M氏の陳述書
(2005年11月提出)
 
*一部仮名にあらため、書きあらためた
 
1 はじめに
 私、Mは、以下で、故幸子と私との関係、および、幸子と桜井医師との関係について陳述いたします。被告側の「準備書面(3)」の末尾および前回の公判において、被告側弁護士から、私の陳述、とりわけ、2000年5月2日の状況に関する陳述が求められた、ということなので、以下では、私と幸子が出会って結婚するまでになった経緯については省略し、とくに、幸子が桜井医師と本格的な交流を再開した、2000年3月終わり頃から5月2日までの、幸子の様子について陳述したいと思います。ただし、関係再開までの経緯も重要であると考え、2000年1月12日の自殺未遂以降から陳述いたします。
 
2 幸子と出会うまで
[中略]私と幸子が出会ったのは、[中略]99年8月20日の夜、場所は、オランダの首都アムステルダムにあるコンサートホールでした。帰国後、同年9月初旬より交際を始め、10月頃には、籍は入れずに事実婚という形で結婚することを決めました。99年末頃には、結婚式を2000年5月13日に高輪のカトリック教会で、披露宴を、同じく品川にある原美術館で開催することが決定していました。その後私と幸子は、2000年1月初旬より、Mの現住所で本格的に生活を始めました。
 
3 2000年1月12日の自殺未遂
 大阪に同居を始めてから間もなく、2000年1月12日、私の留守中、幸子は自殺未遂をしました。それは、桜井医師と電話で話したあとでした。紐が切れて失敗したということであり、死ぬことを十分計算に入れた自殺未遂であり、その後彼女の容態は大変悪くなりました。

 同日、幸子は自殺未遂をする前に、桜井医師に電話をして、同医師から「御自愛ください」と言われたということです。この言葉を幸子は「他人行儀」であり、幸子との「関係」が「軽いもの」として扱ったものとして捉えた結果、「頭の回路が切れ」たと友人のFさん宛の遺書で述べています(【資料1】参照)。そこで幸子は、「死体にご自愛はないでしょう」と言い、自殺の予告をしました。しかし、これを聞いた桜井医師は「自分たちに御自愛はない」と聞き間違えた、と後に主張しています(【資料2】参照)。したがって同医師は、「そうですね」と思ったのか実際にそう口に出したのかは不明ですが、そこで電話を終えた、ということです。

 たしかに、桜井医師ではなく、それまでの経緯を全く知らない相手であれば、以上のような幸子の自殺未遂は、説明抜きには理解できないでしょう。私もそうでした。また、自殺未遂直前に書いたと思われる、友人のFさん宛の遺書には、幸子が自殺の理由が明記されています。それは、事情を知らないFさんには自殺の原因を伝えなければ理解されないと幸子が考えたからだと思います。
これに対して桜井医師宛の遺書には、自殺の原因となった同医師の言葉が書かれていないばかりか、これから死のうと思っている人間が書いているとは思えないような、明るく快活な文体と内容です(【資料3】参照)。

 このような奇妙な「遺書」を幸子が書いたのは、言葉による明確な説明がなくとも、桜井医師は幸子のことを全部わかっているはずだ、と幸子が思い込んでいたからだと思います。さらに、これが、1月12日の電話以降に幸子と同医師との間にあったあらゆる「ディスコミュニケーション」(桜井医師の言葉【資料2】を参照)を生み出した要因だと考えられます。

 というのも、私は幸子と交際を始めた当初から、幸子から、桜井医師と幸子との間では「言葉を交わさなくても相手の考えることがわかってしまう」という「コミュニケーション」があった、という説明をうけ続けてきたからです。ただし私はそれを最初に聞いた時、「それは植物と話をするようなものだが、そんなこと全く理解できないし、ありえないと思う」と言って口論になったことがあります。

 また、桜井医師宛の遺書には、次のような奇妙な記述があります。「手を握ることもなかった私達の奇妙な関係」は、「Loveという言葉がにつかわしかった」。「あの部屋に入ってドアを閉めてから、私が帰るまでの数時間」は、「他の時間の枠をこえた甘美な時間」だった。「お互い傷付け合ったこと」など「この関係の多くの時間が、そんなnegativeな事に費やされたこと」、それにもかかわらず、「あの関係、二人で過ごした時間」は、「何にも代えがたく貴重」で「そこで私は幸せ」だった。「生きていて、こんなに幸せだったことは、もうない」(【資料3】)。

 これを読んで私は、「私がいないと人生は無意味だと彼は言う」(Fさん宛の遺書より)という私(M)の「言葉」に相応するような、「恋人」としての桜井医師の「言葉」がないままで、二人の「甘美な時間」が成立していたのか、そのようなことがありうるのか、と不思議でなりませんでした。そして、これは要するに「植物と話をするようなもの」と私が表現した、とうてい理解できない「関係」であると思ったのです。
 しかし、2000年1月12日、以上の遺書を私に見せた後、幸子は、次のように主張しました。彼女が桜井医師に電話をする時は必ず彼女が死のうとしている時であり、この自殺のパターンを桜井医師は熟知している。だから、言葉で詳しく言わなくても、電話がかかってくるだけで、どういう意味かはわかっているはずだ。それをわかっていて、あえて冷淡な対応をしたのだ、そこから、私に死んでもらいたいと彼が思っていることがわかった、だから私は傷ついて死のうとしたのだ、と。

 そこで私が桜井医師に、幸子がそのように訴えている、と抗議したところ、桜井医師はまず、幸子のことを「死んでしまう人」だと言いました。次に、「死体に」という言葉が聞こえなかったし、過去、彼女が電話してきても「必ず」死のうとしていたわけではない、と回答しました。

 しかし私は、そのような私に対する口頭での説明では幸子が納得しないから、何とか幸子に直接説明してもらえないか、と要請したところ、「ではこちらからレスポンスを出しましょう。お手紙でも」と返答し、その約2週間後、2000年1月26日に封書が届き、そこには幸子宛の手紙と、なぜかルドンの絵が入っていました。

 ところが、この手紙を幸子が読むと、彼女はさらに憤るとともに、死にたいという気持ちがさらに強まった、と言いました。その理由は、桜井医師の手紙の中にあった、「幸子さんとわたしが格闘した、愛情と(破壊と)天国と(地獄と)のあの世界を、わたしは生涯忘れることはありません」という一文でした(【資料2】参照)。

 たしかに、私は電話で桜井医師に対して、次のように述べたと思います。幸子によれば、桜井医師は幸子との「過去」を、あたかも存在しなかったかのように考えている。それは幸子と桜井医師との関係がもはや存在しない、ということを意味しており、これが、幸子の「存在」そのものを否定することになる、と幸子が訴えている。したがって、桜井医師は「レスポンス」の中で、幸子との「過去」があったことを認めてくれればよいのだ、と。

 桜井医師の1月25日付の手紙は、この要請に沿ったものとして執筆されたのでしょう。しかし、この手紙を読むと即座に、「生涯忘れることはありません」という一言に傷ついた、と幸子は言いました。というのは、この一言は、通常、「もはや存在しない」人物との「過去」を回想する場合に使われるものであり、その「過去」がすでに「終わったもの」として扱う場合に限って、使う表現だからです。

 こうして幸子は、「桜井医師は、私が死んでいるものと考えている、私に死ねと言っている、この文章は、私の葬式の時に読まれる「追悼文」に打ってつけだ」と興奮して言い始めましたので、さらに自殺の危険が高まったと私は考えました。また幸子はこの手紙を「追悼文です」と書き添えて、中久喜医師にファックスで送信していると思います。このように、1月12日以降、桜井医師の言葉と態度は、幸子の「誤解」を次々と生み出し、その結果、幸子の希死念慮を強めるばかりだったのです。

 その後3月半ばまで、幸子はほとんどベッドに横になって寝ていました。外出することは大変少なかったと記憶しています。たしかに、時々二人で外出していましたが、いつ自殺をするかわからないという恐怖心を持っていた私は、外出時は幸子から目が離せない状態でした。しかし、むしろ、私が出勤する間に、幸子がいつ自殺をしてしまうかもしれない、という恐怖心の方が大きかったと思います。

 また、幸子は中久喜医師が処方していた抗うつ剤(プロザック)を毎朝、そして睡眠薬(ベンザリン)を就寝前に、さらに抗てんかん薬(リボトリール)を服用していました。大阪に住み始めると、朝晩薬を飲ませるのが私の日課になりました。これらの薬は、中久喜医師の治療を受け始めてから、同医師の判断で服用するようになったと聞いたことがあります。
 
4 2000年3月5日の自殺未遂
 その後、2000年3月5日、幸子がトイレに行くと言って寝室を出た後、なかなか戻ってこないということがありました。私はトイレまで行ってドアの前で呼びかけると「近寄らないで」と言われました。仕方なく、ドアの前で待っていましたが、結局、注射針を頸動脈に刺して自殺しようと思ったができなかった、ということでした。その後、幸子は中久喜医師にファックスを送っているので、この事情はそこからもわかります。  
 この時は、1月12日と異なり、私の留守中ではなく、桜井医師との電話の後でもなく、中久喜医師にすぐに連絡しています。また、5月1日のように注射針を刺すに至っていません。私と交際を始めてから似たようなことがあったのは、これ以前には1度だけした。99年に一緒に都内のホテルに宿泊中、私が寝ている間に幸子は済生会中央病院のある田町駅まで行って電車に飛び込もうとしたがやめた、ということがありました。私が夜中にふと眼が覚めると、コートを着て顔面蒼白の彼女が部屋に戻ってきたところで、事情を説明してくれました。桜井医師が勤務している病院のそばで死のうと思ったということでした。その後、このことを中久喜医師に報告した時、同医師から「幸子さん、進歩ですね」と自殺を最後のところで思いとどまった、ということについてほめられたということも教えてもらったことがあります。

 ただし、99年と異なり2000年3月5日には、桜井医師との「関係」が、桜井医師によって否定されてしまったため、自分の「存在」が消滅してしまった、という喪失感があり、そのために自殺をしたいと考えた、という説明を幸子がしていました。

 また、中久喜医師に宛てて出したファックスで幸子は、次のように述べていました。「桜井医師は実質的にいません」から、「私を無条件に肯定し、愛してくれる者が、この世で誰ひとりいなくなってしまった」。しかし、「こんな悲惨な状況でも死ぬことすら出来ない私」そして「彼がいなくなった事=私の恐ろしい孤独」にも「腹が立ちます」と(【資料4】参照)。私が幸子から聞いていた説明と、このファックスの内容はほぼ同じです。

 幸子は、とくに1月12日以降、「慶応大学病院時代の私と桜井医師との『関係』が、桜井医師によって『否定された』から、私はもう『存在』を否定されたのも同然だ」と訴えていました。他方で幸子はこの頃、桜井医師との関係が絶たれてしまっていることにより、自分には生きる「意味がない」としきりに言っていました。

 しかし私は、いくら密度の濃い関係があっても、通常であれば、そういった特別の人物への執着心も、時間の経過の中で相対化されていくのが普通であり、それが失恋や別離を体験した場合に人が体験する立ち直りのプロセスではないかと思いました。ところが幸子の場合は、私と恋愛をして結婚をするに至ったこの時点でも、桜井医師に対する執拗な思いが頭をもたげてくるのはどうしてだろう、と大変不思議に思い、彼女のそのような認識には、通常の感覚では理解できない性質があるようだ、と感じていました。
 
5 関係再開の要請と拒絶 (2000年3月16〜17日)
(1)一度目の要請と拒絶(3月16日)
 その後、彼女は桜井医師と「コ・カウンセリング」をやりたいと言ってきましたので、私は賛成し、幸子とともに、まず中久喜医師に対して、そのようなことができないか、と問い合わせ、許可を得ようとしました。多分、大阪から電話をかけたのではないかと思います。しかし、幸子によれば、中久喜医師はかなり強い口調で、「絶対ダメです」と拒絶された、ということでした。私はその時点では、なぜ「絶対ダメ」なのか、まったく理解できませんでした。しかし、同医師と幸子が話し合った経過の中で、幸子が自分で独自に桜井医師に連絡を取るのは幸子の勝手である、という意見も、同医師は示されたということでした。

 そこで、私と幸子は、桜井医師に対して私たちから直接提案することにしました。私は当時、幸子が望むのなら、桜井医師と幸子は、早く会って、「誤解」や「わだかまり」を解消してよい関係を築けるはずだ、そうすれば、幸子の病も解消するだろう、と極めて単純に考えていましたから、中久喜医師の指示を仰がずとも、私たちが独自に行動すればよい、という幸子の意見に同意したのです。こうして、桜井医師に対して、まず私が電話をしました。桜井医師が中久喜医師に対して送った手紙によれば、これが 3月16日のことだったようです(【資料5】参照)。

