水に浮く試み @ 

           
   

菅谷 裕


(2)
(3)(4)(5)(6)(7)(8)(9)(10) (11)(12)(13)(14)(15)(16)

 

(1)

● 男はモリに迷い込んだ。というよりも身体ごとモリに投げ込まれた。
 
● 男の持ち物といえば,恋人からもらったスペイン製の,革をなめして作った水筒と,コートのポケット    のハサミ,それにデジタル・カメラだった。

● モリは朽ち葉が発酵して土になる熱や,大樹の生々しい呼気に蒸されていた。キャラバン用の厚い靴底から  も,その熱が感じられるほどだ。湿った柔らかい足許から蒸気が立つうえに,密生した葉叢が頭上を覆って  薄暗く,見通 しが利かない。

● 男の身体からは汗が粒になって噴き出し,モリに滴り落ちた。彼は自分が独りきりで,どうやら抜き差しな  らない状況にあるらしいことを悟った。

● 彼は自分と,モリとの関係になんとか納まりをつけなければならないと考えた。絶えまなく汗を噴き出し
  ている彼は,なめし革と湿って熱した土の間にある,出の悪いシャワー以上のものではなかった。「おれ
  は,なんだ」と男は声に出した。

● 男は,モリの中にばたりとうつぶせに倒れた。故意にだったか,激しいめまいの故にか,自分にもわから
  なかった。腐った葉の,懐かしい匂いが彼の身体を包み,性的な恍惚が彼の輪郭を溶かし始めた。

● 下腹部に違和感を覚え,その後に焼けつくような痛みが続いた。ハサミが男を傷つけていた。出血がにわ
  かには治まらず,生きているように発熱している土の下に染み込んでいった。樹の根から自分の血液が吸   い上げられ,一枚一枚の葉の葉脈を紅く染めるのを感じた。 

 彼は,草の葉をちぎって下腹部の傷口にそれを当てた。そして恋人のみやげであるなめし革の水筒から水
  を喉に流し込んだ。「おれはまだ,おれだ」と口にし,自分の声帯が確かに震えて音をモリの中に響かせ   るのを聞いた。

● ポケットからデジタル・カメラを取り出し,仰向けになって紅い葉をファインダーから覗きシャッターを
  切った。それからレンズを自分に向けて再びシャッターボタンを押した。

● カメラのスティル画像を見ると,めまいを起こすような紅い葉がびっしりと写 し込まれていた。

● もう一つの画面には,黒々とした朽ち葉のほか,何も写っていない。彼が予想したとおりだった。彼は自
   分の確固とした輪郭を取り戻さなくてはならない。

● 男は,どこにいるのか,まだ生きているのかどうかすら知れない恋人のことを思った。恋人は,その手か
  ら彼の記憶の中に像を結んだ。

● 恋人の手は,乾燥した,パウダーのような砂粒にまみれていた。そして清浄で,太陽の光に輝く無色透明
  のコップを握っていた。彼はかなりの長い距離,砂の上を独りで歩いて来て,ひどく渇いていた。コップ   の中には,たっぷりの水がたたえられていた。しかしよく見るとその水は,球形をしていた。

● 「もうそろそろ」と恋人は言った。「もうそろそろ,いいころですよ」そして,コップを彼に手渡した。
  彼は透明な球体を口に含み,喉に通した。

● 彼はなめし革の水筒が球状に膨らんでくるのに気づいた。それを自分の血がついたハサミで切り開き中の 
  水の球を取り出して,宙に浮かせた。そしてそれを手に取り,半分を下腹にあて,半分を口に含んだ。恋   人のおっとりしたたましいのように,甘い味がした。

● 男は起き上がり,血のついたハサミを右手に持って,モリの壁を切り裂くために歩き始めた。

 

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