水滴が弾ける三つの短編                       

               清水愛一      


                その1

           『BOYS−その擬態感覚』

 十六才の体は坑道の奥から漂ってくる湿った臭いに包まれている。地
   下鉄のプラット・ホームの端に秋彦は立っていた。白い夏服が、その臭
   いのなかで汚れかけている、そんな感じがしないでもない。地下鉄構内
   の弱い光のせいかもしれないが、若干、黄ばんだ色に思えた。
    坑道の奥からかすかに音が浸ってくる。
   「少年という生きものは‥‥」
 少しずつ近づいてくる音響の方を見つめながら秋彦は云った。
   「ヌルリとした爬虫類をひそかに飼い慣らしているはずなんだ」
 ぼくは秋彦を凝視した。
 爬虫類は実に息苦しいよ。
    そのことばは、ぼくにではなく、誰かちがう人間に喋っているような
   感じでもあった。しかし、ぼくらのまわりには誰もいない。
    秋彦は夏服の胸のあたりに手をやりながら、ふたたび「息苦しいんだ
   よ」と呟くように繰り返した。
    ぼくには、なぜ、秋彦が唐突にそんな事を喋るのか解らなかったが、
   秋彦の感情のくらい入口を見せつけられているような気がして、わずか
   に身を退いた。
    秋彦がナイジェリアから帰国し、ぼくらの中学に転校してきたとき、
   秋彦の日本語は壊れていた。挨拶程度のことばは普通なのであったが、
   それ以上のちょっと複雑な感情をこめた会話や込み入った論理にまで彼
   のことばが延びてゆこうとするとき、彼のことばの意味は不明になり、
   迷路に嵌まりこんでゆくのであった。
    たぶん、今のことばもそんな感じで、達意というものからずり落ちて
   しまったものであろうと思ったが、どうも違う。秋彦の暗い情念が的確
   な日本語からズレた言葉遣いと絡み合って、奇妙なぬめりをうみだして
   いる、そんな感じではあるのだが、それ以上の何かがあった。
    秋彦は振り返り凝っとぼくを見た。
    どこかしらヌルリとした秋彦の視線がぼくの肌に貼りついた。
    ぼくはもう一歩を退いた。
    ぼくは苛立った。
    それを見透かすように地下鉄構内の弱い光りの下で秋彦の上半身がゆ
   らゆら笑った。奇妙な笑いだった。その笑いが秋彦の顔面に波打ちなが
   ら拡がってゆくうちに、さきほどまで秋彦の相貌を翳らせていた凝固し
   た部分は消えていくようだった。
   「顔色が悪いんじゃない」
 秋彦の笑い顔の中から不意に、そんな言葉が飛び出してきてた。
   「光線の加減だろう」
    突嗟にぼくは答えていた。
    返事が、もうワン・テンポ遅れていたら、秋彦のあの不可解な感情が、
   ぼくのなかに入りこんでしまうかもしれない、そんな気がした。
 秋彦は白い歯を踊らせながら、空気が悪いんだよ、ここは、と云う。
    秋彦の白い歯が、さらにぼくを後ずさりさせた。彼の笑いのなかで、
   その白いものだけが笑っていない、そんな気がしのである。
 白いものだけが孤空に浮いている。
 ぼくは秋彦から視線を外ずし、鈍い光沢の線路のうえにのせた。線路  
   は坑道の闇のなかへとまっすぐパラレルにのびている。二本のレールは
   けっして交わることはないはずだ。ぼくのなかに、余裕が生れた。
 ぼくは云った。
   「淀んでいるんだよネ。とっても耐え難い空気だ」
 そうして沈黙が訪れた。
          裏返せば 
               器官(オルガン) 
            びっしり蔦の獄にいる
 あの坑道のむこう、闇の奥まったあたりにはいったい何が潜んでいる  
   のであろう。ぼくは訳もなくそんなことを考えはじめていた。
 坑道から浸ってくる音響が、途轍もなく大きくなると、爬虫類には注
   意しろよ、とまた秋彦が耳打ちしてきた。ピクリとぼくの神経が反射し
   た。激しい風とともにのっぺりしたモス・グリーンの車両が洞穴から飛
   び 出してきた。扉が開いた。
   「それじゃ、また」
    手を挙げて秋彦は車両に乗り込んだ。
 秋彦の首筋に何かヌルリとした生きものが数匹へばりついているよう
   な気がしたが、そのままドアは閉まり、車両は滑りだし、坑道のなかに
   消えていった。
 危ない場所に滑っていったのかもしれない。
 ぼくは、反対側のホームへと通じる地下鉄通路へと降りた。
   と、そのとき、通路が濡れているのに気づいた。地下鉄の天井に裂け目
   があり、そこから水滴が雫っているようである。昨日まで気がつかなか
   ったが、天井のあちこちから水滴は落ちている。
 ポチャリ。
    妙な音がして、ぼくは見た。
    天井から雫る水滴が下のコンクリートにぶつかって飛び散ると、その
   しずくの各々が黒い影を結んで逃散するのを。
 あれはなんだろう。
 ぼくは素直に首をのばし、覗きこむ。
          みぃんなでこぎと舐めれば血のおぼろ
    すると、
    ポチャリ。
    首筋に冷たいものを感じた。ヌルヌルっと拡がった。あわてて背中に
   手を廻す。今まで感じたことのない不安が背中を拡がっていく。それを
   振り払おうと、ぼくは一目散に走った。
    しかし、走っても走っても地下通路の向こう側には近ずかない。むし
   ろ一歩を進めるたびに後退しているような、そんな風でもある。
    少年はヌルリとした爬虫類を飼い慣らしている、と呟いた秋彦の声が
   まとわりついてくる。そんな気がして、ぼくはその場に立ち止まった。
   冷たい水滴を首筋に受けながら、へなへなと舐鯨のように溶けはじめて 
   いくようだ。ふぁふぁと訳もなく笑いながら、ぼくはヌルヌルになって
   ゆく自分を感じていた。    
    