 このとき、幸子が桜井医師に対して直接電話で話せない、ということだったので、隣で幸子が指示しながら、私がその言葉を桜井医師に伝える、という、まわりくどい方法を採っていました。その理由は、3月17日付のメールで、ほぼ以下のように説明されています(【資料6】参照)。
 まず、「1月の電話のときのように」桜井医師から「他人行儀な振る舞いをされ」るという「過去の繰り返し」によって、幸子が桜井医師によって「傷つけられたくなかったから」である。「傷つけられる」というのは、「過去を否定される」ということを意味している。「過去」とは「私があなたに愛を与え、あなたが私に愛を与えた」ことと「その逆もあった」という「事実」である。この場合の「愛」とは、「親子関係とか男女関係とか」という桜井医師がこだわっている「レッテル貼り」とは関係のない、「より大きな意味での愛」である。「それがあなたによって否定されること」によって、「私が傷つくだろうという恐れ」が、「電話できない」理由である。しかも「実際に」そういったことが「あれば」幸子は「とても傷つくことになる」であろう、と。

 したがって、私が幸子の指示のもと、桜井医師との対話を行ったのです。幸子の提案の内容は「コ・カウンセリング」でした。これも、メールでの説明に基づけば、次のようになります。

 まず、幸子は、桜井医師と断絶して以来、様々な経験を通じて、そして私と結婚することにより、「認識」が「完全に」「変わった」。かつて桜井医師の内面において、幸子という「存在」と桜井医師自身の「結婚」が「共存できる」ということは理解できなかったが、自分も結婚してそのことが「やっと分かった」。

 次いで幸子は、次のように述べています。自分は「愛というものを知らずに今まで来て」しまった。その原因は、「愛を受け入れ、受容する」ということを「生育過程で学習をし損ねた」ことにある。そしてこの点で「私とあなたは同類」である。「済生会中央病院第二セッション」(97年11月〜99年4月)での「失敗」は、幸子が「愛を学習する」という「目的」を「見失って」しまい、「本来の目的」を理解していなかったことにある、と。

 しかも現在幸子は「切迫した状況」にあるが、「このままで一生を終えたくない」。しかし、「あなたとのことで、私は空っぽになってしまって何もできない」。今回電話をしたのは、「立ち直る最後の手段」だからであり、「あなたと愛を学習し直すこと」がその具体的な方法である。なぜなら、「あなたとの関係が、ここに至った原因なのだと私は思う」からである。

 そこで幸子は桜井医師との「愛のレッスン」を提案した。これはMとはできない。なぜなら、彼は「無条件の肯定」すなわち「愛を受け入れる」ことをもともと知っているからだ。自分は彼が「理由もなく愛する」ことが理解できない。愛することに理由などない、ということは、理屈では分かっていても、現実のMとの関係で、そのことが分からなくなるため、「双方のディスコミュニケーション」と「今のどうしようもない状況」を生み出している。その原因は、「愛を受容する」ことを学んでいないことにある。

 そこで、「お互いに、愛を受けとる事を知らない私とあなたの間で」「自助グループ」を作り、「コ・カウンセリング」という「上下関係なしで、一対一の友人として語り合う」ことにより、「互いに傷ついた我々が癒しあうという機会」がほしかったのである、と。

 メールでは以上のようにしか述べられていませんが、この時私は桜井医師に対して、「二人が直接会う」という話はしなかったのではないかと思います。しかし、桜井医師は、「会う」ということだと受けとったようであり、また彼の返事は、「私にはそういうニーズはありません」というものだったと思います。その理由は、「燃え尽きた」、「自分が被害を受けた」、「幸子さんの心のガードマンに射殺された」、というものでした。この点については、桜井医師が中久喜医師に、同様の報告を行っているので確認できます(【資料5】参照)。
 
(2)二度目の要請と拒絶(3月17日)
 こうして桜井医師によって提案が拒絶されたため、幸子の容態が悪化しましたが、資料に添付したようなメールを幸子が送りたいというので、口述筆記したものを私が送信しました。せめて桜井医師に対して、こちらの意志を伝えておいた方がよいだろう、という意図があったと思います。

 すでに引用したメールの内容は、全体とすれば「別れの挨拶」として読めました。そのため私は、これで幸子は交信をあきらめるつもりだろうと思いました。ところがメール送信後、幸子は、それを読んだ桜井医師の感想を聞きたい、と私に言ってきました。幸子はメールを出すことを思いついた時から既に、それによって桜井医師の気持ちが変わることに期待をかけていた、ということがその時にわかりました。なぜそこまで彼にこだわるのか不思議でなりませんでしたが、こうして、私が桜井医師に再び電話をして確認することになりました。このときにも、私が桜井医師と電話で話しているあいだ、幸子はそばから私に細かく指示をし、私が彼女の言葉を桜井医師に伝えていました。

 しかし、同医師の回答は前日と同じであり、とくに、自分が「燃え尽きた」ことと「被害を受けた」ということを理由にして、幸子との交流を拒絶しました。ただし、桜井医師は、メールの内容について、いくつかの誤解をしているようでした。例えば、メールの中で幸子が「
B中央病院第二セッション」つまり済生会中央病院での97年11月から1年半の治療について述べているにもかかわらず(【資料6】参照)、同医師は、「慶応大学病院時代のできごと」であると勘違いしていました(【資料5】参照)。

 このように、私では到底修正できないほどのコミュニケーションのギャップがありました。このギャップは、幸子がメールの中で述べている、私との間で日々おきる「コミュニケーションギャップ」とは、比べものにならないほど大きいものでした。私と幸子との間で生じるコミュニケーションギャップは、どちらか一方が、冷静に明確な言語を通じて自らの意志や状況、精神状態、不満や怒りを相手に伝えることにより、徐々に解消されていくという性質のものでした。

 幸子が私の態度や言葉に憤り、あるいは悲しんで行方不明になってしまうなど、私たちの間にはコミュニケーションギャップを原因とした深刻な事態が数限りなく起きています。しかし、最終的には、いつも言葉によるはっきりとした説明を通じて相互理解に至るというパターンばかりでした。2000年1月から3月末まではそれが繰り返され、わたしも幸子もへとへとになりましたが、3月末にはある程度安定した関係を作ることができるに至ったと思います。

 ところが、幸子と桜井医師との「関係」は独特の性格を持ち、双方がやりとりをすればするほど行き違いと誤解が積み重ねられ、それがとりわけ幸子の側にフラストレーションを蓄積させるのみならず、2000年1月12日には、すでに述べたように、直接自殺の引き金になったのです。
3月17日にも、当初は私が桜井医師に幸子の言葉を伝え、桜井医師の言葉を幸子に伝える、ということを私がしていましたが、前日と同様に、双方、とりわけ幸子が、「違う。桜井医師は違うことを言っている。こっちの言っていることを理解していない」と訴えることが多かったので、私は、次第に、幸子の言葉を桜井医師に伝え、桜井医師の返事を幸子に伝える、という方法ではらちがあかないと感じ始め、幸子に対して電話を代わってくれないか、と提案したところ、しばらくちゅうちょしていましたが、結局、幸子が電話に出ました。

 このとき幸子は「先生は、自分が被害を受けた、ということしか言わない」と桜井医師に対して抗議しました。私も、電話を代わる前に、そのことを指摘していたと思います。それに対して桜井医師は、ご自分も幸子に対して「被害を与えた、ということは認めます」、とおっしゃったはずです。それは、慶応大学病院から始まる5年間のことすべてについてであると理解しました。以上のような私の記憶は、この電話のあとで桜井医師が中久喜医師に送った書簡の内容とも、ほぼ一致します(【資料6】参照)。

 以上のように、3月16日と17日の両日にわたって、幸子と私は、「コ・カウンセリング」を提案し、桜井医師はこれを拒絶しましたが、他方で同医師は、携帯電話は最近使わなくなったが、病院の電話に連絡することは構わない、という趣旨のことも言っていました。この点については、2000年5月24日に私が桜井医師に電話でその点を確認したところ、桜井医師は事実として認めています(【資料7】参照)。その後幸子は、桜井医師にコンタクトを取るために中久喜医師に仲介を依頼していますが、それは、あえて拒絶はしない、という桜井医師の姿勢に幸子が期待をつないでいたのではないか、と私は当時考えました。

 ただし、中久喜医師に対して幸子が交渉していくのは、3月16・17日よりあとのことです。3月半ばの段階では、幸子は強い拒絶にあって、ずいぶん落胆していたように見え、中久喜医師にもそのように伝えていました(【資料8】参照)。しかし私は「僕もWさん(私の友人)もいるし、「無条件の肯定」を与える人は他にもいるんだから、それでなんとかしようよ」と幸子に対して言ったと思いますし、それでさしあたり、幸子は桜井医師との交流をあきらめたのだろう、と私は思っていました。
 
6 幸子が中久喜医師に関係再開を提案する(2000年3月21日)
 ところが、中久喜医師の手紙を見れば、その後、3月21日、幸子は、中久喜医師に対して再び関係再開を提案して、またしても拒絶されました(【資料9】)。そのあとも電話で再度、おなじことを要請したところ、中久喜医師が、仕事でいろいろと忙しくて時間が取れない、というような話も、何かのついでに言った瞬間、幸子は同医師に対して、「先生は日本で仕事をするようになってお変わりになられましたね。そういうことであれば、私は大阪で主治医を捜します。大阪の病院のリストを送って下さい」というようなかなり強い口調で中久喜医師を責め始めました。しかし、同医師は全く動じない様子で、「それでは大阪の病院リストを送りましょう」と幸子の提案を受け入れました。

 しかし、その後、桜井医師との関係再開が決定した、ということを幸子から教えられました。その経緯は、2000年5月14日に、中久喜医師から教えてもらいました(【資料9】参照)。ここでは本来、私の記憶にもとづく陳述に限定すべきなのでしょうが、関係再開の経緯を資料で確認したところ、記録されている事実にぶれがありました。幸子の夫として、[中略]資料に基づいて、錯綜した事実関係を整理したい、という気持ちがありますので、以下でこの作業を行うことをお許しください。
 
7 桜井医師が関係再開の要請を受け入れる(2000年3月末)
(1)中久喜医師と幸子の話し合いと決定事項(3月28日)
まず、3月28日、幸子は面接において中久喜医師に対して、3月17日に桜井医師に提案した「コ・カウンセリング」とはまったく異なる、桜井医師との交流の方法を提案しました。それは、以下のようなものだったということです。

「1)桜井医師との関係の再開によって死んでしまっている自分の心を再生させたい。自分の生命力を賦活してくれるのは、たった一人桜井医師のみであること、2)彼との関係は、恋愛関係や医師−患者関係、友人関係とは異なり、自分の生命力と関係のある深いものであること、3)たしかに過去にはこの関係の中にpositiveな面とnegativeな面とがあったが、negativeな面は切りすて、positiveな、健全な面をのばしてゆきたいということ。4)具体的には週1回位、電話で「世間話」をする事でよいという事。それが自分の生命のともしびになればよい」「「世間話」的な、socialな話のみをする事。私はこの関係には直接介入しないが、2〜3ヶ月毎にお二人の間の関係性を三人で評価する」(【資料9】参照)。

 中久喜医師は、幸子から「仲介してほしい」という要請を受けたので、「桜井医師がこれについてどう反応するか分からないが、以上の主旨をお伝えする」と幸子に約束しました(【資料9】)。幸子の記録では、同日の14時に彼女は桜井医師に電話をしていることになっていますが、この点について詳細は不明です(【資料11】)。
 
(2)中久喜医師が桜井医師に幸子の要請を伝える(3月29日)
翌3月29日、中久喜医師は幸子からのメッセージを桜井医師に伝えました。その際桜井医師は「一度お会いしたい」と言ったそうです(【資料9】)。
 
(3)幸子が桜井医師に電話をし、桜井医師が要請を受け入れる(3月31日)
 その後3月31日、桜井医師が中久喜医師に電話をして、幸子と電話で話した結果、彼女が以前と変わっていたこと、「和解」について幸子は合意している、ということを理由に、関係再開を受け入れた、と告げました(【資料9】参照)。

 済生会中央病院のカルテを見ると、桜井医師は、3月31日に幸子から電話があり、「世間話」という提案があり、「全く穏やかでNaturalであり、つきものが落ちたようである」「こちらとしてもサポートしたいがうまく時間がとれるかどうか」と記載しています(【資料10】参照)。

 桜井医師はこの電話のあとで中久喜医師に対して、次のようなファックスを送っています。「幸子さんは以前お話ししていた頃とはまったく変わっておられます」「幸子さんとお話ししたいという気持ちに」なったが「時間や仕事上の制約」がある。「来週の金曜またお話しするという約束」をした。「今後」「御報告はしない筈」である(【資料12】参照)。
 その後、桜井医師は、中久喜医師に電話をする前後、31日(金)17時36分付のEメールを幸子に送っています。内容は、「メールをいただくのはいいのだけれど」「やっぱり電話がいいでしょうね」「とりいそぎのご挨拶したかったのでメールしました」「来週、また宜しく」というものです(【資料11】参照)。以上の経過を私なりに整理すれば、次のようになります。 
 
関係再開の経緯

3月28日(火)
 幸子が中久喜医師に関係再開の条件を提示し中久喜医師との合意のもと「週一回・電話・世間話(socialな話のみ)・友人・幸子の再生」という条件で双方が合意する。中久喜医師は、桜井医師に伝言をすることを幸子に約束。幸子が桜井医師と電話で話した可能性もあり。

