半田貴士:東京都済世会中央病院精神科部長久場川哲二:川崎市立川崎病院 精神神経科勤務)(被告側協力医)再意見書
(Z医師再意見書への反論)

平成18年5月22日
半田貴士
久場川哲二

Z医師より、平成18年4月20日、提出された再意見書(甲第B14号証)に対して専門家としての意見を、古谷弁護士、池尾弁護士より求められました。
 Z医師による再意見書を精読するとともに、故幸子さんの慶応大学病院診療録及び同院看護記録、済世会中央病院診療録、中久喜クリニック診療録、原告訴状、原告準備書面、母陳述書、父陳述書、妹陳述書、M陳述書、Q陳述書、中久喜医師陳述書、Z医師意見書、被告答弁書、被告準備書面、桜井医師陳述書を再読し、さらに、第二回口頭弁論調書を参考として、臨床精神医学的考察を行いましたので、ここに再意見書として提出いたします。



 平成18年2月28日に、私たちが提出した意見書の内容との重複を避けるため、この際意見書では、Z医師再意見書により問題提起されたいかの項目に焦点をあてて、意見を述べることとする。

1.精神療法のリスク・副作用
2.インフォームド・コンセント(説明と同意)
3.被告の個人に対する治療的関わりが、境界性人格障害患者に対する治療として適切であったか
4.幸子さんの恋愛性転移が称してしていたかどうかについて
5.幸子さんの境界性人格障害は重篤なものであったか
6.幸子さんの自殺既遂と被告の精神療法との因果関係
7.われわれの前意見書に対するZ医師の批判に対して

1.精神療法のリスク・副作用

 Z医師は、一般論として、「精神療法においてもリスクはあり、副作用も生じる」と再意見書の中で述べている。確かに、精神療法の過程で、患者の状態が悪化することは臨床的に時々見られることであり、精神療法にリスクが存する可能性については同意する。ただ、これをを精神療法の副作用として、薬剤や身体的治療行為による副作用と同列に扱うことは適当ではないと考える。その理由として以下の2点を上げたい。まず、精神療法によって引き起こされた患者の精神状態の変化は、良かれ悪しかれ主作用なのであって、主作用とは全く異なった副次的な作用が発生したというわけではない。すなわち、患者の状態変化を良くなったと捉えるか悪化と考えるかは、表裏一体の側面があるのである。第二点として、精神療法とは、治療者が与え、患者が受動的に受けとるという治療ではない。患者と治療者がともに、両者の人間関係の中で築き上げていくものである。患者側にも主体的な関わりが求められ、両者の同意なくして治療は成立し得ない。精神療法の結果がもし患者にとって思わしくないものであれば、通常、患者は治療の継続を望まないため、精神療法のリスク・副作用が問題となることは少ないのである。
 幸子さんと被告の治療関係は、途中の中断はあるが、のべ数年間に亘り継続していた。この間に、幸子さんには、良くない結果が生じたかも分からないが、多くの治療的効果も認められていたのである。また幸子さんやご家族には、何回も被告の精神療法を中断する機会があったはずであるが、敢えてそうされていない。実際に諸事情から、被告との治療関係は3回中断したが、その時も関係の再開を積極的に求めたのは幸子さん本人、そしてご家族、友人、新しい主治医であり、被告ではなかった。被告の不当な精神療法によって、幸子さんに恋愛性転移や治療者への依存が生じせしめられ、まるで呪縛にでもかかったように幸子さんが被告から離れられなくなったとする原告の主張は、あまりにも偏った考えたかと思える。
 Z医師は、「被告には、『一般的な精神療法において当然留意するべき諸点』への認識が欠如ないし不足していた」と述べているが、この点には同意できない。Z医師は再意見書の中で、被告が「家族にも治療チームにも思いっきり自己表現をする、甘える」という治療方針を立てていたと批判しているが、被告はそのような治療方針を立てておらず、Z医師の誤解と思われる。