          てのひらのと−てむおどり屠殺室
    
 


               その2

             『ずるいひと』

                    泣いている少女は、泣かれている
                    少女よりも丈夫なのです。泣かれ
                    ている少女は泣いている少女より
                    も不安なのです。不安は伝播し、
                    泣いている少女はより一層泣きじ
                    ゃくり、ついには泣かれている少
                    女も泣いてしまうのです。そして、
                    ふたりは健康になるのです。
 
 あなたは自分のことをほとんど喋らないと、由紀がなじる。それが不
   安だと言う。それとなく水をむけてみても、どこかでぼかされてしまう。
   肝腎なことを一度だって真面目に答えてくれたことがない、と酔いなが
   らからむ。「聞いてるの」
 ロック・グラスのなかの氷をまわしながら葉介は困惑する。
 何も隠してなんかいない。むしろ隠すべき何もない、と反論したくな
   る。
   「語る値打ちもない平凡さを喋りつづけて、結局自分には何もないとい
   うことを噛みしめろ、とでも言うのかい」
 由紀の上気した乱れに葉介の言葉は届かないであろう。ロック・グラ
   スのなかの氷はかなり溶けて小さくなっている。葉介はつづけた。
   「隠すべき何かを確かなかたちで持ち続けている人のみが自分のことに
   饒舌になれるんだろう。そう思うよ。いろいろな秘密を隠し持っている
   政治家が実に能弁であるようにね。解るかな」
 葉介はそう言うと、ロック・グラスのなかの酒を一気にあおった。 
   「やめて」
 三つの音を不恰好に区切りながら呟くように言うと、頬杖をついてい
   た由紀の上半身はテ−ブルにくずれた。頬をささえていた掌がながい髪
   の毛のなかに滑りこんだ。
   「ずるいひと」
 由紀はながい髪をにぎりしめた。 
 葉介は不満そうに由紀を覗いた。不満は直線であらわされた。それは、
   由紀へとまっすぐ伸びてゆく視線であった。
   「でも大丈夫よ。あなたに迷惑はかけないわ」   
 葉介はまばたきを二度くりかえした。
   「どういう意味だよ、それ」
 葉介は鋭く問い返した。
    由紀はもう一度ずるずると崩れると、テーブルにうつぶした。その姿
   態は軟体動物のような感じであった。海にいるあの軟体動だ。テーブル
   のうえは濡れている。軟体動物は目を閉じたまま「大丈夫よ」と低く繰
   り返すとテ−ブルのうえのわずかな水のなかに嵌っていく。
   「あと五年もすれば、あなたは立派な饒舌家になっているはずよ」
    そのまま動かなくなった。
 葉介はぼんやりそんな由紀の挙動を見下ろしていた。
 しばらくして寝言のようにもう一度呟くのを聞いた。
   「でも、その前にはげしい沈黙があなたを襲うの」
 それはもはや由紀の声ではないような気がした。
 由紀の頬が濡れている。その頬に数本のながい髪の毛が張りついてい
   る。葉介はその髪の毛を静かに掬い上げると、自分の顔面のうえまで持
   ち上げた。上目遣いにそれを眺めた。
    すると、ちいさな水滴が葉介の目のなかに落ちた。葉介は瞬きをしな
   がら鷹揚に由紀の髪を振り払った。由紀はすでに眠りに落ちこんでいる。
   ちいさな寝息がときおり荒れて聞こえる。この分だと、二・三時間は起
   きないだろう。
   「ずるいのは君さ」
    葉介はながい溜め息をついた。夜の端まで伸びてゆくような溜め息で
   あった。
                    笑っている少年は笑われている少
                    年よりも淋しいのです。笑われて
                    いる少年は笑いの奥に立っている
                    淋しさの弱点を知っていて淋しさ
                    を誉め殺すのです。淋しさが死ん
                    でしまうと笑っていた少年は我に
                    帰るのです。我に返るときまって
                    怒り始めるのです。そうして、ふ
                    たりは殴りあい、気がつくと誰も
                    いなくなっているのです。