3月29日(水)
 中久喜医師が桜井医師に幸子の提案を伝える。桜井医師は、定期的交信を拒否し、「和解」と再会には応じると中久喜医師に伝言。その後、このメッセージを中久喜医師が幸子に伝えたかは不明。

3月31日(金)
 幸子より桜井医師に電話。桜井医師は、幸子の提案を積極的に受け入れ、関係再開が決定。その後、桜井医師が中久喜医師に提案を全面的に受け入れたと連絡(「お話ししたい」「サポートしたい」)。その前後、桜井医師が幸子にメールし、次週から電話での交信があることを予告。
 
 私が幸子の死後、桜井医師から受けた説明では(【資料13】参照)、彼は中久喜医師からの要請を拒否する一方、「一回お目にかかって和解をする」のは構わないと回答した、ということです。

 しかし、上記のように、3月31日付の中久喜医師宛ファックスと幸子宛メールを見れば、桜井医師は幸子の提案を受け入れて関係を再開したと理解できます。

 その結果、4月の第1週より、幸子は桜井医師と電話とメールによる連絡を取り合うことになったと考えられます。また私の記憶でも、当時私は幸子から、一定の枠組みに基づいた交流を開始することを桜井医師が受け入れた、という話を聞いた覚えがあります。彼女と一緒になって「どうしてそうなったんだろう? 何があったんだろう? 中久喜先生の力かな。とにかく、交流できるようになったのはよかった」と話したことがあります
 
8 関係再開後の第1週目 (2000年4月1〜7日)
 4月1日(土)頃から、幸子の状態は、それ以前に比べればずいぶんよくなりました。同日かその翌日、私たちは名古屋に宿泊し、私の友人夫婦と食事をし、また、私の父と会い、これにより、以前断絶してしまった父と幸子との関係が修復され、両者は、私の父が謝罪し、幸子が父を許すと同時に自分の非をわびる、という形で和解しました。その翌日、大阪に戻ってきましたが、さらにその翌日か二日後、岐阜県立美術館に行きました。この美術館には、ルドンのコレクションが豊富で、どうしても見たい、ということでした。

 その後、済生会中央病院のカルテによれば、4月4日(火)、幸子は桜井医師に電話をかけ、定期的に「友人として」「世間話」をする、という提案をしたということです。さらに桜井医師は、次のように記されています。「敵意はたしかに感じられない。声は元気そうに聞こえても、大変に弱っているとのこと」「当方のニーズとしては一度お目にかかって和解する、という目的」「本人不満げであり(和解するだけでなく友人として定期的な関わりを約束してほしいとのことだが当方には無理である)」「緩やかな押し問答で40分くらい経過する。話が進まなかったため4月7日pm4を電話の続きとして指定」(【資料14】)。

 ただし、先に挙げた桜井医師から中久喜医師宛のファックスでは(2000年3月31日付)、「来週金曜日」つまり4月7日に電話連絡の約束をした、と記されています(【資料12】)。他方4月4日は、私と幸子が日帰りで名古屋と岐阜に行っていた時だと思いますのが、そのようなこみいった交渉を幸子がしていれば、私に話したのではないかと思います。

 もし4月4日に幸子が桜井医師と電話をしていたとすれば、それは私にまったく報告せず、私には一切知らせないまま、桜井医師と二人だけの話し合いをした、ということになります。

 また、先に述べましたように、桜井医師は、私との会話の中で、3月17日と4月4日の記録や記憶が重なっている可能性がある、と述べていますので(【資料7】参照)、ことによると、桜井医師が5月6日に事後的に記載したという4月4日の記録には、一部3月17日に関する桜井医師の記憶が含まれているかもしれません。

 しかし私は、ここでは、4月4日に桜井医師と幸子との電話連絡があった、ということを、事実として考えていくことにします。また、桜井医師は、この時の会話などについて、2000年5月24日、私に対して電話で説明しました。それを整理すれば、ほぼ次のようになります(【資料15】参照)。

 4月4日、幸子は、「定期的に話をさせてほしい、週に一回2時間」と提案した。桜井医師は、それは「無理」で、「とにかく和解することを望んでいる」「いっぺん会いたい」と回答した。このような幸子の要求には、「定期的に時間をとってくれなければ承知しない」というニュアンスがあったため、「時間的に無理」と桜井医師は拒否した。しかし、「拒否」は幸子からは「拒否」として理解されていなかった。ところが、「結果的に」「ある程度継続的に、何回かお話を聞く」ということになった。
 
9 関係再開後の第2週目(2000年4月7日〜14日)
 4月6日(木)、幸子は大阪に来て初めて梅田に一人で行きショッピングなどをして、最後は10時まで開いている書店に寄ったため、夜遅く帰宅しました。3月末までの容態と比べていた私から見れば、急速な改善でした。しかし、今日冷静に考えてみれば、相変わらず薬を毎日服用し、午前中は寝たきりで、一人では外出できない、という日がほとんどでした。
 例えば、私の日課は、朝食を作ってベッドまで運び、体が動かない幸子に食べさせ、薬を飲ませることから始まっていましたが、これは幸子が亡くなるまで変わりませんでした。それ以外の食事は二人で作ることもありましたが、幸子の調子が悪い時が多かったので、もっぱら私が作っていました。さらに、そのための食材は、私が仕事と幸子の看病で忙しくてとても買い物に行けない、ということが多くあったため、お母さんが週一回かそれ以上のペースで、宅急便で送っていたのです。この仕送りがなければ、私たちの生活は成り立たなかったのですから、私たちの生活は、正常なものではありませんでしたし、幸子が初めて一人で外出した4月6日も、事態は同様でした。

 外出した翌日の4月7日、済生会中央病院のカルテを見ると、幸子は、4月4日に続いて二度目の「世間話」を電話で桜井医師と行ったようです。「以前友好的であったときと同じようになめらかに会話が進む」、「会うより前に電話で話したい、というので続きを4/14に」(【資料17】参照)。

 以上のような桜井医師との二度目の交信があった同日の4月7日、幸子のご両親が大阪に来ました。どういった経緯かはよく覚えていませんが、4月1日以降、幸子の状態が突然よくなっていったので、幸子の方からご両親に要請したのかもしれません。それまで、幸子の状態が悪く、家具を買いに行く余裕もなく、家の中も整理できていませんでしたので、ご両親に手伝ってもらって、家の中を整理しました。
この時、幸子のご両親に対する対応は大変良好で、かつて幸子からご両親の悪口をいろいろと聞かされていた私から見れば、親子関係は最悪である、というイメージを持っていたので、きつねにつままれたような気持ちがしました。

 同日、ご両親には留守番をお願いし、私と幸子は、日中は私の知人の家族とともに、長居公園まで花見に出かけました。「桜が咲くまで私は生きているかしら」と言っていた幸子が、ついに満開の桜を見ているわけですから、私としては、幸子の状態もよいし、今後は大丈夫だ、と思ったのです。また、その晩は、私の同僚[中略]などが、レストランで私たちのために会を催してくれました。これで、幸子も私の仕事を理解してくれるし、新しい人間関係を持つことができるようになる、と私は考えました。

 翌4月8日、ご両親と私と幸子は、心斎橋の家具店に行き、家具の購入の手続きをしました。そのあとご両親は、突然、親戚のお見舞いに行かねばならなくなりました。幸子は、本当はご両親を京都に連れて行く気だったようです。幸子のお父さんは、子ども時代に家庭の経済的事情で修学旅行に行けなかったため、連れて行ってあげたい、というのが幸子の以前からの希望だったということでした。しかしご両親とは大阪で別れました。
[中略]
 その数日後の4月12日、[中略]2000年1月に幸子が自殺未遂をして以来、私は出勤する前に、毎朝かなり長時間、幸子の話を聞いておかねば、心配で家を出ることができない、という毎日を過ごしていました。その日も出勤ぎりぎりまで彼女の話を聞いていて、彼女のほうから話を切り上げた後、急いで職場に向かいましたが、[中略]階段を踏み外し、足の甲をひねりました。その後、自宅に戻り近所の整形外科に行き、剥離骨折という診断がでました。 [中略]

 その後1ヶ月以上、私はギプスをはめて松葉杖をつくような生活をすることになります。これによって、私が幸子と一緒にいる時間は長くなりました。なぜなら、3月末以前に比べて急速に改善したとはいえ、幸子は依然として、午前中はほぼ寝たきりの状態であり、薬の服用を続けていたからです。

 また幸子は、4月6日には一人で長時間外出したとはいえ、それ以外は、私に付き添って近所の整形外科に行く程度で、彼女が外出する時は、基本的には私が一緒でした。一人で川崎に帰ったこともありますが、それほど多くはありませんでした。したがって、私の骨折により、その行動範囲がさらに狭まってしまったのではないかと思います。
[中略]
 4月14日、おそらく日中であると思いますが、幸子は桜井医師と三回目の電話交信を行っています。桜井医師の記録を見ると、幸子と同医師は「世間話」をして、その際に幸子が、「旅行」「の前半、M氏に会うまでのことを一気に話される」という記録があります。しかし、私の骨折の話[中略]、といった記載がなく、あたかも、そういったことがまったくなかったかのような記録です(【資料18】参照)。

 私は毎日様々なことがあり、そして幸子と自分との関係を良好にしていくことに気を配っているだけでも大変だったということもありました。もちろん、「桜井医師と何を話しているんだろう」と、気になってはいましたが、幸子が何も言わなかったということがあり、また、幸子の状態も3月末以前に比べれば、改善されていたので、「うまくいっているのだろう。これが、幸子の容態の改善をもたらしているに違いない」と思っていたのです。

 ただし、いつの時期からはわからないのですが、幸子から、「桜井医師が、会いたいと言ってくる。でも彼は、前には会いたくないと言って拒否したのに、今度は急に会いたいと言ってきている。そのことがどうしてかわからない。だから、会わないほうがいいと思っているのだけど、どう思う? どうしたらいいと思う?」という相談を受けたことがありました。その時に私は「たしかに、急に態度が変わるのは変だよね。何を考えてるんだろう。その理由がわかるまでは会うことはないよ。だっておかしいじゃない」と答えたと思います。

 とはいえ、私は、幸子と桜井医師が会うとなぜいけないのか、幸子が何を恐れているのか、当時は、そのことがよくわかりませんでした。1月以来ずっと幸子は、桜井医師との過去から現在に至る彼女との「関係」が彼女の「存在」にとっては必要だ、ということをずっと私に訴えてきたのです。また、3月17日に幸子が出したメールを見れば、彼女が桜井医師に対して率直に自らの非を認めると述べていますし、桜井医師も、同日の電話で、彼女に「被害を与えた」ことを認めたと聞いていましたから、そこから出発すれば、問題は解決するはずだ、と単純に考えていました。
 当時私は桜井医師が「和解」をしたいから会いたい、と言っていた、ということは知りませんでしたが、もし知っていて、幸子がそれに反対しなければ、「和解」をするために会ってくればいいのではないか、と桜井医師の提案を受け容れるような意見を示したと思います。
 それ以前、すでに述べたように、幸子と私の父との「和解」がありました。ですから、桜井医師も彼女に会えば、私の父と同様、その場でまず謝罪するだろうから、父と同じように幸子は彼を許すだろう、などと、私はある意味ではのんきに考えていました。しかし、私の知らないところで、桜井医師と幸子の交信は「週一回・電話・世間話・友人」そして幸子の「再生」、という枠組みを踏み越えていました。
 
10 関係再開後の第3週目前半(2000年4月15〜20日)
 前日の14日に幸子と電話で話した桜井医師は、翌4月15日、幸子にメールを出しています。そこで桜井医師は、「今日は一日雨でした。雨は昔に帰る気分がします。いつも「今日は天気が悪いですね」などと言っていたのを思い出します」と書いており、これまで見てきた記録にはなかった、幸子との「過去」について言及しています。
 他方で桜井医師は、「来週お目にかかれれば、と思います。スケジュールについてやその他メールでいただけましたら(Telも歓迎ですが忙しいときだったらごめんなさい)」と書いています。
 その三日後の4月18日、今度は幸子が、桜井医師宛にメールを送っています。このメールで、幸子は、「疑問」が「解決(回答)されなければ」「(もう)逢わない方がいい」という返事を書いています。これは、この時点では桜井医師の提案を、条件付きで拒絶した、ということになります。
 幸子の「疑問」とはなにか、ということはここからではわかりません。先程述べたように、幸子から相談をされた時に私は、彼女の「疑問」というのは、桜井医師がなぜ豹変したのか、そこに隠された意図、幸子を傷つけるような意図はあるのか、ということだろう、と考えていました。
 しかし、5月2日の午前中、幸子が中久喜医師に対して、それまでの桜井医師との往復メールを全部送った際には、この「疑問」について、次のように幸子が説明を加えています。

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【2000年5月2日付、幸子から中久喜医師宛ファックスより】

「わたしの疑問」というのは彼にとって、私はどういう存在なのか?ということ。
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 このような「疑問」がある、ということは、私は当時聞かされていませんでした。かりに聞かされていたとしたら、どうしてそのようなことを今さら考えなければならないのか、と幸子に聞いたと思います。なぜなら、4月以降の電話での交信は、以前のような「恋人」としてではなく、「友人」としてのものである、と聞かされていたからです。

