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スラップステックとしての
『まだモノフォリックな孤独』
青沼 炎
クライマックスは夜中に電話をかけまくる癖がある。柔らかいセ−ム革でとん
ぼ鏡を磨きながら、ちょっと羽振りのいい友人たちのゴシップなんかを夜明けま
で喋りつづけるのである。受話器のむこうの聞き手たちは、翌日のスケジュ−ル
も省みずに夜明けをむかえることもしばしばだった。クライマックスのあのひと
が帰ってこない夜には、つまりほとんど毎夜、かならずこの街のどこかの寝室の
窓が明るくなる。クライマックスの部屋のプッシュ・ボタンが押されるからであ
る。
「わかるかしら」
と、クライマックスは言う。
「素敵なお話が、あなたを訪ねたがってるの」
クライマックスがかすかに笑いをふくんだ呼吸を受話器のなかに漏らすと、そ
の呼吸はさざ波のように響きわたる。
「さあ、か−るく深呼吸をして」
さざなみのなかから静かにクライマックスの手が浮かび上がってくると、幕は
切っておとされる。そんな夜には、たいてい何人かの友人が殺されることになる。
ある詩人は、彼のはなしのなかで五回も自殺させられている。
「失恋したのね」
と、クライマックスは溜め息をついた。
「気持ちは解るわ。彼にとってはこれっきりの恋だったのかもしれないし、そう
よね、そんなにもてるタイプじやないし、解るわよ。でも、失恋のたびに死んで
ちゃやりきれないわ。あたしなんか百回は死んでることになるわ」
クライマックスは詩人が自殺にまでいたった経過を手際良く喋った。
「やはり詩人だ」
と受話器の向こうから感嘆の声が漏れた。クライマックスの語り口にたいする
賞賛の声であった。
クライマックスはエピローグを喋るのが、とっても好きだ。
まず、
変死体が発見されて、事件が語りはじめられるのは三流の探偵小説なんかにはよ
くある手法だけれど、クライマックスはそんな月並な話法がムスクの香水のよう
に肌にあっている、そんな素振りで、まずエピローグから話しはじめるのである。
愉快なエピローグがなければ、そこにいたるすべてのプロセスは価値のないもの
だ、とでも思いこんでいるのかもしれない。
二度目に詩人が殺されたのはリビング・ル−ムでのことだった。自殺というよ
りも事故に近いものだった。
詩人はある朝、目が醒めてから自分の名前が思いだせなくなっているのに気づ
いた。彼は数日のあいだ思い悩んだすえに、金鎚で頭をコツコツとたたけば脳味
噌の底にこびりついた名前が飛び出してくるかもしれない、と思いついた。詩人
の父親は刑事だったのだ。
「誰でも叩けばほこりがでる」
実直な父親は酔うとかならずそう言った。詩人は父親の金言を誇らしく思い出
して嬉々とした。
「ほこりがでるくらいだったら名前もでてくるかもしれない」
さっそく金鎚で頭を叩いた。
しかし、でてきたのは埃でも誇りでもなく、ただの脳味噌だった。
「事故だったのよ」
とクライマックスは涙ぐんだ。
ぼくらの抱えこんだ現実はそれほど物語り適しているはずはないのに、クライ
マックスときたらエピローグばかりを大切にしたがる。
「変な癖だ。」
と、揶揄する。
すると、クライマックスは含んだ笑いを浮べて、たぶん、こんな風に語りはじ
める。
ニースは南仏の避暑地でいいところよ。行ったこともないくせにそう云う。
蒼
い海と青い空が、澄んだ光のひろがるなかで解け合い、海岸線にはジンク・ホワ
イトの街並があおのまばゆさを柔らかく受けいれている。そこはスペインじゃな
いけれど<白い家>が似合う世界よ。この白を画布に写し取るとしたら、チタン系
の白は禁物。解るでしょ。光が死んでしまう。と、ちいさく溜め息をついたりす
るから、どこからかペインティング・オイルのにおいが漂ってくる。そんな気が
して、ぼくはクンと小犬みたいに鼻をならした。ぼくはクライマックスのペット
みたいなもだから、そんな挙動は淋しい自虐であるはずなのにクライマックスと
きたら自分の描く世界に夢中になっていて子犬の淋しさなんかは、あっさり黙殺
する。子犬だって傷つくほどのこころはもちあわせている。
クライマックスが電話で詩人を葬った五度目はこんな具合だった。
詩人は研究肌だった。独り暮しの詩人は、いつしか飼犬のことばを理解できる
ようになっていた。ときどき訪れてくる雑種の老犬ともなかよくなった。
すると、老犬はいった。
「もしあなたが本物の詩人になりたければ、もう人間のことばで詩を書くのはや
めなさい。もはや、なんの発見もない。そうは思わないか。人間はあまりにも多