2.インフォームド・コンセント(説明と同意)

 医療行為におけるインフォームド・コンセント(説明と同意)の重要性は言うまでもないことである。特に精神療法では、治療者と患者間の治療契約を一般医療以上に重要視している。
 Z医師は、被告等の診療について、「境界性人格障害」という病名の告知の欠如や病状説明の不備を指摘している。しかし、診療録を精読すると、以下のような記載が見られる。

○(慶応大学病院診療録064頁)平成7年5月17日
「病状について(MT)
a)vitalな、病気としてのうつは改善していると思われる。
b)しかし、死にたい自分の部分は依然として残っている。
 b)の部分については、病気の治療というよりも。(環境をとと
のえて)成長を待つという方針」
(筆者注:MTはドイツ語Mund Therapieの略。患者・家族に病状を口頭説明し、病気理解を深める治療行為)

○(慶応大学病院診療録114頁)平成7年7月9日
「Drより、MT
病気というよりは、@本人の性格、A対人関係(特に親しい人間、家族、彼と)の問題があるだろう。周囲の期待にこたえて、受け入れられる、愛情をもらうというパターンで適応してきたが、非常に依存的だったり、心細い幼児のようなところが取り残されていて、2つの人格が交代しているような状況になっている」
上記内容を幸子さんの両親に対して説明している記録である。

 これらの記録からは、人格障害についての説明が、慶応大学病院入院中の比較的早い時期に成されていることが分かる。Z医師の言うように病名告知がされていないということはない。確かに、「境界性人格障害」ないし「人格障害」という診断名を直接的に明示することはしていないが、これは専門家として納得のいくことである。何故ならば、「人格」ないし「性格」の障害の説明は、患者や家族に誤解を与えないように、他の疾患の説明・告知以上に、細かい配慮を必要とするからである。患者が自分の人格そのものを否定されたようなネガティブなメッセージとして受けとらないように、配慮しなければならない。従って、診断基準を明示しながら、診断名を正確に伝えるのではなく、「病気というよりは、成長の過程の中で育まれたあなたの性格や感情や対人関係の持ち方から来る問題」というような言い方で説明・告知する方が、治療的であり、患者によく理解されるのである。被告らもこのような方法で病名告知にのぞんでいたことが分かる。従って、人格障害の病名告知や治療方針の説明は行われていたと考える。

 なお、人格障害の下位分類診断に関しては、カルテ記載の中で、境界性人格障害、分裂病型人格障害、自己愛性人格障害など医師により若干の不統一はあるようであるが、人格障害の全般的診断という大枠では合意形成がされており、治療方針に大きな影響を与えるような大きな問題ではないと考える。何故ならば、人格障害の下位分類診断については、まだ学問的にも十分な統一話されていない状況であり、また実際の個々の人格障害患者の診断に際しても、下位分類特定不能例や下位分類重複診断例が存在するからである。

3.被告の個人に対する治療的関わりが、境界性人格障害患者に対する治療として適切であったか

Z医師は、境界性人格障害患者に対する治療技法として、「気に入った他者からの愛情」(支持)と「自分の行動を直視し、その理解にもとづいて行動を変容させること」(直面化)のバランスが重要であることを説明している。この「支持」と「直面化」のバランスを、患者の状況に応じて上手にとっていくことが重要であることには、全く異論なく同意する。
しかし、以下の点で我々は、異なる見解を持っている。
1)Z医師によれば、「支持」は、患者に一時しのぎの苦痛の軽減を与えるが、病状は悪化させるもの、筆者に言わせればいわば麻薬のようなものである。一方、「直面化」は、患者に一時的には苦痛を与えるが、病気を根治させるもの、筆者に言わせればいわば手術のようなものとして、Z医師は語っておられる。しかし、これほど単純明快な説明図式が、果たして複雑な臨床場面で本当に有用となりうるのか。日頃臨床で多くの症例の治療に苦闘している者としては、はなはだ疑問を感じざるを得ないと言うのが、率直な思いである。