 翌日、つまり2000年4月19日(水)は、幸子の27歳の誕生日でした。それ以前から、幸子は、「居間にあるテーブルは小さすぎる[中略]」とお母さんに言っていたようです。そこでお母さんが、[中略]テーブルを購入して私たちにプレゼントする、ということになり、お母さんは、[中略]19日に大阪まできました。

 私は同日[中略]朝から出勤しなければならなかったのですが、新しいテーブルが来たことやお母さんが来たことで、幸子はずいぶん元気だったと思います。家具の入れ替えなどをしている間も、幸子は掃除をしたりしていたということです。私が午後に帰宅してから食事をしましたが、お母さんはご親戚の方が危篤であるという連絡を受けて、出発しなければならなくなりました。そこで、誕生日は、私と幸子だけで祝うことになり、二人でデパートに行き、彼女がほしいバッグと大きめのスカーフを買ってプレゼントしました。

 そのあと、心斎橋の地下で食事をしました。この時幸子は、レストランに入る前に、「ちょっと見てきたいものがあるからそこで待っていて」と言って、松葉杖をついている私を地下街に残して、15分か30分ぐらいして戻ってきて「頭をなでて」というので、なでました。「どうしてだかわかる?」と聞くので、「(もしかしたら)今日まで生きてきたことへのご褒美?」と私が聞き返すと、「そう」という答えでした。また彼女は、次のようにも言いました。「買いたいものがあったけど、買わなかった。私はこれまで自分の誕生日には、自分で自分に、生きていたことに対するご褒美を買っていたけど、今日はプレゼントをもらったからいらない」と。

 このような会話があったので、私は、幸子が人から支えられているという感覚を持つようになっていると思いました。また、自分一人で頑張らなくてもよいという安心感も持っているような気がしました。
 これと同じ日に4月19日、桜井医師は、18日のメールに対する返事を幸子に宛てて送信しています(【資料20】参照)。このメールで桜井医師は、「わたしの疑問が解決されなければわれわれはまだ逢わない方がいいと思っています」という幸子の見解に対しては、次のように答えています。「わたしとしては性急に解決しようとしてまた誤解が生じるのを恐れる気持ちがあります(この間お話していてもそう思いました)」。つまり、幸子の「疑問」を「性急に解決しようと」すると「また誤解が生じるのを恐れる気持ちがある」、それは「この間」話していてそう思った、ということです。そこで桜井医師は、「とにかく、お目にかかれなければまた電話でお話させていただくのを希望します。都合を教えていただけたら助かります」と提案しています。
 桜井医師の返答に対して、幸子は19日の深夜か20日の早朝に桜井医師にメールを出したと思われます。しかしながら、現在、幸子のパソコンにこのメールが残っておらず、このメールに対してさらに桜井医師が出した、20日付の返事のメールがあるだけです(【資料20】参照)。
 このメールで同医師は、まず幸子からのメールに対する礼を述べた後、次のように述べています。「今日」「少し遅れて11:30頃」に「大泉病院」に出勤し「1時間くらい」は「時間」があるので「お電話お待ちしてます」と。
 同日、4月20日付の幸子から桜井医師宛のメールの内容は、それまでのものとはまったく異なるものです。そこで幸子は、要約すれば、ほぼ次のように述べています。
 自分の「誕生日」を桜井医師が忘れたことから、幸子と桜井医師との「ご縁が薄かった」ということがわかったが、それは「悲しい限り」である。明日は上京するが、そのような「薄情な方」に「わざわざお逢いする」ということについてちゅうちょしている。もし「あなたにとって、私の存在などないに等しいのならば」「捨て置いて」もらいたい。「あなたにとって私とは何なのかが」ということがわからないまま、「先生に逢う」のであれば、自分は単なる「バカ」ではないか、と(【資料20】を参照)。
 このメールの文体は、当時幸子が好きだった椎名林檎という歌手が作った歌詞に似せて書いています。18日々のメールと同様、「あなたにとって私とは何なのか」と桜井医師に対して問うているのは一貫していますが、文体と内容は、これまでとまったく異なります。以上のような幸子のメッセージが、一体何に由来しているかを、幸子は椎名林檎の歌詞から引用して明らかにしています。

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「翻弄されているということは状態として美しいでしょうか」?そんな「依存症」なのでしょうか?あなたの。(【資料20】より)

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 つまり幸子はここで、自分は桜井医師によって「翻弄され」ているのであり、これは、あなたに対して自分が「依存症」にかかっているのではないのか、と問うているのです。
 以上のように、4月18〜20日のメールで、幸子は「あなたにとって私とは何なのか」と問い続けていました。しかしその答えを幸子がわかっていなかったかといえば、そうではないと思います。というのも、私は当時、幸子が次のように私に言ったことをよく覚えているからです。「桜井医師に電話で、『(幸子がWさんの話ばかりするので)先生はWさんに嫉妬したのではないですか』と聞いたら、桜井医師は、『そうかもしれない』って言ってた」と。
 以上の会話があったのは、4月20日(木)かそれ以降のことでした。桜井医師によれば、同日、幸子は大泉病院の同医師に電話をして話をしています。そのなかで幸子は、[中略]「Wさん、というお友達の話」をしていたということです(【資料21】を参照)。
 その時かあるいはその後で、幸子に対する桜井医師の態度に何らかの変化があったと幸子は考え、そこで、桜井医師が「Wさん」に「嫉妬」している、と感じたことがあったのではないかと思います。そこで幸子は「嫉妬したのではないか」と桜井医師に聞いたところ「そうかもしれない」という回答があったとのことです。したがって、桜井医師が自分に対して恋愛感情を持っている、と幸子は考えたと思います。
 
11 済世会中央病院での再会(2000年4月22日)
 2000年4月21日(金)、私と幸子は大阪から実家の川崎に向かいました。この日程は、結婚式場となる、高輪カトリック教会(東京都品川区)、披露宴の会場となる原美術館(東京都品川区)、それから、青山にあったウェディングドレス専門店での着付けと最終チェック、会場を飾る花屋との打合せという約束をした上で決まっていました。これらのスケジュールは、翌22日(土)と23日(日)の二日間でこなすことになっていました。

 しかし私は、幸子から、4月22日に桜井医師と会う予定がある、という話は、事前には知らされていませんでした。幸子は、4月21日に大阪を出る直前まで、何度もコンピューターを起動させてEメールのチェックをし、あるいは、大阪から東京までの新幹線の車内で、携帯電話に着信があったかどうかを繰り返し確認し、神経質になっていました。しかしどうしてそのようなことをしているのか、私は本当のところはわかりませんでした。
 この時ではなかったかと思いますが、私は、幸子が桜井医師からの連絡を待っているのかもしれないと思いながらも、そのことについては話さず、ただ幸子と次のような会話があったことを覚えています。

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幸子:「これからどうなるかわからない」
M:「どうなるって何が?」
幸子:「桜井先生とのこと」
M:「どうなるって? 元に戻る(前のようになる)っていうこと?」
幸子:「そう」
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 私は、「元に戻る」「どうなるかわからない」という話を聞いて、なにか異様なものを感じた覚えがあります。幸子は私と結婚をしていましたし、桜井医師もすでに結婚をしています。幸子はそのような状態を良く理解した、と3月17日付のメールでそのことをはっきりと書いています。

 ところが、「どうなるかわからない」「元に戻る」ということを言っていたので、私には理解できませんでしたし、桜井医師と電話の中で、どのような会話をしているのだろう、とも考えました。しかし、「まさかそんなことがあるわけがない」と思い直して、あまり深く考えないようにして、21日に川崎の幸子の実家に到着しまた。

 翌4月22日の早朝から、私たちはご両親とともに外出する予定になっていました。しかし、幸子は早朝から、「体が動かない、気分が悪い」と訴えました。そこで、午前中の約束はキャンセルして翌日に延期してもらいました。これはたしか、結婚式の教会を飾るお花についてお任せしたお店だったと思います。

 22日朝に起きた幸子の容態の変化は、以前であれば、よくあることでしたが、4月以降になると少なかったので、これは、彼女がご家族にははっきり言えない理由がありそうだと思いました。そこで私は「なにかあるの?」とご家族に聞こえないようにしてそっと聞きました。すると、家族には言わないでもらいたいと言いながら、桜井医師が済世会中央病院で幸子と直接面談するかどうかの意思を、電話などで幸子に伝える、という「約束」をしたのだが、いまだにその連絡が来ないのだ、ということを私に打ち明けてくれました。

 私はそれを聞いて、幸子に代わって桜井医師に電話をして聞いてみよう、と提案しました。桜井医師の話を聞けば、問題はたちどころに解決すると考えたからです。すると幸子は、家族に聞かれたくないから、ということで、話し声が一番聞こえない妹さんの部屋に行き、そこから携帯電話で電話をしました。妹さんは出勤されていたので、その日はちょうど部屋が空いていたのだと思います。

 私は、済世会中央病院に電話をかけて、桜井医師が幸子と会うことにしており、連絡をするという約束をした、と幸子は言っているが、どうなのか、と説明を求めました。また私はその時、幸子が、その連絡が来ないために、寝込んでしまっている、という幸子の現状を伝え、桜井医師の連絡が来ないため、幸子の容態が悪くなったこと、また、自宅ではパソコンのメールを頻繁にチェックし、新幹線では携帯電話の着信履歴を頻繁にチェックするなど、桜井医師からの連絡をずっと待っていた、ここ2日間の彼女の様子などについても、お伝えしたと思います。そして私は、幸子がそのように訴えているが、そういう約束をしたのか、したのなら、なぜ連絡がないのか、ということを聞いたはずです(この点については【資料26】も参照)。

 これに対して桜井医師は、「連絡をする約束」などした覚えはなく、「時間があって会えるのであれば会いましょう」もしくは「連絡がほしい」という意思を、以前に伝えただけである、と回答したと記憶しています。

 以上の回答については、補足する必要があります。2000年5月17日・24日に、私は桜井医師に対して、なぜ4月22日に幸子と会うに至ったのか、その経緯と、会って何があったのか、ということについて説明を求めました。その際に私はまず、そもそも幸子がなぜ桜井医師と関係を復活させる時に、「会わないで開始する」という条件にしたのか、と桜井医師に質問しました。これに対して桜井医師は、「度胸がなかった」「いきなり会ってクラッシュしたら大変だから」「自分が死んじゃって、人にも迷惑かける」という理由から、幸子が、桜井医師と直接会いたくはなかったのだ、と説明しました(【資料22】参照)。

 逆に、そのように幸子が「会うのは嫌だ」と言っているにもかかわらず桜井医師が「会いたい」という要望を出したのは、会った方が「お互いに通じる」「声だけだとわかんないこともある」から、という理由からだということでした(【資料22】参照)。

 また「電話(?)ばっかりだと、かえって傷つけちゃうだろうな、っていう気持ちもあった」「電話で話しているだけでも、ものすごい誤解が生じたりする」「顔をみて相手の存在を感じないと安心できない、という僕のニーズだった」という説明もありました(【資料16】参照)。
 しかし、それでは、幸子ではなく、桜井医師が「クラッシュ」することを「恐れなかった」のか、という私の質問に対しては、「そこでクラッシュしたら」「手のばしてつかまえたり一瞬できるかもしれない」「電話口でクラッシュした方が大変」だから、会うのだ、という説明でした(【資料22】参照)。

 そこで私が、そうだとすれば、3月末からの関係再開を、それ以前と同様に「最初から断るという方法」もあったのではないか、という私の質問に対しては、次のように答えています。「そうだったのかもしれません」。「結果からいえば」「断った方がよかった」が、「僕の方としては和解したい」し、「彼女にとってもプラスになるかと思った」と(【資料22】参照)。

 以上のような理由で、4月22日に会うことになったということです。この経緯について桜井医師から5月17日・24日に受けた別の説明は、【資料23】のようなものです。この資料にあるように、「連絡ください、とはっきり要求はされなかった」「私も提案しなかった」「はっきり決まっていないんだから、そんなに会いたいんだったら連絡をくれるべきだ、ていうふうに彼女が考えたかもしれませんけど。そういうパターンはよくありました」と桜井医師は答えています。

 しかし、他方で同医師は、4月22日に会うことは、自分からの「welcome」「誘い」であったとも説明しています。さらに、「私の感じ」としては、「こっちから誘っているのに食いついてこない、という感じだった」「乗ってきてくれない」「来ませんか、というのだけど、はっきりした返事をしてくれなかった」とも、説明しました(【資料24】参照)。
 それでは、幸子が「会う」ことを「すごくおそれていた」し、桜井医師も、「恐ろしいことだからいやだ」「なにかおきたらいやだ」という状況があったが、桜井医師は「会いたい」、幸子は「それはまだできない」という状態だったのだから、「会いましょう」という「オファー」があっても、「迷うのは当然だと思いませんでしたか」という私の質問に対して桜井医師は、次のように答えました。

