朽ちそびれた方舟の 疼き 
    

                  清水愛一


                    史家は視線の先端で弓なりに下降してゆ 
                    く想念を捕らえようとしていた。

            かなしみ
        地という平面のうえでわれわれは暮していますが、この地を基準に
       して、<舞踏>と呼ばれている一回性の芸術は三つの範疇に分類しうる
       と言われています。ひとつは地から放れようとするものであり、ひと
       つは地をなどるものであり、そして、地に沈み込むような舞踏です。
       それらは一見、まったく異質な衝動を持ったベクトルに貫かれてい
       るのですが、しかし、そのどれにも、あるうねりが、心臓にむかって
       流入する血液みたいに絶えず循環しているのです。循環はときに皮膚
       を引き裂き、突発的に噴出したりするのですが、そんなときは、あき
       らかに晴れの状態へ突入しようとする意思が貫かれているように思え
       ます。
        マタド−ルに踊らされる牡牛のあの儀式的な空間こそ、その一例で
       あるのですが、牡牛は崩れゆくうねりのなかで〈舞踏の空洞域>に落
       下していったのです。
       〈舞踏の空洞域>。
       それは、肉が肉として成立する臨界領域に揺れている。<痙攣と残虐
       と快感>がそこにはあります。

             鳥になる 一瞬 嗅ぎわけるDies irae

         天にも届く飛翔で世人を驚愕させたあの伝説的なダンサ−、ニジン
       スキ−は「自分は神である」と書き残しています。牡牛とニジンスキ
       −のあいだにあるもの、それこそが舞踏に潜む<空洞域>を、あるいは
       肉体の不可解を如実に語るものです。牡牛はひとつの塊となり、肉屋
       の冷蔵庫に吊るされることによって、ニジンスキ−は精神病院で神に
       なりきるために自らを閉ざしてしまうことによって、舞踏のなかに潜
       む空白に復讐されなければならない宿命を負うのです。うねりが聞こ
       えますか。

            てのひらの屠殺室 水は起きあがる  

        肉を喰い破ろうとする衝動は、肉のホメオシスタスのなかでのみそ
       の絶対的な根拠を確信しうるという逆説にとりまかれながら、極みに
       まで登りつづけてゆくのです。
        そして、牡牛の肉はわれわれの食卓に登る。
         われわれは、レア−で、あるいはウエルダンで肉を賞味しながら、
        マタド−ルの栄光を称えることもないままスパルタクスの絶望を胃袋
        に詰めていくのでしょうが、追い詰められてゆく牡牛のその一回性の
        極限が、結局のところ<屠り>の代替でしかなかったということのな
        かにわれわれが抱え込んでいる<聖性と快楽>の問題が潜み、剣が肉
        を引き裂き、心臓を突き刺すときの<血の溢れ>と<痙攣>が齎す一
        回性のドラマのなかに、肉体が抱え込んだ抜き差しなら無い舞踏性と、
        われわれの視線に絡みついてくる演劇性の混交が、「残酷」な聖性に
        包まれて発現してくるのです。
         <残虐なる聖性>と<透明な快楽性>
         舞踏とはその二面性の拮抗のなかに生起する死のにおいであり、生
        の痙攣であるとしても、求められているのは<あちら側>であるはずで
        す。
         みずからを神と信じたニジンスキーが<あちら側> の住人であった
        ように血ぬられた牡牛も猛り狂う筋肉のすみずみから <あちら側>へ
        とずりおちていったはずなのです。
         肉体とはなんと不自由な器なのでしょう。
         だからこそ、地に束縛された肉体は、ときとして地を呪うかのよう
        にうめくのでしょう。舞踏の根源はこの呪いに発している。舞踏の恍
        惚感とは、この不自由への反逆行為でもある筈です。しかるに極端な
        反逆を為したものは逆襲される。剣のまえにたんなる肉に貶められて
        ゆく牡牛のように。

               づるづるり食物連鎖をづるづるり

                     史家はちいさく溜め息をついた。溜め息
                     のなかに揺洩する奇怪なイメ−ジを打ち
                     消すように一呼吸おいて続けた。