             その3   

        『Vieのようなこと そんな風にも』
   
     オマエノ秘密ヲ食ベテシマッタ
 
 坂をくだりながら上空を見上げていると、何やら螺旋を描いて舞っ
 ているものがあり、「何かな」と足を止めて、しばらくながめている
    と、どうも生き物らしい。確かなことは分からないが、そんな風に思
    えた。
 鳥だろうか。 
 弧を描きながら上昇気流にのる芸当を、あんな風に上手に心得てい
    る鳥といえばトンビとか禿鷹を思い起こすのだけれど、まさかそんな
    大鳥がここいらの閑静な住宅地に飛来するとはどうしても考えられな
    い。だいたい、螺旋飛行を売物にする鳥類なんて、ゾロアスター教が
    生活の隅々にまではびこっている辺境の聖地なんかに、神の番人とし
    て空の深みを背負っているものだと相場は決っているものだろうし、
    螺旋の直下には、とっても残忍な不幸が転がっていたりするというこ
    とだし、変んだなぁ。変だ。住宅地のちょいとした空き地に死体が転
    がっていて、死者に目ざとい禿鷹が、さあ、いつ喰いつばもうか、な
    んて思案しながら飛来したなんて、どう考えても普通じゃない。
   でも、もしそんなことがあったら。
 坂の途中でポカンと空を見上げていた広太郎は小首を傾げて、そん
    なとりとめのないことを考えていたのだけれど、ちようどそのとき由
    美子さんが坂を登ってきて「何してるの」と声をかけた。
 不意を突かれた広太郎は、「あれです、あれ」と言って空を指差し
    ながら、由美子さんの顔をみた。
 由美子さんは広太郎よりも五歳ほど年上で、近所に住んでいたせい
    もあって、子供のころはよく遊んでもらったのだけれども、近頃では
    ほとんど顔を会わすこともなくなり、たまにあっても会釈程度の擦れ
    違いかたをするくらいであった。  
 「忘れてしまったんだろうか。あの秘密を」  
 と広太郎は思うことがある。
 しかし、それは口にすべきではないのかもしれない。もう、あの日
    からは十年の歳月が経過している。三年前の過去なら、それはまだ自
    分のものである。が、十年前の過去はもはや自分のものではない。短
    大生になった由美子さんの顔の輪郭をなどりながら、奇麗になった、
    と広太郎は思った。もっともっと奇麗になっていくんだろう。しかし、
    あのときの妖しい由美子さんの美しさとは違う。
     由美子さんは広太郎の指差した方をしばらく眺めていたが、何にも
    見つからなかったらしく、ぼんやり空を眺めていた広太郎が突嗟に思
    いついた言い訳なんだろう、とでも言いた気に、さらりと笑顔をこし
    らえると、それじゃぁ、と年上らしい言回しで一言を残し、広太郎の
    傍らをするりと通りすぎた。擦れ違いざまに、ふたりの視線が吸い合
    うように交わったような気がして、広太郎はたじろいだ。こんな風に
    視線の交わるところにふたりの秘密は隠されていたはずだ。
 由美子さんは笑顔のまま通りすぎた。  
 広太郎は振り返り、由美子さんの後ろ姿を目で追った。
     坂を登りきるあたりで陽炎がメラメラと空気を歪めていて、由美子
    さんはその歪みのなかに入り込むと、一瞬、ぐにゃりとなり、次ぎの
    瞬間に、ふっと消えてしまった。 
 坂を登り切ったのだろう。
 この坂はかなりの勾配があって、登り切るのを下から見ていると、
    不意に消えてしまうような、そんな案配になっているのは以前から気
    づいていたけれど、陽炎のなかで一度ぐんにゃりとなって消えたもの
    だから、広太郎は不思議な気分になったのである。  
 由美子さんとはもう合えなくなるかも知れない。
 広太郎はそんな確信に落ち込みながら、もう一度、空を見上げたの
    だけれど、さきほどの黒い影は消えていて、五月の澄んだ色彩がまっ
    すぐにひろがっているのであった。
     禿鷹が啄ばんだのは、ぼくらのあの誰にも語ってはならない<秘密>
    の死体だったのかもしれない。広太郎はそんな埒もないことを想像し
    てひとり笑った、そのとき、広太郎の頬に一滴、濡れたものが弾けた
    ような気がしたが、やはりこれも思い過ごしなのかも知れない。
     広太郎はその場を離れた。     

          オマエノ秘密ヲ食ベテシマッタ
     オマエノ秘密ヲ食ベテシマッタ
    オマエノ秘密ヲ食ベテシマッタ