 「それはそうですよね」、「無理押しはできないな、と思った」「なにが何でも来てください、というふうにはならなかった」と。
 しかし、「寝込んじゃうぐらいだった」のであるから、幸子は、会うことや桜井医師から連絡があることについて「すごく気にかかっていた」と思うが、桜井医師は、そういったことが「読めていた」のではないか、という私の質問に対して同医師は次のように答えています。「寝込んでしまう」ことは「読めてない」と。
 それでも私は、「声の調子一つで分かりますので。長いおつきあいなんで。嘘ついてるかどうか分かりますから。本当の気持ちで語っているかね」と桜井医師が私に説明していたので(【資料25】参照)、当時も「読めた」のではないか、と聞きました。これに対して桜井医師は、「ずっと元気がない」と思っていた、ということでした(【資料24】参照)。
 結局、22日に幸子は、中久喜医師のカウンセリングを受けた後、一人でB中央病院に行って桜井医師に会いました。行く直前までは、私を交えて三人で会うことも考えていたようですが、私がギプスをはめて松葉杖をついている、という状態だったので、「来なくていい」という結論になったようでした。22日に一体なにがあったのか、私は桜井医師に、5月17日・24日に聞いたところ、ほぼ次のような説明がありました(【資料26】参照)。
 まず、話した時間は「15分」程度だった。「患者さんに」「お茶なんか出しちゃいけない」のであり、それは「ルール違反」だった。そのことは幸子も「分かっていると思う」が、「お茶じゃなくてジュースを紙コップでおだし」した。「わざわざジュースを買いに行って、紙コップと一緒に持って帰ってきたり」した。
 次に、桜井医師が幸子に言った言葉は、同医師の説明によれば、次のようなものでした。「一緒に飲みましょう」、「天気がいい日にお目にかかれてよかった」、「昔はちゃんと病院に来る時は、お金もらってたけど、今日はあなた、お客じゃないから、ちょっと裏口から、こっそりね」、「ひさしぶりに顔が見られて、よかった」、「同じ場所ですよね。昔とね」と。
 幸子の方は、「あいかわらずですね。でも、ちょっと配置が変わりましたね」「切り株から木が生えましたね」「N先生のところに行った直後だったので、私今、ふだんよりはちょっとは元気です」「Mさんから、先生に会うようにすすめられたんですよ」ということを言った、と桜井医師は説明しました。
 また、4月22日、桜井医師は、幸子との面接後、幸子宛にメールを出していますが、このメールは4月20日付の幸子から桜井医師宛メールへの返信という形になっています。ここでまず桜井医師は、「健忘症」「痴呆」「absent mind」のために、「いやな思い」をさせてしまったことについて謝罪しています。これは、明らかに幸子の誕生日を「忘れて」いた、ということに対する謝罪です。また、「時間の調整」が悪い、ということについても謝罪しています。これは、22日に桜井医師が幸子に連絡をしなかった、ということについてだと思います。加えて、「来週は水曜夕方が私の希望」であると伝えていますが、これは電話での交信を4月26日(水)夕方に指定したものと考えられます。それと同時に、「詳しい時間はまた来週連絡する」とも伝え、「幸子さんの都合も教えて下さい」とも書いていますので、26日以前にメールか電話で連絡を取り合うことが予告されています。
 「バッハを弾くということ、聞けないのがとても残念です」「パルティータの3番を聞いてみようとおもいます」という記載もあります。これは、22日の面接で、幸子が桜井医師に対して、5月6日の発表会で演奏することについて話した、ということを示唆していますが、カルテには記録されず、桜井医師も、電話で私に話さなかった内容です。
 またここで、「ハイフェッツのバッハは渡してしまいましので」とありますが、これは、97年11月から99年4月までのB中央病院での治療において、幸子に桜井医師がプレゼントをしたCDについて言及しており、二人の間では、共有された記憶のはずです(B中央病院カルテ、1998年6月24日の記録を参照:「幸子さんにおくりものをする。桜井医師が長年もっていたバッハのCD。(幸子さんにとっては価値のあるものだったようだ)」)。
 最後に、「M様にお電話ありがとうございましたとお伝え下さい」という記載がありますが、これは、22日、幸子が桜井医師に対して直接聞けないので、Mが桜井医師に対して、なぜ約束通り幸子に連絡をしないのか、と問いただした際の電話のことを言っています。

 4月22日(土)に桜井医師と会ったその日、私は幸子に「どうだった?」と聞きましたが、どのような答えだったかは、よく覚えていませんが、「あんまり話さなかった」とか「時間がなかった」といった、簡単な答えだったと思います。私自身は、二人の間で解決すればよい問題であり、幸子から相談されない限りは私があれこれ言うことではないと思って、それ以上のことは聞かなかったと思います。また、私としては二人が会って和解すれば、結果的には幸子の「人間不信」が解消されると思っていました。また、あとから知ったことですが、桜井医師に会ったことについて幸子は中久喜医師に報告していませんでした。ですから、二人の再会を知っていたのは、幸子、桜井医師、そして私の三人だけです。

 翌4月23日(日)は、結婚式の最終的な準備のため、朝から東京都内をずっとまわっていました。最後の店で用事を済ませたあと、お父さんの運転する車で帰途につきましたが、幸子は、ウェディングドレスの下に付ける下着を買っていない、ということをしきりにいっていたので、結局途中で車から降りて、渋谷に買いに行く、ということになりました。私が「一緒に行こう」といったのですが、松葉杖をついていたので、「来なくていい、一人で行ける」と幸子が断る、いうというやりとりがあり、結局、お母さんが後から追いかけてデパートで追いついて一緒に買い物をした、とあとで聞きました。朝からずっと活動していたためか、幸子がずいぶん疲れていたような気がしました。こうして、23日にはすべての用事を済ませて、私は幸子と一緒に、翌24日(月)、大阪に戻りました。
 
12 2000年4月27日の自殺未遂
 4月25日(火)以降、幸子はバイオリンの発表会に向けて毎日何時間も練習をしなければならなかったと思います。それに加えて、結婚式の招待状の作成や発送といった作業があり、あわただしい毎日で、集中してバイオリンの練習に打ち込めない状態だったのではなかったかと思います。
 私は松葉杖をつきながら、出勤して[中略]、その合間に整形外科の治療を受ける、という毎日で、幸子と一緒にいることができたのは、朝晩と治療を受けに行く時間だったと思います。幸子は、整形外科に行く時は、多くの場合、付き添ってくれました。
 4月26日(水)は、私は用事を済ませるために午後から出勤していました。その間幸子は桜井医師と電話をしています。これは、22日の桜井医師から幸子宛メールで、桜井医師が提案していた日程です。この日程が確定するまで、二人はメールによって日程調整をしています(【資料27】参照)。
 26日(水)の夕方、中久喜医師との電話でのカウンセリングの後、幸子は桜井医師と電話で話したということです(【資料27】を参照)。この会話に関する桜井医師の解釈を、私が2000年5月17日に聞いたことを参考にして整理すれば、ほぼ次のようになります(【資料27】を参照)。

 幸子はこの時、B中央病院の頃を回想し、「黄色い花束」(「恋愛」)でない「生きていくbaseに必要な白い花束」をもらいそこなってしまったと言った。では「1年3ヶ月前にあった」ものはなにか、といえば、「誰でも持っている本当の、土台にあるようなもの」「自分が生きていく為に」足りないもの、「赤ん坊が母親に抱きしめてもらうようなこと」「何か大きな愛」であった。他方、2000年4月26日の会話で、幸子は「心の奥底で私のことを諦め切れた」「私の顔を見てはじめて、ああ本当に終わったんだ」「本当に終わったんだ、って分かっちゃった」「仲良く話はできるんだけれど、やっぱり恋人ではない。彼はそう思ってはいない、って思われた」と考えた。

 この4月26日、4月上旬にご両親とともに心斎橋の家具店で注文していた家具が到着しました。こういった状況でしたから、幸子に何か変わったことがあったかどうかは、記憶が曖昧です。寝ていたような気もしますが、バイオリンの練習をしていたような気もします。

 翌4月27日、私は授業があるため出勤していました。夕方頃、私が仕事から帰ると、幸子がベッドに寝ていて、「死のうとしたけど死ねなかった」と言いました。ベッドの上には、幸子のコンパクトと、その中にいつも入れている睡眠薬が散らばっていました。

 しかし、散らばっている薬とコンパクトを見た瞬間、この分量なら死なないし命に別状はないはずだ、と思いました。私は幸子から、渋谷か軽井沢での自殺未遂について話してもらったことがありますが、その時は、「お茶碗に山盛りの薬」をのんだ、ということでした。つまり、本当に死のうとする時、幸子は事前に計算をして確実に死ぬことができるように準備してたようでした。そのことを覚えていましたから、その程度の分量では、致死性の効果を与えはしないはずだと思ったのです。しかし、念のため、水をたくさんのむように頼みました。

 またその時幸子は、「桜井医師に自殺をしますと電話をした」が、「今死なれると気分が悪いから1週間後にしてくれと言われた、ひどいことを言われた」と言いました。

 私はこれを聞いて、「今から死ぬ」などと電話で言われたら、自分だったらとっさには答えようがないな、と常日頃から思っていたので、「そうとしか答えようがないな」と思いながら、「それはうまい答えだ」あるいは「それはうまいこと言ったね」「うまいこと止めたね」というようなことを幸子に言いました。すると、幸子の表情ががらりと変わり、そのあと、あるいは5月1日だったかもしれませんが、桜井医師に対して、「先生はうまい止め方をしたと思うんですよ」と言っていました。
 また27日には、私の部屋にある電話の留守番電話を聞いたところ、「ごめんなさい。私は疲れました」という幸子のメッセージが入っていました。幸子に聞いたところ、2000年1月12日の自殺未遂の時、私が、「桜井医師とFさんに遺書を書いてくれたのに、なんで僕には書いてくれなかったの」と言ったことがあります。なんとか場をなごませようとする、苦し紛れの冗談でしたが、幸子は笑ってくれました。そのことを覚えていたから、今回は私にもメッセージを残した、ということでした。
 当時私は、4月27日の自殺未遂は幸子のストレスによるものだと考えました。ただし、それ以前も、疲労やストレスがたまると、自殺をしかねない、と思えるような状況がありました。しかし、そういったことに関する原因については、幸子はしばらくすると分析して、もし私が気を遣わないことや、生活の仕方に問題があれば、そのように説明し、あるいは私のことを責めたり不満や愚痴を私にぶつけたりしていました。しかし、27日の自殺未遂の後、幸子からそういった愚痴や不満が私に対してぶつけられなかったので、なぜ突然死にたくなってしまったのか、不可解なところがありました。

 桜井医師はカルテで、この時の自殺未遂について、自分が幸子の自殺を押しとどめたと書いています(【資料28】参照)。しかし、正確に言えば、自殺は決行されました。ただし、睡眠薬が足りなくて、死ぬまでには至らなかった、ということです。

 4月27日の自殺未遂のあと、すでに述べたように、4月上旬にご両親と一緒に大阪の家具店で買い求めた家具が、その前日に配送されていましたので、私が率先して、それまで段ボール箱に詰め込んでいた幸子が買った食器を、食器棚に入れる作業を始めたところ、幸子もベッドから起きてきて、手伝い始めました。

 彼女が気に入った食器を食器戸棚にしまうという目的があると、それに集中できたのだと思います。また、私と一緒に、同じ作業をする、ということで気が紛れたのではないかと思います。また28日、友人のW氏より幸子宛に、幸子のバイオリンの練習を励ます内容のメールが来ていたので、幸子が喜んでいたのを大変よく覚えています。
 
13 桜井医師宛てに遺書(メール)を送る(2000年4月29〜30日) 
 翌4月29日、早朝6時半に、幸子が好きなテレビのお笑い番組があったので、二人で見たと思います。しかし、幸子の状態はそれほどよくなかったと思います。


 翌4月30日の記憶が曖昧ですが、幸子は、おそらくこの日、「死ぬ前にババロアが食べたい」と言いました。最初は似たような食べ物を作ろうとしたのですが、「本物のババロアじゃないと食べない」ということでした。しかし、私の家の近所では、大きなお菓子屋さんはないので、電車で難波まで行ってデパートで探せばあるのではないかと思いました。幸子は「売ってないよ」と言っていたので、死なれては困るし、逆に買ってくれば生きる希望になるだろうと思い、「売ってるに決まってるから買いに行く。待っててね」と言って買い物に行くことにしました。また、それ以外にも、読みたい本があるからついでに買ってきてもらいたいと言うので、その買い物も引き受けて、まず難波の高島屋の地下でババロアを買った後にジュンク堂書店で本を購入し、急いで帰宅して、幸子にババロアを食べさせました。書店では、いつも本は自分で探すのですが、その日は急いでいたので自分で探さず、すぐに店員に書名を教えて探してもらった後に急いで帰宅したことを、よく覚えています。

 幸子の死後に知ったことですが、同4月30日、幸子は、桜井医師にメールを送っていますが、それは前日の29日に、桜井医師が幸子に対して出したメールへの返事でした。


 桜井医師はこの4月29日付のメールの冒頭に、「まるで5年前のようだった」と、A大学病院入院時代の話題を出しており、それと同時に、「水曜から金曜まで連休前でひどく忙しく」「ご連絡できないでいました」と書いています。その後で「なんとかお元気でおられるよう祈っていました」と書いています(【資料29】参照)。


