ったということです。
妻の話では、中久喜医師は「ロンドン留学の予行演習になる」と述べ、大阪で生活するという幸子の決断に賛意を示したということです。また、幸子はそういうN医師に絶大な信頼を寄せていました。
幸子は家族と別居したことはありませんし川崎市以外の土地で生活したことがありません。それでも幸子が大阪で生活することを決意したのは、以上のように、まず、M氏と一緒にいる時間を多く持ちたい、と幸子自身が考えたこと、そして、そのような考えに、N医師が賛成した、ということにあると思います。
12月の終わりになると、M氏と一緒に大阪で新居を探し、結婚式の日取りを決めて、式場やパーティー会場の予約、ウェディングドレスの仮縫いなどを始めました。
(2)私との関係に変化が見られるようになる
このようにして、結局幸子は大阪に住むことにして、結婚の準備を進めていったのです。私も、一度ウェディングドレスの試着につきあったことがありました。私の意見も聞きたいと幸子は考えていたと思います。ですから、この頃は、私に対して以前示していた敵意のようなものを感じなくなっていました。すでに述べましたように、私は、慶応大学病院入院中、桜井医師と幸子を引き離したことで、幸子が私に対して良く思っていない、と感じていました。しかし、M氏との結婚の話が出て以来、私にもアドバイスを求めることがありましたので、この頃の私と幸子との関係は、親密とは決して言えませんが、以前ほど険悪な状態ではなかったと思います。
(3)M氏には幸子の病気や自殺のことを話さなかった
ただし、私はM氏に対して、幸子の病気や入院について、あるいは桜井医師との関係について一切説明してきていませんでした。そういったことについてM氏に説明するようになったのは、幸子が亡くなってからのことです。私としては、桜井医師との関係はなくなったのだし、M氏と結婚するわけであるから、あえてそのようなことを説明する必要はない、と考えていました。それは妻も次女も、同じでした。
幸子の死後、幸子からいろいろな話を聞いていたとM氏から聞きました。しかし、M氏は、私たち両親や次女からは、何も説明を受けていませんでした。とくに、桜井医師との関係については、家族の私たちからの説明は受けたことがなく、幸子からは「恋愛」として、同医師の話を聞くばかりだった、ということです。
(4)大阪での生活について幸子から聞いていたこと
大阪に行き、生活の場面でM氏と小さないざこざはあって、そのことについて電話で相談を受けたので、アドバイスをしたこともありました。しかし、それ以外のことで、大阪で二人が住み始めて何があったのか、ということについては、私はほとんど知りませんでした。妻や次女は、私よりも事細かに、M氏とのことや大阪での生活についていろいろな話を、幸子が実家に帰るたびに、幸子から聞かされていた、ということです。ですが、そういった話の大半は「おのろけ」だけだった、ということで、私たち家族は、大阪で何が起こっていたのか知らなかったのです。
24 幸子の自殺まで(2000年4月〜5月)
(1)幸子をとりまく状況が好転する
幸子は2000年4月初頭、前年10月に喧嘩をしていたM氏のお父様と仲直りをして、お父様にも結婚式に出席してもらいたい、とお願いします。これを聞いて、私も妻も、そして妻から報告を聞いたN医師も、喜ぶと同時に大変驚いたのを憶えています。
また、3月の終わりまで、M氏と幸子は大阪でカトリックの神父による結婚講座を数回受けていたということで、3月終わりに受けた最後の講座で神父さまがおっしゃった言葉に感銘を受けていた、という話も記憶しています。その言葉が、お父様との仲直りに影響しているかもしれないと思いました。
その後、4月8日、私たち夫婦は大阪に行っております。私は幸子から頼まれていたので、一日かけて、大阪の家の電気の配線を整理しました。幸子はそれを見て喜んでいました。その日幸子は、お昼頃は、M氏と一緒に、M氏のお友達のご家族と桜を見に行き、夜はMさんのお知り合いの方々からご招待があり、一緒に食事をしています。翌日、私たちは連れだって大阪市内で家具を買いました。
私は、この時、幸子の様子がずいぶんなごやかで、気を遣ってもらったことを憶えています。また、「来年は一緒に京都に桜を見に行こう」と言われました。幸子は、私が子どもの時に家庭の事情で京都に修学旅行に行けなかった、ということをずっと覚えていました。ですから、私を京都に連れて行きたいと考えていたようです。
4月19日、幸子の誕生日にも、妻だけが、家具を届けるためにもう一度大阪に行っていますが、この時もずいぶんなごやかだったようです。
4月22日と23日、私たち両親とM氏、そして幸子は、都内で式場、パーティー会場などに行ったり、ウェディングドレスの最後の調整や花屋に行ったりして、結婚式の最終的な打合せをしていました。
(2)5月2日の自殺について
その後、5月1日に、連休を利用して旅行をしていた次女が、旅行の途中で、大阪に行って幸子とM氏を訪ねました。しかし、ちょうどその時、幸子は自殺未遂をしていました。大阪に一泊して幸子の様子もよくなった様子があったので、次女はいったん川崎に帰ることにしましたが、帰り際に、次女はM氏から、幸子から口止めされていたのだが、幸子は桜井医師とここ一ヶ月の間に交流を再開しており、しかもB中央病院で会ったこともある、という話を聞いたそうです。