2)Z医師は、「被告の個人に対する治療には過誤があったと判断せざるを得ない」と主張し、その理由として、「被告にはA(筆者注:「支持」のこと)の持つ問題性を認識して、それを適切に調整しようとした形跡が一貫して認められない。また治療上必要なB(筆者注:「直面化」のこと)の作業を行おうと検討した形跡もない」と断定している。

 しかし、このZ医師の主張は、事実誤認もはなはだしく、全く同意できないものであるる。被告が、患者に対して「自分の行動を直視し、その理解にもとづいて行動を変容させること」を全く行おうとしなかったとは、どこから言えるのであるか理解できない。
 被告は終始、繰り返し、幸子さんに対し「恋愛関係にはなりえない」ということを伝えている。この指摘こそ、Z医師の言う「直面化」であろう。診療録から以下のような記載を抜粋して列挙する。
○慶応大学病院カルテ171頁
「(Drを)独占したい、一番大事にしてほしい」と言う。
<それはムリなところがある。大事にするつもりはあるが独占、一番は常にはムリかもしれない。>と言うと、
「死にたい」状態に入りそのままである。
ここでDr怒ってしまう。
<ムリ(一番、独占)なことを言って、それで死にたいといわれても困る>
○慶応大学病院カルテ184頁
「Drとしては、大ワクとして治療というものがあり、そのなかでPtとおつき合いしている、と考えていることを伝える。(個人としておつき合いするのと、治療としておつき合いするのはやはりおつき合いの仕方が、ずいぶん違うのである。)」
○慶応大学病院カルテ191頁
「私は治療を提供する。これは大したことだと思うが、あなたの求めているものと違うかも」

 また幸子さんが慶応大学病院で衝動行為を自制できなかった時には、被告は幸子さんを閉鎖病棟へ転院させる提案も行っている。これも幸子さんに対しては、重大な「直面化」である。その後、中久喜医師のいわゆる「モーニングワーク」の時期においても、私たちの前回の意見書33頁、34頁に摘示したとおり、「直面化」の作業を行っている。さらに、幸子さんが被告の家族に対し逸脱した行為を行った際には、被告は治療関係を断るというまさに最大級の「直面化」を行っているのである。
 このように、Z医師の主張は明らかに事実誤認に基づいており、「被告の故人に対する治療には過誤があった」とするZ医師の判断は、誤りであると考える。

4.幸子さんの恋愛性転移が消失していたかどうかについて

 われわれは、前意見書において、平成12年3月30日頃から幸子さんが亡くなるまで、幸子さんの桜井医師に対する恋愛性転移は解消されていたと考え、その理由として以下の2点を挙げた。
1)幸子さんはM氏と婚約をされた上で、同居生活をしていた。
2)幸子さんは約一年間近く、桜井医師と連絡を取らず、両者の間には長期間接触が全くなかった。
 これに対し、Z医師は再意見書の中で、『「心にしこりをかかえ、思いを抱えたまま」で結婚していく人は多いのだから・・・。そしてBPDの患者はしばしば主治医など自分が恋いこがれる人への思いが満たされないとき、他の人物と恋愛を始めたり、結婚したりする。これは満たされない転移の「行動化」として多くの精神科医が経験し、理解しているところである』と述べ、故人に恋愛関係、同棲、婚約があっても、また被告と1年に亘り全く連絡がなくとも、恋愛性転移は解消されていないとした。これは、Z医師の一方的で主観的な解釈であり、驚くべき発言である。
 幸子さんが、平成12年4月26日に、「私は、黄色い花束(恋愛)でなければいやだと言って、白い花束(恋愛ではない愛情)を受けとらなかった。それが生きるのに必要なものだとも知らないで」と述べた(乙A第7号証221頁)ことに関しても、Z医師は、これを幸子さんの適切な洞察とは考えず、「被告によい顔を見せようとして、転移感情を無理して抑え、必死の思いでした発言」と解釈を加えている。
 直接会ったことも話したこともない人の心理や行動について、決めつけや解釈を行うことには慎重であってほしい。意見書は、証拠書類より読みとれる臨床的事実と専門的知識に基づき、客観的に主観を交えずに書かれるべきであると筆者は考える。
 さらに、恋愛性転移解消の問題に関して特筆すべきこととしては、幸子さんの主治医として幸子さんの当時の心理状態を最も知る立場にあった中久喜医師が、平成12年3月当時の幸子さんの転移の解消に関して、「十分に解消してたと考えました。」と第2回口頭弁論ではっきりと述べられているのである。(中久喜医師第二回口頭弁論調書33頁、17行目)