くのことばを弄びすぎた。日記だの、書類だの、新聞だの、広告だの、ことばが
あんまり薄まりすぎてしまってる。もう、人間のことばにたよるのは自分を見失
うことになりかねない。犬語にしなさい。犬語を使いなさい。これからは犬語の
時代だよ」
詩人は頷いた。犬語で世界を表わそう。そう決心をした。しかし、詩人は数週
間、原稿用紙の前に坐わりつづけて絶望的な気分に落ちこんでいくのだった。詩
人は犬語のボキャバリ−をほんの数語しか知らなかったからである。わん・きゃ
ん・をおぉぉぉ・うぅぅぅ−・・・・・・・。この数語をいくら工夫しても数語
の順列は決まっていた。「わん」にいろいろなアクセントをつけてみた。音程も
いろいろ工夫してみた。しかし、「わん」はどこまでいっても「わん」でしかな
かった。おまけに、その「わん」を表す文字も知らなかった。ひょっとすると犬
語に文字はないのかもしれない。
あの人間の心理を巧みに読み分ける犬の世界には、とっても高度な恋愛がある。
恋愛があればかならず恋歌が生まれ、詩が発生してくるはずなのだ。犬の詩。そ
れなのにオレにはまったく犬の言葉が理解できてない。
畜生!!
犬語のことは犬にまかしておけばいい。翌朝、絶望の極みに達した詩人は飼犬
にうながされて陸橋の上から身を投げた。ぺちゃんこになった詩人を橋の上から
飼犬が尻尾をふりながら見ていた。
詩人は心底、犬になりたかったのかもしれない。
クライマックスはかわいそうな詩人の顔を思い描きながら電話を切り、ベット
のなかでまどろんでいった。
詩人は天国で犬語のグラマーを犬の天使から学んでいるかもしれない。
後日、自分が五回も死んだことを聞された詩人は、パイプ煙草をふかしながら
静かに言った。
「犬語の文法は難しいのかな」
1927年のことだったと思うわ。
と、クライマックスは言う。ぼくはベットのなかで聞いていた。
ニ−スの海はゆるやかな九月。イサドラは疲れていたはずだわ。それなのにイ
サドラときたら無茶な運転で海岸線を走っていたの。車は赤いオープン・カーで、
解るかしら、ほら、まだ夏のアンニョイを抱え込んだままの、ちょっと投げやり
なスピ−ド。秋のスピ−ドには似合わない支離滅裂なとんがり具合が危ない。そ
のまま、空か海の青さのなかに、ふっと紛れこんじゃったとしても、すこしも変
じゃない。そんな感じのドライブ。
きっと、予感したはずだわ。
イサドラは自伝のなかで言ってるわ。こんな風によ。
わたしは海のちかくで生れた。そのことがわたしにとって大切な意味を含んで
いるのを知ったのは、わたしの人生の大きな出来事がみな海のちかくで起こって
いることに気づいたときだった。わたしのすべての生命は海に連なっている。そ
う、思えた。わたしの舞踏もそうだ。動きや踊りについてのはじめてのアイデア
は、たしかに波のリズムから生れてきたのである。
シンボリックな台詞ってあるけれど、イサドラの場合、信じがたいほど鋭く直
感してしまうの。それはもう、悲劇よ。
「なるほど」
と、ぼくは相槌をうった。海の光景が浮かんだ。でも、海の光景のなかに浮き
あがってきたのは、イサドラなんかじゃなかった。ぼくが思いうかべたのはM・
Mだった。
M・Mは不幸な生い立ちの少女で、そんな境遇の少女がときおりそうであるよ
うに二十歳を、ちょっと過ぎたときには、もうすでに離婚している。ただ単に男
と別れたのではない。立派に離婚しているのである。
そのM・Mが五歳のときに、はじめて海に連れていかれた。しばらく波打ち際
にたたずんでいたM・Mはおそるおそる波に足を浸した。
そして、呟いた。
あっ、濡れてる。
シンボリックな台詞って、たぶんこんなのを言うんだろう。
M・Mは三十六歳で死んだ。ベッドのなかで、裸のままで、死んだ。世界中の男
たちがM・Mの肉体を愛した。1960年にアメリカの片田舎ダラスで暗殺され
た若い大統領もM・Mを愛した男のひとりだ。大統領の腕のなかでM・Mがどん
な濡れかたをしたか、ぼくは知らない。この話をクライマックスにしたら、きっ
とこんな風に答えるだろう。
「濡れるだけならおかまにだって可能よ。バケツ一杯の水をかければいいんだか
ら。でも、喜ばしい濡れ方はおかまには無理かもしれないわね。くやしいことだ
けど。本当の濡れ方というのは水がなくても濡れることができるということなん
でしょうね。おかまの永遠の宿題だわ」
大統領が暗殺されたのはオ−プン・カ−でパレ−ドしていたときだった。数発
の銃弾がオ−プン・カ−めがけて飛ぶと、つぎの瞬間、大統領の脳味噌は飛び散
った。のちに年老いた大富豪と再婚した大統領夫人は、走るボンネットのうえを
はい回りながら、
Oh・No!
