自分には時間が残されていない,と画家は思った。時間切れが何を意味するかはわから
ない。肉体のきわめてプライベートな死か,画を描くことの終わりか。今それは画家にと
ってあまり重要なことではなかった。ただこの仕事が彼自身に食い入る形で始まってしま
っているらしいことは間違いなかった。

 画家は自分の住処からわけなく歩いていけるほどの場所に仕事場を借りた。そこには何
もない。ただ広々とした床があり,白い漆喰の壁があるだけだ。そこに使い慣れた画架を
立て,これまでに使ったことのないごく粗目の画布を木枠に強く張った。

 この女の表面が問題なのじゃない,と画家は思った。この女?この女とは誰だ? 目の前
の古びて艶のあるこげ茶色の床の上にあたかもまだ居ない女が,はっきりと腰を下ろして
いるかに感じ,自分の知覚がバランスを崩しながらすべて女に向っていることに気づいて
画家は震えた。

 約束の時間から1時間が過ぎた。画家はひんやりした床の上に太った身体を横たえた。
近くの家からだろう,どこかたどたどしいピアノの音が聞こえる。ふと理由のない笑いが
下腹あたりからこみ上げてきて,彼は自分のためにコーヒーを沸かした。

窓からツバキの樹が見えた。肉の厚い光沢のある葉をたっぷりつけた枝がときおり揺れる。小さな鳥が飛び立ってはまた戻ってくるのらしい。彼はコーヒーをうまそうに飲んだ。

しばらくして彼はサンダルをはき,デニムの仕事着のまま玄関から外に出た。気持ちのい
い夕暮れだった。足元のアスファルトは静かに冷えていく。彼はあらためて画を描こうと
思うのだ。

それから間もなく,女は訪ねてきた。

画家は何度となくその瞬間を心に思い描いていたが,現実の訪問はもっと自然でありふれ
ていて,特に面白みがあるものではなかった。画家にはそれがうれしかった。彼は女にコ
ーヒーを勧め,連れている小さい子のためには残念ながら何も用意していない,と言うと
女は笑みを浮かべながら礼を言った。

「実はこのところ,私は仕事らしい仕事をしていなかった。そういう気が少しも起きなか
ったからです。そうしてなぜということもないのだが,もう自分に割り振られた時間が僅
かであるような気がするのですよ。だからもう一度,気持を入れた仕事がしたいと思った。それであなたにお願いしました。あなたを描きたいのです」

画家は正直なところをそのまま話した。

「いやではないですか。無理を言うつもりはないのですよ」

と彼が続けると女は

「わたしは絵のモデルをしたことはありません。だから良いモデルとしてどうしたらいい
のか全くわかりません。あなたがいいとおっしゃるようにしたいと思っていますが,はっ
きりとした−なんと言えばいいか−現実的なわたしの足場のようなものは,わたしにはい
つでも必要なんです。うまく伝えられるかどうか−そこにいればわたしがほどけてしまわ
ずにすむというそれは場所です。それをなくすことが一番不安なんです。こんな場所で,
と言ったら失礼かもしれませんが・・・」

「意味はよくわかりますよ。そのためには私は何をしたらいいでしょうか」

「報酬をいただきたいんです」

女はきっぱりとした口調で言った。画家は快かった。

「もちろんそのつもりでしたよ」と言って彼は笑った。