自宅に帰ってきた次女からその話を聞いた私たちは、「大変なことが起きている」と認識し、翌日すぐに次女が大阪に向かうことになりました。なぜ「大変なことが起きている」と認識したのか、ということは、これまで述べてきた通りです。つまり私たち家族は、幸子と桜井医師が関係をもっていること自体が、幸子の自殺の原因を作り出す、と過去4年間で強く認識するに至っていたのです。
しかし、5月2日の深夜、M氏より、幸子が自殺をしたという連絡を受けました。私たちは、同じように連絡を受けた幸子の友人の車に乗って翌日の早朝、幸子が救急車で運び込まれた病院に到着しました。その時は、「意識はないが、心臓は動いている」、という状態でしたが、私たちが到着して数時間後に容態が悪化し、5月3日の正午頃、幸子は息を引き取りました。
その後、実家に幸子の遺体を引き取り、翌日、お通夜の準備をしておりました。その間に、幸子がどのようにして亡くなったのか、ということをMさんが説明しました。それによれば、幸子は桜井医師と電話で口論をしていた、ということでした。また、その電話の後、桜井医師を裁判で訴えたいと幸子が言っていて、裁判で必要な証拠として、A大学病院とB中央病院のカルテがまだ保存されているか、ということを、それぞれの病院に電話で問い合わせていた、ということ、そして、M氏が、そういった精神医療に関わる医療裁判は可能なのか、ということを、お友達に問い合わせたが、「それは難しい」という結果を聞き、「難しいのか」という相づちを打って、それを幸子が聞いていた、ということをM氏から説明されました。
これを聞き、私は、幸子が自殺をした原因は、これまでと同様、桜井医師にあるのだと確信いたしました。また、その時に思い出したのは、幸子が99年に裁判をしたいと私に訴えてきた時のことです。相談をした二人目の弁護士からは「患者が死ぬようなことでも起きないと裁判にならない」という返事があり、それを聞いた幸子が「私が死なないと裁判にならないのね」と言っていたこと私も妻も思い出しました。
ですから、私たちは、桜井医師と関わることで、幸子の具合が悪くなり、さらには自殺をしようとするようになる、ということと同時に、「裁判ができない」ということが原因で、幸子が自殺を決意したのではないかと思ったのです。私たち家族は、M氏に対して、そのようなことも含めて、桜井医師との電話のあとで幸子が自殺しようとするのは、ずっと前からあったことだ、と説明しました。
現在考え直してみれば、自殺する時には冷静な判断などできないのが普通だと私は考えます。幸子の自殺はやはり病気を原因としており、その病気の原因を作ったのは、桜井医師でした。幸子は、自分を病気にした責任を同医師にとってもらいたいから「裁判をする」と言っていたのだと思います。
おわりに
桜井医師は、「恋人役」という治療方法によって幸子に医原性境界性人格障害を発病させたこと、そのような治療の失敗を原因として、自殺をしようとするパターンが形成されたということをよく知っていました。その認識を前提にして、まず、慶応大学病院入院時代に、「幸子さんの恋人役をやります」「できます、私、元演劇部ですから」と言った、という事実を認めてもらいたいと思います。また、そういった中で、幸子に恋愛感情を抱いていたこと、幸子の恋愛転移が「恋人役」というおかしな「治療法」によって作られたこと、自分と何らかの接触があった後、幸子が死のうとする、というパターンがあったという事実、その事実を知りながらも幸子と接触を何度も持ち続けた、ということ、そして、そのような経験がありながら、死ぬのを止めてもらいたい、と幸子から要請されながら拒否したことを、法廷で、幸子の遺影と遺骨を前に、認めてもらいたいと思います。
幸子が裁判をしたいと99年に私に言ったとき、自分のような被害者を二度と出さないようにしたい、と訴えていました。したがって私は、この裁判は幸子の遺志に基づくものであり、日本の医療の改善のためのものでもあると考えます。桜井医師には、自分の過ちを資料で確認した上で、私たちが指摘している、資料に記載されていない事柄についても、自分の発言も含めて、思いだしてもらいたいと思います。さらに、そういった資料や記憶に基づいて真実を言ってもらいたいと思います。そして、そのような過ちを認めた上で、医師をやめてもらいたいと思います。
私自身は、父親として、桜井医師のような無責任な人物に治療を任せてしまったこと、慶応大学病院に入院していた時には、幸子の病気のことを理解してやれず、自分の思いを押しつけるようなことばかりを言ってしまったこと、そして、特にB中央病院第二セッションの時期には、私がパーキンソン病になってしまったということもありましたが、幸子の面倒を妻にまかせきりにしまったことも、大変悔やんでおります。さらに、桜井医師の言った嘘を信じてしまい、娘である幸子の言葉の方を信じてやれなかった、ということは、幸子に対して本当に申し訳ない、と思っています。
このように悔やんでも、裁判をしたところで、幸子は戻ってきません。しかし、せめて幸子のやりたかった裁判をしてやりたいと思います。そして、桜井医師が幸子に対して一体何をしたのか、ということをはっきりとさせ、その上で、幸子が聞きたかったであろう、桜井医師からの、心からの謝罪の言葉を聞きたいと思います。現在の私の心情は、以上の通りです。
精神科医を訴える