と、叫んでいた。
ボンネットのうえには大統領の飛び散った脳味噌が散乱していたのだ。飛び散
った脳味噌はM・Mの濡れかたを覚えていただろうか。覚えていたとすれば、悲
劇は飛び散った脳味噌のなかにこそあった。
「なにを考えているの」
と、クライマックスが言う。
「別に」
ぼくは答えた。
「聞いてるの」
と、クライマックスが言う。
ぼくは曖昧に笑った。
イサドラの予言どうりに、あのひとの人生のおおきな出来事が、また海のそば
で起こってしまったのよ。
つらいわ。
「何が?」と、そんな言葉が喉許にせりあがってきて、ぼくは慌てて、呑み込ん
だ。ぼくは子犬にすぎないのだ。実にながいあいだそんなぼくらの関係はつづい
ている。クライマックスのいいひとでもなければ、母親でもない。クライマック
スはそんなぼくの気持ちなんかまったく無視したまま喋りつづける。
エンジンが軋むくらいスピ−ドはでていたはずよ。南フランスの海岸線が頬に
ぶつかる。痛みを感じるくらい心地よい。かって愛したロシヤの詩人のことなん
か、ふっとおもい浮かべたかもしれないわね。ほら、エセ−ニンて奴よ。三十歳
で死んだ「最後の農民詩人」よ。それにしても、陳腐なレッテルね。「最後の文
士」「最後のなになに」、「最後」って冠詞をつけりゃそれで何かを言ったつも
りになって、悦に入るくらい滑稽なことはないわ。最近の子供たちが使う「超−
なになに」と同じくらい程度の低いものよ。「最後のちんぽ」とか「最後の○○
○○」なんていうんだったら是非見てみたいと思うけど、「最後の農民」じゃぁ、
知れてるわ。ところで、「最後の農民」のあとに農民やってる人たちって何て呼
ばれてるのかしら。
と、そこまで喋るとクライマックスは急旋回した。
エセ−ニンのことを思い浮かべながら、イサドラのこころは乱れたはずだわ。
きっと、そうだわ。だから、なにかを、かき消そうと、思い切ってアクセルが
踏まれる。頚にまいていた長いスカ−フが風になびき、海岸線にぴたりと重なる。
もうじき、周囲を流れていく青い世界と同化できるかもしれない。同化すればわ
たしはわたしでなくなる。予感したはずだわ。と、そのとき、スカ−フがおおき
く波うったの。イサドラの予感は不安にかわる。解る?