5.幸子さんの境界性人格障害は重篤なものであったか

 これに関して、我々はすでに前意見書において、故人の境界性人格障害は当初より重篤なものであったと結論付けている。
 これに対しZ医師は、彼の再意見書の中で、「慶応大学病院に入院するまでは、友人も多く、社会的な活動にも参加していた。」ということのみである。しかし、境界性人格障害の特徴を最もよく表現するキーワードは、「不安定性」である。すなわち、境界性人格障害では対人関係、自己像、感情面において、不安定性が認められるのである。患者さんは、常に具合が悪く見えるわけではなく、一見したところ正常に見える時もある。それにもかかわらず、突如として自殺念慮や感情の不安定性が出現するのが特徴であり、だからこそ治療が難しいのである。現に、慶応大学病院入院後、桜井医師が本格的に精神療法を開始する以前の平成7年5月17日、幸子さんは、突如として自殺未遂を行っている。境界性人格障害患者の症状の経過は、軽症から重症へと一直線上に移行するものではなく、症状は動揺しながら変化する。表面に現れる患者の行動パターンのみでは、重症度は判断できない。
 済世会中央病院での桜井医師との治療中に、幸子さんは接骨院でアルバイトを続けていた。このときの様子を、妹さんが陳述書の中で描写しているので、少々長くなるが引用する。(甲第6号証B、妹陳述書、23頁)「桜井医師と再び済世会中央病院で面接を行っている頃になると、姉は高津駅前の接骨院でアルバイトを始めました。この接骨院には、一度だけ行った事があるのですが、受付の仕事を要領よくこなしたり、患者さんに対してテキパキと対応したり、あるいは、院長先生と漫才のような会話をしながら患者さんの診察をするように促したり、あるいは院長先生が出した治療方法を患者さんに教えたりするなど、とても病人とは見えない仕事ぶりでした。そういう仕事ぶりをしていたためか、接骨院で姉は人気者で、いろいろな患者さんから相談を持ちかけられたり声をかけられていました。しかし姉は、そういう患者さん達を適当にあしらいながら仕事をしていました。ですから姉は病人には見えなかったですし、患者さんで姉が病気だと思った人はいなかったと思います。」
 またその後、幸子さんは、中久喜医師から推薦状を書いてもらい、群馬大学医学部の学士入学試験に挑戦したり、海外留学の計画も立てていたようである。そして、幸子さんはヨーロッパ旅行に一人で出かけ、彼の地のコンサート会場で男性と出会い、恋愛し、後にその男性と婚約し、大阪で同居生活を始めるのである。
 このような幸子さんの行動面のみから判断すれば、すなわちZ医師の観点からすれば、幸子さんは、被告の精神療法後も、むしろずっと軽症であったと考えるべきではなかろうか。なぜ、「より軽症ないし潜在性のBPDであったものが深刻化し、(被告の精神療法により)重篤なBPDへと変えられてしまった」とZ医師は主張するのであろうか。根拠がよく判らない。われわれは、幸子さんの精神状態の不安定性、突然の変化の大きさ、唐突な希死念慮の出現などを念頭に入れ、人格構造に大きな障害が見られると判断し、幸子さんの境界性人格障害は当初より重篤であったと主張しているのである。