 以上の桜井医師からのメールに対して幸子は、30日に次のような返事を書いています。「もう私はもたないようです」「わたしは5年前とは何もかも違う私なのですから」「先生は一精神科医として、これからもたくさんの患者さんたちを含む周りの方々に「お茶」を出し続けて下さいね」「最後に好いお天気の日にお会いできたことを神さまに感謝します。桜井医師、最後までわたしを支えて下さってどうも有難うございました」「色々書きたいことも有りましたが、机に座るのも限界なので、もう書けません。ごめんなさい」(【資料29】参照)。


  「最後まで」という言葉からわかるように、これは遺書です。これに対して、桜井医師は5月1日付でメールの返事を出しています。それを見ると、「また明日(4:30過ぎ)お電話させていただこうと思います」「このあいだ木曜にお電話いただいたときにそれを人から借りて読んでいました。この本は幸子さんに役立つのではないかと思います」と述べられています(【資料29】参照)。
 
14 2000年5月1日の自殺未遂
 5月1日かその前日頃だったと思いますが、妹さんが関西方面に旅行をする途中で、大阪に立ち寄るという知らせを受けていました。家の中は、家具も設置して以前よりは落ち着いてきましたが、幸子は27日以降、バイオリンの練習もできないまま、ほとんどベッドで寝ていたと思います。

 5月1日、私もずいぶん疲れていたのですが、長い間床屋に行っていなかったこともあり、また、連休の中日で銀行からお金がおろせる日だということもあり、気晴らしがしたい、ということを幸子に言ったところ、外出はかまわない、私は家で待っている、という答えだったので、外出しました。

 ところが、連休中で、最初に行こうと思っていた床屋が店を閉めていたため、電車を乗り継いで別の駅まで行く、ということまでしたので、ずいぶん外出に時間をとってしまいました。しかし、外出直前、幸子の状態もしっかりしていましたし、また、そばにいてほしい、という気持ちがあり、あるいは、行ってほしくない、という気持ちがある時は、率直に言ってくれるので、私はそのことを信じて、数時間、外出をしてしまいました。しかし、今になってみれば、一緒にいてあげればよかった、と後悔しています。
 帰宅すると、彼女が首に注射器を刺してベッドに横たわっており、少しだけですが、シーツに血が流れていました。頸動脈に針を刺して、頸動脈を破裂させて出血多量で死のうと思った、大量服薬もした、と幸子から教えられました。

 使った注射器は、以前、3月上旬に、便所の中で同じことをしようとしていた時にももっていたもので、アルバイト先にあったものを持っていた、ということです。注射器自体は小さいものでしたが、太さがあり、また、注射針も太いもので、幸子によれば、点滴に使うようなものだ、ということでした。


 どのように対処したのか、順序は忘れましたが、中久喜医師に電話をしたことはたしかです。同医師には、自殺未遂をしたことを報告し、措置の仕方についてのアドバイスを求めました。同医師は以下の2点を強調されました。(1)「死なないでください」と一生懸命お願いすること。(2)注射針を刺して頸動脈に達していないか心配であり、また、傷口に雑菌が入る危険性があるから、すぐに病院に連れて行き、消毒をすること。


 以上の、中久喜医師との会話の前か後かは忘れましたが、私と一言二言かわした直後、「桜井医師が、ゴールデンウィークになれば時間ができるからメールをひんぱん(あるいは、たくさん)に送りましょう」と、それまでのセッションで「約束」したのにメールが来ない、ということを幸子が訴えました。

 したがって、桜井医師に対する疑念や不信感が、自殺の原因のようであるから、同医師に事実関係を正さねばならない、と考えました。連休中であるため病院には不在であろうと考えたからなのか、不在であることを確認して、幸子が「自宅にいるだろう」と言ったからなのか、それとも私が、自らの判断でそうしたのかは、今ははっきりとは覚えていませんが、幸子が手帳に電話番号を記載していたために、桜井医師の自宅に電話をしました。幸子ではなくMが電話をしたのは、彼女にそうしてくれ、と頼まれたからであり、彼女が桜井医師の声を聞くと気分が悪くなる、というからでした。


 桜井医師は開口一番、「いたずら電話などがあり、困るので、自宅には電話をしないでくれ」といった意味のことを言いましたが、なぜいたずら電話の話が関係しているのか理解できませんでした。「妻がおびえるから」という話もしたと思いますが、それもどうしてなのか、理解に苦しみました。

 しかし、私の方は、緊急事態ですし、早急に問題を解決したかったので、自殺未遂について説明した上、桜井医師がメールをたくさん出すという「約束」をしたのに守っていないのではないか、と問いました。これに対する桜井医師の回答は、「約束」などした覚えはない、出せたら出す、と述べただけである、というものでした。さらに同医師は、これ以上、彼女の自殺未遂に自分は付き合いきれない、という趣旨のことも述べたと思います。


 桜井医師がメールを送らなかったことが、幸子の自殺未遂の原因ではないか、ということについて、この時私は桜井医師と話しはじめたと記憶しています。しかしその時、会話を聞いていた幸子が突然、「そうじゃない。今回は桜井医師は関係ない」と言い出しました。彼女のそのような主張の根拠は、次のようなものです。以前の「パターン」であれば、「遺言」は桜井医師に対して残すが、今回「遺言」は、私の友人であるWさんに送ったメールである。また、私が不在の間、QさんとHさんに電話をしたが、Hさんは不在で、また、Qさんは、幸子の留守番電話を奥さんが消した、家に電話をかけられると困る、ということをいった、ということでした。つまり、彼女の信頼している友人二人、とくにQさんから拒絶された、とりわけ奥さんが幸子のことを拒絶している、という理由で拒絶された、ということが原因である、と。


 しかしながら、最初に「桜井医師がメールをくれない」という訴えを聞き、同医師に対して抗議の電話をかけた私としては、幸子の説明には納得できませんでしたし、とくに、桜井医師が「私のことが原因ですね」というようなことを言っている、と幸子に伝えたとたんに、「違う、桜井医師は今回は関係ない」と幸子が言い始めたので、納得できませんでした。

 桜井医師はこの件について、次のようにカルテに記載しています。「桜井医師に関して」は「メール」が「遅くなってきたから」だという。桜井医師はMに対して、以下のように告げた。「今回は有効的に話をしていることにより、却って関係性が本人の望む(至上の恋愛)ではないこと)がようやくはっきりして、つらくなっているのではないか。距離をとらせて頂いた方がよい」と(【資料30】を参照)。

 同日私が自宅に電話した後に、桜井医師は幸子宛に、次のような内容のメールを出しています。「ご主人からご連絡をいただきました。とても残念です。わたしは当分あなたに近づかない方がよいと思います。また、十分に余裕があったらばご連絡を下さい。それまでは、しばしのご猶予を」(【資料30】を参照)。

 その後、私と幸子は、中久喜医師の指示に従い、私の家から歩いて数分のところにある診療所に幸子を連れて行きました。同診療所の医師は、幸子から経緯を聞くと、主治医はいるのか、という点をただし、それから、注射器はこちらで引き取ります、と言って引き取った後に廃棄したようです。また、首の怪我は、頸動脈まで至っておらず、頸動脈をねらっても、自分ではなかなか破裂させることなどできない、ということを言いました。さらに、首の傷は、一応消毒しておくが、これも大事には至っていないので、大丈夫だ、と言いましたが、服薬があったためだと思いますが、点滴を打つことになりました。診療所の奥の一室に、狭いですが一つだけベッドのある寝室があり、そこに幸子が寝て点滴を打ちました。

 こうしているうちに、妹さんが到着すると、ベッドのある部屋に来て、幸子とずいぶん話をしていました。その内容について私は覚えていませんし、私が混乱していたため聞いていなかったと思います。このことについては、妹さんの陳述書で記載があると思います。

 点滴を終えると、幸子はずいぶん元気になりましたし、また、妹さんとも話が弾んでいるようでした。帰りに、行きつけのたこ焼き屋でたこ焼きを勝って帰り、三人で夕食を食べました。妹さんが、幸子のリクエストに応じて、料理を作ったのだと思います。ですから、妹さんが来てから幸子の気分が良くなったようです。こうして、5月1日が終わりました。
 
15 幸子の自殺までの経緯(2000年5月2日)
 5月2日(月)の早朝、私は妹さんを駅まで送っていきました。彼女は、その日から出勤しなければならないということで、始発に乗らなければならなかったのです。幸子は玄関まで見送ったと思います。私はまだ松葉杖をついていたかもしれませんが、一緒に駅まで歩きました。駅までの道すがら、妹さんに、幸子が最近桜井医師と交流している、ということを話したようです。もちろん、家族には秘密にしておくべき話でしたが、妹さんが、「どうして急にああなったんだろう」という疑問を示したからだったからかもしれません。そこまで言われれば、秘密にもできず私が話す、ということはあったと思います。

 妹さんを駅で見送って家に戻った後、午前中は、幸子の具合は大変よかったです。昼頃までは、食事をし、二人でテレビやビデオを見たりしていました。今でも覚えているのは、偶然見たテレビ番組でしたが、レポーターがアフリカのどこかの国に行きあたりばったりで訪問をするという内容でしたが、訪問先の国が大変牧歌的で、しかも、そこに出てくる現地の人々が大変純粋だったことが印象的でした。それを見て幸子は、「私ここに行きたい」といったことをよく覚えています。その時私は「いろいろなことがあってつかれているのだろう」「信頼できる人間関係を求めているのだろう」と思いました。

 そのあと、これも偶然見たのですが、コメディアンが特訓をして社交ダンスを一から学び、最後は競技会に出場して勝ち抜いていく、という番組がながれました。幸子が、「私これがやりたい。一緒にやろう」と言い、さらに、社交ダンスをテーマにしたコメディー映画のビデオを見よう、と提案したので、一緒に見ました。こうして、前日とはうって変わって、5月2日の午前中はなごやかに過ぎていきました。「一緒に社交ダンスを習おう」と提案する、ということは、「生きる」ことが前提ですから、この時点で彼女が自殺をしたいと思っていたわけではないと思います。

 また、朝食も一緒にとりました。妹さんに作り置きしておいたものを食べたような気がします。その時幸子は、バイオリンのCDをかけて、どういう曲を弾きたいのか、発表会に向けて練習をしていたバッハの無伴奏組曲は、自分にはあっていない、現代曲のほうがあっている、という話をしていました。さらに、その前後、東京のバイオリンの先生に電話をして、私の足の怪我のこともあり、発表会には出ないことにした、ということを伝えました。また、ロンドンへの留学も、もう少し結婚生活を楽しんでからにすることにした、「ゆっくりやることにしました」と言っていました。幸子に、「先生、なんて言っていた?」と聞くと、「そうよ、あんた!」って言われた、と言っていたので、発表会のキャンセルも問題はなくなったということがわかりました。

 電話をする前は、先生の不興を買うかもしれないという多少の不安があったようなので、「僕の足が悪いから出られなくなった、ということにすればいい」と助言もしたので、思い切って電話をかけた、というところもあったと思いますが、先生はまったく気にしていない、という反応で、むしろ「ゆっくりやる」という幸子の言葉を肯定的に評価した、ということが印象に残っています。以上のように、5月2日の午前中は、彼女は大変調子がよかったのです。

 ただし、すでに述べましたように、桜井医師は前日の23時頃に幸子にメールを送っていて、この日の午前中に幸子はこのメールを見た上で、それまでの桜井医師との往復メールと一緒にして、それまでの桜井医師との電話での交信に関する簡単な記録も添えた上で、ファックスで中久喜医師宛に送っています(2000年5月2日11時43分)。このファックスの冒頭には、「桜井医師」は「Mが自宅に電話したことを」「お怒り」である、ということ、また、「彼の本質的なところ(責任逃れ/誠意が感じられない)は前回と変わらない」と述べられています(【資料31】も参照)。同時に幸子は、5月1日付の桜井医師からのメールで「非常に傷つきました」と中久喜医師に報告しています。

 さらに、正午過ぎ頃ではなかったかと思いますが、中久喜医師からファックスが送られてきました。昼食を終えた頃ではなかったかと思います。B中央病院のカルテには、そのファックスの写しが入っています(【資料31】)。

 このファックスで桜井医師は、「私との関係」が「彼女のつらさを強めた」ので「距離をとらせていただいた方がよいと考えています」と述べています。大阪に送られてきたファックスには、幸子宛ての中久喜医師による「桜井医師はこのようなことを伝えてきたが、あなたはどうするのですか」というメッセージが記入されていたと思います。

 この転送されてきたファックスを見て、幸子のそれまでのなごやかな表情ががらりと変わり、大変厳しい表情になり、また怒りをあらわにしはじめました。その後16時までの間、何があったのかは、よく思い出せません。はっきりと記憶しているのは、16時頃から17時頃にかけて、また、18時頃にも、B中央病院に電話をかけて、桜井医師に対して幸子が、「今後も自分の生命を救うのがあなたの義務である」と、強く今後の交流を要請した、ということです。私はその会話をずっとそばで聞いていたのですが、幸子の話しか聞けなかったので、どういう会話があったのかは、詳しくはわかりませんでした。