すると、突然、とっても信じがたい力がイサドラの頚を締めつけ、後ろにひっ
ぱる。スカ−フが後輪にからめとられてしまったの。イサドラのからだは、ふわ
りと宙に浮いたかと思うと、そのまま車輪にからまれてしまう。
あのひとのからだが汚れた。
「死んだのかい」
と、ぼくは聞く。
返事はない。クライマックスは自分の語るイサドラの物語りに酔っている。
ぼくはベッドのなかから手を伸ばし、シェル・ランプのスイッチを切った。暗
いなぁ、暗いよぅ。ぼくは大胆にも、腕を伸ばし、クライマックスを抱き寄せた。
小犬だっていつまでも小犬のままじゃない。
クライマックスはまったく抗がわない。
ベッドのうえで、ふたつの体温が重なると、蒸し暑い八月の夜は淫らに上気し
て、荒い息を弾ませる。だから、ほどよい塩分を体温のうえにまぶしながら、夜
は素直に落下していかなければならないはずなのに、クライマックスときたら、
突然、がばりと跳ね起きると、ぱちりと目を開けて、夜の向こう、フランスの家
並みを凝視しながら、J・コクト−はひとでなしだわ、と口走った。
だって、そうでしょう。あのホモ野郎は、イサドラの死をただのゴシップみた
いに扱ったのよ。『恐るべき子供たち』のなかに青年実業家がでてくるけれど、
そいつの死にかたがイサドラの死をモデルにしているの。あんな葉役にイサドラ
の死にざまを振り分けるなんて、あんまり馬鹿にしてやしないこと。だから、ホ
モは嫌いなのよ。ホモなんかには絶対に、忍びよる海の不可思議さなんか理解で
きっこないわ。
そうでしょ。
私の耳は貝の殻
海の響きをなつかしむ
このからっぽさ、分かるかしら。なんにもありゃしないわ。こんなからっぽな
言葉にはしゃいでいる連中の頭のなかは、椰子の実のなかの水がちゃぽんちゃぽ
ん、してるのと同じよ。
右を向いて、ちゃっぽん。
左を向いて、ちゃっぽん。
そうやって、毎日毎日、海の響きとやらをなつかしんでいるんだわ。耳のなか
に水を注ぎ込んだりしたら、中耳炎になっちゃうかもしれないけれど、頭のなか
だったら、これは、ひとつのギャグよ。
ひとしきり悪罵すると、クライマックスは、駱駝の絵が描いてある箱から、し
ろい円柱状のものを抜き取ると、火をつけた。クライマックスの口からもくもく
したものが吐きだされると、それは薄暗い部屋のなかで霊体遊離を思わせた。
「クライマックス!」
ぼくは小さく叫んだ。
「汚れたのよ。あのひとのからだは汚れたわ」
だれともなくそう言い、そして、黙りこんだ。ぼくはクライマックスの口を塞
いだ。しばらくすると、クライマックスはしくしくと泣きだしていた。それはも
う、ほとんど少女そのものだった。こんなときのクライマックスの台詞はきまっ
ていた。
「わたしはおかまよ、でも、おかまのどこが悪いのよ」
クライマックスの精神状態が、ちょっと混乱している。こんな時、かれをよく
知る人はけっして無駄口を叩いたりはしない。
「なんで人間はみんな汚れていくの」
ぼくは黙っていた。
「な・ん・で・な・の」
そう言いながら、クライマックスはシェル・ランプの灯をつけると、枕元に転
がっていた携帯電話を掴かみ、ピッ・ポッ・パ−を押した。
「起きてた」
と、クライマックスが言ったつぎの瞬間。
「そう、ごめんなさいね」
ガチャン。
どうも、断わられたらしい。そりゃ、そうだよ、麗子になんか、電話するなん
て、彼女はあたらしい彼と同棲をはじめたばっかりで、こんな夜中にクライマッ
クスからの電話なんか、これ以上の迷惑はないってとこだよ。
「でも、麗子はあたしのお話をあんなに喜んで聞いてくれてたじゃない」
「状況が変われば、必要とするものも変わるものだよ。違うかな」
クライマックスの顔が引き攣っている。
「クライマックス、今夜の君は変だよ」
「あたしはいつも変だわょ。変でなかったらおかまなんかにならなかったし、お
かまなんてやってられないわよ」
ぼくは黙りこむことにした。
クライマックスはぼくが沈黙したのに気づくと、あたしがこんなに変なのにあ
なたはシカトを決め込むつもりなの、とだだをこねる。困ったなぁ、困った。き
っと今夜、柔らかな眠りがぼくに舞い下りることはないだろう。
一時間が過ぎた。まだ夜明けまでは、だいぶある。
と、ぼくは、突然、沈黙を破っていた。クライマックスの脈絡の通らないヒス