         たとえば、「いざや、かぶかん」ということばがあります。歌舞伎
                 かぶ
         の語源であるこの、傾くという一語こそ舞踏のある部分の真実を表わ
                           かぶ
         しているように思えます。そうなんです。傾く、というのはまっ直ぐ
         立っているわけではない。かといって倒れているのでもない。ばたっ、
         と倒れてしまうかも知れないが、とりあえず今は、そうではない、と
         いう微妙なニュアンスがふくまれている。正気ではないが、狂気その
         ものでもない。狂気へと入り込んでしまうかも知れないが、とりあえ
         ずいまはその間で揺れ動いている、そういうことなのでしょう。<空洞
         域>への入り口が見えます。  

               〈うを〉剥離して違うぞ 違う 炎えあがる

                     眼鏡の奥でキラリと光るものがあり、史
                     家は語った。
  
          正気と狂気のあいだでうめく肉体性などと申し上げても、ピンとこ
          ないでしょうか。われわれの肉体像は健康を基準にした秤の上に載っ
          ていますから、なるほど<残虐なる聖性>と<透明な快楽性>と言う
          からにはその具体例を呈示すべきかもしれませんね。しかし、むずか
          しい。
           では、こんな例はいかがでしょう。
           たとえば、ペスト菌が循環系に進入し、暴れまわる。
          と、肉体は高熱を発し、膨れ上がり、変色し、崩れてゆく。黒死病と
              かぶ                        かぶ
          呼ばれる<傾き>の時間が肉体に訪れ、肉体は時間とともにその<傾
          き>の度合いを深めてゆく。<あちら側>の世界と<こちら側>の世
          界の拮抗状態が肉体という領域で、そのうめき具合を膨らませてゆく
          から、腐敗しはじめた肉体の変化のなかに、肉体性そのものに内在し
          ている<舞踏の空洞域>とでも言うべき地点がぱっくりと口を開け、
          肉の「液化」が始まる。
           そうです。「肉の液化」あるいは「干物化」のプロセスこそが肉の究極
          的な舞踏なのであり、源信ならば「あちら側」を見つめながらその<肉
          の舞踏>を克明に書き残したでありましょうし、ヴヰョンやボ−ドレ
          −ルは詩的イメ−ジのなかに<肉の舞踏>を昇華させています。そし
          て、そこに横たわっている倫理こそが<残虐なる聖性>と<透明な快
          楽性>の問題であるのです。
           俳人のなかでは、永田耕衣がこの「肉の液化」を俎上に載せ、彼の弟 
          子である安井浩司は「干物化」に焦点を当てています。安井の「死鼠」や
         「するめ」なんかはあきらかに、この「肉の液化」あるいは「干物化」の
          プロセスに潜む問題系がいっぱい詰まっているのですが、同時に、彼
          の身体感覚には身体内部の空洞化という別の回路も張り巡らされてい
          て、とても一筋縄ではいかないのですが、しかし、<残虐なる聖性>
          と<透明な快楽性>のバランスのうえに繰りひろげられる<肉の舞踏>
          についての彼の眼力が解りもします。<肉の舞踏>と<舞踏の空洞域>
         の問題が絶妙に絡み合って、彼の「極私的」身体論が展開しているの
                    トランジ
         です。そこには腐敗屍骸像が横たわり、源信の『往生要集』が省略さ
         れていることを忘れてはならないのかも知れません。

                 腐敗作用はまず産褥の臭い 溺る

           季節の風のようにペスト菌が大陸を吹き抜けると、腐乱して溶けは
          じめた肉が大陸のあちこちの地形を変化させてゆく。古文書の調査に
          よると地名すらこの時期にその多くが蒸発しまっているのです。

                死者たちの 勃起 この統計値は臭う
 
           辛うじて生き残った人々は腐肉によってできた山を前にして、突然、
          こう叫んだのです。
          「いざや、かぶかん」
          生き残ったひとびとは踊りはじめたのです。仕事も恋愛も犯罪すらも
          忘れて踊り続けたのです。朝も夜も、ただただ踊った。街を越え野を
          越えて踊り続けたのです。
           舞踏病。