 幸子から事後的に聞いた話では、幸子の要請に対して桜井医師は、「自分は「親友」(あるいは「友人」)としては、あなたの生死にコミットすることはできないのだ」と主張した、ということでした。なぜ、「親友」(「友人」)が幸子の生死にコミットできないのか、ということについて、幸子は理解できない、と言っていました。私もその話を聞き、「友人」が自分の「友人」のことを気にかけ、「友人」が死のうとすれば助けようとするのが当然である、という幸子の考え方には同意していましたので、幸子と同様に、桜井医師の回答が意味不明であり、それによって幸子の精神状態が不安定になってしまっている、と思いました。

 以上の電話のやりとりの間、中久喜医師から電話がかかってきました。中久喜医師から幸子の死後にいただいた手紙では、幸子が中久喜医師に電話をする、という約束だったようです。しかし、幸子から電話が来ないため、そして中久喜医師は30分間しか時間がなかったため、電話をかけて幸子の都合を聞こうとした、ということだったようです(【資料32】参照)。

 ところが、中久喜医師から電話があったちょうどその時、幸子は桜井医師と口論をしていたので、「もう少し後で電話をしてもらいたい」「待ってもらいたい」、という趣旨の返事をしました。この時、自宅の備え付け電話と携帯電話の両方の受話器を持って、片方では桜井医師と口論をして、片方では中久喜医師と話をしている幸子の姿を覚えています。また、私は、いずれかの電話を取り次いでいたと思います。

 中久喜医師とはいったん電話を切って桜井医師との話に戻った幸子でしたが、それからすぐに中久喜医師から電話がありました。予定があるので、長い時間話ができない、ということだったので、幸子がかわって、桜井医師を待たせながらだったのか、桜井医師とは電話を切ってからだったのか、よく覚えていませんが、中久喜医師と会話をしていました。

 この中久喜医師との電話で、幸子の容態はずいぶん改善され、電話が終わったあとは、笑顔さえ見せました。幸子は私に、「N先生は、桜井医師をあなたのために利用しつくせばいい、と言った」と中久喜医師のアドバイスを説明してくれました。後に、中久喜医師からもらった手紙では、次のようなアドバイスだったということです(【資料32】を参照)。
 
1、桜井医師が幸子に対して「友人としてコミット」しないのはおかしい。
2、そこで、幸子と桜井医師との間の「友人としての関係性」を「明確に再定義」してみてはどうか。
3、「その再定義された関係の枠組みの中で」、幸子の「ニーズ」をみたすために「この関係性を」「利用」すればよいのではないか。
4、桜井医師は「関係性」を「切る」といっておらず、「距離をとらせて戴いた方がよい」といっているだけである。
5、したがって、「お互い気持ちが安定したところで」話をすればよいであろう。
6、「現在は関係性がhotな状況なので、少しcooling periodをおき、連休あけの月曜日(5月8日)頃」に再度連絡を取ってはどうか。
 
 これを聞き、幸子は「納得」した様子で、「リラックス」した様に感じた、ということです。以上のアドバイスのうち、私が幸子から聞いたのは、「利用」すればよいというところだけでした。

 この中久喜医師との電話が18時頃まで続いたのですが、それが終わると、幸子は、上で述べたように、がらりと表情が変わり、笑顔さえも見せて、大変快活な様子になりました。そして、再度桜井医師に電話をしました。これは中久喜医師のアドバイスに反することで、自分の判断であろうと思います。

 しかし、この時の会話もまた、桜井医師が幸子の「友人」としては彼女の自殺を止めることはできない、という話の繰り返しで終わったと思います。ことによるとこの時に聞いたのかもしれませんが、幸子は桜井医師に対して、4月27日には「先生はうまい止め方をしたと思うんです」と言って、桜井医師が幸子の自殺をとどめることができる、という論理を展開して、桜井医師に同意を迫ったようです。しかし、桜井医師は、まったく同じ回答しかしませんでした。桜井医師はB中央病院のカルテに次のように記載しています。

 まず幸子は、桜井医師からの「メールがすぐに来なかったから」「自殺企図」を起こしたと説明し、さらに「生きるために必要だから1回1回次回まで生きていてくれるように私とコミットメントをしてくれ(友人として)」と要求した。しかし桜井医師は、「それは治療関係でなければできないこと」と答えた。これに対して幸子は「人の命がかかっているのだから」「助けるのが当然」と主張するものの、「愛情は他で探します」と伝え、さらに「あなたは私が自殺しても別に傷つかないんでしょう」と言った。これに対して桜井医師は、「わたしはあなたが自殺(企図)すると絶望的に傷つくんです。今回のことで今そうなっています」と回答した。その後中久喜医師に電話をした幸子は再度桜井医師に電話をかけてきて、中久喜医師からは「短気をおこすな」「桜井医師との関係を切るな」と言われたから、「定期的に医師患者の関係外で援助をしてくれ」と要請したが、「治療関係外の定期的援助は無理である(昔患者であった人と時たま話すと言う関係はある)」と桜井医師はこれを拒絶した(【資料31】参照)。

 さらに、幸子の死後、桜井医師から受けた説明を要約すれば、幸子と桜井医師とのやりとりは、以下のようなものです。

 まず幸子は5月2日、桜井医師に対して「医者としては認めないが、継続的に私の命がつながるようにお世話をせよ」「一回一回彼女に約束をして、死なないようにと、約束をして、それをずっと続けろ」と要求しました。これに対して桜井医師は、「残念だけど、今回も失敗してしまったし、治療者という役柄でないとそれは責任もって引き受けるということはできない」と回答した、ということです(【資料33】参照)。

 また、次のように説明されていました。幸子は、「友人として、治療外で、治療と同じように、ちゃんと私を死なないように、一回一回約束してくれ」と要求した。しかし「それはできない」「私の個人的な体力として、できなかった」ので「お断りしちゃった」。たしかに、「土壇場に来てた、という感覚」を幸子が持っていて、幸子自身「延命はやめてくれって」いっていた。「だから生きられるか生きられないか、かけたかった、という気持ちには、たしかに私も乗ったかもしれません」。幸子の要請には、「おためごかしは言わないでくれ」というニュアンスがあった。「嘘でもいいから、毎週約束してあげる、といえばよかった、と思うんですよね。体力なくても、とにかく空約束でもすればよかった」(【資料33】参照)。

 以下で、その後、幸子がどのような経過でなくなったのかを簡単に述べていきます。桜井医師との電話が終わったのが18時〜19時の間頃だったと思います。私は幸子の「エキサイト」した状況と、気落ちした状況をなんとかしたいと思い、また、中久喜医師からも、首の傷の経過を見ておくように、ということをいわれたような気がしましたので、幸子は渋りましたが「あなたのことが心配だから、お願いだから病院に行ってください」と頼み、前日にいった診療所に行きました。そして、注射器を刺した傷口を消毒してもらいました。医師は、もう大丈夫だ、ということをいっていたと思います。この時、幸子は一時的には、緊張が和らいだような気がしました。病院は込んでいたため、待ち時間にかなりの時間がありましたが、その間状態は悪くなかったと思います。

  ところが、その後自宅に帰る途中、病院を出てほんの数分の間に、彼女が急に黙りこくってしまい、様子がおかしいなと思った瞬間、唐突に「私、彼を許せない」といいました。私は「え、誰が? 桜井医師?」と聞くと、「そう」という返事でした。私は、また状況が悪化してしまった、と思い、どうすればよいかわからないが、とにかくなんとか切り抜けなければ、と考えるばかりであったと思います。

  帰宅後、幸子はまず、病院のカルテは通常5年が保存期限であるから、A大学病院のカルテは廃棄されてしまう期限が近づいていると思う、だから、その前にカルテを差し押さえて裁判をしたい、と言いました。私は、その場では積極的に裁判をすることにすぐさま賛成の意を示さなかったので、幸子は「あなたは裁判に協力してくれないのね」と言うので、「そんなことはない、協力するよ」と言い、「そういう裁判ができるかどうか、自分の友人で弁護士がお父さんの人がいるから、彼に、お父さんに聞いてもらおう。それから、法律の研究者もいるから、どういうことをすればいいか聞いてみよう」と提案しました。

 とっさに考えられることはこの程度のことでした。実際には、裁判などせず、桜井医師のことなど忘れるか、もしくはその存在が幸子の中で相対化されればそれでいいのだ、彼女が幸せになるのなら、復讐であれなんであれ、やることに意味はない、と思っていました。しかし、現時点で彼女がやりたい、といっていますし、99年9月頃も、一度裁判をしようとしたことがあるが、やめた方がいいと言う人もいた、ということを聞いた時、やるのなら協力しよう、と言ったこともありますから、自分の責任は果たしたいと思いましたし、幸子がそれで気が済むのなら、なんでもしてあげたいと思いました。

 それが、大体20時以降のことだったと思います。幸子はA大学病院とB中央病院に電話をして、カルテの有無を確認しました。すると、両方のカルテが残されている、ということでした。そうだとすれば、あとはカルテをどのように入手できるか、ということになりますが、私の友人は、[中略]少し調べてくれたようで、「内容証明郵便を送ればよいのではないか」というアドバイスをもらったので、「カルテは入手できるかもしれない」と幸子に伝え、これで納得してもらえないかと思いました。

  しかし、彼女としては、なんとしても裁判がしたいようでした。この時であったか、それとも桜井医師との電話の直後であったか、幸子は、「なぜ弱い者がひどい目にあって、強い者が罰を受けないのか」と言っていました。この一言は、幸子が桜井医師に対して抱いていた不満の一端を表現していると思います。ですからわたしも、何とも言えなかったのですが、「そうだねえ」と相づちを打つぐらいしかできませんでした。しかし、「裁判がしたい」「彼を許せない」という彼女の言葉とともに、以上の言葉もまた、彼女の「遺言」として私は聞きました。

 この日は、それ以外に、実家から電話があり、明日妹さんがまたこちらに来る、という連絡がありました。どうしてくるのか、理由がよくわからなかったのですが、幸子が電話を受けて話していたところ、旅行をする、ということでした。しかし幸子の死後聞いたところでは、実は、妹さんが5月2日に帰宅後すぐにご両親に幸子と桜井医師が再び交信している、そして幸子が自殺未遂をした、と報告し、自分がもう一度姉のところに行く、と伝えた結果、ご両親も、それは緊急事態であるから、すぐに行ってもらおう、ということになったということです。

 しかし、それは長年、幸子と桜井医師との病的な関係、そして幸子の自殺のパターンを知っていた家族ができる判断であって、私は、そういうことをご家族と話したこともなかったので、まったく認識が異なりました。むしろ、桜井医師が幸子に対して適切に対応してくれれば、幸子の病気はよくなると思ったほどでした。

 他方、私は、父親が弁護士であると聞いていたことがある友人に連絡を取り、精神医療での医療過誤裁判はできるかということを、お父上に聞いていただきたい、ということを電話で伝えました。結局、その友人から電話で返事があったのは、22時頃でした。その少し前に、幸子は「もう寝る」と言ってふとんに潜り込みましたので、疲れ切ったのだから寝た方がよいな、と思いました。その直前、「ちょっと膝を貸して」と言って、顔を私の膝に数秒間埋めました。寝る前に、安心感がほしいのかな、と思いました。

 22時になって、友人から電話があり、父親に聞いたが、精神科の医療過誤裁判は難しい、ということを言われた、という話であったので、私は、「そうか、難しいのか」と相づちを打ちました。さらに、友人がそれ以外の話をしはじめたので、また、こちらがなぜそのようなことを聞いたのかについては、あまり詳しいことは述べられなかったため、それ以外にも、関係の無い話をずいぶんしました。

 話し始めて15分か20分ほど経過したとき、幸子がベッドから起き上がって、寝室の外に出て行きました。話し始めてから20分ほどたった頃なので、22時20分頃だったと思いますが、通常こういう時は、トイレか、あるいは音楽を聴きに居間に行ったり、あるいは隣の幸子の部屋でパソコンを立ち上げてメールを見たりすることもありますから、今回もそうなのだろうと思い、すぐに戻ってくるだろう、と思って友人との話を続けました。あとから考えれば、電話機は子器でしたので、それを持って彼女の後を追うべきであったと後悔しています。

 結局、電話を終えたのは、時計を見ると22時40頃でした。まだトイレから帰ってきていない、もしくは音楽を聴きに行ったか、パソコンをさわりに行ったのか、少し遅いなと思い、様子を見に行きました。この時、トイレにも電気がついておらず、あけてもいなかったので、また、居間を見てもどこにもいないので、初めていやな予感がして、ベランダから飛び降りたか、外に出て行ったかと考えました。しかし、靴もあり、飛び降りた形跡も無いので、家のどこかにいると考え、探しました。寝室の隣の部屋に幸子の部屋があるのですが、そこに人間が一人入れるほどのクローゼットがありました。もしやと思い扉を開いたところ、土気色の顔をした幸子が、私が彼女の誕生日にプレゼントしたエルメスの大き目のスカーフで首をつっていました。クローゼットの床からわずか数センチだけういている程度でした。