テリ−に爆発してしまったのだ。ぼくは小犬という自分の身分も忘れてクライマ
ックスに吼えかかっていた。クライマックスは驚いたように目をパチクリさせる
と、小犬にもこんな猛猛しさが隠れていたのか、といった顔をしていた。
そして、言った。
「どんに知的に洗練された女でも、彼女が女であるかぎりその内側には、闇と発
作と稲妻がひそんでいるのよ」
申し訳なさそうに笑った。
ぼくの視線は0・6秒凍結した。
「ニ−チェの言葉よ」
なぜなんだろう、クライマックスの最後のことばが終わるか終わらないかのう
ちにぼくは叫んでいた。
「クライマックス、君は女じゃない。君はただのお・か・ま・だ。」
クライマックスの肩が、思わぬところで天敵に遭遇してしまったリスのように
震えた。震えは一瞬とまると夜が不思議そうに首を傾げた。
と、つぎの瞬間、震えは罵声に変化してぼくを襲った。44口径の破壊力がぼ
くの感受性の入口をめちゃくちゃにしていく。44口径の標的になりながらぼく
は眠りたい眠りたいと呟いている自分をどこかで見つめていた。
「この破壊力、これはあきらかに男のものだよ」
クライマクスの破壊力は自らの願望をその根底から裏切っている。
ぼくは眠りたかった。目をみ開いたまま死者のように眠れたら最高だ。
クライマックスが突然、涙声で自分の過去のあれこれを語りはじめたのはこの
時だった。
ぼくのぼんやりした頭のなかで「ん?」が回転した。いままでクライマックス
が自分の来歴なんかについて喋るのを聞いたことはなかったから、ぼくのなかで
なにかが起きあがった。でも、そのときのぼくはクライマックスのようなタイプ
の人間が自分に言及することが、とっても危険な作業であることにはまったく気
づいていなかった。
まずクライマックスは自分の両親がごくごく普通の家庭人でしかなかったこと
を、こんな風に喋りはじめた。
川崎は、とクライマックスはつぎにくる言葉を区切った、そう、労働者の街で、
あたしは巨大な団地群の一角にある17号棟の24階からスモッグにぼやけた港
を眺めてくらしていたわ。あたしが、ドアを開けてダイニングに帰り着いても、
両親はいなくて、あたしはテ−ブルのうえに置かれたお菓子をほんのひとかけら
口にすると、カ−テンを引き、港を見ていたの。父親は造船工場で、母親は小さ
な町工場の事務員をしていたから、学校から帰って二時間ほどは、24階の小さ
な部屋でひとりでぼんやりしている時間があったのよ。その時間がいけなかった
のね。その時間があたしを変えたのよ。クライマックスは駱駝の煙草に火をつけ
た。くゆりたつ紫煙は煙草の先端からモノト−ンのオ−ロラのようにゆらめいた。
そのくゆりたつゆらめきをぼんやり見つめながらクライマックスは続けた。
ぼくはクライマックスの来歴を聞きながら妙な気分に落ちこんだ。ぼくの来歴
とクライマックスの来歴が信じられないほど似ていたからだ。
と、そのときである。
ピンポ−ン。
呼び鈴がなった。誰だろうこんな夜中に。ぼくがでた。扉を開けると、背の高
い男が立っていた。男はうつ向き加減で、おまけにフ−ドを被っていたので、顔
がよく分からない。ぼくは「どなた?」と聞いた。男は黙っている。
「どなたですか?」
すると背後からクライマックスの声がした。
「だれなの」
クライマックスは脳天気に言った。
「かまわないわ、上がってもらって」
しかし、誰ともわからないこんな不気味な男を部屋のなかに入れて大丈夫なん
だろうか。ぼくは男の顔を覗きこんだ。男はそんなぼくを押し退けけて、す−っ
と部屋のなかに入りこんできた。変なの。ぼくは、まっいいか、と男の後からリ
ビングへ入った。
男を見てクライマックスの顔が蒼ざめたのが解る。まさか、今夜来るなんて思
わなかったわ、クライマックスは言う。男はあいかわらずフ−ドで頭を被ったま
ま、クライマックスのまえに立っている。まるで裏切り者を殺しに来たギャング
みたいだ。いやいや、違う約束の命を貰いに来た死の神。そうだ、その線の方が、
より近いかもしれない。
しかし、どうしたんだろう。
ふたりとも、まんじりともしない。
と、そのときクライマックスが言った。
「ふたりだけにさせてくれるかしら」
クライマックスはきっちりとぼくを見た。ぼくは頷いた。