                 塚へ塚へ呻くか塚へ 血は重い
   
          「マス・ヒステリア!」        史家はきっちりと言い切った

           問題は、なぜこのような状況のもとでひとびとが踊りのなかに没頭
          していったのか、ということです。そこに、舞踏の秘密が表われてい
          るのではないでしょうか。マス・ヒステリアの表現手段として、ひと
          びとの無意識のうちに舞踏が選択されていた。「かぶく」ことの本質が
          そこにある。腐敗してゆく死体のなかにひとびとは何事かを見つけだ
          してしまったのです。夥しい死体の腐敗作用の過程にこそ舞踏の原点
          があり、〈あちら側〉と〈こちら側〉の臨界領域が立ち現れる。
          おお、そのとき、死人たちはみづからの肉体が崩れゆく音をなつかし
          いあの子宮の波音のように聴きながら、個を喪失してゆくのです。そ
          のときひとつの塊となった情念はMassとなって波動しはじめ、収縮
          しはじめ、まだ生きているひとびとに憑依してゆくのです。マス・ヒ
          ステリアとは死者の情念群の甦りであり、舞踏であるのです。耳が泳
          いで行きます。死者の耳が群れをなして踊りながら、聴いているので
          す。 <残虐なる聖性>と<透明な快楽性>に彩られた空洞域に響く声
          音を。

                空耳は一粒 殺意は一粒 たわわな誤解

                       ちいさく咳払いをして史家はつづけた。  
   
                ゲルニカの肉感 吃る

                       史家は赤いワインを飲み干した。
                       呼吸はかすかに赤味をおびてきてい
                       る。  

          そう、そんな死者の耳による舞踏が、ときどき時代を転回させたり
          するんだ。

                       史家の呼吸が荒くなると、テーブル・
                       クロスに汚点が弾けた。

         「永長大田楽」「ええじゃないか」
         本朝にだってマス・ヒステリアはある。それはあたかも、踊りなが
          ら、何事かから逃れてゆく光景に似ていないこともない、ほらほら、
          死体が開いてゆく。ぐるぐるぐるぐる廻りながら。おそらくそれは、
          言語の、言語そのものの戯れてゆく舞踏でもあり、詩とはそのよう
          な舞踏の原点にたゆたうものであり、それは空洞へと雪崩れこみな
          がら、なおかつ、空洞から不意に立ち現れるエネルギ−でもある。

                      おおきな丸テーブルのまわりには、ぴ
                      くりとも動かないひとびとが座ってい
                      る。いざや、かぶかん、と唱和しなが
                      ら。
                      史家は最後の晩餐におけるクリストの
                      位置を考えた。  

                 赦せよ 舌 いい音をして燃える

         彼はけっして中心ではない。わたしの言葉があきらかに、この場の
         中心ではありえないように。

                      すると、丸テ−ブルがゆるく回転しは
                      じめた。回転は速まり、ついにはひと
                      びとの識別もできなくなる。誰がだれ
                      なのか分からなくなった回転のなかで、
                       やはり、史家はマス・ヒステリアにつ
                      いて喋り続けながら、最後の晩餐にお
                      けるクリストの位置を思案しつづけて
                      いるのだろうか。はやすぎる回転の別
                      名を”D”という。もちろん、あの頭
                      文字である。

                水に帰る いっさいの眠りを放ち

          つまるところ、われわれは倫理というただその一点において存在
          価値をかろうじて保持しうるのかもしれない。われわれが物質進
          化のそのまったくの偶然にちかい確率のなかから発生してしまっ
          たことは、むしろ幸運であり、われわれは宇宙エネルギ−のちょ
          っとした錯誤のなかで踊りつづけるのである。生命とは、一瞬の
          エネルギ−連鎖がうみおとす「倫理」の発露としてのみ美しいの
          だ。「倫理」の海へ。
          主よ、海のなかに悪魔の宮殿があるとする黙示録的発想はひとつ
          の真ではある。「倫理」とは<残虐なる聖性>と<透明な快楽性>
          の空洞域から漏れてくるかすかな臭気として死者をいざなうもの
          であるからである。
     
                 うみへ始源のうみへあおみどろ