「室内音楽の似合う食卓」のための三つのスケッチ


               青沼 炎


            §1 『遠い声』  

   それが
     女の宿命
  だと解っていても、やはり自分のおなかのなかに何かが棲んでいると考
  えると、なんだかとっても不思議な気分になるのよ、
  と
  マタニティ・ドレスの妻は笑った。
   夫‥‥も‥‥
   そういうもんかねぇ、
  と
  笑い返したが、〈何かが〉という妻の云い廻しに奇妙な妊婦の心理を覗
  いたような気になった。やがては自分の 子供 になるというのに、変
  に遠い呼びかたをするもんだ。
   自分の子供だ、
  という実感にまだ欠けるのだろうか。半分しか自分の血を引いていない
  異物
  が
  自分の体のなかで勝手に成長してゆくんだから、初めて妊娠を経験して
  いる彼女にとっては、どこかしら得体の知れない〈何か〉なんだろう。
                       夫はそんな風に納得した。
   ところが、その何かが、
  「ひそひそ喋るの」
  と妊婦がぽつりと告白する。マタニティ・ドレスの下から湧きあがって
  くる 声 を聞くことがある、と云うのである。
   まさか、
  と、夫は考えながらも、
   なるほどねぇ、そんなもんですか。
  と、ことばを濁す。
                       妊婦はこんな風にもいう。
   きっとフェアリーの世界のちいさな生きものたちが住んでいて、私の
  知らない世界の言葉で語りあっているんだわ、と奇妙に顔をほころばせ
  る。
  「おいおい、大丈夫かい」
                     夫は、おどけて身をすくめる。
   妊婦の心理は想っていたよりも不安定なものなのかもしれない。もっ
  とも、彼女のような女性は妊婦にならなくても、かなり不安定だけれど。
                       夫はひとりニヤニヤした。
   女の不安定に付き合わされる男も、それはそれで不安定を愉しんでい
  るのかもしれない。
  「フェアリーの世界の小さな生きものたちか」
                             夫は呟いた。
   きっとマタニティ・ドレスのなかには遠いメルヒェンの世界でもある
  のだろう。理解し難いネ。
  「ほらまたョ」
   しかし、寝物語りにたびたび「ほらまたョ」が飛び出してくるのでは
  たまらない。
  「またか」
  と、
  夫は、どことなく不機嫌になり、「疲れた。」と云っては寝返りをうち、
  鼾をかきはじめるのであった。
                          妊婦は耳を澄ます。
   夜半になると、話し声が、ピーンと通る。
                     妊婦は一晩中聞きいっている。
   私のなかから湧きあがってくる会話ですもの、一言だって聞き洩らす
  ものですか。そんな感じである。悲壮な覚悟とでもいうべきなのだろう
  か。おかげで、リンガフォンを半年間聴きつづけたリスナーのように数
  カ月後には会話の内容をなんとか聴き分けられるようになったみたいで
  ある。ときどき自分の突きでたおなかに向かって熱心に話しかけるよう
  になった。夜の深い静寂のなか、寝巻きのまえを肌けて風船のように脹
  らんだ腹部にむかって笑ったり、とぼけたりしている妻の姿を何か得体
  の知れない生きものを見る視線で、毛布の耳から覗いたりする夫にとっ
  て、この自分が抱えこんだ現実は、本当にこのまま進行していっても大
  丈夫なんだろうか、という不思議な疑念さえ生むのであるが、疑念をそ
  れ以上つきつめることができないのでもあった。
                  そして臨月が訪れ妻は二児を生んだ。
  「やっと会えたわネ」
                    妻は新生児に真顔で話しかける。  
   夫の疑念はどこかしら不安に変わった。
   しかし、こどもたちに向かう時以外の妻は全くの正常である。まぁい
  いか、と思いながらも焦躁は消えない。妻がこどもたちと、ちょっと理
  解し難い親密の度を増していくのはいいとしても、こどもたちに話しか
  けている言葉が夫にはほとんど解らないものになりはじめているように
  さえ思えてくるのである。そんな夫を尻目に妻はさらにこどもたちに掛
  かりきりになる。その時、夫はもう飼主に関心を失われた小犬のようで
  すらあった。
  「オレの知っている言葉で話せ」
                      ついに、妻を叱りつけた。
                      悲しそうに妻は見上げた。
                    その眼差しに夫はうろたえた。
  「もおいい」
                夫はひとり布団のなかにもぐりこんだ。
   夜中に物音で目を覚ますと、妻子はますます遠い世界の言葉で睦まじ
  く喋りあっている。
  「うるさい」
  と、
  声にならない言葉を噛みしめ、夫は布団のなかでまるまった。
   オレは落ちこぼれていくんだろうか、このささやかな家庭のなかから
  でさえも。さらに身をまるめ膝を抱きかかえた。
   帰りたい。
   意味もなく、そう呟くと、膝を抱えた自分のポーズが胎児に似ている
  のかも知れない、などと思い浮かべながら浅い眠りに落ちていくのであ
  った。
   遠い声が、しかし、近ずいてくる。