「でも、こんな時間じゃ始発も動いていないし、タクシ−代もないし、もし、よ
かったら隣の寝室で休んでいてもいいだろうか」
「そうね、しかたないわね」
「ありがとう」
ぼくは寝室に入った。寝室のベッドに横になっていると、ふたりの会話がぼそ
ぼそと低い声で伝わってくる。あまりクリアではないから、正確なところは解ら
ない。しかし、かなりのっぴきならない話なんじゃないかという雰囲気は壁を通
しても伝わってくる。ながいこと、ふたりの話はつづいているようだった。ぼく
はふたりの会話の内容から序々に遠のいて行く自分を感じていた。
と、そのときだった。
ぼくの体はとてつもない重さに襲われた。おおきな惑星がふたつくらい体のう
えに乗っかったような苦しさだった。どうしたというのだ。ぼくはその重さの正
体を知ろうと目を開けた。ぼくのうえに乗っかっていたのは詩人の顔だった。
「重いよ」
と、ぼくは言った。
「そんなはずはない」
と、詩人が答えた。
「夢のなかで重さを感じるほど人間の感覚は鋭くないのだ。だいたい、わたしは
君の体のうえにはいるが、君の体に圧し掛かっているわけではない。わたしは浮
いているのだよ。ほら、よく、見てごらん。それなのに君は勝手にわたしの重さ
を感じている。困ったことだ」
詩人は惑星並のおおきな顔をしてぼくの鼻面のところでそう言うのである。
「詩人という人種はね、けっして、他人の体に直接作用するようなそんなへまは
しないのだよ。解るね。詩人は他人の魂を押しつぶすことはしても、体を犯した
りはしない。詩人の鉄則だよ。」
詩人の顔がゆらゆら笑った。
「それじゃあ、ぼくが今、感じているこの重みは何なのだ」
「それは君自身の重みさ」
「そんな」
「クライマックス!君はどうして自分自身を自分のなかに受け入れようとしないの
だ。もう少し自分に素直になったらどうなのかね。ほら、川崎で生活していたこ
ろの君は孤独ではあったけれど、純真だったじゃぁないか。あのころの君はけっ
して自分自身を自分自身から追い出したりはしなかった。そうだろう、クライマ
ックス」
「クライマックスだって? ぼくが、このぼくが? そんなはずはない」
「ほんとうに素直じゃぁないね」
「ぼくは、ぼくだ」
「なるほど、ところでそのぼくとやらはどこにいるんだね」
「クライマックスの部屋さ。クライマックスたちがお喋りをしている隣の部屋で
始発が動くまでの時間を潰しているんじゃぁないか」
「ところで、クライマックスはどこにいるんだね」
「隣の部屋さ」
「隣の部屋だって、ここはワンル−ム・マンションの一室だよ。隣の部屋は赤の
他人の部屋ということになる。ねぇ、クライマックス君、そろそろ自分を受け入
れたらどうだね」
詩人は笑いながらさらに、顔を近づけてきた。もう、ほとんど、接吻寸前の距
離である。
「君は自分がおかまだってことを認めたくないんだね。解るよ。わたしにだって
自分が詩人であることを認めたがらない自分がいるもの。でもね、和解すること
だよ。ほら、おかまの君が君のなかで目覚めたよ。和解してごらん」
詩人はそう言うとフ−ドをかぶった。消えた。
ぼくは、ぼくのなかのどこか暗い部分でクライマックスが起きあがる気配を感
じた。
「クライマックス!」
ぼくは呼びかけた。
「隣の部屋にいたんじゃなかったのかい。あのフ−ドの男と寝てたんだろう。そ
うだろう。きっと、そうだよね」
すると、クライマックスはぼくを見下すように言った。
「一体、何よ。こんな時間に」
クライマックスはいらついている。
「詩人がね、ぼくらは同一人物だって言うんだよ」
「え−。そんなはずないじゃないの」
クライマックスは例の調子で喋りはじめた。
「同一人物? あんたとは考え方も、体の嗜好もちがうのよ。どうしてあんたとな
んかと同じ魂を共有できるっていうのよ。穢れた魂と清らかな魂はけっして交わ
ってはいけないのよ。この世の鉄則よ。そんなことしたらこの地上から清らかな
魂なんてなくなっちゃうわよ」
「でも、体はひとつらしいよ」
「体はひとつでも魂は別なのよ。だから別人。解るわね。誤解しないで頂戴。あ
んたとは永遠に平行線なのよ。手を触れないで。そんな無骨な手で触れられたら
大切なあたしの魂が汚れちゃうじゃないのよ。あっち行ってよ。あっちへ」
「あっち行けって言ったって、あっちっていうのはどこにあるんだよ」
