ウル・ハイマ−ト

 

             青沼 炎


病には、と老人は言った。
     グラスを片手でゆっくり回しながら目を閉じると、その病に見
    合った死の訪れがあるに違いない、と続けた。なるほど、そのと
    うりかも知れないと、丸テーブルのとなりに座り合わせた青年は
    頷いた。青年は老人の首筋を見た。首筋を計れば、老人の素性が
    解る、そんな気がしたからである。青年はある詩句を反趨してい
    た。

首筋に魚鱗埋めこみマリオンよ
    息を戻せと吸いし唇

老人の首筋でぴしゃりと〈うを〉が跳ねた。〈うを〉は一尾、
    また一尾とゆっくり首筋から跳ね上がると、ゆっくり下方に落
    下していった。しかし、落下した〈うを〉を見定める気にはな
らなかった。
    「見えるのかね」
 老人は安い蒸留酒をじっくり舐めながらそう言うと、笑った。      
    場末の酒場である。
 舞台のうえでひとりの踊り子が身をくねらせている。異邦の
    リズムが薄暗い酒場の空気を歪ませる、その只中で、踊り子は
    シューズと床のあいだから生れるリズムを全身でうけとめる。
     音楽にあわせて歪む肢体は返り血を浴びた暗殺者を思わせた。
    暗殺者の激しく揺れながらも、その底にアイス・ピックの鋭い
    刃を秘めた瞳。踊り子は一瞬、静止すると酒気と紫煙でむせ返
    る客席を見下ろした。アイス・ピックが最前列に坐っている老
    人に飛んだ。
 踊り子は老人がかって闘士と呼ばれていたことを知っていた。 
     踊り子の母親は闘士の情婦であった。踊り子は母親の最後を
    目の前に押し付けられた。老人につき刺さったアイス・ピック
    の刃先で、崩れてゆく母親の血潮が逆流してゆく。みじめな最
    後だった。が、

 かくも惨めなものか。

などと、踊り子が思ったわけではない。
 生活の支えを失った少女は生きるために、生き残るために自
    分の持っているものすべてを売らねばならなかった。売るもの
    がなければ、自分を売れるようにして売っていかねばならない。
    少女は、そして売りつづけた。からだが血に染まる売り方をし
    たこともあった。

「あなたをみていますよ」
 青年がいった。老人は答えない。
「それにしても」
 青年はいらだたしく煙草をふかした。
「不可解な舞踏だ」
 青年はみずからの苛立ちを理解していない。
 青年がみずからのこころを理解していないためである。
 青年は、しかし、みずからを知りえないことによって、青年
    の立場を保障されるのかもしれない。
 二年ほど前まで青年はカレッジで政治学を学んでいた。順当
    に歩んでいれば青年は彼の才能を十二分に発揮しうる場所をあ
    たえられていたかもしれない。しかし、ある事件によって彼は
    その場所から外れた。青年の意志がそれを選択したのである。
    カレッジを去る前日、彼の母親が彼のもとをおとずれている。
「失えるものが、まだ私たちにはあるというべきなのですね」
     青年は黙して語らなかった。母親は帰っていった。
 青年は翌朝、彼の研究成果が詰まったノ−トを焼却すると、
    小雨に煙るカレッジを去った。
  
「あの舞踏がなぜかくもわれわれを魅了するか解るかね」
 老人は舞台を凝視したまま青年に話しかけた。
 老人は舞台のうえの踊り子が、かって自分と暮らしていた情
    婦の娘かも知れないと思いはじめていた。あの舞踏はたしかに
    そうだ。情婦から受け継いだものに相違ない。それ以外に考え
    られない。
「解らない」
 青年はきっちりと答えた。青年の苛立ちがいつも何かを責め
    つづけている。そんな口調である。
「そうか」
 と、ぶっきらぼうに老人は答えた。
 照明が変わったその隙に青年は老人を覗き見た。老人の翳り
    の濃い横顔に冷汗がしたたっている。青年は冷汗の意味を探っ
    た。
 老人は情婦と住んでいた三階の部屋を思い起こしていた。彼
    が最後にその部屋を訪れたときには、もはや情婦も娘もいなか
    った。持主を失った調度品が暗い色のなかに沈んでいた。
     情婦は殺され、娘は不明だと重い口調で隣の住人がいった。
    闘士はおのれを責めた。しかし、なにが出来たというのだ。気
    を取り戻した闘士は娘を捜した。しかし、彼が手にしたものは、
    行方不明になった娘ではなく、空しく浪費された年月だけだっ
    た。
 老人の顔が青ざめている。
 青年は踊り子と老人を交互にみつめた。
 青年は自分のなかの苛立ちが何であるのかを悟った。踊り子
    のからだのなかで躍動する音楽に、みずからの肉感のあるパツ
    ションを捩じこもうとしてなしえない自分に苛立っていたので
    はあるまいか。
 老人はふらふらっと舞台のうえに近ずいていった。
 踊り子は頬越しに老闘士を見下ろすと、視線を切った。二度
    スパンすると手をさしのべ、老闘士を舞台のうえに引っ張り上
    げた。老闘士の全身を品定めするかのように舐めおろした。
 と、
 そのとき、
 老闘士は思いもかけないほどの勢いで踊り子の手を引っ張っ
    た。    
     踊り子はひらひらと風にさらわれる落葉のように、老闘士の
    腕のなかに巻き込まれると、一瞬の静止がおとずれた。ふたり
    は静止を老練に心得ている。
 踊り子の透明すぎる喉もとがピクリと震えると、ふたつの妖
    しい影のくねりが激しい音楽のなかに溶けこんでいった。影は
    ひとつに結びつき奇怪なかたちそのものになった。
 影が踊る。
 その影のなかに死の舞踏の面影を悟ったウエイターが、手に
    していた麦酒のグラスを床にすべり落としたときには、客席の
    青年は立ち去っていた。音楽のウル・ハイマートは死である。
青年の視線はそれを感じたのかもしれない。


   これではまったくリアリティがないか。作者の呟き