 

         §2  『午前2時のピアニッシモ』

   そんなにむかしのことではない。
  紅茶のおいしい飲み方を教えてもらったことがある。ああ、なるほど
  と納得して記憶したはずなのに、さあ、紅茶を入れようというときに
  なって、さて思い起こせない。そんなはずはない、きっと思い出せる
  だろう、とふんばってみても、やはりダメである。16才の少年が恋
  心を打ち明ける極意を、徹夜で伝授してもらいながら、翌朝、女の子
  を前にして何も思い出せない、そんな感じである。頭のなかはただた
  だまっしろ。
   気まずい沈黙がふたりのあいだに流れ込む。
   しかし、少年は気まずさの意味を知らない。ただ何かを喋らなけれ
  ばという使命感からか、たぶん、こんな風に少女に話しかけるかもし
  れない。
  
     あのー
                少年は不器用に笑顔をつくる。
     僕は、いったい何を話したらいいんでしょうか。
   そのときの気まずさの意味を、少年は数年ののちに突然、悟るのか
  もしれない。
   こんな夜更けにキッチンで紅茶を入れることなんて、久しくなかっ
 たことだと青田は思った。古代オリエントの女王たちについて記述さ
 れた本に熱中し、気がつくと午前2時になっていた。本など読むのも
 まれなことなら、それに没頭するのも久し振りのことだった。ティ・
 カップに紅茶をそそぎながら、ゴルフで思わぬスコアをだした時の心
 地よい疲労感に似たものを感じると、さて、紅茶のおいしい入れかた 
 は、どんなものであったかと思い巡らせていた。
 しかし、思いおこせない。まあ、いいか。青田は自己流に紅茶を入
 れた。かぐわしい香気が湯気とともにくゆりたっている。ヘタな小細  
 工を凝らすよりも、こんなちゃらんぽらんな方が自分にはあっている、 
 と青田はへんに納得するのであった。
 カップのなかの飲物が半分ほどに減ったとき、電話がなった。
 こんな夜更けに誰だろう。
 テイ・カップを片手に持ちながら受話器をとった。女の声だった。
 いま、なにをしてたの
 と、女はいった。唐突だった。青田には答えるすべがなかった。あき
 らかに、電話番号をまちがえている。女の声に聞き覚えはない。

     黙っていても解るんだから。
  女はクスリと笑った。
   青田は呆然としていた。

   間違い電話であることを指摘して、受話器を置くのが賢明な対応で
 あることはわかっている。しかし、それをしないでいた。突然、飛び
  込んできた奇妙な女に興味があるからではない。電話を切るのも、切
  らないでそのまま受話器を持ちつづけるのもどちらも何となく違うよ
  うな気がしたけれど、どちらでもいい、そんな感じもするからであっ
  た。

     紅茶を飲んでるんでしょう。
               あまり抑揚のない声で女は言う。
 午前2時に紅茶を飲んでる貴方を想像するだけで、貴方のすべて
 が解っちゃうのよ。
                  女の声には余裕があった。
           青田は左手にもったテイ・カップをみた。
 ダメよ。紅茶のなかを見たりしたら。
                  女は含んだように笑った。
 危ないんだから。
   女の言葉に誘われるかのように青田はカップのなかの液体を覗き込
  んだ。
 バカねぇ。本当に覗き込むなんて。危ないって言ったでしょう
     に
   そうか、危ないのか、と青田は理由もなく感心した。

 でも、もう遅いわ。
             女は憐れみの響きをこめて歎息した。
 貴方って、危ないことが好きなんですもの。でもそれはそれで
     仕方のないことよね。