「自分で考えればいいじゃないの。あっちはどこかって。そんなことも考えられ
ないの。まったく、これだから、あんたみたいなのとはやってられないのよ。出
てって欲しいわ」
「出てけって言ったって、出られやしないよ」
「ドジ。だいたい、詩人なんかのことばを真に受けるからそんなことになるのよ。
詩人なんて奴は見たこともないことを見たように言うし、行ったこともないとこ
に行ったような振りをして他人の気を惹こうとする連中よ。そんな奴らのトリッ
クに引っかかるあんたもあんただけど、詩人も困った人間よね。だからあたしに
何度も何度も殺される羽目になるのよ。まぁ、おちょくる相手としたら役不足だ
けど、おちょくり易い人種ではあるわね」
「でもねクライマックス、君だって行ったこともないニ−スの話なんかよくする
じゃぁないか」
「そうよ」
「夕べだってイサドラの話に夢中になってた」
「たしかにそうね。でもね、あたしと詩人では同じ嘘をついても、その本質がち
がうのよ。あたしはおかまよ。おかまって言うのはね、その存在自体が嘘なの。
だから、おかまが嘘をついても、それは嘘からでた嘘だから罪にはならないし、
考えようによっては嘘×嘘で本当になりうるのよ。負×負=正みたいにね。」
ぼくはまた体に重みを感じ始めた。何なのだろうこの正体不明の重みは、と考
えながら、クライマックスに尋ねてみた。
「クライマックス! 体に圧し掛かってくるものすごい重みを感じたりすること
がないかい」
「無いわ」
「ほんとうに」
「ええ」
「ぼくはさっきからものすごい重みに潰されそうになっているんだ」
「何それ」
「解らない。詩人は自分自身の重みだって言うんだけど、もし、自分自身の重み
だとしたら、クライマックス、君だってこの重みを感じてもいいはずなんだけど
なぁ」
「あんたとあたしとは別人。別人なのよ」
「もう止めよう、クライマックス」
ぼくは哀願するようにクライマックスに額ずいていた。ぼくはクライマックス
の子犬のままで充分だよ。叛乱を起こしたりもしないし、吠えたりもしない。そ
れで可いんだろう。それでぼくらは同居してゆく。いままでのようにね。でも、
クライマックス、言っておくけど、ぼくが生まれてから川崎のあの孤独な時代ま
では、ぼくはぼくひとりのものだったんだよ、君がやってくるまではね。あのこ
ろぼくはとっても孤独だったけど、今みたいに悲しい孤独は感じなかったよ」
「ふん、うそつき」
「孤独というのは一人でいるから孤独なんじゃないんだね。ふたりでいるほうが
もっと切実に孤独だよ」
「ふん」
「クライマックス、君は孤独じゃぁないのかい」
「何を馬鹿なこと言ってるのよ。孤独なおかまなんて、おかまじぁないわ。なか
まがいるからおかまが成立するのよ。他人がいるからおかまはおかまたりうるの
よ。だいたい、たったひとりでおかまやってて何が面白いのよ。男がいるから女
は面白い。男がいるからおかまは面白い。そういうことよ」
「……」
ぼくは黙り込んだ。すると、クライマックスは傍らの電話機に手をのばし受話
器を取ると、ピッポッパを押した。
そして、言った。
「こんばんは。楽しいお話があなたを訪ねたがってるの」
相手は誰だろうか。誰についてのゴシップを捏造するのであろうか。ぼくは予
想した。そして、ぼくが予想したとおりにクライマックスは語り始めた。詩人に
ついてのゴシップだった。今夜また詩人は殺されるのだろう。残虐な殺され方を
するに違いない。さっきぼくのうえに来ていた詩人の顔を思い出しながら、きっ
と、あれはクライマックスに殺されつづけた詩人の怨霊だったのだと、ぼくは思
い至るのであった。すると、オ−プン・カ−に首をくくられた女と、オ−プン・
カ−のうえに散らばった夫の脳味噌を拾い集めようとするふたりの女の顔がちら
ついた。おそらくそのうちのどちらかの女の顔が今夜のクライマックスの顔にな
るんだろう。ぼくは溜息をついた。始発が動くまであと一時間ほどだろう。始発
に乗り遅れないようにしなければ。始発に乗って、二つ乗り継げば、川崎に着く。
あの部屋は空いているだろうか。
きっと、ここを出てってやる。
まだモノフォリックな孤独が起き上がった。
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