 急いでおろしましたが、既に呼吸がなく、心臓も停止しているような気がいたしました。救急車を呼びましたが、20分ぐらい待ったような気がいたします。この時には、無我夢中でしたが、手遅れだった、という気持ちが大きかったと思いますので、また、方法も知らなかったため、人工呼吸も致しませんでした。救急隊員は、彼女の顔を見て、もうダメだと考えたようでしたが、救急車のなかで人工呼吸をし、電気ショックもあったと思います。運び込まれたのは、私の家から車で30分ほどの場所にある病院でした。救急車で運び込まれたのは、まだ日付が変わっていない頃だった思います。

 そのあと0時前後には、川崎の実家などに電話をしました[中略]ご家族が到着するまでに、病院側からは、次のような説明がありました。

 まず、現在心臓が動いている状態であるが、脳の状態がわからない。脳外科の医師が現在休暇中なので、連休明けではないと検査ができない。それまではここで入院することになる、と。警官が一人来て、簡単な事情聴取を受けました。翌日、明け方頃にご家族が午前中に到着した時も、幸子の心臓は動いていて、病院側は入院の手続きをするようにということを要請してきました。病院側からは「長期戦」になるかもしれない、という説明もありました。また、これまでの投薬の状況について教えてもらいたい、ということで中久喜医師に連絡を取りました。同医師は、ファックスを私の自宅に送ってきました。しかし、正午前に、幸子の容態が急変し、医師たちは心臓マッサージを繰り返しましたが、もはやこれ以上はできないという判断があり、結局、マッサージを中止して、幸子はなくなりました。こうして幸子は、5月3日12過ぎに、大阪で息を引き取ったのです。

 私は、幸子の死亡直後に、病院から、桜井医師に電話をかけて死亡について報告しました。ご家族は病院側から、葬儀会社を探して幸子を引き取ってもらいたい、という要請があったようで、悲しんでいるような余裕がない、というような混乱した状況でした。しかし、当時私の認識では、やはり幸子にとって一番報告してもらいたい相手である、と思ったため、桜井医師にはまず報告しなければならないと思い、電話をかけたのです。

 しかし、桜井医師の対応は、自分が最後に彼女とどのような会話を交わしたのかを再現する、と言って、そのことについて説明する、というものでしかなく、ご自分が彼女の死に関わっているということや、彼女の死に対する哀悼の言葉はありませんでした。私の印象は、ご自分には幸子の死に関する責任がない、ということを主張するための説明だった、というものです。

 そのあとのことや前後のことは、はっきりと記憶していませんが、葬儀会社の車で幸子を大阪から川崎の実家まで運びました。私はそれ以前に、自分の家で警察の事情聴取を受け、また、現場検証もありました。
 
15 幸子の死後桜井医師が私に語ったこと(2000年5月3日〜)
 川崎で葬儀をすることになりましたが、まず、それとともに、これまで結婚式の招待状を発送していた人たちに、式の取り消しと葬儀の予告をしなければなりませんでした。式場、ウェディングドレス、花屋、披露宴会場の美術館にもそれぞれ連絡をしてもらいました。

 幸子の遺体が川崎に着いたのは3日の深夜でしたから、お通夜はたしか4日ではなかったかと思います。記憶があやふやですが、その日、桜井医師から川崎の実家に電話がかかってきて、葬儀には、遠くから眺めるという形でよいから参列させてもらいたい、という話を切り出されました。電話を受けたのは私でした。

 すでにこの時点で、私は、Q氏やご家族から、幸子は、それまでずっと、桜井医師との接触のあとで自殺をしようとしていた、というパターンがあり、今回もそれと同じである、という説明を受けていました。ですから桜井医師には、次のようにお答えしました。「この5年の経過から考えれば、ご家族の心情としては、あなたの葬儀への参列は、断りたいというところであろう。他方、私個人の心情としては、もしくは、幸子の気持ちとしては、遠くから見守る程度であれば、かまわないのかもしれない。しかし、いずれにせよ、あなたが彼女の自殺の引き金になったという要素はあるのだ」と。

 この私の言葉に対して、桜井医師は次のように述べました。「だから私は、幸子さんのお母さんに、彼女と再度交信を開始できないと言ったではないですか」と。これは、何を言っているのかといえば、3月半ば、私と幸子が桜井医師との交信を再会することを懇願したときに、幸子のお母さんも、桜井医師に電話で同じ願いを伝えた、ということについてでした。桜井医師は、このお母さんの要請を拒絶したということです。
 つまり、先ほどの「だから私は・・・」という発言の趣旨は、桜井医師がお母さんからの要請を一度断ったにもかかわらず、懇願されたために、幸子との交流を再開したのであるが、結局このような結果になったのであり、それは、自分には責任がなく、責任は、彼女と自分との交流を再開してくれと頼んだ側にあるのだ、と理解できました。

 しかしながら、要請を引き受けたのは、あくまで、桜井医師です。それは、自分の意志で決定を下したのであって、決して強制ではありません。そもそも、彼は3月の時点では、要請を強く拒絶していたのです。したがって、要請を受け入れて交流を再開した、ということについては、桜井医師に判断があり、そしてそれにはそれ相応の責任というものが伴うのは当然ですから、それに関して、自分には何ら責任はない、などと言うことは不可能です。

 その上、幸子の自殺があった数時間前に、彼女と口論していたのは桜井医師なのです。しかも、同医師と接触したあとで幸子が自殺をしようとしてきた、という過去5年にわたる経緯を前提とすれば、桜井医師が、自殺と自分とは関係がなく、すべては、自分に交流再開を要請した家族の側にある、と主張することはできないのです。

 そこで私は、「何をいっているんだ。あなたそれでも医者ですか」と怒鳴りつけました。すると桜井医師は、「すいません。反省します」と答えました。そのあと、電話はQさんに続けてもらったので、桜井医師が何をいっていたのかはわかりません。しかし、「すいません。反省します」という言葉を聞いていましたから、彼からは何らかの謝罪があってしかるべきであると考えました。自分の責任がない、と主張する一方で、なぜ「反省」しなければならないのか、私には理解不可能でしたが、結局桜井医師からは、その後何も謝罪もありませんでした。

 そこで私は、独自に、同医師に聞きたいことを聞くことにしました。しかし、ただ単に話を聞くのではなく、それを録音して記録し、いずれはご家族や、Qさん、Hさんといった、幸子の生命を守るために体をはってきた人たちに、聞いてもらおうと考えました。幸子の供養というよりは、彼らから渡されたバトンを私が落としてしまった、という罪責感がありました。

 こうして、幸子の死後2週間後、2000年5月17日に桜井医師に電話をし、5月24日、6月7日、6月17日、7月1日という合計5回にわたって、桜井医師に時間を割いてもらい、多くの質問をし、また私の意見を申し上げました。私は、納得する説明を桜井医師にしてもらいたかったのですが、結局、ご家族やQ氏、さらには幸子自身から聞いていた話とは大きく食い違う話ししかしませんでした。その場では反論はできないが、納得できない説明が多々ありました。

 その上、同医師は次のように私に述べています。「このことは、慶応大学病院の治療が終わったときから、この治療の失敗、ということはすごい問題になってるんですよ。あたりまえですけどね。極端にいえば、濃密な関係を作る精神療法を、その後一つもやっていないんですよね。これは事実なんですけど」(【資料34】)と。

 つまり、「治療の失敗」と、「失敗」が「すごい問題になって」いることを同医師は認めています。それでは、「濃密な関係を作る精神療法」のなにが問題で、どこに「治療の失敗」の「原因」があったのかを、納得する形で遺族や私に説明するのが、桜井医師の、幸子のもと主治医としての、そして医師としての義務であり責任だと思います。

 しかしながら、このような説明は一切ありませんでした。その後、私は精神医学の文献を読み、転移や逆転移、境界性人格障害について学びました。その結果、桜井医師の治療は、やはり不適切であり、そして、桜井医師が治療行為によって、幸子の病を作り出した、という結論に至りました。また、桜井医師は「事実」を幸子やご家族、さらにはQ氏や私に、納得できるかたちで説明していない、という結論にも至りました。これらのことは、生きていれば幸子が一番聞きたかったことだと思います。

 なお、録音したテープを証拠として利用することについてはちゅうちょしました。しかし桜井医師もまた、私と電話で話した際に、私から聞いて初めて知った事実、というよりはむしろ私からの「聞きかじり」を、「準備書面(3)」において、堂々と利用しています。具体的には、95年5月に幸子が千鳥が淵に行った理由です。95年に事件が起きた時、桜井医師は、その原因を追求しなかったので知らなかったのですが、幸子の死後、私から聞いて初めて知ったのです。私自身は幸子と実際にその現場に行き、幸子からじかに話を聞いたことがあります。ところが、そのような私からの「聞きかじり」を、同医師は、あたかも当時から知っているかのように書いていました。そうだとすれば、私にも、桜井医師が私に電話で語ったことを全て証拠として利用する権利があると考えました。

 つけ加えれば、「準備書面(2)」にある「境界性人格障害」の「治療」に関する文章は、そのほとんどが、根拠としている文献にある文言を、桜井医師が自分に都合のよいような形で切り張りして仕立て上げただけの、極めて悪質なものであり、原告及び裁判所を愚弄するものです。慶応大学病院という研究機関に所属していた経験がありながら、そのような非専門家的な文献の悪用を平然と行ったのですから、自身にモラルが欠如しているということを桜井医師が表明したいのだ、ということはわかりますが、それ以外の意味であの文章は検討するに値しません。
 
おわりに

 私は幸子と桜井医師との「恋愛」を、幸子の生前とは異なる観点から見るようになりました。そもそも一般に、医療そして医師に対して患者が求めているのは「愛」ではなく、専門的な知識・技術・経験などに裏打ちされた適切な治療です。その上、境界性人格障害の治療において、「愛」は病理を作りだして悪化させ、さらには患者の自殺を誘発させるものであり、極めて有害ですらあります。

 それにもかかわらず、桜井医師は、幸子と深い「愛」で結びついていたと何度も私に明言しました。つまり、同医師は、幸子の転移と同医師自身の逆転移を「愛」と思いこんでいるということを私に告白したわけです。しかし裁判がこのような段階に至っているのですから、同医師は、幸子に対する「愛」など持っていなかったということを認めるべきです。しかし、「愛」による関係などなかった、ということを同医師がいまだ理解していないという可能性も考えて、以下で若干説明しておきます。

 まず、桜井医師は幸子のことを「死んでしまいたい人」と規定し続け、彼女の「死」という「運命」を見通しているかのようなことを言い続けました。しかし、幸子は二度も大きな自殺未遂をしていながら、二度にわたり、再び生の世界に送りかえされています。また、幸子が息を引き取る瞬間まで、病院のスタッフは、彼女の生命を維持させるために全力をそそぎました。それは彼らが幸子を「死んでしまいたい人」などと決めつけるようなことをよしとない、職業的意識を持つ専門家たちであるからにほかなりません。彼ら医療スタッフ達を見れば、医師という職業は、人の「運命」などわからないがゆえに、死に向かう人々を生の世界に送り返すという困難な課題に全力で最後まで立ち向かうことを旨とするものだ、ということがわかります。彼らを突き動かしているのは、「愛」ではなく専門家としての知識・経験・能力・自覚です。

 ところが桜井医師は、幸子の生死に対して何とも無頓着でした。その原因は、同医師自らが認めているように、自殺をしようとする人を前にすると動揺してしまい、あるいは、その人の生死に対して諦念を持ってしまうという同医師独特の逆転移もしくは精神構造にあります。すなわち、精神科医を含めて医師一般に必要な資質が、同医師には欠如しているのです。その結果、「自殺を止めてもらいたい」と懇願されても、「治療関係ではないからそれは出来ない」という、「建前」を根拠にして、その職業上の責任をいとも簡単に回避できるのです。幸子の死はその結果です。 

 しかし、「愛」によって結びついていた、ということを信じ込んでいる桜井医師にとって、「治療関係」は重要ではなかったはずです。同医師が「治療関係」を重視していたならば、そもそも、幸子を医原性の境界性人格障害にしてしまうという「失敗」を犯さなかったことでしょう。 

 それでは、「治療関係」などよりも「愛」というものを重視した桜井医師が、5月2日に幸子の自殺を止めなかった、という事実をどのように考えればよいのでしょうか。桜井医師が私に語ったことを根拠にして回答を出せば、次のようになります。桜井医師の言っていた「愛」とは、同医師にだけ都合のよい「関係」を作り出したいという利己的で自己愛的な欲望でしかなかった。関係再開を受け入れたのは、幸子の治療や「再生」という利他的な行為に協力したかったからではない。「週一回・電話・世間話・友人・幸子の再生」という治療構造を破壊して、幸子を済世会中央病院に来るように誘惑したその目的は、幸子から受けた「被害」を癒す、という桜井医師の自己愛欲求の充足にあった。このような同医師の欲望こそが、慶応大学病院における治療を「失敗」に至らしめ、その後幸子の病理を増悪させ、さらには幸子の自殺の引き金となった最大の要因だったのである、と。

 私は、桜井医師自身が、以上のことを再確認し(上記のことの多くは同医師が自ら認めていることです)、自らの失敗の原因とそこに関わる自らの責任を明らかにした上で、幸子の遺影と遺骨の前で謝罪することを望みます。その上で、すぐにでも医師を廃業すべきであると申し上げたいと思います。以上、私が述べたかったことはほぼ陳述しました。

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