   青田には女の言っている意味が呑み込めなかった。 
   しかし、ぼんやりしていた青田が気を取り直して前方を見ると、妙
  な顔をした男が自分を覗き込んでいた。ああ、この男は知っている、
  と思い至ったとき、紅茶のなかに漂っている自分を悟るのであった。
   そんなもんかなぁ。
  と、呟き、紅茶のなかでゆらゆらと笑った。カップのなかを覗き込ん
  でいた男の顔はもはや見あたらない。
   すると、女の声がもう一度、聞こえたような気がした。
  深く考えないことね。明日になれば、すべて元にもどってい
      るわ。いつもどうりの朝がくるはずよ。
  そんなもんかなぁ。
      そんなものよ。 
   青田は受話器をさがした。見当たらない。切らなくちゃ、と思いな
 がらも、いつしか青田は紅茶のおいしい飲み方のあれこれを紅茶のな
  かでゆらゆらと考えているのであった。

 


     §3   『Motherless Holiday』

   5才になる娘は食卓の椅子にすわって脚をぶらぶらさせている。な
  がいこと、そんな状態がつづいた。
  「ねぇ、ママはどこへいっちゃったの」
   いままで言いだせなかった言葉がやっとでてきた、そんな感じで娘
  が言う。父親は答えに窮した。昨夜、些細なことで妻をはりたおして
  しまうと、頬をおさえながら実家に帰ってしまったのである。そのう
  ち戻ってくるとは思う。しかし、娘にはなんて言っておけばいいのだ
  ろう。
  「お買物?」
   娘はゆるやかに核心にせまってくる。
  「でも、お昼すぎのこんな時間にへんよね」
   まさか、5才の娘におとなのちょっと込み入ったいきさつを伝える
  のも、どうしたものか。だからといって、口からでまかせの嘘をつく
  のも気がひける。なにか名案はないだろうか。
  「せっかくの日曜日なのになぁ」    
   娘が呟く。
   日曜日!これだ、と父親はおもった。新聞をめくりながら喋りはじ
  めた。さりげなく喋る必要がある。娘はちょっとしたニュアンスにと
  っても敏感だ。 

 ママはきょう、お休みなんだよ。パパは日曜日になると会社を休むだろう。           ケイコだって幼稚園はお休みだろう。ママも同じさ。
  いつもケイコやパパのためにお家で働いている。だから、きょう
   はママの休日。わかるだろう。

  「健ちゃんちのママも、舞ちゃんちのママも、やっぱりお休みがある
 のかしら」
 「たぶんね」
 「それじゃ、お休みの日にママたちが帰るお家はどこにあるの」
 父親は新聞から視線をはずし、慈愛にみちた眼差しで娘をつつんだ。
 「おばぁちゃん家さ」
  妻の実家へといたる道が、ふとよぎった。恋愛時代には飽きもせず
  あの道をかよったものだ。父親はつづけた。

  ケイコの帰るお家がママのところであるように、ママも義母のと
 ころに帰っていくんだよ。ママのママのお家にね。おんなのひとは               いくつになってもママのお家に帰っていく。

 父親は溜め息まじりに語った。
 「どこのお家のママもそうなの」
 「たぶん」
 納得したのだろうか。娘はキッチンの小窓からさしこむ初夏の光と、
 眼差しで戯れている。床にとどかない脚を、あいかわらずブラブラさ
 せている。
 夕方になったら、娘との会話を口実に電話を入れてみよう。
 三年前に夫を亡くしてひとり暮らしをしている義母とふたりで、妻
 は5才になったばかりの娘のあれやこれやを喋っているに違いない。
 口実にもタイミングが必要だ。
 すると、娘がちいさな溜め息をついた。
 「おばあちゃんはかわいそうね」
 父親の方へ向き直った。
 父親は新聞をめくりながら「何故」と問いかけて、ちらりと娘をみ
  た。
 娘は父親の視線を上手にはずしながら答える。
 「おばあちゃんには帰っていくところがないのよ」
 娘はことばを区切った。
 「だって、おばあちゃんにはママがいないんだもの」
 「そうだね」
 と、言いかけて父親はあわてて口を塞いだ。 
 あの八畳の仏壇の前に正座している義母の姿が眼前に浮かび上がり
 ふっ、と息をついた。
 すると、娘が畳み込んだ。
 「あたし、おばあちゃんのママになってあげるの」
 名案が浮かんだという風に頷き、娘はつづけた。
 「そうすれば、ママもいっしょにもどってくるわ。みんないっしょに
 もどってくるわ」
 娘は勢いよく椅子をとびおりると、電話器のもとへ駆けよった。ダ
 イヤルを回している。たぶん、コール音はとっても素直に、仏壇のあ
 る八畳間までのびていくだろう。 
 五才の名案が喜喜としている。