6.幸子さんの自殺既遂と被告の精神療法との因果関係

 われわれは、幸子さんの自殺既遂と被告の精神療法との間には、因果関係がないと考える。
 Z医師は、再意見書の中で、「自殺既遂の原因の全てが被告の関わりに求められるわけではないが」とか、「結婚、婚約者、家族、大阪生活などのストレスは、5月2日の自殺既遂と無関係ではなく、ある程度影響を与えたものと思われるが、決定的なものではなかった」とただし書きをつけながらも、『「被告のかかわりの過誤」と「自殺既遂」との因果関係は明白である』と断定している。
 Z医師が、この論拠としてあげた3点、(1)「病気や恋愛性転移を悪化させたこと」、(2)「長期に亘って非治療的なやりとりを続けて故人の絶望を招き、ストレス耐性を低下させたこと」、(3)「その時点で再びかかわって絶望感のだめ押しをしたこと」について、われわれはそのような事実はなかったと考える。
 またZ医師は、被告の治療と故人の自殺との因果関係を検討する際に、以下の事項をほとんど無視している。
(1)自殺当日、幸子さんから中久喜医師に宛てたファックスの文章には、「今回の自殺未遂(注:5月1日の自殺未遂)ははっきり言って全く彼(桜井Dr.)に関係がないのですが・・・」と記述されていること。
(2)幸子さんは、結婚を直前に控え、大阪での新婚生活、婚約者やその家族との関係で悩んでいたこと。
(3)自殺直前に、幸子さんは友人に電話をしたが、断られて話ができなかったこと。
(4)幸子さんが、婚約者が床屋に行って3時間も家を留守にしたと語って腹を立てていたこと。
(5)主治医である中久喜医師が自殺当日の夕方、電話で幸子さんと話しているが、その際、中久喜医師は、幸子さんが自殺念慮を持っているような緊迫した感情を感知しなかったと述べていること
(6)中久喜医師が、平成12年3月の時点で、幸子さんの被告への恋愛性転移は解消されていたと、口頭弁論で証言していること
(7)幸子さんは、過去に10数回にも及ぶ自殺企図を起こしてきたこと
(8)幸子さんは、被告の治療的関与を受ける以前から境界性人格障害という病態にあったこと。しかも、この病態事態として、10%弱の確率で、自殺既遂が起こることが報告されていること。
(9)大変遺族に対しては申し上げにくいことであるが、自殺に関する考察において重要な要因として、自殺の家族歴の考察が必要であるので述べるが、幸子さんの祖母が自殺され、母親にも自殺企図歴があるらしいこと。

 Z医師は、上記の要因について、十分な検討や考察を行うことなく、幸子さんの自殺と被告の治療との間に因果関係ありとしているが、その論理が理解できない。ここには、先入観と強引に関連づけようとする意図すら感じられるように思える。
 われわれの考えでは、幸子さんの自殺の原因は不明な部分もあるが、幸子さんは、置かれた状況やさまざまな人間関係の中で、多くの複合した要因により動揺され、非常に衝動的に自殺企図を行い、それが結果として、不幸にも既遂となってしまわれたものと推測するものである。

7.われわれの前意見書に対するZ医師の批判に対して

 Z医師は、「自分であったらどうしたか」を意見書の中に述べるべきであると強調し、われわれの前意見書にはそのような視点が足りないと批判している。
 「私ならば、この時にはこのように治療する、この場合は、こうすべきであった」と、この症例について、誰が自信を持って言うことができるのであろうか。それくらいむずかしい症例であると、われわれは認識している。誰が治療しても結果は同じであったと断言はしないが、どの治療者がが担当しても大変治療困難な症例であったであろうことは間違いない。
 意見書というものは、専門家の治療技法をめぐる論争の場ではない。われわれは、被告の精神療法が幸子さんを死に至らしめるような不法な治療であったか否かに焦点を当て、できうる限り先入観や主観的解釈を避けることに留意し、事実に即して、客観的に意見を述べたつもりである。

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